サヨナラ、小さな罪
アパートの備え付けのクローゼットを開ける。ハンガーにかけてあるジャケットやスーツなど当分着る予定のない服を、引っ越し業者からもらったそのまま吊るして片付けられる段ボールにどんどん入れていく。
「これ……は、もういいかな」
ついでに二度と着ないと思う服をゴミ袋に突っ込んだ。そうしてできたゴミ袋は、もう三つ目だ。
この八畳一間のアパートを引っ越すまで、あと二週間。不要な物は捨てつつ計画的に荷造りをしていかなければならない。
二週間後、私はこのアパートを出て恋人が待つ2LDKのマンションに行く。さらにその一週間後の九月二十二日は、私たちの結婚式だ。
あ、もう籍は入れてあるんだった。恋人じゃなくて、ダンナ様よね。
ふふふ、と笑みがこぼれたところで、服の奥に隠れていた蓋つきの青い箱が目に止まる。
「そうか……アレもあったか」
もともとはブーツが入っていた大きめの空き箱だけど、私はハガキ箱にしていた。年賀状や暑中見舞いを年ごとに輪ゴムをかけて放り込んである。
会社関係や友人関係など毎年送られてくるけど、見るのは届いたその日だけ。そう何回も見返すものじゃないけど、かといってすぐに捨てるようなものでもないし何となく取っておいたのだ。
「これも一度、処分するか。連絡とってない人もいるしなあ」
手を伸ばし、青い箱を手に取る。社会人になり、このアパートで暮らし始めてから五年分のハガキ。なかなか重量感がある。
ふたを開けて、一つ一つ手に取る。最新分だけ取っておこうかな、と考えていると、輪ゴムの群れとは別の、一枚の往復はがきが見つかった。
実家に届いていた同窓会の案内はがきだ。半年前、母親に
「これ来てたわよ」
と手渡されたけど、ロクに見ずに青い箱に入れたままにしていた。
往信欄には『成田美和子様』と私の名前が書かれ、右側は出席・欠席を問う項目と住所・氏名を書く欄がある。
くるりとひっくり返すと、右側には『同窓会のお知らせ』というタイトルから始まる文面。そして左側の緑の返信欄には『北川小夜行』と印字されていた。
* * *
「ねぇ、どうしたらいいと思う?」
スプーンでカチカチのバニラアイスをつつきながら、小夜が口を尖らせる。
「何が?」
「もう、高見くんのことだよ!」
あれは、高校三年の夏休み。
冷房の効いた涼しい図書室で自習していたところを、
「ちょっと相談があるんだけど」
と友達の小夜に引っ張り出されてしまった。
何もこんな暑い日に外で……と思ったけど、小夜は「アイス奢るからさ」と私の腕をぐいぐい引っ張る。
コンビニに行き、それから体育館そばの日陰になっている階段を指差して「ここにしよう」と言ってドカッと座り込んだ。
仕方なく隣に座り、とりあえず食べよっか、とアイスのカップのフタを開けたところで、小夜がいきなり話を切り出した。
「……高見くんが、何?」
「やっぱりさあ、別れた方がいいのかなーと思って」
小夜は、三年で初めて同じクラスになった高見くんに一か月前に告白され、
「イケメンだし優しそうだし付き合ってみる!」
と軽いノリで付き合い始めた。
だけど元気で社交的な小夜にとって、休み時間には教室の片隅で静かに本を読んでいる高見くんはどうにも物足りなかったらしい。
「……私に相談されても」
「だって美和子はさ、去年から同じクラスでしょ? それに今、図書委員も一緒にやってるじゃない」
「それは、まぁ……」
「話すことも多いから、どういう人かわかるんじゃない?」
「わかるけど……」
「何かさあ、いい人なのは確かなんだけど、一緒にいても合わない感じがするんだよね。だけど、決定的な落ち度もないっていうか」
「……」
「このまま付き合い続けてみた方がいいか、すっぱりやめた方がいいか、迷うんだよね~」
要するに、付き合っていたいという想いはないけど別れたいとも思っていない、ということなんだろう。
小夜から告白したんじゃない、高見くんが小夜を好きだと言ったからそれに応えただけ。だから思ってたのと違う、と小夜がそういう気持ちになっても仕方がない。
……だけど。
「美和子なら、どうする?」
「――別れる、かな」
考える前に、言葉がするりと出た。
いつになく早い私の答えに、小夜が驚いた様子で目を見開く。
「えっ?」
「だって……ほら、中途半端な気持ちで付き合い続ける方が、相手に失礼かなって思うし」
「失礼……」
「あ、小夜が悪いって言ってるんじゃないよ?」
言葉選びを間違えた気がして、慌てて言葉を繋ぐ。
「ほら、小夜に本当に好きな人ができたときに困らない? 思い切っていけないでしょ? 小夜って、何事も全力で当たりたいタイプだし」
後ろめたさを隠すように、早口でまくし立てる。
小夜はじっと私を見つめると
「そうか……」
と呟き、俯いて黙り込んでしまった。やっと溶けだしたアイスを、そのまま黙々と食べ始める。
私も自分の手の熱で周りから溶け始めたチョコレートアイスにスプーンを入れた。ぬるっとした表面とカチンとした内側の感触が手に伝わる。
私たちはそのまま十分ぐらい、何も言葉を交わさないままアイスを食べていた。
小夜は何を考えてるんだろう。高見くんとどうするつもりか悩んでいるのかな。
――結局、どうするんだろう。
そんなことを考えながら少し戸惑っていると、私より先にアイスを食べ終わった小夜がすっくと立ちあがった。
ハッとして顔を上げると、うん、と大きく頷く小夜が私の方を振り返る。
「そうだよね、失礼だよね。私やっぱり、高見くんと付き合うのやめる」
「え……」
「うん、そうしよう。高見くんいい人だから、きっともっとお似合いの子が見つかるよ」
小夜はそう言うと「あはは」と声に出して笑った。右手を頭にやって、わしゃわしゃと髪を掻いている。
少し凹んだときの、小夜の癖。
間違ったことは言ってない、と思う。だけど……その言葉は、本当に混じり気のないものだった?
じわり、と黒いものを感じて、私はそれを誤魔化すように残りのチョコレートアイスを口に運んだ。
甘いのにほろ苦くて、喉を通る冷たさが私のモヤモヤを一瞬だけ消していった。
* * *
マンションのバルコニーに設置した小型のバーベキューコンロ。煙対策がちゃんとなされていて屋内でも使えるタイプなんだけど、せっかくだから野外バーベキュー気分を味わおうとバルコニーに出してみた。
燃料は古紙や木くず。アパートから持ってきたハガキをどん、と近くのテーブルに置く。
野菜や肉を切って準備が終わったところで、玄関からガチャガチャという音が聞こえてきた。
「あれ、今日は外?」
会社から帰ってきたダンナの裕之がリビングに現れた。ちらっとバルコニーを見て意外そうな顔をする。
「うん。まだ暑いし、お肉を焼きながら外でビールとかどう?」
「お、いいね。今年はビアガーデンも行けなかったもんなあ」
ネクタイを緩めながら、裕之がふと紙の束に目をやる。その一番上には、二つ折りのハガキがバルコニーからの風でひらひらと揺れていた。
「あれ、同窓会のハガキ?」
「え、あ、うん、そう! 半年前のだけどね!」
妙に慌ててしまい、パッとハガキを手に取る。裕之も帰ってきたことだし、さっさと火にくべればいいんだろうけれど、何となく手の中で遊ばせてしまう。
「返信しなかったんだ」
「そうなの。すっかり忘れてて」
嘘だ。小夜の名前を見て、あのときの気まずい感じを思い出して、ロクに見ずに青い箱に放り込んだ。
小夜とはその後もずっと友達だったけど、大学が別になったのを機にだんだん連絡を取らなくなっていった。こっちから連絡する必要はないかな、小夜にとっては私はもう過去の人間だろうし、とか言い訳して、携帯を買い替えた時にアドレスも消してしまった。
「あー、そう言えば今日、北川に会ったよ、偶然」
「えっ!? どこで!?」
声がひっくり返ってしまって、しまった、と思う。
しかし裕之は特に気にする様子でもなく、首から抜いたネクタイをポイッとソファの背に投げる。ちゃんと自分で片付けて、といつも言ってるんだけど、なかなか直らない。
「駅で。小さい女の子の手を引いててさ」
「え……」
「三年前に結婚したんだーって豪快に笑ってた。女の子、北川とよく似てたなー」
「そう、なんだ……」
高校時代の、歯をむき出しにした小夜の全開の笑顔を思い出す。
今、幸せなんだ。そっか。
「高見くんはどうしてるのって聞かれたから、美和子と結婚するって……」
「えっ、言ったの!?」
「あ、うん」
私の剣幕に押されたように、裕之がややのけぞる。
「何かマズかった?」
「マズくは、ないけど……」
「北川、驚いてたよ。きっかけとか根掘り葉掘り聞かれて、自分のこともバーッと喋ってた。相変わらずだったな」
あはは、と笑いながら裕之が寝室へと消えていく。
きっかけは、大学二年の帰省時にたまたま再会して、だから。小夜を出し抜いて付き合った訳じゃない。
そうよね。何も後ろ暗いところはないよね。
少しドキドキした心臓をハガキの上から押さえていると、Tシャツ短パン姿になった裕之がリビングに戻ってきた。冷蔵庫を開けて、缶ビールを二本取り出す。
「小夜……何か言ってた?」
「ん? 美和子が同窓会に来なくて残念だったって」
「ふうん……」
「あ、『結婚おめでとう、それなら本当に良かった』って言ってた」
「え……」
はい、美和子の分、と渡された缶ビールを受け取りながら何となく裕之の姿を目で追う。小さな違和感を感じる。
それなら本当に良かった?
ふと、手元の往復はがきに目を落とす。同窓会のお知らせの文面の端に
『直接連絡してくれてもいいよ!』
という走り書きと共に、小夜の携帯番号が記されていた。
小夜は気づいていたんだろうか。
小夜と高見くん――裕之が付き合う前から、私がひそかに彼を好きだったこと。
……ううん。違う、きっと。
小夜は、私の気持ちを知ってて私の好きな人と付き合うような子じゃないもの。
きっと、あの夏のあの日、あの体育館そばの日陰の階段で。
同じ瞬間に抱えた、お互いの小さな罪。
いや、小夜のは罪なんかじゃないよね。私が勝手に傷ついてただけだから。何にも意思表示しなかったくせに。
でもそう言ったら、小夜もそう言うだろうか。美和子のは罪じゃないよ、言われたからそうしたんじゃない、私が自分で決めたんだからって。
「北川、今はデパ地下のお惣菜屋で働いてるんだってさ。今度買いに来て!って言ってた」
「そっか。……行ってみようかな」
手にしていた往復はがきを、リビングの椅子に置いていた自分の鞄にそっとしまい込む。
「じゃあ、コンロに火をつけようか」
と言い、残りのハガキの束を抱え、私は裕之の背を追って夕闇のバルコニーへと歩き出した。