29 前世の私(8)
高校3年生の6月、静子と両親は夜中ひっそりと屋敷を出た。
長年住んだ愛着ある家との別れ。
それでも不思議と涙は出なかった。
これから起こるであろう現実の方が怖くて、不安に押し潰されそうだった。
家を出る前に米国の亮介に手紙を急いで書いて送った。
急遽引っ越しが決まったこと、新しい住所が決まったらまた知らせる旨を書いた。
聖陵学院を退学することは、この時はまだどうしても書けなかった。
仲良くしていた夏美ちゃんにも手紙を書いた。
急に引っ越すこと、学院も退学すること。
新しい住所が決まったらまた手紙で知らせること。
亮介が日本で住む新しい家の住所を私は知らないから、戻ってきたら教えて欲しいこと。
私の新しい住所を亮介に教えて欲しいこと。
最後に手紙で知らせてごめんなさい、仲良くしてくれてありがとうと書いて、夏美ちゃんの自宅のポストに入れた。
今の時代のように携帯の無い時代。
あればもっと、違っていただろう。
新しい住所が決まった。
東京の隣の県で、かなり人口も多い。
人に紛れている方が隠れやすくて良い。
夏美ちゃんに手紙を書いて送った。
返事がなかなか来ない。
でもきっと亮介に知らせてくれているはず。
7月も後半になり、亮介がそろそろ帰って来ているはず。
痺れを切らして夏美ちゃんの家に何度電話をしても、居留守を使われる。
何度手紙を書いても無視をされ、同じだった。
全身に不安と焦りと恐怖が襲う。
眩暈がする。
亮介に会いたい。
会って抱き締めてほしい。
9月、どうしてもどうしても諦めきれなくて、親に内緒で平日に学校休んで、今回だけとアルバイトで稼いだお金を使って電車を乗り継いで亮介に会いに行った。
放課後の時間、正門が見える。
少し遠くから探す。
懐かしい聖陵学院高校。
正門から帰宅する生徒が沢山出てくる。
みんな幸せいっぱいでキラキラしている。
ほんの数ヶ月前まで、私も同じだったのに。
立ちすくんだまま見つめていると、
夏美ちゃんが一人で出て来た。
慌てて後を追い、学校から少し離れたところで声を掛ける。
「夏美ちゃん!」
夏美ちゃんが驚いた顔でこっちを見る。
すぐに少し顔を顰めて周りを見て、こちらに走ってきた。
「ちょっとこっち来て」
夏美ちゃんに強く腕を掴まれて、近くの公園まで連れて来られた。
高い木が生い茂っていて道路からは遮断されている。
「夏美ちゃん」「今更、何っ!?」
「えっ…」
今まで見たことが無い、夏美ちゃんの表情だった。
いや、見たことがある。
何度も。他の子で。
嫉妬と妬みと怒りの表情だ。
そこで私は気付いてしまった。
夏美ちゃんの気持ちを。
耳鳴りがする。
「静子ちゃん。」
「静子ちゃんと亮介くんは、もう住む世界が違うの。
もう、自分でも分かってるでしょ。
静子ちゃんの住所、亮介くんに教えてないから。
私、高校に入ってからずっとずっと亮介くんのこと好きだった。
亮介くんはいつでも静子ちゃんしか見てなかったから、諦めてた。
でも今は違う。
私、亮介くんと付き合いたいと思ってる。
今ね、私と亮介くん、同じクラスで一緒にクラス委員してるの。
私、今必死に勉強してる。
一緒に聖陵学院の医学部の推薦も受けるの。
静子ちゃんはずるい。
ずっと思ってた。
ずっと羨ましかった。
すっごく綺麗で賢くて優しくてお嬢さまで、亮介くんに好かれて大切にされて。
何もかも私が欲しいもの、全部持ってた。
静子ちゃんはやっぱりずるい。
そんな地味な格好をしていても、やっぱり綺麗なんだもん。
でも、今はお家に借金があって大変なんでしょ?
そんな静子ちゃん、亮介くんの将来に重荷だよ。
亮介くんも迷惑だと思う。
亮介くんに迷惑掛けないで!
もう連絡して来ないで!
もう邪魔しないで!
亮介くんを取らないで!」
あの後、どうやって帰ったか分からない。
気が付けば、今の家の最寄り駅に立っていた。
このままどうしよう。
海…海が見たいな。
ここから歩いてすぐだから、行こう。
泣きたい時に行く、いつもの海岸。
あそこなら大声で泣いても迷惑にならないし。
波の音が消してくれるから。
喉が。胸が熱い。
込み上げてくる。張り裂けそうだ。
半身を削られた。
亮介はもういない。
私はこれから
どう生きていけばいいんだろう。
真っ暗闇の中、私はひとりぼっちになった。