6.出発
翌朝、七時三十分。《P・Co》の管理下にある社宅。
潤の部屋のドアの前でしゃがみ込んでいる人影が、ひとつ。その人物の手元が小刻みに動いたかと思うと、鍵穴からカチリと小さな音がした。
音もなくドアを開き、右手に手のひらサイズの何かを持った人影は、まだ薄暗い部屋へと入っていく。
ピ、ピ、ピ、ピピピピピピ……、パチン。
目覚まし時計の頭にあるボタンを押すと、連続して鳴っていた電子音がピタリと止まった。時刻は七時四十分。
音を止めた手は、まだ時計の上に被さっている。動かない。その状態が、数十秒続いた頃――。
「潤ちゃん、おっはよー! はい! 起きて起きて! 飯作ったから、ちゃんと食ってんよー!」
台所から聞こえる声を聞き、布団がゴソリと盛り上がった。
掛け布団を頭に乗せた潤が、まだ瞑っている眼のまま上体を持ち上げた。
そのまま、数秒停止。
ガバッっと布団を剥ぎ取った泰騎が「コーヒー淹れるけん、顔洗っておいで」とだけ告げ、また台所へ戻って行った。
そうして、やっと潤の足が床へ着く。
長い睫毛に覆われた目を開きもせずに、壁を伝って洗面所へ行き、水だけで顔を洗い、一切生えていない髭を無視して食卓へ向かう。
潤は低血圧で、とにかく寝起きが悪い。機嫌が悪いわけではなく、脳と身体の覚醒に時間が掛かるのだ。但し、ここまで酷い状態は自宅に限る。
洗顔によって幾分か目の開いた潤が、食卓に着いた。目の前に並んでいる、白飯、味噌汁、焼き鮭、緑茶をひと通り見てから、両手を合わせた。
蚊の羽音のような声で、いただきます、と呟いてから箸に手を伸ばす。
白飯以外は、まだ湯気がまっすぐ上がっている。
「飯はワシの部屋から持ってきたけん、ちょい冷めたかもしれんけど」
「問題ない」
まだ少し船を漕いでいる潤の後ろへ回り込むと、泰騎は徐に右手を振り翳した。右手首には、赤紫色をした大きなリボン。左手には、豚毛で出来たヘアブラシ。
勿論、潤の視界には入っていない。
ミルクティー色の細く長い髪を右手に乗せて、泰騎は潤の旋毛からブラシを滑らせた。
鼻歌混じりで髪全体を整えると、リボンの付いたヘアゴムを髪へ巻き付けていく。
潤の髪をひとつに束ね、後頭部でゴムを固定し終わった泰騎は、満足そうに腕を組んで鼻から息を送り出した。
食事を終えた潤が、ごちそうさま、と手を合わせると、泰騎は食器を集めてシンクへ向かう。
「洗っとくから、着替えといで」
泰騎に促されて奥に消えた潤が、再び姿を現した。事務所に出勤する時と変わらない服装だ。ただ、右手に革製の細長い袋を持っている。
泰騎も、事務所へ居る時と同じ格好をしている。ただ頭にあるゴーグルは、いつもより少し重量感がある。
「んじゃ、行こうか。潤ちゃん、運転宜しく!」
出発予定時刻の五分前。ふたりは潤の部屋を後にした。
「潤、機嫌直してやー」
「…………」
御手洗組事務所近くに車を停めて、そこから目的地まで歩いているわけだが、潤の表情が冴えない。
元々、感情の起伏が小さい表情ではあるが、今は少し眉根が寄っていて、見る者が見れば不機嫌だと感じ取れる。
少々早足の潤に、食い下がるように泰騎がついて歩く。合掌し、謝罪の言葉を口にしているが、口元は緩んでいる。
潤の不機嫌の原因は、頭にある、でかいリボンだ。車の運転席に座って、バックミラーを見た時に気が付いた。
それから、ずっと不機嫌だ。
潤は小さく嘆息すると、歩きながら腰に帯刀ベルトを巻き付けた。金具で固定し、太刀を差す。右耳にインカムを取り付けると、ついでに、頭上で風を受けるリボンへ手を伸ばした。
「……邪魔だな……」
渋い顔でそう呟くも、外す気配はない。答えは簡単だ。ヘアゴムを外せば、自分の長髪が邪魔になる。
「そんなに嫌なら、リボン引きちぎったらどうなん?」
リボンを潤に付けた張本人が、白い歯を見せて笑っている。潤は少し考える素振りを見せたが、首を横に振った。
「いくら邪魔とはいえ、壊す程じゃない」
泰騎は、そー言うと思った、と目を細めている。
そして二人は、歩みを止めた。
目の前にあるのは、高さ三メートル程の塀。塀の向こうが目的地だ。
潤は塀を見上げ、刀の鐺が地面に付かないギリギリの位置までしゃがみ、跳んだ。地面をひと蹴りして塀の上に乗った潤は、敷地内を見回してから泰騎に目配せした。
泰騎が右拳を潤へ向けると、服の袖口からアンカーが飛び出した。潤は伸びたワイヤロープを掴み取る。泰騎はワイヤロープを縮め、塀を一回蹴って、跳び乗った。
ゴーグルを目元に下ろした泰騎が、バンドに挟まった髪を追い出しながら舌舐めずりをしている。
「さぁて。今日は何を作ろうかなぁ」
「……程々にしろよ」
二人は敷地内に飛び降りると、塀に沿って歩き出した。