5.ブラック企業?
読破された雑誌が三冊、泰騎のデスクに放置されている。潤のデスクには、書類の山がふたつ。時計の針は、三時を指している。
軽快な足音が、下から近付いてくる。と思っていると、所長室の扉が勢いよく開いた。それと同時に入ってくる、元気な声。
「せんぱーい! すぐそこの公園に、クレープの移動販売車が来てるんですよー!」
化粧っ気のない、高校生のような彼女――出雲恵未は、右手にクレープを持って入室してきた。
黒髪黒目。一見すると地味だが、左耳には丸いオニキスのピアスが鈍く光っている。
ミリタリージャケットと揃いの生地で誂えられたズボンを履いていて、左腕には手作りと思しき腕章を着けている。
中央に向かい合う形で設置されている、よっつのデスクを颯爽と通り過ぎ、恵未は一直線に潤の元へ走ってきた。
両腕を伸ばしてクレープをググイっと潤の目の前へ押し出す。
「潤先輩! 小倉ホイップです!」
潤は手を止め、クレープを見やり、少し考えてから手を伸ばした。
恵未はくりっと丸い目を細めて笑いながら、クレープを、はい! と潤へ手渡す。空になった右手を引っ込めた恵未だが、動かない。星が舞うように輝く瞳を潤へ向けている。
潤は、いただきます、と小さく呟き、小さな口でクレープ生地をかじった。粒餡とホイップクリームがすぐそこに現れたところで、恵未の方へ向ける。
「わぁー! 有り難うございます! いっただっきまぁーす!」
恵未は大きな口でクレープを頬張り、クリームのついた口のまま、おいしー! と感想を述べてクリームを舐め取ると、踵を返した。
潤が「恵未、自分の分はいいのか?」と問えば、「さっき食べたんで、大丈夫です!」と元気に返される。
「じゃ、持ち場に戻りまーす」
右手をひらひらと振りながら、恵未は去って行った。
恵未と入れ違いで所長室へ入ってきたのは、紫頭のひょろ長い人物。倖魅だ。
はためいている白いマフラーが挟まらないようにドアを閉めて、足早に歩いてきた。その小脇には、ノートパソコンが収まっている。
倖魅はノートパソコンを自分のデスクに置き、潤の方を振り返った。
「潤ちゃん、それー!」
クレープを指差す倖魅に、潤は無言でクレープを差し出した。それに嬉々としてかぶりつく倖魅。その横から、にゅっと顔を出した泰騎。因みに彼は今まで、窓際にあるソファーに座っていた。
「おっ。倖ちゃん、恵未ちゃんとの間接チューに成功じゃな!」
「ふゃっふぁー」
“やったー”と聞こえなくもない言葉を発し、倖魅は両手を広げて、自分の椅子へ腰を下ろした。そのまま咀嚼を繰り返しながらノートパソコンを開いている。
「倖魅、昼は?」
かなり短く、昼食はどうしたんだ、という旨の質問をされ、倖魅は背後に座っている潤を振り向いた。
「食べれてなーい」
「そんな事じゃろうと思って、倖ちゃんの昼飯!」
倖魅のデスクにマグカップとおにぎりを置いて、泰騎がにっかりと笑う。
倖魅は、ありがとー、とヘラリと笑い返し、持ちやすいようにラップの履かされているおにぎりを、手に取った。左手でパソコンを操作し、右手でおにぎりを口へ運ぶ。
倖魅の部署は“広報部”。彼は広報部長を務めている。実のところ“広報部”の仕事が、事務所内で一番キツイ。拘束時間が長く、仕事量も多い。倖魅は後輩たちに昼食を摂る時間は与えるが、自分の仕事に夢中で食事を忘れる事も多々ある。
後輩たちに仕事を分担して与え、指示し、区切りがついたら、倖魅は所長室へやって来る。
「広報さんはいつもお疲れ様じゃもんなぁ」
「上司が居たら後輩ちゃんたち休めないからねー」
倖魅はツナマヨ入りのおにぎりを食べながら、自分の仕事を進めている。左手は動かしながら、マグカップに入ったお茶を飲み下した。
「明日、何時に出発するの?」
「朝の八時くらいかなぁ? なぁ、潤?」
潤は手元の書類に目を向けたまま、そうだな、と呟いた。ふたつある書類の山は、処理済みの方が高くなっているものの、未処理もまだ多い。
読み終わった書類にサインし、処理済みの山へ置き、潤は両手を組んで伸びをした。
「出発が午前八時、現地到着予定が午前九時、午前中には特務を済ませて、事務所に帰って来たいものだな」
「そーじゃなー。出勤日に本社の仕事行くと、事務所の仕事が溜まるもんな。潤ちゃんだけ休日出勤になるで」
胸元で両腕を組み、うんうん、と頷いている泰騎に、倖魅が半眼を向ける。
「泰ちゃん。潤ちゃんが今やってる仕事の半分は、泰ちゃんの仕事だって事、忘れてなぁい? っていうか、水曜日はお花見だから」
泰騎は明後日の方向へ視線を追いやり、ふたつの意味で、忘れとらんよー、と口を尖らせて答えて見せた。
話題の渦中にある筈の潤はというと、紙の上に整列している文字を目で追っている。
「ところでそのピスミちゃん、よく出来てるよねー」
倖魅が指差したのは、泰騎のデスクに鎮座している、惚けた顔をしたピンクのウサギ。
「そうなんよー! 可愛いじゃろ?」
「うん。泰ちゃんが描いてるのにそっくりだねー」
ホント、よく出来てるやー。と倖魅はキャスターのついた椅子を滑らせ、泰騎のデスクからピスミを抱き上げた。
長い手足がブラリと踊り、倖魅に抱え込まれる。中綿がぎっしり入っているため、なかなか重い。
「抱き心地もいいねー。モチモチしてて、手触りも良いや。ねぇ、余ってるんならちょーだい?」
『ダメじゃで倖ちゃん! ワシは泰ちゃんとお家に帰るんじゃで!』
腹話術でピスミに声を当ててから、泰騎は地声で、その通りじゃで、と深く頷いている。
倖魅は惜しむ様子もなく、そっかー、と湯呑みを口へ傾けた。