3.《P×P》の事務所
しばらく気を失ったように固まっていた姫子だったが、正気を取り戻し、瞬きを繰り返した。
視線を一周させ、泰騎の腕の中に収まって――いや、色々ダラリとはみ出しまくっている、ぬいぐるみを指差す。
「ところで、そのピンクのウサギさんは……、ピスミちゃんでは!?」
先刻潤を見上げた時と同じように瞳は輝き、頬を紅潮させている。
「わたしぃ、ピスミちゃん大好きなんです! この、むにゅっとした唇……たまらないですぅ!」
姫子は息を荒くして、ピスミの肉厚な唇を指で押した。新品のピスミぬいぐるみの弾力はなかなかのもので、いくら押されても低反発枕のように元に戻っている。
それを一分ほど繰り返し続けている姫子に、パイプ椅子を広げながら潤が声を掛けた。
「山田さん。立ち話もなんですから、どうぞ座ってください」
「あ、はぁい。すみません。ありがとうございますぅ」
泰騎は長机に腰掛けて潤に諌められたが、気にせず机に尻を乗せている。ピスミの長い前足を弄びながら。
きょろきょろと室内を見回している姫子に潤が、珍しいものは何もありませんよ、と肩を竦めた。
「山田さんは、通信課の特務担当という事ですが……。何か知りたい事はありますか?」
姫子は、うぅん、と唸る。少しして何か閃いたらしく、パッと手を開いた。
「個人的な興味なんですけどぉ、事務所員さんは十四人じゃないですか。普段のお仕事は、どんな事をされてるんですかぁ?」
「服飾製品の販売が主な業務内容なので、商品委託先への営業と納品が大部分を占めます。表に出るものとしては、本社と事務所の警備もですね」
本社に出入りしている姫子には思い当たる節があるらしく、ああ! と声を上げた。
「綺麗なお顔の女の子が、入り口のところに立っていますね!」
この前、チャラ男って噂の男性社員に声を掛けられていましたねぇ。投げ飛ばしてる姿がカッコよかったですぅ。
と、姫子は目を瞬かせた。
「そういえば、事務所の警備員さんをお見掛けしませんでしたけどぉ……」
「あぁ。事務所から半径百メートル以内なら自由に動けるようにしとるから。じっとしとったらストレスで倒れるんよ、あの子」
泰騎は、なぁー、と言って、ピスミと顔を見合わせている。
そんな泰騎を横目で見やると、潤は姫子に向かって「行儀が悪くてすみません」と眉を下げた。
「山田さんは、この春から《P・Co》へ入社されたんですか?」
「はい! 三か月間研修をして、四月頭から正式に入社となりましたぁ!」
「そうですか。特殊な仕事ですから戸惑う事もあるかと思いますが、我々のサポートを宜しくお願いします」
畏まって頭を下げる潤に、姫子はたじろいだ。
そんな! こちらそです! などと言いながら頭を横にぶんぶん振っている。
姫子は少しばかり体をもぞもぞと捩らせると、実はぁー、と切り出した。
「わたし、以前似たような組織にいたんですぅ。潰れちゃったんですけどぉ。途方に暮れていたら、《P・Co》の社長さんに声を掛けて貰えたんですぅ。なので、がんばります!」
そうですか……。潤がそう頷くと、姫子は腕時計を確認し、立ち上がった。
「もうこんな時間ですぅ! お時間を頂いてしまって、すみません!」
「いえ。こちらそ、お茶も出さずに……。また何か気になる事があったら、連絡ください」
「有り難うございますぅ! 情報部の先輩方、《P×P》さんの事をあまり教えてくださらないので……お話しが出来て、良かったですぅ!」
失礼しまぁす! と、姫子は慌ただしく去っていった――と思わせ、ドアに手を掛け、立ち止まった。
振り返り、泰騎に向かってにっこり笑う。
「そうですぅ。泰騎さん、若く見ていただいて、とぉーっても嬉しいんですけどぉ、わたし、二十三歳なんですよぉー」
うふふ! と笑い声を残し、姫子はダンスステップを踏むように去っていった。
突風のような人物が消え、息を吐く潤に、泰騎が机の上をスライドして近付いた。
「……で、どうなん?」
泰騎が訊くと、潤は立ち上がりながら、
「多分、嘘は言っていない」
椅子を片付け、長机も畳んで壁際へ寄せた。
泰騎は、ふぅん、と鼻から声を出すと、抱いているピスミをズズイと潤の顔面に近付けた。
「ところで潤。ピスミのぬいぐるみ、もう一体あるんじゃけど、要る?」
「いらない」
即答。
心なしか、哀しそうな顔のピスミ。
左にピスミ、右に――もう一体のピスミ入りの――段ボールを抱えている泰騎も、ピスミの真似をして唇を突き出した。
「お揃いじゃのにぃー」
「だから何だ。必要ないから要らない」
まだ何か言っている泰騎と、それを適当にあしらっている潤は、揃って会議室を出る。それと同時に、下の方から「わぁー! 美味しそうですぅー!」という、姫子には弾けるような声が聞こえてきた。
二人は顔を見合せ、どちらともなく小さな溜め息を吐き、肩を竦めた。
◆◇◆◇
《P・Co》本社のエントランスには、黒髪ストレートの女の子。姫子と同じように、リクルートスーツを着ている。ただし、タイトスカートの姫子と違い、パンツスーツ姿だ。
まだ年端もいかない少女に見えるが、つり上がった細い眉が凛々しい印象を抱かせる。
そんな少女の横を過ぎ、姫子は情報部のあるフロアへ向かうため、エレベーターを待っていた。
「《P×P》へ行ってたの?」
とは、隣に立っている同僚の言葉だ。
「みんなが『お蛇様』や『蛇姫様』なんて呼んでるから、わたし、潤さんは女の子かと思ってましたよぅー」
だまされたぁー! と、姫子は頭を抱えた。
同僚はニヤニヤ笑いながら、
「で、姫子は誰が好みだったの? 男の子、いっぱい居たでしょ?」
好きなアイドルの話をするように色めき立って、姫子に詰め寄る。
対して姫子は浮かない顔だ。
「それがぁー、泰騎さんと潤さんにしかお会い出来なかったんですよねー」
そもそも全員わたしよりも年下ですしぃー、と首を竦める姫子に、エントランス中の視線が集まった。
姫子は目をぱちくりさせ、同僚を確認。同僚は冷や汗まみれで、姫子の口を塞いだ。
「灰色ウサギさんの名前は、今本社じゃ禁句扱いだから!」
「あっ! そぉでしたぁー。すみません」
姫子が頭を振り下ろしたのと寸分違わず、エレベーターの扉が開いた。
◆◇◆◇