83話【ドロシーの日常】
◇ドロシーの日常◇
ローザが新たな一歩を踏み出した一日から、更に数日が経ち。
【水の月20日】。そんな本日、【下町第一区画】の一軒の宿では、忙しそうにする二人の女性が居た。
宿の名は【福音のマリス】、この【王都リドチュア】で、一番人気だった宿だ。
――だったということは、今は違うという事である。
既に王都中に周知の事実として知れ渡ってはいるが、ではなぜこの二人の女性が忙しそうにしているかだ。
「この掃除道具は、あそこに」
「はい」
掃除道具を持って、小さな扉を指差す女性。
緑色のエプロンドレスの女性、メイリン・サザーシャークは、この宿の唯一の従業員だった。
今、彼女が指示を出し、返事をしたのが。
最近【福音のマリス】で働き始めた、ドロシーと言う女性だ。
ドロシーは先輩であるメイリンの言う事をメモしながら、真剣に聞き入っていた。
二人は真剣に向き合い、指示をするメイリンもそれを聞くドロシーも、少しの緊張こそあれど、仕事をする以上は真摯に向き合っていた。
そして、そんな二人の様子を微笑ましく見守る少年の笑顔と言ったら、この上なく嬉しそうだ。
その少年、エドガー・レオマリスは二人の雇用主だ。
数日前には一悶着あったものの、先輩としてドロシーの面倒を見ると決めてくれたメイリンには、頭が上がらないとエドガーは思っていた。
勝手に連れて来て、勝手にドロシーを雇うと決めた事は褒められたことではない。
なにせ【福音のマリス】は客のいない宿だ、従業員など事足りているに決まっている。
それをエドガーは、メイリンに相談もなしにドロシーを雇うと決めたのだ、働いている者の立場から言わせればムッとすると言うもの。
「エドガー君も、カウンターの水拭き終わったの?」
「……あ」
「もう、不審な目で見てないで、ちゃんとして」
不審だっただろうか。
不審、だろうな。
「すいません……」
「面白いですね、エドガー様は」
ドロシーは、エドガーを様付けで呼ぶ。
雇用主だからだとは言うが、エドガーはくすぐったいからと断ったのだが、ドロシーは譲らなかった。
「いや……ははは」
「ほら!エドガー君!」
「あ、はい!」
ドロシーの言葉にエドガーは頭を掻きながら笑う。
メイリンに急かされ、真新しい雑巾を濡らし、ロビーカウンターを拭きだすのだった。
◇
そんな三人の様子を、二階の吹き抜けから覗き込む、一人の女性。
女性と言うか、その形容は人形サイズであり、確かにシルエットだけは女性なのだが、どことなくこの世界では言い表しにくい姿をしていた。
「……あいつ、本当に溶け込んでいるわね……――わっ!」
“悪魔”の女性、リザ・アスモデウスは、ドロシーを見ながら憎々しそうに呟く。
そして、そのリザの後ろから来た女性はリザを抓み上げて、自分の胸元にすっぽりと収めると、リザの独り言に答える。
「それだけ《魔法》に力があるのだ。それに、あれだけの事を言うのだ。我も見逃すほかあるまい?」
「我が“魔王”……」
リザを抓んだ紫紺の髪を束ねる女性の名は、フィルヴィーネ・サタナキア。
異世界で“魔王”をしていたという、元“神”様だ。
暑そうに手をパタパタとさせて、顔を扇ぐ。
季節は夏直前だ。ローザが【リフベイン城】に指南役として入城して、もう結構な日数が過ぎていた。
この世界では【土の月】、【火の月】、【水の月】、【風の月】と4つの月があり、その日にちは約91~92日。
合計日数は365日と、サクラの世界【地球】と同じ計算が出来るのだが、現在は夏、【水の月】であり、【地球】で言えば7月の中盤に入るといったところだ。
「あの女が言っていたであろう。絶対に害は与えないと……“神”に誓うとまで言っていただろう?」
「……それはそうですが……“天使”は信じられません」
「元“天使”がよく言う」
フィルヴィーネとリザは、ドロシーの正体を知っている。
一階で微笑ましく笑う清楚な女性は、“大天使”スノードロップ・ガブリエルなのだ。
◇
時は遡り、数日前。
場所は【福音のマリス】の地下、【召喚の間】だ。
『……ガブリエル』
フィルヴィーネが肩を掴むドロシーは、その名を呼ばれてもなお冷静に対応する。
栗色の髪は色が抜け落ち白銀に変わる。
雰囲気もガラリと変わり、表情はか弱い女性から凛としたものへと変貌。いや、元に戻ったのだ。
『流石に誤魔化せませんでしたか……ニイフ様』
フィルヴィーネが“神”であった頃の知り合いでもある“大天使”スノードロップ・ガブリエルは、フィルヴィーネの手を掴んで優しく退ける。
逃げるつもりはないという、彼女なりの意思だ。
『お前がここに入れるという事は――そういう事なのだろうな。“召喚”した者は誰だ』
ここ【召喚の間】は、【召喚師】と“召喚”された人物しか出入りできない仕組みになっている。
スノードロップがこの場にいる時点で、スノードロップもまた、フィルヴィーネと同じ様に異世界を渡って来たという事だ。
『――エドガー様ですよ』
『馬鹿を言うな。いつだというのだ』
『クスッ……』
そのフィルヴィーネの言葉に、スノードロップはクスリと笑う。
まるで『流石の“神”でも想像できませんか……』と小馬鹿にしているようにも感じられた。
『――貴様』
ゴウッ――!とフィルヴィーネの神意が溢れる。
『――……っ』
ビリビリと身体を襲う神意は、この“魔王”が確かに“神”だったという証だ。だがスノードロップは、一切の圧も感じてなさそうに言う。
『いいのですかニイフ様、わたくしは兎も角、アスモデウスはそうはいきませんよ?』
『……!!――す、すまぬリザ!!』
フィルヴィーネは一瞬で神意を解除して、胸元でぐったりするリザを抜き出し声を掛けた。
『へ、平気です……フィルヴィーネ様。この者がガブリエルだと知って動転しておりました……流石でございます』
平気とは言うが、リザの顔色は真っ青だった。
肌から直接神意を浴びたのだ。
元の姿なら平気にしろ、今のリザでは耐えられないだろう。
『すまぬ、すまぬリザよ……』
『残虐な程、情愛の深い“魔王”、フィルヴィーネ・サタナキア……とは、よく言ったものですね』
『……ガブリエル!』
リザを抱えるフィルヴィーネは、本気で怒っている。
しかし、力は本気には出来ない。
能力が封じられているという点もあるが、“神”の力を使うには、“悪魔”であるリザが近くにいるのには危険すぎる。
今のように神意に当てられただけで昏倒しそうになるほど、フィルヴィーネの神意は強力なのだ。
『わたくしも、別に悪気がある訳ではないのです……ニイフ様、どうかお見逃しを。そうして頂けるのなら、わたくしは近い未来……エドガー様の役に立つことをお約束いたしますわ。ここに居る間も、害は与えません……【主神】に誓いましょう』
『我は今の話をしている!!どういう意味だ!なぜ貴様はエドガーを知っている!お前を“召喚”したエドガーとは、どういう事だ!?』
スノードロップは質問に答えず、話をすり替える様に。
『――以前、【月の雫】をお渡ししましたでしょう?……その借りという事で、見逃してくださいませ』
『貴様、論点を――』
『わたくしは本気ですよ。ニイフ様に見つかる可能性を覚悟した上で、ここに来たのですから』
スノードロップはしゃがむフィルヴィーネに小さな紫石を渡す。
【魔石】だ。
『アスモデウスにお使いください。“悪魔”なのですから、この【魔石】で回復できるでしょう。では』
スノードロップは《魔法》をかけ直しドロシーの姿に戻ると、【召喚の間】から出ていく。
しっかりと、見慣れない《石》を持って。
『……あの堅物が、ここまでするか……』
《天界》でいた時は、真面目な堅物として有名だったスノードロップ。
まるで正反対の食わせ者のように、“魔王”であるフィルヴィーネを前にしても動じない大胆さ。
自分が追い詰められたと言う状況を利用した、不可解な行動。
『どういう理由にせよ……何かがあれば我は躊躇なく滅するぞ……ガブリエルっ!』
その後ろ姿に殺意ある言葉を浴びせて、フィルヴィーネは小さな【魔石】を砕く。
紫色の魔力は少量ながらも、リザを包んで体調を回復させた。
『申し訳ありません……フィルヴィーネ様』
『いや……今回は我が悪かった。ガブリエルが侵入し、まさかこの場に入れるとは思わなんだ……油断していたのだろうな、我も』
『いえ、それは……』
フィルヴィーネにもいろいろある。
ローザの魔力回復や、エドガーの異世界の勉強、他の異世界人たちについても同様で、フィルヴィーネは全員を対象に気を張っていた。
そのせいで部屋から出てこないこともしばしばなのだが、今回はそのせいで注意散漫だったという。
『リザよ、エドガーには言うなよ。他の皆にもだ』
『しかし、よいのですか?』
『仕方あるまい……ガブリエルの目的は分からぬが、害は与えないといったであろう。エドガーの事についてもそうだ、我も我なりに調べよう……それまでは傍観だ、いいな?』
『御心のままに、我が“魔王”』
こうして、フィルヴィーネはスノードロップ――ドロシーを見逃すことにしたのだった。




