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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

TOUMEI

作者: 白兵法

型落ちで安かった我が家のプラズマテレビ。画面に映るアナウンサーは朝のニュースには似つかわしくない神妙な面持ちで話している。


『またもや突然の失踪事件です。昨日まで普通に学校に通っていた若者が突如足取りのつかめぬ失踪、この原因は何なのでしょうか――』

「近頃は気持ち悪い事件が多いなぁ」

「そうねえ……最近失踪事件が立て続けに五十件以上も起こってるんですってねぇ。美奈、あんたも急に失踪するのだけはやめなさいよ?」

「はーい、あたしが失踪するときは預金通帳と印鑑もってくからちゃんと探さないとやばいよ~」


 あははは、と笑いに包まれる家庭。まさしく一家団欒といった光景である。

 だがこの一家はとても大事なことを忘れている。いや、忘れさせられてしまっているというべきか。


「じゃああたし朝練あるからそろそろ学校行ってくるね~」


 美奈はそう言うとリビングを出てゆく。母も朝ご飯の後片付けに台所へと向かい、父はつけっぱなしのテレビをもはや気に留めることもなくスマホをいじりだした。

 ニュースでやっている失踪事件にはもう誰も興味がない。


 ――ここに失踪者がずっと居るのに。


 この一家にはかつて俺が一緒に家族として暮らしていた。美奈は二つ下の妹で、いつもテレビを取り合っていた思い出がある。母はいつもそれを見て怒り父は苦笑しながらその様を傍観していた。だが今はそんな俺の存在を誰も意識していない。

 この事件は失踪なんかじゃない、俺は――俺たちは認識の外に締め出されたのだ。

 俺はいまソファに座る父の横にいるが微塵も気づく様子がない。試しに親父の頬を思いっきりつねってみるが全くの無反応。いじっているスマホを取り上げてみると父は『最初からスマホを持っていなかったかのように』テレビの方へと集中し始めた。俺はため息をつくと、スマホをテーブルの上に置き家を後にした。



 街を歩く通行人にわざとらしくぶつかってみても、誰一人俺に気付く者はいない。

 俺の存在が世界から知覚されなくなってから、はやニ週間。このタチの悪い罰ゲームみたいな最悪な生活の中で分かったことがいくつかある。

 一つ、人は誰しも無視をされ続けると多かれ少なかれ狂ってしまうということ。今でこそ無気力になって特に何もすることなくとぼとぼと歩いているだけだが、こうなり始めた当初は残酷な事実を受け入れられなくて、手当たり次第に窓やガラスを割ったり花壇の花を荒したりだとか路上駐車している車に傷をつけたりだとかいろいろなことをしてみた。でも全くの無駄な努力で、誰も俺に気付いてくれなかった。俺がしたあらゆる器物破損は『最初からあったこと』になってしまったのだ。

 俺はうらぶれた路地裏にある雑居ビルの中に足を踏み入れ、エレベーターで三階へと上がった。誰も使われていないはずの部屋の扉を開けるとそこには俺と同じ高校生くらいの年齢の男女数人が座って喋っていた。

「よう」と俺が声をかけると、近くにいた茶髪の男はキョトンとした顔をした。そしてしばらくじっと俺の顔を見つめると……、


「……ああ、お前か! 最近来てないからどうしたかと思ったぜ」

「まあ、生憎そう長くもないみたいでな。感傷に浸りながらぶらついていたよ」


 茶髪の男が差し出してくれたタバコを受け取り、火をつける。未成年の喫煙はダメだと注意することができる大人はここにはいない。法律すらも俺たちを認識できない。

 そう、分かったことの二つ目として『失踪者同士は互いの存在を認識できる』ということがある。ここにいる男女はみんな同じようにある日突然世界から締め出された同志ともいえる。……同志と呼べるほどの強固な絆なんてもんはないが。

 このビルは失踪者たちのたまり場になっている。俺が自暴自棄になって街を歩いていた時にこの茶髪に声をかけられて初めて訪れて以来、何度かここには顔を出している。少なくともここにいる間は心を押しつぶされるような疎外感は感じないから。


「あれ……前来た時はもっと人いなかったか?」

「ああ……そうかもしれねえな」


 茶髪は周りを見回して、曖昧な返事をした。他のメンバーもそう言われてみたら……といった何とも言い難い顔をしている。ここにいるグループはつるんでこそいるが、誰一人互いの名前なんて知らないし顔すらもちょっと会っていないと曖昧になってしまう。さっき茶髪が俺を思い出すのに時間がかかったのもそれが原因なんだろう。

 分かったことの三つ目として俺たちが世界から『消えていく』のにはいくつかの段階があるらしいということだ。最初に突然周りの人間とかから認識されないようになり、個人差はあるが少しずつ色々な記憶を失ってゆき、そしてそのあとは――俺自身にもわからない。まだそこまで行っていないのだから。行く果ては完全なる存在の抹消なのだろうか。

 テーブルの上にあったビールを適当に空けて、ビルにいる奴らと他愛のない話をする。話の内容は記憶を思い返しての昔話が中心だが、話し終わった後には誰も何も覚えていない。それは酒を飲んでいるからなのか或いは……記憶には一切残らないとわかっていても誰かと喋ることをやめることはできない。俺たち失踪者はきっと会話をしたという事実がほしいだけで、断片的な記憶を持ち寄って互いの存在を確かめ合っているにすぎないのだ。

 酒やつまみなどが一通りなくなったことに気付いて「かっぱらってくるよ」と言って俺は立ち上がった。日に日に自分が自分でなくなっていくかのような恐怖から逃れたくて、もっと酒を煽りたかったのだ。すると「あたしも行くよ」と一人の制服を着たショートカットの女が立ち上がった。俺たちは二人でコンビニへと向かうことにした。


 存在が無視されている俺たちにとって、コンビニから酒などをかっぱらうことなんて朝飯前だ。さっさと溜まり場から持ってきた袋に必要なものを連れて女と店を後にする。

 ビルを出てから何一つ会話がない気まずい状況ではあるがもはやそんなことはどうでもよくなっていた。わざわざ話しかけるような元気もないし、それは女の方も同じようだった。だったらなんで着いてきたのだろうか。

 気まずさから目をそらすかのようにふと女と反対側に目をやると、小太りの男が女子高生を羽交い絞めにして路地裏に連れ込んでいくところが見えた。周囲に人がいるはずなのに誰も気に留めない様子を見るとあの男もこちら側の人間みたいだ。

 一緒にいた女も男と無抵抗のまま連れ込まれる女子高生に気付いたのか、しばらくじっと眺めてはじめて口を開いた。


「いるよね。存在が消えてるのをいいことにエッチなことする人」

「……ああ、まあ気持ちはわかるけどな」

「ねえ、君はこうなってからああいうのしたことがないの?」


 女はそういって俺の顔を見つめた。目を合わせると気まずいから視線を下に落とすとぷっくりとした唇と豊満な胸に意識が行ってしまう。いたたまれなくなって不自然に視線を逸らしながら俺はなるべく動揺が悟られぬように意識して返事をした。


「いや、やろうと思ったことがないと言ったらウソになるな。まあでも、途中で怖くなって体を触っただけでやめたよ」

「ふうん……」


 女は俺の話を真面目に聞くもないのか生返事をしたかと思うと……急にぎゅっと俺に抱き着き身体を押し付けてきた。柔らかい感触に何とも言えないいい匂いが鼻腔をくすぐる。


「ねえ、しない?」

「するって……?」


 女は下から俺の顔を見上げるとニッといたずらっぽく笑った。ごくりと、自分が生唾を飲み込んだ音がはっきりと聞こえた。


「男はああやって無作為に連れ込めばどうとでもなるけど女はそうもいかないのよね……わかるよね?」

「……」


 言っている意味は理解できなくもないが、とても正気の沙汰とは思えない。そもそも今は女と付き合った経験もそういうことをした経験もあるのかないのか曖昧で……だけど。

 俺は女の肩に手を置くと見つめあって、そのまま唇を重ねた。初めて感じたようなあるいは久しぶりのような昂ぶりに恥じらいという感情をすべてかなぐり捨てて、そのまま俺は沈み込んでいくのだった。



 結局、することをし終わると割と何事もなかったかのように女と並び帰路につく。買い過ぎた酒をぶら下げる腕がだるい。だけど頭は不思議と冴え渡ってるし、誰からも認知されないのをいいことに公然でするのは癖になりそうな快感だった。

 女とはコトを終えて距離が縮まったのかさっきまでの気まずさは感じない。途切れ途切れの会話を交わしながらゆっくりと歩いてようやく雑居ビルに到着し、エレベーターに乗り込む。


「君もあたしも制服だしさ、こうして歩いてると普通の高校生カップルみたいだね」

「……そうだな」

「ねえ、あたしたちみたいなのがもし赤ちゃんを妊娠したらどうなるんだろうね」

「……さあ、どうなるんだろうな」


 エレベーターが開き、俺は先導するようにして先に扉を開けた。後ろにいる女は少しだけ微笑んでるようにも見えた。

「遅かったじゃねえか」と茶髪がトランプをしていた手を止めた。「ちょっとな」と返し俺は酒の入った袋から適当なチューハイを取り出して、蓋を開けた。茶髪は俺の返事をさほど気にも留めず缶ビールを手に取ると不意に、


「あれ? つまみはどうした?」

「ああ、それならあいつが――」


 そう言いかけて気づいた。部屋にあの女がいないのだ。さっきまで確かに一緒にいて、間違いなく一緒に入ってきたはずなのに。


「あいつが、なんだよ? お前は一人で出かけたはずだろ?」


 茶髪が怪訝な顔で言った言葉が俺には信じられなかった。何を言っているんだこいつは……。周囲を見渡せば奥でポーカーをしてた男女数人組もソファに寝そべってゲームをしてる男も生真面目そうな眼鏡をかけた女も――全員が俺の様子をうかがっている。

 俺はおもむろに立ち上がると扉を開けて廊下へ出た。すると床につまみの入っていた袋が落ちていて、近くにつまみが散乱していた。だが一緒に帰ってきたはずの女はどこにもいない。


「なんだこりゃ、こんなとこにつまみを落としてたのか……」


 呑気な茶髪の声が後ろから聞こえる。俺は無性に不安に駆られて、走り出した。非常階段を駆け下りて雑居ビルの外へと飛び出す。後ろから茶髪が何かを叫んでた気がするが聞こえない。

 人通りの多い街へ出て、女を探す。いなくなっただけならまだ近くにいるはずだ。雑多な通行人の群れを掻き分け女の顔を必死で思い浮かべながら探す。しかしいつの間にか俺の記憶は混濁してきて、女がどんな顔だったのかも思い出せなくなっていた。女の顔は? 声は? 背格好は? 一緒に何をした? そもそもそんな女はいたのか?

 考えれば考えるほど分からなくなる。そもそも女はいたのかいないのか。まるで自分の記憶から女の存在そのものが消えたかのような――


「――消えた、のか……?」


 その考えにたどり着いたとき、全ての合点がいった気がした。

 女はこの世界から本当に消えてしまったのか、或いはついに俺たちからも認識されないような存在になってしまったのだろうか。どちらにせよ誰にも存在すら認識すらされず、そしていずれは存在した痕跡すら残らないというのなら彼女が――俺たちが存在する意味とは何なんだ?



 俺は思い浮かんだ恐ろしい仮説をどうしても否定したくて、必死で何かを探し回った。何を探しているのかはもうよくは思い出せないが、とにかく俺は自分の存在を肯定したくて無我夢中で街を走り回った。

 やがて日が暮れ、ふと我に返ったら全く知らない景色が目の前に広がっていたことに気が付いた。どうやら相当遠くまで来てしまったようだ。そろそろ帰らないと……。


 ――何処へ?


 自分の帰るべき場所すらも分からなくなっていることにそこで俺は気が付いた。俺がかつて住んでいたはずの自宅も、あいつらと一緒に過ごした雑居ビルの中のアジトも、もうあやふやだ。それどころか自分の家族の顔もアジトにいたメンツの顔ももう思い出せなくなっていている。ガタガタとみっともなく体が震え始めた。

 そもそもなぜ俺はここにいるのか、何をするために走っていたのか……それすらも分からなくなっていた。さっきまでは確かに何か理由があって俺はへとへとになりながら走り続けていたはずなのに。

 俺はもしかしたらこのまますべてを忘れてしまうのか? 俺自身が消えるんじゃなくて、俺の中からほかのすべてが消えてしまうのか?

 消えていっているのは俺なのかそれとも世界なのか、どっちなんだ? ただ俺の存在は間違いなく風前の灯火、残された猶予はごくごくわずかだということは心のどこかで理解できた。

 知らない街の、帰宅途中であろう有象無象を掻き分けて、俺はひたすらあてもなくさまよい続けた。このまま消えたくないというただその一心で。



 やがて迷い込んだどこかの路地裏にて、不意に生臭さを感じて立ち止まった。生ゴミの臭いとはまた違った、鉄のような――そう、血の臭い。言いようのない不快さを感じながら、俺は臭いの元を辿るべく路地裏の深い闇の中へと入ってゆく。

 奥からはザクッ、ザクッと何かを切り刻む音が聞こえる。俺は持っていたスマホのライトを点けてみることにした。


「――っう!?」


 反射的に胃の中のものが逆流してきた。それを留めることができず俺はそのままアスファルトの上にビールやら柿ピーやらが混じった吐瀉物をぶちまける。日中ずっと走り回って何も食べていなかったためか空っぽになった胃がキリキリと痛む。

 目の前に広がっていたのは一言で表すなら血の海だった。

 おびただしい量の血液で見渡す限りぬかるんだアスファルトに、バラバラに切り刻まれた人間の腕とか脚だとかのパーツが大量にごろごろと転がっている。そして奥の方で、ぼさぼさの髪の男が屈んで一心不乱に鉈のような大きな刃物を降り下ろし、ザクザクと人間を解体していた。毛むくじゃらの男の腕のようなものを切断すると、バラバラの手足が積まれた山のようなところに投げ捨てて立ち上がり、裸の女の死体を引きずって運んでくる。

 あまりに日常離れした光景に頭が真っ白になり立ちすくんでいると、男は不意に刃物を振り下ろす手を止めてゆっくりこちらを振り返った。


「……お前も、そうか」


 男は不潔な髭面でひどくやつれた顔をしていた。濁った眼でじっと凝視したかと思うと眉間にしわを寄せ、溜息を吐いて首を振る。男の言ってることの訳が分からず、次の言葉を待つしかない。


「あんたも俺も最下層の人間だ。どうせもうじき消えるし、そうなればあんたがこの世界にいた痕跡は一切なくなるだろうな」

「……どういうことだ」

「そのままの意味だよ、自覚してるだろ?」


 目の前の血みどろの悲惨な光景を生み出している張本人とは思えないくらい冷静な声色で、男は訥々と語った。厭な脂汗が額を伝う。無意識に俺は拳をギュッと握り締めていた。握り締めたこの感覚が俺が俺である証拠だと信じたい。


「俺を見つけられるのはいつだってあんたのようなすぐに消える幽霊みたいなやつだけだ、それ以外の人間は俺が何をしても気づかない。こんなに殺しても誰も俺に気が付かないんだ」


 男はよどんだ眼をこちらに向け、深々と溜息をついた。深い絶望と諦観が入り混じったような、ひどくゆがんだ顔をしている。気付かれない、という言葉から奴も俺と同種であるとわかる。


「あんたが会った、幽霊みたいなやつってのは何処に行ったんだ?」

「さあな……『来たこと』しか覚えてないがどっかに消えたのか、あるいは殺しちまったのかもな」


 男のすぐそばにはバラバラの死体が積まれていて嫌でも目に入ってしまう。老若男女問わず色々な人が殺されたようだ。アスファルトに転がった物言わぬ亡骸のその表情は苦悶に歪んでいるわけでも怒りに震えるわけでもなく、一様に皆無表情だった。

 俺はしばらく男の次の出方を固唾を飲んで窺っていたが、男はもはや俺には興味がないようで、再び屈んで鉈のような刃物を振り下ろして死体の腕の付け根から切断し始めた。どうすればいいのかわからず立ちすくんでいると、男がまさに切断しようとしている白くて細い腕の指先がピクリと一瞬動いたことに気が付いた。


 ――まだ、生きている……?


 その可能性に行き当たったとき、俺は衝動的に男に殴り掛かり、馬乗りになって首を絞めていた。

 男は虚ろな目をあらぬ方向に向けて口から泡のようなものを吐きながらも、意外にも抵抗して俺の腕を引きはがそうとしてくる。自分の存在がわからなくて頭のおかしくなった殺人鬼でも、死の危機に瀕したらそれでも生に執着するのか。俺はまさに命を奪おうとしているこの男に奇妙な親近感を覚えた。

 男の目の焦点がいよいよ虚ろになり、口の端には泡が溜まり顔色は真っ赤な臨界点を超えて真っ青になっていく。あともう少しで男は死ぬだろう……他人事のようにぼんやり考えていた時だった。

 急に胸に灼熱のような痛みが走った。あまりに急だったから男の首を絞めていた手の力がほどけ、そのままたまらず手を胸にやる。すると、先ほど男が切断に使っていた鉈が俺の胸に深々と突き刺さっていたのだった。刺された箇所が猛烈に熱い。どくどくと、血液と共に自分の身体の熱が逃げていくことがわかる。

 俺は朦朧とする意識の中、刺さった鉈を無理やり引き抜いて思いっきり呻いている男の喉笛に突き立てた。男は口から血を噴き出しそのまま動かなくなった。存在に狂わされた男の、哀れな末路。

 どくどくと自分の命が流血となって身体から逃げてゆく。俺自身の意識もほとんど限界だ。さっきまで刺された胸があんなに痛かったのに、今では何も感じない。ただただ身体が、心が、とても寒い。

 俺はふらふらと、おそらくまだ生きている少女の方へと這いながら近寄った。少女の右肩には生々しい男の鉈による傷跡があったが、止血すればおそらく助かるであろう。最後の力を振り絞って、自分の上着を脱ぎそれを使ってギュッと肩の付け根を縛る。応急手当として正しいのかわからないが、最期くらいやれるだけのことをやっておきたい。

 いよいよお迎えが来たのか、目の前が霞んで白み何も見えなくなってゆく。結局俺の存在は何だったのかわからないし、頭の中が真っ白で走馬灯のようなものすら流れない。俺という存在は本当はそもそも実在しなくて、この今の状況ですら誰かのとりとめのない夢の中ではないのか。でも、だとしたらなぜ俺はこれほどまでに自分の存在について考えてしまうのだろうか。

 必死に目を凝らして、助けた女性の顔を覗き込む。その顔を見たとき、俺は何となく全てが許せる気がして、また許されたような気がした。まだ眠る少女に俺は喉を動かして最期の言葉を言おうとして、そのまま意識を手放した――




「美奈、リンゴ持ってきたわよ~! 剥いてあげるから一緒に食べましょう」

「メロン持ってきてって前言ったんだけどな~」

「父さんの安月給じゃメロンは無理だからねえ」


 病室のベッドで寝ていた美奈は上体を起こすとすぐさま癖になった軽口をたたく。リンゴを口に放り込みながらこの一週間の経緯を思い出す。

 下校途中から急に記憶が飛んで、気が付いたらおびただしい数のバラバラ死体と一緒に全裸で薄暗い路地裏で横たわっていたなんて誰が信じるだろうか。肩にケガをしていたためすぐさま病院に運ばれたが、傷自体は思ったほどは深くもなく退院はすぐだということだった。肩には美奈の自宅の近所にある高校のジャケットが巻き付けられていたらしく、それによって出血が抑えられたらしい。現場近くには凶器として使われた鉈が転がっていたらしいが、被害者の血液以外に犯人の指紋などの痕跡が一切ないようだ。


「あたし、あと数日で退院できるんだってさ」

「それは良かったけど……その、大丈夫なの?」


 心配そうに見つめる母に美奈はニコッと笑顔を見せた。

 本当のことを言えば不安はぬぐえない。一生他人事だと思っていた殺人事件というものに巻き込まれた上に、その犯人はいまだに捕まっていないし足取りすらも掴めていないのだ。テレビでニュースになっていた行方不明者は一人残らずバラバラの死体になっていた。美奈自身だって、もしかしたら『失踪者』の一人になっていたかもしれないのだ。

 病院に入院した最初の日に、ある夢を見た。ある日突然急に学校のみんなから無視されて、街の人にも無視をされて家族でさえも自分に気付いてくれなくなる。あてもなく自暴自棄になりながら街をさまよい歩いた。そして歩き疲れてへとへとになった頃に裏路地に迷い込み鉈を持った虚ろな目をした男に出会う。男は自分を殺そうとしてゆっくり近づいてくる。逃げようと思うのだが怖くて身がすくんで動けない。男に押し倒され血で濡れたアスファルトに寝転がる。死を覚悟し目を閉じて身構える。しばらく経っても何も起こらないから目を開けるとさっきの男はいなくて、代わりに別の男の人が顔を覗き込んでいた。男の人は自分に何かを告げようとして――そこで目が覚める。目が覚めると、涙で瞼が腫れていた。

 看護師さんにその夢を話してみると、事件のショックで悪夢を見ていただけだと言われた。実際に美奈もその通りだと思っている。悪夢のはずなのに最後は何故だかとても寂しくて切ない気持ちになる、妙に後に引く夢だった。

 夢に出てきたあの男の人は結局誰かはわからないし顔すら覚えていないけど、とても自分にとって近しい人物だった気がする。そして何となく直感で、もうこんな事件に巻きこまれることはないだろうと美奈は感じていた。


「大丈夫……だと思う」


 美奈はそう言うと、枕元に畳んで置いていた男性物の高校の制服をギュッと握り締めた。自分を助けてくれた誰かさんの制服のジャケット。

 そのジャケットには、名前の刺繍が入っていなかった。

 滅茶苦茶落ち込んでいるときや自分の存在に対する自信が持てない時に書いた鬱屈とした文章が一つの形になったので投稿しました。ここまで読んでくれてる方が居たら、それが僕の存在の証になります。

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