Ты не одна (君は一人じゃない)1
誠君が私の実の兄、長嶺伊理也。
それを知ったあの日からしばらくして、良史亜はまた私と一緒に部屋探しを進めてくれた。
けど、お互いにあの日のことに触れることはなく過ぎていく。
「桐絵、僕を安心させると思って言うことを聞いて」
部屋のセキュリティについて良史亜は譲らず、オートロックで玄関には監視カメラもあり、室内での異常事態には警備会社が対応してくれるマンションに契約を済ませた。
それから良史亜の仕事が立て込んで来て、最近の連絡は電話かLINEでのやり取りになっていた。
今日も良史亜からの電話でこれからのことを話した。
「桐絵、引っ越しの準備は進んでる?」
「大丈夫だよ」
「そうか、必要なものはどんどん知らせてくれ。家電はまとめて揃えよう。こっちは伊理也が出て行ったよ」
「え、そうなの?」
誠君が、いや兄さんがもうあの部屋には居ないんだ。
彼の新しい家はどこなんだろう。
そう思ったけど、私の伊理也兄さんへの思いに気づいているだろう良史亜には聞けない。
伊理也とは、うんと幼い頃に離れてしまった。
兄の面影は記憶というよりもきっと感覚だけで覚えていて、優しい良史亜の存在が伊理也の残した存在感と置き換えられてしまったのかな。
今もまだ伊理也が兄なんだと繰り返し自分に言い聞かせるようにしてしまう。
それは私の気持ちがまだ整理できてない証拠。
わずかの間会話が途切れる。
「伊理也もしばらく忙しいけど、また真理ちゃんとも予定合わせて引っ越し祝いの会をしようって言っていたよ」良史亜が言った。
「あ、うん。そうだね」
「桐絵、僕もやっぱり三月までであそこを引っ越すことにしたよ」
「え、良史亜も?」
「うん。大変だったことも良い思い出も、あの部屋には沢山あるけど、そろそろ卒業しようかと思ってさ」
思い出だらけのあの部屋に、もう誰も居なくなる。
ほろ苦い気持ちが胸に広がっていく。
「会社の近くに?」
「うん、そうだな。会社の近くにマンションでも探す。それと来月から、秘書を一人置くことにしたんだ」
社長の仕事がどんどん忙しくなってるんだな、良史亜。
それなのに変わらず私を気遣ってくれてる。
私ももっと大人になりたい。
いつまでも彼を頼ってばかりじゃなく、彼のことも思いやれるように。
「良史亜も無理しすぎないでね」
「ああ、ありがとう。これから僕あての電話を秘書が取ることもあるかもしれない。遠山さんという人だから。桐絵からの連絡は最優先でって話しておくよ」
「そこまでしなくてもLINEもあるし、でもわかった」
「それから桐絵、伊理也の事だけど……」
「うん」
再び良史亜が兄のことに触れて来て、気持ちが騒ぐ。
「伊理也は自分だけ新しい家族と幸せに暮らしてたように話してたけど、そんな簡単な話じゃないんだ。あいつもすごく辛い思いをしてたんだよ。それは今度話すよ」
真理さんも、兄さんがホストとして働いていたって話してた。
そのことときっと関係があるんだろうな。
新しい家に引っ越して、施設を出てから二度目の春を迎え私は二年生になった。
良史亜も言葉通りアパートを引き払い、自分の会社近くの高層マンションに引っ越した。
「ほとんどのものを処分したし、掃除もハウスクリーニングを頼んだから」と、新学期を迎えた私には手伝わせることもしなかった。
最近は去年から進めて来た会社を上場する為の準備が大詰めだと言って、超多忙な毎日を送っている様子だった。
良史亜の新しい部屋の住所は聞いた。
「キーレスなんだ。六桁の暗証番号二つで入れるから」とナンバーも教えてくれた。
「ちゃんと毎日帰ってないし、せいぜい風呂入って寝るだけで、まだちっとも片付いてないんだ。荷解きも進んでないから、落ち着いたら来て」
「片付けなら手伝うよ。掃除でも洗濯とかでも」
「会社から近いから、合間でこなしてる。まとまった時間ができたらコーヒーでも飲みに来てくれ」
そう言われて、まだ訪ねてはいない。
本当に良史亜は自分のこととなるとまるで淡白で、何でも一人でやろうとする。
そして何となく思った。
良史亜は本当に忙しいだけなのかな、と。
誠君に憧れていて恋していた気持ちは日ごとに波立ちが落ち着いて、今は穏やかな思慕へと変わった。
私は天涯孤独ではなくて、半分とはいえ血の繋がった兄がいる。
養子縁組で戸籍上の繋がりはなくなり大野誠という名前に変わってしまった兄さんだけど、せっかくめぐり逢えたこの絆を大切にしたいと思う。
伊理也兄さんも幸せに暮らして欲しいと思う。
それと、誠君が兄だと知ったあの日。
誠君が現れる直前に、良史亜が私に言いかけた言葉を今さらになって思い出し、気になっていた。
『僕は桐絵のそばに居たい。守りたいといつも思ってる』
そう言って、それから私の髪を梳いて左頬に触れた良史亜が言いかけた言葉を。
『桐絵、違うんだ。ほんとうは僕は、……』
あの続きは、どんな言葉だったのだろう。
初めての恋を失ったあの日。
私は自分が受けたショックでいっぱいのあまり良史亜の心まで見失ってしまったみたい。
彼の温かい指先の感覚も、もう遠い出来事のよう。
最近の良史亜は、どこか自分に関わることから私をシャットアウトしているような気がする。
それ以上に彼の心の中からも私を締め出してしまっているみたい。
急に心が痛くなる気がして締め付けられるようで、寂しい。
それは今までにない感情だった。
それとは裏腹に学生生活は勉強も友達との付き合いも順調で楽しい。
いよいよ病院で看護助手のアルバイトをしようと身元の保証人を頼むために良史亜に電話をかけた。
三コール目で応答があった。
「あの、もしもし」
「はい、こんにちは。長嶺桐絵様ですね?」
電話に出たのは、明るく柔らかな声の女性だった。
「え?そうです。室井良史亜に連絡したのですけど」
「申し遅れました。こちらは社長の携帯ですが、あいにく接客中でして。ただいま電話を預かっております私は秘書の遠山と申します」
そうか、この人が良史亜の言っていた遠山さんだ。
「あ、ではLINEの方に連絡します」
「あの、よろしければ社長に代わりましてご用件を伺います。親友の妹様である長嶺様のご連絡は最優先で、と聞いておりますので。どうぞ、ご遠慮なさらずに」
優しく丁寧にそう言われて私は保証人の書類のことを話した。
それにしても良史亜は本当に私のことは最優先でって秘書さんに言ってるんだ。
淡々とそれを伝えている彼を想像したら、ちょっとだけおかしくなって、そして嬉しかった。
「でしたら書類を一旦お預かりして社長が確認しまして、またすぐにお返しすることができますよ。お急ぎでしょう」
「なら、これから書類を持って行きます。明日か明後日でも大丈夫ですから」
「でしたら本日十七時から十八時に社長は車で外出の予定になっておりますので、長嶺様のお宅まで伺えますよ。社長もきっとそうするように言われると思います。ご予定はいかがですか?」
確かに良史亜ならそう言うだろう、遠山さんてすごいなあ。
「ではお願いします。あ、でも無理しないでと室井さんに伝えてください」
遠山さんがとても丁寧なので私も良史亜とは呼べなくてそう言ってしまった。
「恐れ入ります。社長にお伝え致します」
そして十八時前、今度は良史亜から電話がきた。
「バイトの書類のこと聞いたよ。これから家に行くから待っていて」
二十分くらいして水色のコンパクトカーがマンションの前の路上に停まり、良史亜が電話してきた。
「着いたよ。外の水色の車」
書類を持って外に出ると運転席から黒いパンツスーツの女性が降りてきた。
「長嶺様ですね?初めまして。室井社長の秘書の遠山茉莉沙と申します。書類をお預かりしますね」
お辞儀をして、電話と同じく明るく柔らかな声で言った遠山さんは、小柄で色白で黒髪をアップにした、上品な感じの女性だった。
年齢は三十歳か、ちょっと過ぎたくらいなのかな。
顔立ちはお雛様みたいな、ちょっと古風な雰囲気があってどこか可愛らしい人。それに社長秘書と言う重々しさは感じない。
「初めまして、長嶺です。ありがとうございます」
私もお辞儀をして遠山さんに書類を渡すと「社長」と、遠山さんが車の中の良史亜に手渡した。
受け取った良史亜は膝に置いた黒いボードの上で書類に目を通すと、スーツの胸ポケットに挿していた銀色のペンで書き込みをし「はい、これ」とまた遠山さんに書類を手渡した。
車から降りずに良史亜は「バイト、あまり詰めすぎるなよ」とだけ私に言った。