第九話 一回その人に嘘をつかれたら
出汁の効いた味噌汁の匂いがした。
ゆっくりと開けた瞼から、割り込むように日光が侵入してくる。強く目をつぶり、寝返りを打ってから、ゆっくりと目を開けた。
始め、真っ白い世界に閉じ込められてしまったのかと寝ぼけていたが、だんだんとそれが壁であることを認識できるようになった。目が覚めていくにつれて、まだ寸前のように思い出したのは、自分が誰かに捕まったということ。
起き上がろうとしたゆいだが、首に痛みが走った。あの時やられた後遺症だろうか。
「あ、起きた?」
聞き覚えのある声がした。
ゆいはのっそりと起き上がると、声をした方を見た。その後ろ姿を見たゆいは、動きを止めた。
何故ここにいるのか。そして、ここはどこなのか。
「朝飯用意したるから、座りなぁ」
台所で味噌汁を入れ終わった、金髪の男――周平が振り返り、ゆいに声をかけた。
ゆいは、状況が分からなかった。
確かにあの時、自分は二人の元を離れようと、店に入ってすぐに別の扉から出た。その後、とりあえずトイレに隠れておこうと、歩き出した時に、何者かに襲われた――。
「周平さんが、襲ったんですか……?」
「んあ? 俺?」小さな机に味噌汁を置いた周平は、自らを指しながら言った。「ちゃうよ、ねぇちゃんや」
ふと部屋を見回したが、夏実の姿はなかった。
部屋は殺風景で、勉強机と小さな机しかない。衣服は元々あるクローゼットに入れているのだろう。隅に敷布団が二つ積まれているが、それほど気にならない。
とりあえず、朝飯食お、と周平が手招きをする。ゆいは布団から出たが、用意された朝食に手を付ける気にはなれなかった。
「ゆい、食わんの?」
「どういう意味か、説明してくれますか」
周平は味噌汁を飲みながら、前に座るゆいを見た。二口飲んだ後、「どういうって、見て分からんか?」と言った。
「何となく分かりますけど、ちゃんと説明してください」
周平は卵焼きを食べる。「ここは、俺とねぇちゃんの家や」
「首筋が痛いのは、夏実さんの仕業だと言いましたね。どういう事ですか」
「そのまんまや。ねぇちゃんがゆいが逃げる前に気絶さしたんや。一応手加減はしたって言うてたけど、後から見たら青たん出来てたから、湿布貼ったで」
確かに首筋には湿布が貼られている。それを手で確かめた後も、ゆいは質問を続ける。
「どうして、逃げると分かったんですか?」
「なんとなくや」周平はご飯を含みながら言った。「ゆいは、俺が何遍手伝ったるって言うても聞かんかったからな。家に来いって言った時もごちゃごちゃ言ったし、車には乗ったけど何か思たら逃げるやろうなぁ、とは思っとったんや。そしたら案の定、店に寄りたい言うから、別のドア見とったらゆいみたいなやつが出て行ったところが見えたんや」
「それで、後をつけて来たんですか」
「ゆいがどっか行こうとしたから、ねぇちゃんが忍び足で近づいて、気絶さしたんや」
「だから、首が痛いんですね」
そうや、と言った周平は、昨日まで見ていた周平と異なるように見えた。ここに座ってから、一度も目が合わない。まだセットされていない金髪は、彼の心情を表しているようだった。
あることに気付いたゆいは、慌てて後ろに下がった。そして、頭を押さえて抱え込んだ。腕の隙間から顔は見えている。
「どしたん、ゆい?」
特に驚く様子の無い周平。
「……帽子は?」
辺りを見回すが、ゆいが被ってきた帽子はどこにも無かった。
「ゆいの帽子は、玄関に置いたる。後で取りに行ったら良い」周平はご飯を咀嚼する。「それよかさぁゆい。ゆいはそれ、地毛や言うたやんな? やったら、ゆいのつむじ周りが黒いんは何でなん?」
手で隠しているが、隙間からは黒色の毛が覗いている。
周平と出会った時に茶髪を地毛だと言ったのは、嘘だったのである。染め直すことはせず、つむじ周りが黒くなったのは帽子で隠していた。周平に帽子をとられそうになって拒否したのは、これを見られたくなかったからである。
何故ゆいは嘘をついたのか。周平はそれが気になっていた。
「別に、絶対に嘘をつくなとは言うてへん。どういう理由があってついたんかは知らんけど、よぉ聞いといて。人はな、一回その人に嘘をつかれたら、完全には信じられんようになるんや。嘘って言うんは、傷つけるんやで」
ゆいは顔を伏せた。
そんな事、知っている。そこらで普通に暮らしているサラリーマンや下品な笑い方をしている女子高生なんかよりも、ずっと知っている。嘘をつかれたから、自分が嘘をついても構わない。それが自己満足でしかないことも分かっている。それでも、周平の前で嘘を吐いたのは――。
「ほい、もうこの話はええな」周平は明るい声でそう言った。「はよ飯食わな、冷めるで?」
そう言うが、ゆいは顔を上げなかった。それを見た周平は、「はよ食べて、サユリ一緒に捜しに行こか」と言った。
するとゆいは、しばらくしてから顔を上げた。
「……お断りします」「何でや、俺の優しさやで?」「いりません」「酷い。心あるんか?」「あります」「ほな、捜しに行ってもええやんな?」「うざいです」「褒め言葉ありがと」「誹謗中傷ですよ」「ひど」
周平は少し声を出して笑うと、四足歩行でゆいに近づいた。「はよ飯食え」と言って、頭を撫でた。すぐに振り払うと、ゆいは箸を持って眉を寄せながら朝食を食べ始めた。それを見て、周平はまた笑った。