第十七話 そんな悲しい顔をして
そうなるだろうとは思っていたものの、実際にそうなるとやはり望みと疲労が肩から落ちていく。
「今日も駄目かぁ」
そう呟く周平を見ると、彼の向こうの山に隠れようとする太陽が見えた。同じ太陽であるはずなのに、今は赤く染まっている。赤く染まる夕日と言ったり、ふと思えば黄色だと思ったり、太陽が放つものは紫外線ときた。太陽が本当は何色をしているかなんて、分かったものではない。
ゆいは、そうですね、とだけ言って、ゆっくりと歩く周平をよそに歩く。
少し休んでから店を出たが、少しと言っても三十分ほどいた。ゆいは歩きたかったが、周平は疲れたと言って、動こうとしない。なら一人で捜すと言うと、公衆の面前だというのにも関わらず全力で止めてくる。トイレに行くといっても出口までついてきて、気が休まることがない。何故そこまでゆいに執着するのか分からないが、ゆいからすれば、迷惑他ならない。
早足になったことに気付いた周平は、
「ちょお待ってぇや」
と、ゆいの肩を掴んだ。それを振り払うように、勢いよく振り返った。
「何ですか?」
その時の周平は、驚いていた。そして、まるで見てはいけないものを見たように少し目を逸らし、そして、またゆいを見た。それでも何かを話そうとしない周平を見て、
「何ですか」
と、また問うた。
周平は少し瞼を下ろし、
「何でもないで」
と、微笑した。
周平と別れ、ホテルに戻ったゆいは、ベッドに倒れ込んだ。目を閉じれば眠れそうだが、一日歩いて汗をかいている。風呂に入らないまま寝るのはよくないだろう。
うつ伏せから仰向けになり、キャップを投げ捨てる。頭皮には汗がにじみ、髪の毛が湿っている。毛染めを隠すためにキャップを使うとは、子供染みた発想だろうか。黒に染め直すのも良かったが、そんな時間はなかった。それに、ゆいが茶髪でいても、土地勘のないここではどうでもよいことである。同じ高校に通う生徒や教師が住んでいるわけでもない。何か言われれば、こう見えて成人している、と嘘をつけばよい話だ。
ふと思った。何故、周平に十七歳だと言ったのか。
もしあそこで、童顔ですが二十五歳です、とでも言えば、現実は違ったかもしれない。今さら後悔しても遅いことだ。
眠ってしまう前に風呂に入ろうと立ち上がった。その時、無意識に親指の爪を噛んでいた。気付いたときには遅く、鼠に噛まれたような跡がついていた。ストレスがたまっていたのだろう。原因なんて、考えなくても出てくる。ずっとついてくる、金髪の男性。
「ゆい、出ぇへんなぁ」
黒のスマートフォンを耳に当てながら、今日も青い空を見上げていた。
先程から何度も電話をしているのだが、一向に繋がらない。声が聞こえたと思えば機械音声で、喜ぶことすら出来ない。
「まんだ寝とんちゃう?」
珍しく台所にたつ夏実が言った。皿を洗い、先程まで今はまっているドラマの曲を口ずさんでいた。
「でも、もう七時やで?」
「言っとくけど、何にもないのに七時に起きるんはそれなりに早起きやで」
そう言って夏見は近づき、スマートフォンを取り上げた。
「うっわ、何回電話しとん」
夏実が見ていたのは通話履歴。『ゆい』の文字が並び、前に夏実に電話したという履歴が随分と下にある。
「朝からこんな電話されて、喜ぶやつは居らへんで?」
「ええやん」そう言って、スマートフォンを取り返す。「出ぇへんやつが悪い」
周平は夏実より先に家を出ると、ゆいが止まっているホテルに向かうことにした。夏実の考えは一理ある。ならば、自ら迎えるのみ。
いつもなら足が止まることなんて、信号以外ない。だが、ふっと浮かんだあの表情に、足が止まってしまった。
ゆいがあんな表情をした理由なんて、周平には分からない。苛々していたようだが、その原因なんて分からない。
(もう、見たないわ……)
足が、動かなかった。
化け物を見るような目ではなかった。だが、何か醜いものを見ているような表情だった。周平を鋭く睨む目は、何も刺さらなかった心に刺さった。
友人が、酷いことを言われて心が痛む、と言っていたことを思い出した。当時その意味なんて分からず、俺は鈍感なんだな、と思うことで、痛みを知らないまま過ごしてきた。何か酷いことを言われたら、
「心が痛むわぁー」
とぼやき、痛みも知らないまま使ってきた言葉。その意味がやっと分かった。
それは、言葉にして何とかなるものではない。言葉にしても、痛む、としか言えない。他の言葉では、どう説明してよいのか分からない痛み。
(……やっぱ、帰ろかな)
そう思って回れ右をしたとき、「わっ!」と、目の前で声がした。
周平はあまりに突然のことで驚き、尻餅をついてしまった。
「あわわ、ごめんね世木くん。そんなつもりはなかったんだよ……」
聞き覚えのある声に、周平は顔をあげた。そこにいたのは、巨体を持ったクマさんこと、熊本であった。ジャージ姿で、首には水色より少し濃い色のタオルを巻いている。
「クマさんやん。こんなところで何してるん?」
「世木くんこそ、そんな悲しい顔をしてどうしたんだい?」
熊本の言葉に、思わず声が漏れた。