第十五話 気分はどうですか?
周平の家を出て、線路沿いを歩いていく。行きと変わらない道のりなのだが、どこか心細い。
不意に目の前に現れた、“あの人”。何の前触れもなかったのに、何故現れたのだろうか。周平と似ているところなどない。忘れることなど出来ない。
次第に足が早くなっていく。意図的にしているのではない、無意識にそうなっているのだ。
(久しぶりに思い出したな……この感覚)
恐怖と言っては少し大袈裟で、だけど、恐怖と表現する他ない。怖い動画を見たあとの、現実に戻された感と恐怖感が交わった、あのときのようだ。
周平か、あの人か、それとも熊本か。
誰を恐れているのだろう。
帽子を被り直そうと手をあげたが、空を切った。あると思っていた鍔が無かったのである。お粥を温めるときに外したまま、置いてきてしまったのだ。
今から取りに戻るのは、少し気分が乗らない。あの人と被ったり周平に冷たく(それはいつも通りかもしれない) したりで、今は顔をみたくない。しばらくしてから行こうと決め、サユリ捜しを始める。
今日はアパートを回ってみることにする。サユリが住んでいる可能性が最も高いものだ。マンションもあるが、サユリが住んでいるとは考えにくいのだ。
ゆいは、サユリは一人暮らしをしていると考えている。幼いころ、サユリは「美容師さんになる」と言っていた。それに加え、どこの専門学校に行きたいかも言っていた。夢が変わっていなければ、サユリはそこに通っているはずだ、とゆいは推測している。
いつもは大通りに入るのだが、今日はその手前で曲がった。住宅街に入り、その間にちらほらとアパートがある。新しいものもあれば、古いものもある。人通りはあまりなく、遠くから車の走る音が聞こえるだけだ。
サユリは今、何をしているだろうか。家にいるのか、外出しているのか。表札を見て回っているが、『藤田』の文字は見つからない。もし見つけた時、どうすれば良いのだろうか。インターホンを押して、留守でなければサユリが出てくる可能性は十分にある。そんな時、ゆいは自分がどんな反応をするのか分からない。喜ぶのか、悲しむのか、何も感じないのか。こんなにも会いたいと思っているのに、素直に喜べると思えないのは何故か。
一通り見て回ったが、藤田の表札は見つからなかった。まだ見ていないところはたくさんあるので、諦めるのはまだ早い。
ふと、薬局が目に入った。それと同時に思い出したのは、二日酔いで寝込んでいる周平。キャップを取りに行かないとならないことを思い出し、ゆいはあまり乗らないが、周平の家に向かう事にした。その前に薬局に入り、清涼飲料を買った。
インターホンを押すが、誰も出てこなかった。眠っているのだろうかと思い、ドアノブを回すと、簡単に開いた。あの後鍵を閉めなかったのかと思いながら、
「おじゃまします」
と言って、中に入る。
その時、鼻につく臭いがした。檸檬のような、酸っぱい臭いだ。
鼻を抑えながらリビングに入った。真っ先に目に入ったのは倒れている周平と、口辺に嘔吐物がこぼれている光景であった。
臭いの元は、嘔吐物だったのだ。二日酔いが原因であることはすぐに分かるが、それなら何故、姉の付き合いで酒を飲んだのか。
急いで駆け寄り、仰向けになっているのを横向きにした。
「周平さん!? 大丈夫ですか!?」
背中を叩いて、喉に嘔吐物が詰まっていた時に備える。意識はあるようだ。叩いていると咳き込み、吐き出した。横向きに寝るようにして立ち上がり、まずは窓を開ける。この臭いを何とかしなければ、臭いでまた吐いてしまうかもしれない。
「周平さん、立ち上れますか?」
少し唸り声をあげると、ゆっくりと立ち上がり、そしてトイレへと歩き出した。壁にもたれながら行くが、やはり覚束ない足取りである。トイレまではそれほど距離は無いので、一人で行けるだろうと思ったが、一応ついて歩く。先にトイレに入り、トイレットペーパーを二つ持ち出す。周平の背中をさすると、また吐きだす。
処理をするためにトイレを出て、ナイロン袋を探し出す。
以前私が吐いた時に、父がしてくれたのを思い出しながら手を動かす。最近暖かくなっていて、カーペットが引かれていなかったのは幸いなのだろうか。凹凸に入っているものは、後で爪楊枝か綿棒で取り除けば良い。
ほとんど処理が出来たころに、周平が戻ってきた。全て吐いたのか、先ほどよりも顔色が良い。
「気分はどうですか?」
「さっきよりはよぉなった」
足取りは軽くなっているのが見て分かる。
「何か食べますか?」
吐いた後は胃が空になるが、体調によっては食べてもまた吐いてしまう事がある。周平の体調を知らなければならない。
「いや、そんな腹減ってへん」
そうですか、と頷いて、嘔吐物の入ったナイロン袋をごみ箱に捨てる。机に目をやると、ゆいのキャップが置いてあった。
元気なうちにと、買ってきた清涼飲料を渡す。
「わざわざありがとぉなぁ」
「いえ、帽子を忘れて帰ってしまったので、ついでです」
早速開けて、半分ほど飲み干した。ゆいが帰る前に水一杯分は机に置いた。二日酔いの場合は脱水症状になりやすい。それを忘れてしまったのは、看病する側の落ち度だ。喉が渇いていたのは当然である。
「ゆいには感謝せなあかんなぁ。看病してもぉて、ゲロまで片付けてもうたし」
「いえ。私がしたくてやったことなので。それに、最初に看病をしてほしいと言ってきたのは周平さんです」
「薬持ってきてとは言うたけど、看病とは言うてへんよ」
「一緒です。周平さんが体調を崩して寝込んでいることを知ってしまえば、大抵の人は心配になります。赤の他人ならまだしも」
それを聞いた周平は、嬉しくなった。関わるなとばかりに周平を避けてきたゆいが、周平の事を心配してくれているのである。しつこく付きまとっている(言い方が悪いかもしれないが、ゆいからすればそうである)のに、少しは認めてくれたのである。
「じゃあ、俺とゆいはもう赤の他人ちゃうんやな?」
出来るだけ喜びを顔に出さないようにして問うたが、雰囲気で感じ取れる。
「……いえ、赤の他人です」
「酷い」