『脅威は自然なのか?』
一度家に帰宅し、必要になりそうな荷物を鞄から取り出し、少し大きめなリュックサックに移し替える。
標高はそこまで高くはない山とはいえ、インドア派の俺が苦も無く登れる保証なんかどこにもない。それなら、少しでも負担になる要因を減らしておくに限る。
とは言っても、最低限の食糧や水分は詰めることになる。結論、最初よりも荷が重くなることとなってしまった。
「袋菓子のようなものしかないが、しょうがないか…。ペットボトルも一本だけじゃあ不安だから、途中で買っていくか」
今着ている服を洗濯機に押し込み、新たにジャージを取り出し着替える。
所々ほつれているが、学生時代に着ていたものだ。かしこまった場に行くわけでもない、自分が気にならないなら問題ないだろう。
背負ったリュックの重さにため息をつきつつも、玄関へと足を動かす。
「ん?」
薄っぺらい携帯が震えている、仕事用の携帯だ。
これに電話がかかってくるということは、職場の誰かからだろう。
ディスプレイに表示された名前を確認、『小野さん』。俺にこの案件を言い渡した本人からだ。
「おはようございます、上井です。どうかしましたか?」
『ああ、おはよう。調子はどうだい? 全然こっちに顔を見せないから心配になってね』
「すいません、今日の調査が終わったら一度報告に行こうとしていたもので。僕は専門家ではないので、進歩は全くないんですけどね」
ははは、と電話越しに聞こえる高めの声。
声だけ聞いていると、とても四十代の男性とは思えないほど若々しい声だ。
『それで? 今日はどこに調査に行くんだい? 手伝えるようなことがあったら言ってくれよ』
「今日は木憑山のほうに行く予定です」
『…へえ、それはどうしてだい?』
「いや、なんて言えばいいんでしょうね。今回の件の問題が、山に関係しているのではないかと思いまして」
言葉を濁す、ここで神様がどうだなんて話を持ち出すわけにはいかない。
それなら山と言っておけば、色々と詭弁が使える。
『木憑山に原因が…ね。そうか、あそこの山は崖崩れとかが頻繁に起きているし、足元も悪い。事故には気を付けて行くんだ、いいね? それと、頂上に立ち入るには許可が必要になるが…どうする?』
「お願いできますか? そのほうが動きやすくなるので」
『ああ、わかった。その代わりに今度飲みについて来いよ』
「ええ、そのぐらいでいいなら喜んで。それでは後程」
電話を切り、肺に僅かに残っていた空気を吐き出す。
後半、木憑山という名前を出してから小野さんの声色が変わった。
「あんな低い声出せるんだな、あの人」
履きかけていた靴をしっかりと履き、紐がほどけないように固く結ぶ。
外に出て、今度は朝とは逆方向に進む。さすがに歩いていく距離ではないので、自動販売機でスポーツドリンクを二本購入し、タイミングよく来たバスに乗り込む。
空いている奥の座席に腰を下ろし、動き始めた周りの景色に少し意識を集中させる。
朝見たニュース番組の天気予報では、今日は雨は降らない予報だった。だが、今から向かう山の方角、その真上。
曇りという表現をそのままに、薄暗い雲が光を遮っている。
このままいけば一雨降りそうか、雨具の用意は何もしていない。とはいえ、付近にそういったものの類を置いているような店はない。
「しょうがない、手早く済ませてしまおう」
何も今日だけで済ませる内容でもない、軽く下見をして、そのあとは職場に顔を出しに行こう。
五分、十分と経ち、終点である木憑山の停留所で降りる人間は俺だけになる。
「ありがとうございました」
運転手に礼を言い、外に出る。
夏の気候とはいえ、この時間帯はいくらかは涼しくなる。心地よい風が吹き、俺の背中を押す。
「久々だな、高校時代に友達と登った時以来か」
ゆっくりと足を延ばす、何分久しい運動だ。途中で足がつってしまうことになったら情けない。
「よし」
舗装されていない山道、手付かずの自然。全てが気を付けるべき相手だ。
乾いた喉に流し込んだスポーツドリンクをリュックへとしまい、一歩一歩登り始めた。