美味しい、お肉。
「ああ、やっぱり肉は美味いな。」
男は幸せそうに皿の上でジュウジュウと湯気を上げている豚のしょうが焼きを頬張った。その様子を嬉々と見つめる女は、二人がまだ出会ったばかりの頃を思い出して懐かしそうに目を細めた。
男と同じく肉が大好物だった女は、会社の食堂で幸せそうに豚丼を頬張っている男を偶然見かけた。美味い、と呟きながら豚丼と自分だけの世界を作っている一人の男を。名前も、部署こそ分からなかったが、女はあの幸せそうな男の顔が頭から離れなかった。完全に一目惚れである。はじめは眺めているだけだったが、ある日、女は思い切って男を食事に誘う決心をした。
「あの…お食事、ご一緒しても宜しいですか…?」
嗚呼…ついに声を掛けてしまった。女の心は期待と不安で押し潰されてしまいそうで、居てもたってもいられない。
「ああ、もちろん。構わないよ。」
男は快く承諾し、それから二人はよく食事を共にした。女は自身の得意とする肉料理のレシピや調理法を自慢げに披露する。一方、男は自身の好物である肉の魅力を熱く語り、時には女の良き相談相手として親身になってアドバイスをくれた。こうして何度も話をしているうちに、二人はいつしか恋に落ち、気が付けばお互いがなくてはならない存在になっていた。それから一年後、12年間務めた会社を寿退社した女は専業主婦に転職し、晴れて男の妻というポジションを射止めたのだ。会社員の夫と専業主婦、「美味しい肉」が出会いのきっかけだったこと以外はごく普通の、ありふれた夫婦だった。
「今日はすき焼きか。うん、美味いなあ。流石だよ。」
いつもの様に二人で食卓に着く。元々料理上手だった女は、毎日疲れて帰ってくる男にとびきり美味しい肉料理を振る舞った。そして自身もそのご馳走を目で、耳で、鼻で、舌で、五感のすべてを使って楽しんだ。ふと、黙々と箸を進めていた男がおもむろに口を開いてこう言った。
「なあ。明日はもっともっと美味い肉が食いたい。お前もそう思うだろう。」
「ええ、そうね。明日はうんと美味しいものを作ってみせるわ。」
次の日、女は一人、食卓に着いていた。男はまだ仕事から帰って来ていないのか、部屋の中はぼんやりとしたランプの明かりで照らされており、いつにも増してしん、と静まりかえっていた。そんな事とは裏腹に、女の顔は自信と達成感で満ち溢れていた。今日は腕によりをかけて、愛情を込めて、丁寧に丁寧に作り上げたのだ。不味い訳がない。熱い鉄板の上では、たっぷりの肉汁をこぼれさせながら、なんとも食欲を誘う香ばしい香りが女を優しく包み込んでいた。肉の香りを十分に味わった後、ゆっくりとナイフを入れていく。肉はつぷりと音を立てたかと思うと、中からさらに濃厚な香りを膨らませたのだった。女は待ちきれんとばかりに行き良いよくその肉を口に運び、思わずほう、と息をついた。
あれからどのくらいの時間が経ったのだろうか。一欠片も残さず綺麗さっぱり食べ終えた女が、うっとりした表情でこう呟いた。
「ああ、愛する人の肉はとっても美味しいのね。」