秘密基地
そうしてこうして、あっという間に金曜日。天気予報は外れ、バレンタイン前日は雪にはならなかった。朝方にわずかな雨が降っただけで、登校時間には小雨、それも間もなく薄明るい程度の曇天となり、弁当のころにはすっかり青空が私たちを見下ろすまでになっていた。晴れたとはいえ気温は低く寒い日だったが、寒さを忘れそうなくらいの熱気が学校全体を包んでいた。朝から職員室に乗り込んでかっこいい先生の机の上にチョコレートの山を作る女子集団やら、冗談半分に部員同士で駄菓子のチョコレートを贈り合う男子バスケ部やら。先生たちも今日ばかりは少しだけ生徒に甘い。やっぱり、何だかんだ言ってもバレンタインは特別なのだ。かく言う私も、浮かれた空気の教室でいくつか義理チョコをもらった。甘いものは好きだし、決して悪い気はしない。
こうして、あっという間に部室に向かう時間になった。
「あー、俺の最高にクールな雨合羽が……」
部室では、お気に入りらしい黄色の雨合羽を着込んできた――しかし、前述の天気の関係から、それはほとんど意味を為さなかった――岩崎が、窓の外の晴天を眺めながら無気力に佇んでいた。
「これじゃあ、雨合羽でチョコレートを釣る作戦が台無しじゃんか……」
「そもそも合羽なんか自転車に乗るときしか着ないだろうし、顔も隠れてるし、端から無理なんじゃないかな」
「……それには気付かなかったよ、部長殿」
「いや、気付こうよ」
岩崎の戯言を適当に撃ち落しつつ、私はさっき教室で別れた彼女を待っていた。彼女、楓が秘密基地に来るようになってからのいつよりも、私は今日の彼女を待ち望んでいた。
さっき、ホームルームを終えた楓は、私にこう言ったのだ。
『のんちゃん、今日もお邪魔していい?』
今までの楓は、私にそんな『当たり前』の許可を求めたことなどなかった。私が彼女をここに招き入れて以来、彼女はずっと秘密基地のゲストだと思っているし、彼女もきっとそのつもりだった。楓は日頃から雑だし、良くも悪くも図々しいし、私が貸したボールペンを二週間後に平気で返すような子だ。そんな、お世辞にもきちんとしているとは言えない楓が、今になって私に許可を求めてきた。きっと、考えていることがあるに違いない――たとえ考えすぎだったとしても、あの日の傷ついた彼女を思えば、私は願わずにはいられなかった。
柄澤楓の、来訪を。
そして、『そのとき』は『その瞬間』に音を立てて訪れた。
「遅くなりましたーっ!」
ばたん、と幾分乱暴な音を立てて、楓は部室に飛び込んできた。彼女の腕には漫画の道具と、何やら見慣れない袋――とはいえ、これ、近所のスーパーの袋か? ――が抱えられている。表情は、なんと今日の天気のような、満面の青空だ。私はやや、後ろに引いてしまう。楓の笑顔は、ほとんど予想外だったから。
楓は机にスクールバッグを置くや否や、手にしたスーパーの袋からミニチョコレートの詰め合わせを取り出すと、包装を勢いよく裂いて中身を二等分にし始めた。造形師柄澤楓によって、わずか数秒で形成されたチョコレートの丘は、それぞれ私たちの定位置となっている座席にどん、と移動されて完成と相成ったようだ。彼女はにんまりと笑っている。その丘は、プレゼントというにはあまりにも豪快すぎる気がしたが――まあ、気にしても仕方があるまい。こういうのは、何というか気持ちの問題だ。
「はい、これ、ふたりに! いつもありがとう」
呆然とする岩崎と私に、楓は丘を示して微笑んだ。
「ハッピーバレンタイン……の、フライング!」
満足そうにする楓を見て、私たち、とりわけ岩崎は、つられて笑顔になる。そこから先、もう難しい言葉や言い訳は、要らなかった。
「ありがとう」
岩崎が席を外し、楓がいよいよ原稿にのめり込み始めたそのとき――私は自分のバッグから小さな駄菓子のチョコレートを取り出し、隣の丘にそっと放り込んだ。
それに気づいたのか、楓ははたと顔を上げ、にっこりと笑った。
「うん、やっぱりのんちゃんは相変わらずだね」
この日を境に、楓は私たちの部室にあまり寄りつかなくなった。聞くところによれば、彼女は漫研の部室に戻ってせっせと漫画を描いているらしい。以前とやっていること自体は変わらないが、何やら柄澤が明るくなったと、学年ではもっぱらの噂だ。彼女が去ったことで、年度末までのわずかな期間、私と岩崎の秘密基地はふたたび退屈な日常を取り戻していた。
「あー! また部長殿とふたり! 青春のモラトリアムにあってこの停滞! すなわち体制の死!」
今日も岩崎は、部室のストーブの前でわけのわからないことを言っている。出会って以降まったく成長する様子を見せないこいつの存在そのものが、停滞の象徴にほかならないと思うのは私だけだろうか。
ともあれ、またいつもの岩崎が始まった。そうなれば、私はいつもの私で返すだけ。そう思って口を開きかける。
「はいはい、悪かっ――」
ところが今日は、今日ばかりは。
「でも、悪くないぜ」
外では小雪が舞い、色とりどりの傘を差した生徒たちが外の世界へ向かっている。
来年のバレンタインの日に、もうこの秘密基地はない。
『私』…部活の部長。もうすぐただの『私』になる。
岩崎…部員。もう既にただの岩崎である。
柄澤楓…漫研の部員。ただの楓になったようだ。