38話 「その言葉は救いだった」
それでも、このままここでじっとしているわけにはいかない。
時は止まらないし、〈紫炎〉を使ってしまったという事実が無くなるわけじゃない。
――気をしっかり持て、エイラ。
感情が吐息と一緒に口から漏れる。
震えた声が出てしまいそうだ。
熱がどんどんと身体の上の方に立ち昇ってくる。
炎はもう失せているのに、嫌な汗と熱が、身体から滲み出てくる気がした。
思わず足が後ろへの一歩を踏んだ。
後ずさる。
階段は前だ。
前に進まなければ。
二歩目。
後ろへ。
いい加減にしろ。
止まれ。
三歩目――
「――エイラ」
三歩目を後ろへ踏んでしまった俺の背に、誰かの両手が当たった。
後ろに下がる俺の背を押さえるように、もうこれ以上後ろに下がらないように、俺の逃げの気持ちを止めてくれる両手。
俺は首を回して後ろへ視線を向けた。
「――イゾルデ」
「だめよ。下がっても何も変わらないわ」
「……厳しい……言葉だね」
「あんたが今、とてつもなく苦しんでいることは分かる――つもりだけど、でも下がっても事態が好転するわけじゃないってことだけは、私も確信を持って言える。だから――ごめん」
なんでイゾルデが謝るのさ。
「あんたをあえて辛い方に送り出そうとしてしまっているから。だから、ごめん。何にもできなくて……ごめんね」
イゾルデが赤い瞳を真っ直ぐに俺に向けて、そして今にも泣きそうな、頼りない笑みを浮かべた。
きっと無理をして浮かべた笑みだ。
元気づけようと――してくれているのだろう。
切ない表情だ。
その表情をさせているのは――俺か。
――行け。
下がっても逃げても、事実は変わらない。
なら、前へ進もう。
きっとそれが俺の進むべき道だ。
「エイラ、これだけは忘れないで。あんたはシャルルを助けたのよ。あんたがあの〈紫炎〉を使わなかったら、シャルルは助かってなかった。だから、〈紫炎〉を使ってしまったことに、必要以上の罪を感じないで。私、あんたの過去を知ってるから、自分がひどいことを言ってるって分かってる。でも、それでも言うわ」
俺が前への一歩を踏もうとして、不意に後ろからイゾルデの声が続いてきた。
俺の背を押す手に、まだ力が掛かっているのに気付く。
「あんたが〈紫炎〉を使ってしまったことをずっと罪に思ってしまったら、シャルルも罪を感じてしまうの。この子は責任を感じるわ。そういう子だもの。顔には出さないかもしれないけど、シャルルはずっとエイラに対する責任を感じて、罪を感じて、生きていくことになるかもしれない」
――そうだ。
イゾルデの言葉はきっと正しい。
シャルルは俺に〈紫炎〉を使わせたことに責任を感じてしまうだろう。そういう子だ。
ふと俺はシャルルの姿を探した。
イゾルデがこういう言葉を浮かべるのだから、きっとシャルルは気を失っているのだろう。そういう確信はあった。
そして案の定、シャルルはハクロウの隣で、迷宮入口の受付嬢たちに看病されるようにして眠っていた。
緊張の糸が切れたのだろう。
「――うん」
俺はイゾルデの言葉に頷きを返す。
するとイゾルデが、また強く俺の背を押した。
「だから、私は言うわ。あんたにひどいことを言う。もしあんたにとってとても悲しいことが上で起こっても――『泣いてはだめ』。シャルルの前で、泣いてはだめよ」
――ああ。
イゾルデは聡いね。
俺よりずっと、周りが見えている。
そして理性的だ。
こんな時でも、彼女は理性的だ。
なんて強い精神の光を俺に見せつけるのだろうか。
母は強しなんて、俺と同い年の女の子に言うのはおかしいのだろうけど、それに近い無類の芯の強さを、俺はイゾルデに見た。
「――分かった」
「……うん。――ごめんね」
イゾルデは何度も俺に謝った。
でも俺は、イゾルデを責めるつもりはない。
彼女の言葉は俺の精神を立ち直らせた。
俺はとっさに振り向いて、イゾルデの方を見た。
彼女は顔を俯けて、力なく苦笑していた。自嘲の色も混じっている。
それだけ見ると、頼りなさ気だ。
華奢な少女。
触れれば壊れてしまいそうな儚さが見えて、俺は衝動的にイゾルデに手を伸ばしていた。
そうして彼女の金糸の髪に触れて、一度だけ頭を撫でた。
「――ありがとう」
「……うん」
イゾルデは小さく頷いて、また儚げな笑みを浮かべた。
「行ってくるよ」
そして俺は、姉に会いに行く決心を固める。
まだ顔を見せない、階段のずっと上にいるだろう――英雄の姉に。
◆◆◆
長大な螺旋階段を昇って行く。
迷宮口に続く縦穴を登って行き、縦穴の周囲をぐるりと二周して、ようやくサリューンの標準高度に戻ってくる。
大変動の影響か、通り過ぎる人々の足が速い気がする。
そんな中、俺はぐるりと周りを見渡して、姉の姿を探した。
俺の視線は姉の姿を捉えなかったが、代わりにとある影を見つける。
少年のように小さな体躯で、その体躯に見合わぬどでかいバックパックを背負った男。――弟。
〈メウセリア〉だ。
姉ジャンヌの付き人をしているメウセリアは、俺に手を振っていた。
俺はメウセリアの隣に姉の姿がないことに、言い知れぬ不安を抱いた。
「――メウ」
「桜国以来だね、エイラ兄さん。久しぶり――ってほどでもないか」
俺がメウセリアに近づく前に、我慢しきれないとばかりにメウセリアの方が駆け寄ってくる。
「怪我とかしてない? 久々に魔術を使った兄さんの姿を見たよ」
「メウ、ジャンヌ姉さんは――」
メウセリアの言葉が右から左に抜けて行く。
俺は悪いとは思いつつも、まっさきに姉の居場所を訊かずにはいられなかった。
「姉さん? 姉さんは……」
言いよどむメウセリア。
口の中に生唾が溢れて、思わず喉を鳴らしてしまう。
――頼む。
何事もなく、いつものように鬱陶しいくらいに、俺に抱き着いてきてくれ。
ただそれだけでいいんだ。
あの時の兄さんのような、意志を奪われたような顔だけは、見せないでくれ。
「姉さんなら、ほら――エイラ兄さんの後ろ」
メウセリアの顔がパっと明るくなって、その細い指が俺の後方を差した。
俺はその顔を見てすぐに、自分の後ろに振り向く。
そして――
「よくやったぞ、エイラ! さすが私の弟だ!」
振り向いた直後――
俺の胸に背の高い美女が飛び込んできた。
俺は彼女の身体を抱き止めながら、内心で今にも泣き出しそうなのを、必死で堪えていた。
――良かった。
心の底から、そう思った。
◆◆◆
薄く紫掛かった銀の髪。
すらりと伸びた背丈に、美しさの塊とも言える均整の取れた肉体。
男の目をたやすく奪う美貌は、俺の記憶のとおりの姉の姿だった。
長姉――〈ジャンヌ〉。
俺より二つ年上の彼女は、俺と同じくらいの高さの身体を大きく投げ出して、こちらに抱き着いてきていた。
「――姉さん」
「何事もなかった。お前が〈紫炎〉を使っても私には何も起こらなかった。安心しろ、エイラ。私はミハエル兄のようにはなっていない」
「ああ――よかった……」
その言葉は俺にとっての救いだった。
「やはりあの時の原因は紫炎そのものにはないのではないか。紫炎が存在することよりも、紫炎がどのように扱われたかが問題なのだろう」
「分からない。まだ分からないよ、姉さん。でも、何もなくて……本当によかった……」
「ああ、ああ、安心しろ。だからほら――もっと私に抱き着け! そうだ! もっと抱き着いて匂いをっ! 感触をっ!」
唐突に俺の耳元で姉の声が高揚する。
ハアハア、とやや荒めの息遣いが鳴って、その吐息が耳に当たる。
――あっ、ちょっと、あれっ? このホールド剥がれないんだけど……!
俺はその頃になってようやく気付いた。
抱き着いてきている姉の身体から離れようとしても、俺の背中に回っている姉の手が、「これ本当に女の力かよ」と思うような力で俺を押さえつけている。
それどころか、最高に頑丈な俺の身体が、姉の万力締めでミシミシと音を立て始めている。
間違いない。
普通の人間だったら『グシャア』てなったあとに『パーン!』ってなってる。
――うおおお!
耳を撫でる甘い吐息にむず痒さを得ながら、俺は隣にメウセリアが歩み寄ってきたことと、俺のあとを追うようにイゾルデとハクロウが階段を昇ってきたことに気付いた。
ハクロウが『あれ? 圧殺されてる最中でござるか? もしかして敵でござるか?』なんてことを真面目な顔で言っているあたり、たぶん傍から見ても結構な力で締め付けられていることが分かるのだろう。
しかし一方で、イゾルデは驚愕の表情を浮かべている。絶句に驚愕。
そのあとに眉尻がやや上を向いて、鋭い視線の様相を呈する。
「ちょ、ちょっと! そろそろヤバいって! メキメキ言ってるから! 姉さん!」
「そんな他人行儀で呼ぶな、ほら、前にも教えただろう。私のことはジャンヌと呼べ!」
姉さんという呼び名のどこが他人行儀なのか。
この姉は俺との関係性を根本から勘違いしている節が昔からある。
「ほら! ジャンヌって呼んで! ねっ? お願いっ!」
まるで恋人が甘えるかのようにそんなことを言う我が姉。
黙ってれば青月の麗人なんて呼ばれるくらい超俗的な美女の風であるのに、どうにも喋りはじめるとこうだ。
メウセリアの言うところによれば決していつもそういうわけではないらしいのだが、俺の前にいる時はたいてい『この調子』なので、やや信じがたいというのが本心である。
――あっ、そろそろ肩外れそう!
「ジャ、ジャンヌ――」
「――っ!」
なんで? なんで締める力強まったの?
「もう一回!」
「ジャ――」
物理的呪縛から俺を救ったのは、『僕関係ない僕関係ない』とブツブツ言いながら目を逸らしていたメウセリアでもなく、『なるほど、手があるとああいう攻撃もできるのでござるな』としみじみ変な視点で俺たちを観察していたハクロウでもなく、
「ちょ、ちょっと! いい加減にしなさい!」
流麗な動きでジャンヌ姉さんの頭にパーンと張り手を入れた、イゾルデだった。




