30話 「その笑顔はとてもまぶしい」
〈イゾルデ〉はハクロウを呼びつけたあと、一旦自分の部屋に戻っていた。
扉を閉めて、あたりをきょろきょろと見渡したあと、ついに耐えきれないと言わんばかりに大きなため息を吐いていた。
「っ――はあ……」
コツコツと床を踏み鳴らしてベッドに近づき、身体ごとぼふりとベッドに倒れ込む。
――やっちゃった。やっちゃった……!
イゾルデの胸中にはむずむずとした恥ずかしさが浮かんできていた。
そしてついに、顔を枕にうずめて、
「んあああ――やっちゃったあああ……!」
胸中の言葉を声に出して、足をジタバタとさせた。
イゾルデは顔を枕にうずめたままで三十秒ほどジタバタして、ようやくピタリと身体の動きを止める。
「んううう……あんなつもりじゃなかったのにぃ……」
イゾルデはさきほどの自分の行動を思い返して恥ずかしさを感じていた。
――なんであんな偉そうにエイラに言ってしまったの。
自分もたいした人間じゃないのに。
なのに、あんな大げさなことを言ってしまった。
――言ったことに後悔はしてないけど……でもやっぱり恥ずかしい。
自分の口に浮かべた言葉はすべて本心の言葉だ。
だから後悔はない。
だけど、少し格好つけすぎた気もする。
「……」
――エイラ、あんな風に泣くのね。
しかし、少し経って意識が自分ではなくエイラに向く。
イゾルデはわんわんと泣いていたエイラの姿を思い出していた。
――ちょっとだけ超俗的なところがあったけど、でもやっぱりああいう姿を見ると……
少し、男の子って感じがする。
異界転生者というから、中身が経てきた年数は自分よりも多いのだろう。
それでも、やっぱり子供のようなところもある。
『男なんていつまで経っても子供みたいなものよ』という母の言葉を思い出した。
――そうね、母さん。母さんの言うとおりみたい。
しかしそんなエイラに、自分は二度も助けられている。
頼りにはなるのだ。
強さと脆さの二極。
厚さと儚さの二極。
エイラには放っておいてもそのまま事を為してしまいそうな強さも見える。
一方で、放っておいたら壊れてしまいそうな、ガラス細工のような儚さも見えるのだ。
「――私は、どうしたいの、イゾルデ」
イゾルデは自分に訊ねていた。自分の心に『結論』を求めていた。
「ああやってエイラを慰めて、私はどうしたかったの」
とっさに、エイラを抱いてしまった。
壊れそうな儚さを湛えたエイラを見て、思わず手が伸びてしまった。
家族でも、恋人でもない、彼に。
友人ではある。
だが、出逢ってまだたいした時間も経っていない相手だ。
あのまま手を伸ばさずに、そのままにしておくことだってできた。
なのに、自分はそんな彼に手を伸ばしてしまった。
「――あんたは、エイラからの見返りになにを求めたの」
自分の性質に対する皮肉を込めながら、イゾルデは言った。
自分は打算的な人間だ。
かつての自分を思い浮かべてそう確信している。
打算的な人付き合いは自分が最も得意とするところだ。
ならば、無意識的にも自分はエイラに見返りを求めてしまったのだと思う。
でも、それが何であるかが自分にも分からない。
「はは……まさか、母性だなんて言うんじゃないでしょうね」
そんなもの自分にはない。
打算で生きてきた人間に『見返りを求めない愛』なんてものは宿らないだろう。一番縁遠いものだ。
「まあ……そのうち分かるかな」
イゾルデはそう言って自分への追及を打ちきった。
その感情の遍歴を処理しきれなくなって、そこで考えることをやめた。
――だから今は、私の心が思うままに。
イゾルデは大きく息を吸って、自室から出て行った。
◆◆◆
「あら、なんだかハクロウ、機嫌良さそうね」
俺とハクロウが適当な世間話をしていると、イゾルデが二階から下りてきた。
さっきと比べて服装が整っている。
首にマフラーのように巻いた金髪にも飛び跳ねた毛一つなく、ふんわりと、それでいてしっとりとしていて魅力的な様相を見せていた。
「エイラ」
すると広間の入口を潜ってきたイゾルデに、唐突に声を掛けられる。
「ん?」
「迷宮大変動をどうにかしたあと、次にどこにいくつもり? 次の災厄の種を摘みにいくんでしょ?」
んー。
なんとも答えづらい。
まったく候補が無いわけじゃないのだが、いまだ決定打に欠けるというところだ。
国家規模に発展しそうないざこざの話は、二つ前の国で噂話程度に聞いている。
だからこの迷宮都市サリューンのあとは、北かさらに西か、どちらかに行こうとは思っていた。
「悩んでるとこ。まだ情報が少なくて」
そういう災厄は、特に時勢によって目まぐるしく状況が変わる。
一個前の国で聞いた話が、次の国では逆の話になっていることすらある。
だからできるだけその場その場で新鮮な情報を得るのが一番なのだが、今の俺はサリューンのことにかまけてそっち方面まで手が回っていないのが現状だ。
そんな俺の内心を見越したように、イゾルデが俺に言った。
「手が回ってないんでしょ。他の災厄について調査する必要があるのは分かってても、現状の災厄をどうにかすることに集中するから、手が回らないんでしょ」
「――そのとおりです」
「まあ、目の前の災厄にしっかり集中してるってことだから、いいことだとは思うんだけど」
でも、イゾルデの言うとおり、俺は同時進行で次の災厄に関しても情報を集めなければならない。
急いだところで必ずしも災厄への最短ルートを取れるわけではないし、西に向かった直後に実は東で事が起こった、なんてこともあるから、よほど大きな災厄の前兆でなければ自分の精神の安寧のためにも適度に余裕はもっていきたいのだが、かといって必要以上にゆっくりしているわけにもいかない。
そういう見方をすれば、常に次を見越して効率的に動くのが最適なのだろう。
「――だからね」
ふと俺の思考を切り裂いて、イゾルデが言葉を紡いだ。
赤い瞳がまっすぐに俺の目を射抜いてくる。
いつにも増して力強い視線だ。
「私があんたの代わりに、そういう情報を集めるわ」
イゾルデの凛とした声は、俺の耳を穿って、頭の中で何度も反射した。
◆◆◆
「――イゾルデ?」
「これでも商人として情報収集には長けてるつもり。だから、あんたが目の前の災厄に掛かりきりになってる時は、私が代わりに災厄について調査する」
願ってもない言葉だが、
「でもイゾルデ――」
危険だ。
もうわかっているだろう。
俺は災厄の相手が人災であった場合、そういう世界に対する『悪雄』と対峙しなければならない。
先刻の略奪者の件もある。
イゾルデはそれに巻き込まれた。
危険だ。
何度も言う。危ないんだ。
今回は間に合ったけれど、次も間に合うとは限らない。
「わかってる。わかってるわ。あんたが言いたいこと。でも、それくらいのリスクは負うわよ。なんたって、その代わりにあんたも私の商売を手伝うんだから。――荷物持ち兼護衛として」
ふふん、と彼女は鼻を鳴らした。
無垢なかわいらしさとクールな美しさの間を揺蕩う美貌を、得意げな笑みにして見せる。
「私、『あんたについていく』わ。行先はあんたを中心にして考える。あんたが決めた行先に合わせて、私はうまいこと商売してみせるわ。それくらいなんてことないもの。――私天才だから」
これでもかと彼女は俺を押しきりに来た。
慣れない自賛の言葉を最後に述べながら、彼女は顔を赤くしている。
得意げに気取って見せながらも、耳まで真っ赤だ。
そのギャップがまた可愛らしい。
そんな彼女が、またちらちらと俺の表情を窺っている。
俺の茫然とした顔を見ながら、彼女は俺の言葉を待っていた。
「――本当に、それでいいの?」
もし彼女が本気でそのリスクを負うというのなら、俺もその点では彼女の意志を受容せねばなるまい。
ハクロウにも言ったが、俺は友人の強い思いまでもを曲げるつもりはない。
ただ、友人として、だからこそ、二人をまずは遠ざけようとした。
彼らを想うなら、俺はやはり二人を遠ざけるべきだった。
しかし、その俺の行動までもを押しきって二人が向かってくるのなら、もはや俺に為す術はない。
強い思いの上にある行動は、自由であるべきだ。
「――うん」
イゾルデは俺に一歩近づいて、強く頷いて見せた。
――そっか。
正直に、ありがたい。
俺は英雄である兄弟たちからあえて離れた。
一緒に旅をしようと言われたが、それを断った。
理由は簡単だ。
もし俺が災厄認定されたとき、近くに英雄がいればすぐに取り返しがつかなくなるかもしれないから。
もちろん、災厄の瞬間にその場に『居合わせる』という英雄の性質上、俺が災厄認定された時点で英雄が傍に居合わせてしまっている可能性もある。
しかし、最初から傍にいるよりはきっとマシだろう。
わずかでも、何十秒かでも、ほんの少しの時間さえあれば、距離を開けられる隙があるかもしれない。
だから、離れておくべきなんだ。
兄や姉たちは俺のそんな言葉に納得できなかったようだけど、なんとか押しきった。
だから俺は一人で旅に出た。
立ち寄った国で友人は出来たが、彼らには彼らの生活があったから、無論その場においてきた。
連れていってと言われたこともあったが、俺が突き放すと渋々といった体で頷いてくれた。
しかし――
今回の二人はどうにも頷いてくれない。
頑固だ。
この一人と一匹はやたらと頑固なのだ。
――俺は俺で、そんな二人を愛おしく思ってしまっているのだろうか。
イゾルデに視線を向ける。
強い視線が返ってきて、さらに見つめ続けると彼女は少し恥ずかしそうに頬をかきはじめた。
――さっきも弱みを見せちゃったしなぁ。
俺からしたらイゾルデは魔性の女だ。
とても魅力的で、それでいて少し、俺にとって怖い存在。
でも、大切な存在だ。
俺の中でイゾルデの存在が大きくなり始めていることに、俺自身なんともなく勘付いていた。
「――なら」
そんな彼女が俺についてくるというのなら。
彼女を意地でも守り通す。
災厄の芽も摘む。
しかしその途中で彼女に災厄が降りかかりそうになったら、それも絶対に摘む。
災厄も摘んで、彼女も守る。
青臭いけど、そのとき俺は、本気で自分にそれを課した。
「一緒に行こうか、イゾルデ」
「――うん!」
パァっと明るくなったイゾルデの笑顔は、やっぱりとても眩しかった。




