27話 「世界に災厄と見なされた男」【前編】
骨は折ったが、致命にまでは至らなかっただろう。
そういう風に手加減はしたつもりだ。
「――エイラ?」
ふと俺の胸の中にいたイゾルデが、俺の顔をそこから見上げてきた。
「――うん」
まだ少し、心中が落ち着かない。
鼓動は速く、身体の緊張は十分に解けていない。
久々に真っ向から誰かを殴った。
かつては兄姉と激しい手合わせをしていたものだが、あの日々からは間が空いている。
「――大丈夫」
ふう、と一息ついて、ようやく身体の緊張が解けてきたのを実感した。
「エイラ」
ちょうどその頃になって俺の後ろから聞き慣れた野太い声が響いてきて、
「ハクロウ」
振り返るとそこにハクロウがいた。
ハクロウは略奪者の男たちがノびているのをちらりと見たあと、少し笑いながら俺に言った。
「我が殴る分を残しておいて欲しかったのでござる」
「俺にそんな器用さはないんだよ――申しわけないけど」
「まあ、今回はよしとしよう。一人くらい食い殺してもよいのでござるが――しかしここは戦乱の地ではないでござるな。――うむ、無暗に仇敵ではないものの命を奪うのはやめておこう」
ハクロウは自分で自分を納得させるように頷いて、また俺の方を向いた。
精確には、その視線は俺の胸元のイゾルデに向かっていた。
「エイラに抱き寄せられてちょっとドキドキしてるでござるか? ん? 顔が赤いでござるよ?」
「――そこに直りなさいハクロウ。尻尾の毛を一本ずつ抜いていってあげる」
「ふおっ!」
ハクロウがビクリと身体を震わせて、尻尾を萎えさせながら後ずさった。獣耳もぺたんと寝ていて、かなりビビっているようだ。
その間にイゾルデが俺の胸から離れて、何事もなかったかのようにハクロウに歩み寄っていた。
「ほら、差し出しなさいよ」
「勘弁でござるっ! それは勘弁でござるっ!」
イゾルデに元気が戻って、ひとまず良かった。――そういうことにしておこう。
◆◆◆
俺がイゾルデとハクロウと共に紅茶亭に戻ると、シャルルがまた涙目になりながらイゾルデに抱きついていた。
「イゾルデさんっ!」
「お、お、おっと。――シャルル、あんたピョンピョン跳ね過ぎよ」
イゾルデはそんなシャルルを抱き止めて、苦笑しながら彼女の頭を撫でていた。
「――ごめんね、心配させちゃって。私が不用意に一人で外に出たのが悪かったわ。次からちゃんと気を付けるから――許してね?」
「無事に戻ってきてくれれば何も言いません!」
「ふふ、ありがと」
イゾルデに抱き着いてわんわん泣いているシャルルをよそ目に、俺とハクロウはマルスさんに片手をあげながら声を掛ける。
「なんとかなったようですね。お力になれなくて本当にすみませんでした。不甲斐ないばかりです」
「そんなことないよ、マルスさん。宿屋の亭主がこんな荒事に機敏に対応したらそれはそれですごいけど」
「まったくでござるな」
マルスさんも少し涙ぐんでいたようだが――ははあ、イケメンは目が潤むのも様になるな。
「今日はまた盛大に食事会をしましょう。皆さんの無事を祝って」
まったくイケメンは言うことが違う。
俺はマルスさんの言葉に笑みで頷いて、ハクロウと一緒に紅茶亭の中に入って行った。
少し疲れたし、紅茶でも飲んで一息つくとしよう。
◆◆◆
「ねえ、エイラ。ちょっと聞いてもいい?」
「ん?」
一階の広間で紅茶を飲んでいると、イゾルデが訊ねてきた。
「あ、その前に――悪かったわね。心配かけて、手を煩わせちゃって……」
「イゾルデは悪くないだろう。普通にサリューンに来て、普通に交易品を集めていただけじゃ略奪者に襲われるなんてありえなかった。――俺が傍にいたからだろう。だから、イゾルデが悪いわけじゃないんだ。気にしないでくれ」
イゾルデは俺の正面の椅子に座っていて、赤い瞳をこちらに向けてきている。
あまり紅茶の進みは良くないようだ。
他の宿泊客の姿はない。広間に俺とイゾルデだけ。
ハクロウは例の刀身のない剣を鞘に仕舞ってくるといって、一旦部屋に戻っていた。
「うん、ありがと。でも私も不用意だったと思うから、ちゃんとそこは謝りたかったの。少し考えれば分かることだったもの。――ちょっと暗いわね。はい、じゃあこの話はここまで!」
イゾルデは自分の頬を軽く叩いて、暗鬱としていた表情を切り替えた。
次に彼女の顔に載ったのは真面目な表情だ。
「それでね、あの――人を殺したことがあるって」
「ああ、そのことね」
あの時はイゾルデを安心させるために、そんなことを言ってしまった。
しかし事実であるし、とかくいまさら取り繕っても仕方あるまい。
「あ、言いたくなかったらいいんだけど……私は私の目で今のエイラを見て、あんたのことを判断してるから」
イゾルデはすぐに両手を胸の前で振って取り繕うが、しかしそのルビーのような瞳には好奇心が映り込んでいる。
「知りたい?」
「――うん」
最初は控えめに言っていたが、いざ俺が問い返すと正直な答えが返ってきた。
「いいよ。話すよ」
俺は苦笑してイゾルデに返す。
俺は可能な限り飄々として、空気が重くならないように努めた。
その話題について、話すことを特段に忌避しているわけではない。
良くも悪くも、その話は俺に不可欠な話だ。
しかし、話すことでイゾルデに妙な同情をさせてしまうのも本意ではなかった。
そう思ったうえで、俺が話すことを了承したのは、俺自身この話を彼女に聞いて欲しかったからかもしれない。
人を殺したことがある。
そのフレーズを浮かべて、また俺の中の記憶が騒ぎ出していた。
嫌な感覚。
きっと吐き出したかったんだ。
吐き出して、少し楽になりたかったんだ。
だから俺はその話をイゾルデに聞かせることにした。
すべてを決意したあとに、俺の心が一度だけ折れかけた原因となった、あの出来事のことを。
◆◆◆
「我も少し気になるところでござるな」
俺がいざ襟を正して口を開こうとしたら、広間にハクロウの声が響いていた。
振り返った先、広間の入口から白い狼がゆったりとした足取りでこちらに向かってきている。
身体の横に指した柄だけの剣をこれみよがしにこちらに向けながら、鼻を少し高くして歩いてくる狼だ。
「我も聞いてよいというのであれば、ぜひ聞きたいところでござる」
「別にいいよ。聞いてもなんの得にもならないと思うけどな」
「人の話は利得を得るために聞くものではないでござるよ。単純に、友であるからこそ、気になるから聞くのでござる」
「物好きなやつがいたもんだ」
ハクロウが俺の声に楽しげな笑い声を返し、そうして俺とイゾルデの間に座った。
ハクロウはさすがに椅子には座れないから、伏せの姿勢で広間の絨毯の上に座り込んだ。
「じゃあ、どこから話そうかな。ハクロウは俺が何のために旅をしているか、まだ知らなかったよね」
「うむ」
「ならそこから話そうか」
俺はひとまずそこから話を切り出した。
かつてイゾルデには話したが、俺がどうしてフラフラと世界中を旅しているか。
俺が英雄転生者たちの兄弟だということ。
そんな俺も異界からの転生者であること。
英雄転生という世界の摂理を壊そうとしていること。
俺は俺の我がままで、世界に喧嘩を売っていること。
順を追って、できる限り手短いになるように意識しながら、イゾルデとハクロウにその話をしていった。
◆◆◆
「ほう、なかなか興味深い話でござるな。確かに英雄転生の話は我も聞いたことがある。だが我も『そういうもの』としてそれを無意識的に受容するばかりで、それがおかしいと考えたことなどなかった」
「私だってそうよ。世界の摂理ってなると、きっとそういう風に受け取ってしまうんじゃないかしら。水が上から下に流れることに、普通は疑問なんて抱かないもの」
「そうだね。そういうものだと思うよ」
英雄転生者と英雄転生の摂理の話をすると、ハクロウとイゾルデはそんな反応を返してきた。
そして俺も二人の反応に特段に疑問は浮かべない。
俺とて、こういう境遇にいなければ、そのことを不思議に思わなかったかもしれない。
「しかしエイラが異界転生者とは……」
「私も今知ったんだけど。ねえ、なんでもっと早く言ってくれなかったのよ」
「いやぁ、あえて言う必要もないかなぁって」
「――まあ、それはそうかもしれないわね。あんたの魂が異界から巡ってきた魂だったとしても、こうしてここにいることには変わりないし」
そう言ってくれると、なんだか嬉しい。
イゾルデは俺をそのまんまの俺として受け入れてくれる。
もしかしたら、聡い彼女は俺がそのことに少し引け目を感じていることを察しているのかもしれない。
それでいて俺にちょっとした哀しみさえ抱かせないように、こうしてありのままの俺を見ようとしてくれているのかもしれない。
――敵わないよ、ホント。
ハクロウも話中で似たような反応をしていた。
どうやら俺は良い友人に恵まれたようだ。
「『こっち』ではあんたは私と同い年のちょっと馬鹿な男。それだけ分かればいいもの。よかった、実は中身が百歳越えてるおじいちゃんでした、なんてことじゃなくて」
良くはない気がするんだが、今ツッコむと話の腰が折れそうだ。まさかそれも計算ずくか。
「うむ、エイラは馬鹿でござるな。――我と違って」
さりげなく頷いてるんじゃねえよ、犬っころ。あとどさくさに紛れて自分を外すんじゃねえ。おめえもイゾルデに馬鹿認定受けてることを忘れるなよ。
「さて、じゃあ本題に移ろう。俺が人を殺したことがあるって言った意味なんだけど――」
俺が話を切り出すと、イゾルデがごくりと生唾を飲むのが分かった。
赤い瞳は少し潤んでいる。緊張しているのだろうか。
「――〈英雄〉が天災や人災のような〈災厄〉に反応してその場に現れるってのはさっき話したよね」
「うん、聞いたわ。私は魔獣侵攻の時あんたの兄を見てるから、よく分かる」
「我も同じく。先刻ちらと話した〈黒白戦役〉の時に、英雄殿を見たから分かるでござるよ」
「うん」
二人の頷きをもらって、俺は続けた。
一息つき、決心を固める。
「俺はさ――」
口に出そうとした時、かつての記憶が蘇った。
「俺自身が――〈災厄〉と認定されたことがあるんだよ」
世界によって。