11話 「少女は究極的に寝相が悪い」
清々しい目覚め。――とはいかなかった。
暑い。
すっごく暑い。
主に身体の左半身が、何か熱気に当てられていて、とても暑い。
「なんだこれ……」
眠気眼を瞬かせながら状況を確認する。
腕が動かない。
そして気付いた。
――なんということだろう。
「……」
左方向から、まるで抱き枕にされるかのごとく、俺の身体はイゾルデにがっちりとホールドされていた。
左腕が俺の胸部を回って右肩をがっちり掴み、逆の腕は下から俺の背中をホールド。
その珠のようになめらかな肌をした脚を広げ、俺の腰に回してホールド。
上下共に死角なしである。
そりゃあ暑いわけだ。密着度限界突破。イゾルデの寝息が俺の首筋に掛かる。
次いで俺は、上腕の辺りでとある感触が騒ぎ立てていることに気付いた。
――な、何か柔らかい感触がっ!
あえて断言しよう。――おっぱいである。
我が姉妹の中にも抱き着き癖のある者がいたので、そのおかげで俺は抱き枕になることにある程度の慣れがある。慣れてしまうとそれはそれで物悲しくて、なんとも良いか悪いか断言しがたいところだが、今理性を保っていられるという点では良い意味を持つであろう。――ギリギリだけど。
落ち着け、俺。落ち着――それにしても、これは役得である。
俺は上腕の感触に全意識を集中させた。唸れ! 俺の集中力! 今こそリミッターを外すのだ!
――すげえ、これ結構奥まで沈むんだけど。
決して小さいとは思っていなかったが、特段に大きいとも思っていなかった。
細身の割になかなか突起力があるとは思っていたが、同時に細身のせいでそこまで莫大な物量は露見していないように見えた。
しかし、どうやら着やせするタイプだったようだ。うーん、でかい。
俺の姉に、その方面で圧倒的な戦闘力を誇る者がいたから、俺の感覚は肥えている。いや、おっぱいは男にとって永遠に理想を追求すべき深遠な物体であることは否定しない。でかけりゃいいってわけでもないし、かといってまな板も――いやこれ以上はやめよう。人の趣向は千差万別。普遍的価値を規定するのは不毛だ。
ともあれ、イゾルデの戦闘力は見た目以上だ。
かつて姉と妹が作っていたおっぱいカースト表で判断するに、おそらく上位に食い込む。思わぬ伏兵である。
しかし、こういう状況であると逆に微動すらしづらい。もう少し角度を変えたいところだが、それには勇気が必要だ。密着しすぎて、ちょっとの動きで気付かれたらどうしようなんて、そんなチキンハートが騒ぎ出すのだ。
ゆっくりと熱気が顔にまであがってきて、さらに暑さが増す。
冷静に狂ったおっぱい分析で一旦熱は引いたものの、さすがに限界だ。――理性が。
「んう……」
視界の左端にイゾルデの美麗な顔があった。
近い。
その柔らかそうな唇から、吐息が漏れている。――あっ! ちょっと! 首を舐めるのはやめてっ!
ちろり、と。首筋に生暖かくも湿った感触が走った。快感とも悪寒とも判断しがたい奇妙な感覚が身体の上から下までを貫いて行く。
一体彼女はどんな夢を見ているのだろうか。俺は氷菓子じゃないぞ。
……さて、そろそろなんとかせねば。
このまま感触を楽しみたい。五感をフルで動員して、我が記憶にそれらを刻み付けておきたい。
しかし、だ。
俺には予想がある。
この状態でイゾルデが起きると、きっと碌なことにならない。
末代まで呪われるのは、やはり勘弁である。
「……ふう」
軽く息を吐いて、身体の動きを少しずつ確かめていく。
よし、だいぶほぐれてきた。
そろそろ動けるだろう。
ゆっくりとイゾルデの手や足を解いていく。
起こしてはならない。まだ三途の川は渡りたくない。社会的に死んだあとにも、やはり三途の川を渡るのでしょうか。
「よ、よし……」
あとは一番厄介なイゾルデの左足だ。
寝る前まではちゃんと寝間着を着ていたはずなのに、どういうわけか、今では下着姿である。
寝ながら服脱ぐとか寝相の域をマッハで突き抜けて行っただろうこれ。――ちなみに黒だ。悪くない。
下着の色とは対照的に、すらりと伸びた白い脚が、いまだガッチリと俺の腰に巻き付いていた。
仕方なくそれに触れると、肌触りが凄まじい。人の肌ってこんなにもちもちしてたっけ。
その上、なんだろう、すごくなめらかだ。
許可さえあればずっと撫でていたい脚だが、今はそういうわけにもいかない。
今こそ我が最高の自制心を。
あっ、でも油断してたらまた腕に胸がぷにって! ぷにって!! ――くそっ! せっかく剥がしたのにもっかい抱き着いてくるとは思わなかったよ!
それからいくばくかの戦闘を終えて、どうにか俺はイゾルデの拘束から逃げ出すことに成功した。
「毎夜これでは敵わないな……迷宮都市でちゃんとテントを買っておこう……」
肝に銘じた。
しかし、迷宮都市までは約束をしているが、そこから先もイゾルデと一緒だとは限らない。
むしろ、別々になる可能性のが高いだろう。
俺は、場合によっては迷宮都市で少しばかり活動していくかもしれない。
少し気になる話を水国で聞いて、その真偽を確かめるために行くのだ。
その噂が本当だった場合、迷宮都市でしなければならないことがあるかもしれない。
「大きな災厄にならないといいけど」
もしそうなりそうなら、英雄たる兄や姉が来る前に解決したいところだ。
そういうわけだから、行商人たるイゾルデには、その滞在期間は余計であるかもしれない。
迷宮都市で品物を仕入れたら、また他の国へ向かうのだろう。
となると、やはり一緒に行くのは迷宮都市までだろうか。
「まあ、あとはついてからでいっか」
まずは目的地へ着かねば。
ふと空を見上げたら、そこだけは地球と同じ、燦々と燃ゆる太陽がこれでもかと照り始めていた。
◆◆◆
二日が経った。
毎夜、そして毎朝、アレである。
少し慣れてきた。
異界転生者の適応能力を舐めないでほしい。
余裕で慣れ――
「さっきから何ブツブツ唱えてんの?」
「般若心経」
「えっ、なにそれ」
嘘です。
あの身体に慣れるなんて、とんでもない。
心を毎夜毎夜無にしなければ理性が持ちません。
ここにきて前世の何気ない知識が役に立つとは思わなかった。
別に坊さんであったわけではないが、なんだか一つくらい暗誦できるようになったらちょっと格好いいじゃんって、そう思って手に取ったのが般若心経の写本であった。ただそれだけだ。
でも意外と役に立つ。
これホント、唱えてる時無になれる気がするんだ……。
一つのことに集中するって、大事だよね。
――雑念を振り払うのです。
イゾルデがアブナイものでも見るかのような目でこちらを見てくるが、誰のせいでこうなってると思ってる。
お前は寝てるからいいよな! ――でも起きないでください。
あの状態で起きたらもっとひどいことになる気がするので……。
よし、今日もなんとか乗り越えられそうだ。
決意と覚悟を持ってテントに臨む。今日は先に入ってベストなポジションを取らねば。
そう思って立ち上がり、篝火を背にする。
すると、
――ん?
気配があった。
イゾルデのものではない。
二日も歩き続けて、ずいぶん遠くまで来た。街道からも今は外れ気味であるし、通りすがりの旅人というわけでもなさそうだ。
イゾルデの位置をまず確かめる。
俺が足を止めたのを見て首を傾げている金髪の美少女を一瞥。すぐに視線を正面に戻した。
頭の中にイゾルデの位置をインプットし、何かあればまず彼女を守る選択肢を取ろうと心に決める。
「イゾルデ、そこから動いちゃだめだよ」
一応念を入れて言っておく。
彼女はまだ乾パンをちぎってモグモグと食べているから、急に動いたりしないだろう。
気配は正面からだ。
勘である。
勘だが、伊達に英雄と爺さんに鍛えられた勘ではない。
特に一番上の姉に連れまわされて、爺さんの家の周りの馬鹿みたいに物騒で深い森で遊んでいたから、野外でのこういう些細な機微にはわりと気付く方だ。
勘といっても、五感で総体的に認識しているからこその勘である。
俺は自分の感覚を信じて身体に臨戦態勢を敷いた。
いつでも動ける。
そうして身構えた直後、ついに気配の正体が来た。
がさりと正面の茂みが揺れて、中から――
「道に迷ったでござるっ!」
人語を喋る『白い犬』が現れた。
――えっと……
「――その語尾は予想外だわぁ……」
思わず口に出してツッコんでしまった。
◆◆◆
――やべえの来た。
なんだろう、とにかくイロモノ臭がすごい。
これはかえって、ファンタジーだからこそ許しがたい。
その奇天烈さが逆に本物っぽく感ぜられてくるのが腹立たしいのだ。
「詰め込みすぎだろっ!!」
「ぬあっ! いきなりなんでござるか!」
でかい白犬は、俺の声にビクリと身体を震わせてから大きく四足で飛び退いた。
軽い身のこなしで二度三度跳躍し、俺から十歩ほどの距離をおいて着地する。
二度いうが、犬にしてはでかい。……あれ? これ本当に犬?
「我が名は〈ハクロウ〉! 白狼族のハクロウでござる! さあ、名を述べよ!」
「まんまじゃねえかッ!!」
いかんいかん、ダメだダメだ、落ち着こう。
いくらツッコみどころが満載だからって、そう早急にツッコみ過ぎるのも問題だ。
本当はもっと穏やかな気分で旅をしようと思っていたのに、近頃やたらと激しいリアクションを取ってしまっている気がする。誰のせいだとは言わないが。
「な、なかなか手厳しい人族でござるな……」
くっそお、ツッコみてえ……。
その犬顔でなんでそんな渋い声なんだよ……!
もっと「ワン」とか言えよ……!
あたかも美髯を生やしたナイスミドルのごとく、低い美声で「ござる」とか言うんじゃねえよ……!
「――ふう、よし、落ち着け、俺」
「情緒が不安定でござるな」
「おめえちょっと一発殴らせろよ」
「はうっ!」
だから低い声で「はうっ!」って――お、おし、ようやく慣れてきた。自制自制。
「えーっと、どういう状況だっけかな」
「健忘症でござるか。まだ若いのに辛い境遇でござるな」
「ちょっと黙っててね」
「う、うむ」
迫真の表情を見せると、でかい白犬――否、確か狼とか言っていたから白狼――はビクリと怯えたように身体を震わせて、黙り込んだ。
「――思い出した」
「お」
「――俺の名前は〈エイラ〉だ!!」
『まず反応するべきはそこじゃない!!』
後ろからやってきたイゾルデに頭を平手で叩かれた。




