「地球世界:遠き、あの夏の日」
後に別世界で〈エイラ・エス・エンダール〉と呼ばれる男は、その一番最初の人生において、『変な奴』と『ダメな奴』の中間あたりをふわふわと浮遊する存在だった。
地球世界の、日本の、微妙に都会とも田舎とも判断しづらい街で、男は初めて生を受けた。
上に兄と姉が一人ずつ。下に妹が二人。
ある意味絶妙で、ある意味中途半端な位置に男は生まれた。
男が――物心ついて『少年』となるまでは、特段に何かがあったわけでもなく。
次男というそこはかとない自由が許された立場で、少年は日々を過ごした。
小学生までは特に何もせずとも勉強も出来、運動も出来、なるほど、優秀と言っても差支えなかったかもしれない。
自我の曖昧な時期に少年の両親によって施された教育が優等だったからだろう。
それを証明するように、少年の兄と姉、そして妹二人も、同じほど優秀だった。
しかし、中学校に入った辺りから、周りの少年に対する評価は徐々に変容していく。
やらなくてもなんとなくで出来る、から、少しはやらないと出来なくなる、というレベルになってきて、少年は兄姉たちの中から一人取り残されていった。
決して平均以下にできなかったとは言わないが、少年がなんとなく出来るで入学した中学校が進学校であったことや、兄や姉、妹二人が、それ以上に『とても出来る者』であったことが少年に対する評価を厳しくさせた。
しかし、少年自身、そのことに憂慮することはなかった。
たとえ勉強が出来なくとも、「まあいいか」で済ますくらいには、そもそも彼に競争心がなかった。
少年の興味の矛先は細かったが、しかし尖っていた。
自分の興味があることには簡単に頭を突っ込むが、それ以外には興味を示さない。
都合の良いやつである。
熱しやすく冷めやすいし、マイペースで周りに振り回されない。
高校に入って社会化への風潮が強くなるにしたがって、少年はどんどん『変な奴』になっていったし、つまり世間一般的に見れば『ダメな奴』にもなっていった。
「そもそも逸脱なんてもんはな、ベッカーのラベリング理論に言わせれば、周りが規定するから発生するんだよ。つまりだな――」
ひねくれている奴にありがちな屁理屈も得意だった。知識が尖がっているだけに、やや一般的なひねくれ者と比して厄介であったのも確かだろう。
かといってその屁理屈を否定されて憤るほど情熱的でもないので、飄々と、雲のように、着実に社会的にダメな方へと流れていった。
友人もいるにはいるが、決して休みの日まで一緒になって遊ぶほどの仲の良さではなかった。
スクールカーストを外部から眺め、どこにでも掠れるくらいではあったが、かといって階層に身を置くほどの気力もなかったので、適度に、必要とあらば差しさわりない程度に話して、やはりあとは屋上などで一人ぼうっとしていることが多かった。
ある日、兄姉と同じく、国の最難関大学に合格確実といわれていた妹のうちの一人が、少年に言った。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんはなんかやりたいことないの?」
両腰に手をおいて、仁王立ち。近所どころか学校単位で美貌と持て囃されていた妹が、少年にそう訊ねた。
少年は答えた。
「文化的価値がめまぐるしく変容し、多様化するこの現代社会では、一途に情熱を傾け得るような目標を探すのも一苦労なんだよ」
「またなんか難しく言う!」
「お前それでも全国模試一位かよ……」
「お兄ちゃんの言葉は模試の問題文よりひねくれてるから読み取りづらいのっ!」
「はあ。――つまり、特に目標なんかないってことさ」
少年の言に嘘はなかった。
日々加速度的に過ぎ去って行く時間と、同様にめまぐるしく移り変わって行く世相。
そうした中で、兄や姉のように、そして妹二人のように、どうしても何かがしたいという欲求は少年に芽生えなかった。
「なんか適当に大学行って、適当に就職――は今時適当じゃキツイか。んー……じゃあ、アレだな、アレ」
「アレ?」
「ヒモ」
「ヒモになるのも一苦労じゃない? 玉の輿なんて近くにいる?」
「たぶん一番出世しそうなの姉ちゃんとお前ら妹だわ……」
「ダメじゃん」
「じゃあ兄ちゃんのこと養って!」
「嫌です」
「ならフリーターで身体が動くまで適当に暮らす。いや、いっそニートになる。兄貴に頼んで国家をニートに優しい国家に!」
「いくらキャリアでもそれは無理でしょ……」
「えー」
結局方針は定まらなかった。
妹はため息と共に小さな声で、「ダラダラしてなければ絶対できる奴だと思うんだけどなあ。お兄ちゃんはやればできると思うんだけどなあ」と零したが、少年は、
「皆そう言うんだよ。いいか、やればできるなんてのはやってから言え。現実にできていないんだからそれはできないのと同じだ。その『やる』って言うのにめちゃくちゃエネルギーが必要なんだ。光速の二乗とか大げさにいうが俺の中に内包されているエネルギーではここから冷蔵庫までアイスを取りに行くのさえ手こずる」
「えっ、なんでエラそうなの。あと取ってつけたようなエネルギー論で話ボカしにいってるよね」
「うるさーい。早く俺のためにアイスを取って君は勉強に励みなさーい」
少年はやっぱり社会的にダメな奴だった。
そんな少年にも、少しだけ人に誇れるものがあった。
それゆえに少年の兄姉妹たちは、少年を特に気にかけた。
妹が少年のために冷蔵まで歩んで、その中身をゴソゴソとかき分けながら、ふと声をあげる。
「ねえ、お兄ちゃんさ、昔私のこと不良から守ってくれたよね。不良ってか、正確には私のことイジめてた女子とその一味だけど」
「そんなことあったっけー」
「あったよ。お兄ちゃんがヘラヘラしながら『へい、そこのユーたち! 俺とバトっちゃおうぜっ!』って言って殴りかかって、返り討ちにあってたのよく覚えてる」
「せめて結果は忘れてて欲しかったな」
「あんだけボコボコにされたら忘れられないよ」
「イメージ通りに身体動かすのは結構得意なんだけど、やっぱ実戦って別モンだよな。拳とか飛んでくるのめっちゃ怖いんだけど。身体硬直するわ」
「あの時のお兄ちゃん、格好良かったんだけどなー」
「お兄ちゃんはいつもカッコイイぞー」
「言ってろ馬鹿兄」
「温度の下がり方すげえな……」
妹は家のリビングのソファにダラりと寝転がる少年に、カップアイスを投げつけた。
「ああいう情熱もうないの?」
「んー? ――ないなーい。もう俺来世で雲になって大空を揺蕩うことしか頭にないからねー」
「ヒモ理論はどこいったよ」
「いきなり物理理論っぽくなったな。俺の超ひも理論は今さっき瓦解しました」
「はー。またお兄ちゃん頑張ってくれたらなー。皆に自慢するんだけどなー」
「一生その時は来ないからお前はお前の人生に励め。こんなダラけた兄は放っておきなさい。兄は明日からどうやったら来世雲になれるか研究するのです」
「『どうして高いところに行くと紙ヒコーキを飛ばしたくなるのか』に関する研究はもういいの?」
「それはもう解決した」
「へえ」
「結論、ロマンがあるから」
「汎用的過ぎるじゃん」
「うるさい」
少年は寝ながらアイスを食べつつ、少し経って身を起こし、うな垂れている妹を見た。
「お前、本当に俺に構いすぎない方がいいぞ」
「中二病再発?」
「男は常に中二病。――じゃなくて、俺に構い過ぎるとお前までダメになりそうでな」
「ダメって分かってるのになんでそのままかなあ」
「ダメって分かっててどいつもこいつも復帰できちゃったらダメの基準超上がりまくりだろ。つまりそういうことだ」
「またはぐらかされた気がする。屁理屈だけはやたら得意だよね。知識尖がってるからかなあ。変な専門書ばっかり読んでるから、テストの点悪いし。国語だけはやたら出来るよね」
「あれはなんとなくで出来るもんだろ」
「数学二十点だったけど」
「因数分解なんて社会に出て使うんですかッ!?」
「高校生にもなってそれ言ってる奴久々に見た」
「レア度高いだろ。ソーシャルゲームだったらガチャ限」
「使えないガチャ限ね。むしろ出てきたら端末投げられる奴」
「世知辛い世の中だよ」
ついに妹は頬を膨らませ、悔しそうな表情を顔に載せて少年に言った。
「むう。――今日のところは退散する。今日はお兄ちゃんの頭の巡りが悪い方に良いらしいから。言い負かすの骨折りそうだし」
「一生来なくていいぞ。明日から家出するわ」
「えっ!? マジで!?」
「兄貴んとこ泊まりに行ってくる」
「今忙しいんだからあんまり邪魔しちゃダメだよ」
「あの超人に忙しさなんてもんはない」
「そうかもしれないけど……」
少年はアイス片手に妹をシッシと追い払った。
代わりに膝元にやってきた愛犬の背を撫でながら、また少年は窓から空を見やる。
「雲はいいなぁ……」
少年の声は空に染み入った。
◆◆◆
少年は『変な奴』で『ダメな奴』だったが、兄姉妹に対する愛情は人並み以上にあったと言えよう。
兄姉妹なら当然、というものもあるかもしれないが、基本的に一人どこ吹く風で過ごす少年にして、それは最大の繋がりでもあり、唯一大きな情熱が動く箇所であった。
基本的に世間が揶揄するような我がまま、マイペース、なんか変、という、間違った一人っ子のイメージを地で行くところであったが、そういう兄姉妹間に働く情熱があるだけ、まだ少しも兄弟姉妹の一員という感じであった。
「そもそも一人っ子だから我がままマイペースとかこれまたラベリングだよな。ていうかそういう一般通念通っちゃってるから今時の一人っ子は親に厳しくされて育つっていうし。むしろ逆じゃねえか」
その日少年は昼下がりの高校の授業をサボって屋上で寝転がっていた。
夏の日。
ミンミンと騒がしいセミと、熱気にじわつくアスファルト。
夕方になればヒグラシの声が隣の森の中で盛大に鳴り響くだろうという季節。
気付けば高校も三年期。
夏休み間近で、夏期講習やなんやらの告知が増えてくる頃。
少年はひとまず進路相談表には『大学進学』と漠然と書きつつ、志望校は『うまいこと入れるところ』という進学校の生徒にあるまじきコメントを記入した。
「科目いっぱいある国立はキツイなあー。国語とあとなんかで入れる私立文系とかでいいかー」
モラトリアム期間を延ばすための策を練りつつ、少年はその日の下校時刻までを適当に過ごしていた。
帰り。
少年はいつもの家路を歩んでいた。
一緒に帰るほどの友人もいない。一人の家路。
そんな折、少年は妹の姿を見つけた。
近頃やたらと絡んでくる方の活発な妹ではなく、大人しめで音楽の才女という実に淑やかな妹の方だ。
少し病弱で、マンガのヒロインの設定を現実にぶち当てたような、ヒロイン才能限界突破な美少女に、少年は目を輝かせて走り寄った。
「我が愛しの妹ちゃーん」
その声に妹の方も少年の姿に気付いて、顔に嬉しげな笑みを浮かべて一歩を踏んだ。
その時だった。
少年の目に、信号を無視して走ってくる乗用車が一台映った。
向こう側だ。まだ妹までは距離がある。
が、どうにも動きがおかしい。
蛇行し、ふらふらと左右に流れる車。
おそらくあの妹の傍の信号も突っ切るだろう。
少年には確信があった。
状況判断、予測、反射。
その時少年は誰よりも優秀だった。
妹はまだその背中側から近づいてきている車に気付いていない。
少年は身体を弾かせ、走り、車より先に妹の傍に駆けつけ――かばうように彼女を押し出した。
そうして――
少年の身体が、周りの悲鳴と共に――空に舞いあがった。
打たれた。
一トンの鉄の塊に轢かれ、鋭角に宙を舞った。
回転し、巡る視界。
それでも少年の目は、無事な妹の姿を見つける。
――よかった。
少年の内心の言葉のあとに、走馬灯が過去のドラマを流す。
――はは、そこに生存の手段はないよ。
走馬灯は自己の記憶や経験から助かる術を見つけるために起こる現象だと少年は聞きかじっていた。
しかし、すでに自身の身体が車との衝突で死に体で、加えてこのまま飛べば向かいの石塀にぶち当たって潰れるだろうことは、なんとなく分かっていた。
――まあ、次は雲に生まれ変われることを祈って。
もう少し生きて、役に立つか立たないか良く分からない知識を漁って、あとは適当に生きていけたらそれもいいかと思っていたが、かといって未練もなかった。
兄、姉、妹二人。
とてつもなく優秀な血縁たち。
きっとこういうどうしようもなく運が悪い事が一度や二度あっても、他の点で彼彼女たちが大きく不幸になることはないであろうし、たぶん順当に幸せになるだろう。
自分はそんな彼らが好きであったし、彼らが困っていたらちょっと助けてやれれば、くらいに思っていたが、もうそれも必要ないだろう。
そう無理やりに少年は言い聞かせた。
妹二人もあと何年かで大人だ。
すでに自分より優秀であるし、自分の助けなどなくても心配いらない。
だから、
――もう、いいだろうか。
その言葉を最後に、少年の意識と記憶は途絶えた。