『黄金の髪の乙女たち』 ~アルデガン外伝1~
<第1章:山道>
恐ろしい敵がルザの村に近づいてくるとの知らせに決死の覚悟で飛び出してきた若者たちを待ち受けていたのは、戦いなどとは呼べぬ無惨な運命だった。
十人の若者は狭い山道に急ごしらえの柵を巡らせ、積み上げた薪の山に火をかけた炎の壁で敵を阻もうとした。限られた時間で作ったにもかかわらず、夜空を染めて燃え上がる炎の壁は両脇が切り立った岩壁だったため首尾よく村への道を塞いだ。
だが武器といえば、刃こぼれした剣を持ったものが二人に弓を持ったものが一人いただけで、あとは鎌や鍬、川魚を獲るための銛などを手にしているにすぎなかった。それでも若者たちの目はなまくらな刃とは裏腹の切羽つまった死にもの狂いの光を宿していた。敵が山賊や野盗の類でさえあったなら、持ち堪えることもできたはずだった。
けれど、相手は魔物の群れだった。
たじろぐ若者たちの目の前で体の小さな魔物が後ろに下がり、大きな魔物が前に出た。そして山道の幅いっぱいに広がったことで、群れの中にいたものの姿が顕わになった。
小柄で華奢な少女だった。怪物の群れのただ中になどいられるはずがない姿だった。
けれどその目は燃え上がる炎を映したように赤く、淡い金髪も照り返しを受け火の粉を散らすようだった。そして口元で何かが小さな、しかし鋭い光を放った。
細い牙だった。正体を悟った若者たちは戦慄した。
「吸血鬼……、金色の髪……」
まだ少年でしかない最年少のバドルが呻いた。
「さては闇姫の眷属か!」
その兄でリーダー格のガドルが剣を握りしめた。
「ルザの村はあくまでおまえたちに滅ぼされるしかないというのかっ!」
顔色を失いながらも、しかしガドルは恐るべき少女を睨みつけた。
「そんな定めになど従えるかっ! 黙って滅ぼされると思ったら大間違いだぞ。撃てっ!」
矢が少女の胸を貫いたとたん魔物たちが突進した。翼を持った獅子のような魔獣が炎の壁を飛び越えた。岩のような肌の巨人が炎の中に踏み込み燃え盛る柵を踏み砕いた。炎の壁の破れ目から残る魔物たちが一気になだれ込んだ。
若者たちはいっせいに魔物たちに打ちかかり、手にした武器を突き立てた。しかし貧弱な得物では浅手を負わすのがやっとだった。あっという間に六人が挑んだ相手に食い殺された。
「おのれっ」辛くもあぎとを逃れたガドルたちが体勢を立て直す暇もなく、翼持つ人面の獅子が向かってきた。
「うわあっ」思わず背を向けたバドルに魔獣が飛び掛った。
「バドル!」兄は弟に体当たりした。転倒した二人の脇を魔獣の体が通り過ぎた。瞬間、ガドルは脇腹に激痛を覚えた。とたんに手足から力が抜け、彼は地面にへたり込んだ。尾の刺の毒が巡り始めたのだ。
ばりばりと音がした。あとの二人が噛み砕かれていた。恐慌に陥ったバドルが泣き喚きながら逃げ出した。
「そっちはだめだ! 村へ戻るなっ」
兄の叫びより速く魔獣が弟に追いすがろうとした瞬間、
「戻って! 私から離れてはだめ!」
透きとおるような声が叫び魔獣の足が止まった。バドルは闇の彼方に駆け去った。
ガドルは思わず声のした方を見た。
少女が胸から矢を引き抜いていた。赤い瞳がガドルを見た。
「この先に村があるの? だから私たちに立ち向かったのね」
気づかれた! ガドルは歯噛みした。
「あなたの村はどこ?」
答えてたまるかっ! ガドルは顔をそむけようとした。だが、赤い瞳は彼の視線を捉えて離さなかった。視線を伝ってなにかが彼の心に入り込んできた。
意識を探られると悟ったガドルは抗おうとした。易々と抵抗をすりぬけた少女の魂が触れた。ガドルは驚愕した。
ずたずたに引き裂かれた魂だった。殺してしまった者のことを悲しみ嘆き、殺さずにいられぬ己が身に苦しみ、ぼろぼろの心が朱に染まっていた。想像もしなかったありさまだった。だが、
「この道をずっとまっすぐ行った川のほとり……」
少女のその呟きに、我に返ったガドルは絶望に覆われた。
魔物が近づいてくると聞いた自分たちはいても立ってもいられなかった。無駄死にするだけだからやめろという長を振り切って戦いを挑んだ。その結果仲間たちは全滅し、村の正確な場所まで知られてしまった。
村はおしまいだ。俺はなんの役にもたたなかった。
そう思った彼の耳に少女の声が、言葉が聞こえた。
「あなたの村を避けていくわ」
かすみ始めた目を思わず見開いた。聞こえた言葉が信じられなかった。だが相手は彼を見つめながらいった。
「ここからなら私たちはまだ道を変えられる。このまま村に踏み込んでいたら、私たちは自分を抑えられなかった。あなたの村を間違いなく全滅させた……」
じりっと少女が近づいた。
「出会ってしまえばそうなるだけなの。みんなは生きるためにあなたたちを貪る。私も渇きに耐えられない。死ぬこともできないこんな身なのに……」
ぼやけたガドルの目にも相手が泣いていることが見て取れた。その姿が先ほど触れた魂のすがたと一つに重なり、彼は悟った。少女が人の心を持っているのを。
「あなたが場所を教えてくれたから私たちは踏み込まずにすむ。村には行かないって約束する。だから」
俺たちのしたことは無駄ではなかった。
死にゆくガドルの盲いた顔がかそけき光に輝いた。
「だから……、だから……」
いいさ、どうせ死ぬ覚悟だったんだ。
「だから許して……っ」
死にゆく体はもう牙を感じなかった。ガドルは最後に思った。吸血鬼はこんなにも苦しみながら人を襲うものなのかと。
「もう少し待って、少しだけ……」
魔物たちの輪の真ん中で、リアは呟きながら殺めた若者の顔を凝視していた。大陸西部のこの地方に多い髪の黒い精悍な顔を、彼女は脳裏に刻みつけた。
やがてリアは立ち上がり、魔物たちの囲みの外へ出た。背後で肉が引き裂かれ骨が噛み砕かれる音がした。ようやく本来の青い色を取り戻した目からまた涙がこぼれた。
五年前、人間だったリアは大陸の最北の地に魔物を封じた城塞都市アルデガンに住んでいた。その地に生まれ育った彼女は吸血鬼の牙にかかり、その探索の途中で幼ななじみの若者をかばって死にかけた。
若者は彼女を死なせたくない一心で自らの血をリアに与えた。そのため彼女は生きたまま転化をとげ人間としての記憶も意識もすべて残したまま吸血鬼と化してしまった。
時を同じくしてアルデガンの結界は人間同志の戦の中で破れ、封じられた魔物たちが地上に解き放たれた。もはや人間とともに在ることができなくなった彼女は、せめて魔物たちをできるだけ人間の住む場所から離れた本来の棲むべきところへ連れていこうとアルデガンを出た。そして彼女は魔物の群れとともに大陸中をさまよい続けた。それは予想をはるかに超えた過酷な旅だった。魔物たちの数は五年の間に減ってはいたが、目的地に辿りつけたものばかりではなく、旅の途上で力尽きたものも少なくなかったのだ。
人の世の乱れにより支えを失い魔物との力の均衡が崩れたあの時のアルデガンでは、誰もが死にもの狂いで強大な敵との闘いをくりひろげていた。力及ばなかった者はことごとく斃れた。
ここで自分たちに立ち向かった若者たちはそんなアルデガンの仲間たちとそっくりだった。常にもました激しい罪悪感が彼女の心を苛んだ。
できればリアはせめて自分が殺めた者の亡骸だけでもきちんと弔いたかった。だが彼女が牙にかけた者はそのままでは吸血鬼と化す定めだった。それに不死の身で渇きを抑えられぬ自分が命に関わる飢えに苦しむ魔物たちを禁じることもできなかった。
だからリアは、せめて自らが牙にかけた者の顔だけは覚えようとしていたのだ。初めて牙にかけたレドラス王も含めほとんどの顔を覚えていた。ただ一度、大砂漠に迷い込み飢え渇いたあげく踏み込んでしまった砂漠のほとりの町を、忘我のまま全滅させてしまったときを除いて。
ここで殺してしまった若者たちはアルデガンの仲間たちと同じ思いの者だったばかりか、砂漠の町での惨劇の再来を身をもって阻んでくれた者たちだった。彼らの魂に報いたい一心で、リアは彼らが武器にした得物をすべて拾い集め、炎の柵の破れた道端に丸く土を盛った塚の頂きに刃先を向けて均等に並べた。
それは亡骸を回収できなかった仲間たちを弔うアルデガンでの作法だった。
弔いがすむとリアは魔物たちを連れて山道を少し戻り、沼地に下りて村を大きく迂回した。はるか彼方、若者から読み取った村のある場所とおぼしき位置に明かりが見えた。逃げ戻った少年の話を聞き、大きな炎を燃やしているのを彼女は察した。
炎を右手に見ながら進んだのでまっすぐ西に進む形となった。やがて沼地を抜けたとき、行く手には鬱蒼とした森が果てしなく広がっているのが遠くからも認められた。まだまだ距離があるにもかかわらず、リアははるかな風に微かな妖気を感じた。
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ルザの村はバドルの話におののいた。八人が食い殺されガドルも倒れたならば、たちまち村まで攻めてくるに違いなかった。
しかし彼らには逃げ場がなかった。
西に広がる森は千年の昔からの魔の森だった。そこは黄金の髪の闇姫の統べる最果ての森、ゆるやかに人の領域を侵し緑の闇に呑み込む魔境だった。占師によれば、あと二十年もたてば闇姫が訪れるまでに森はこの村にも迫るとのお告げが出ていた。彼女が忘れられた言葉で告げる滅びを聞いた者は生き血を吸われるしかなく、村を捨てて逃げる以外に助かるすべはないとの卦が。
そこへ東からも吸血鬼が出現したのだ。同じく黄金の髪の娘の姿で魔物の群れを引きつれて。もはや全滅覚悟で戦うしかない。いくつも家を取り壊し巨大な炎の防壁が築かれた。誰もが恐怖に抗いつつ、迫る脅威を頼りない得物を手に待ちうけた。
だが、魔物の群れは来なかった。次の夜も、その次の夜も。
ついに燃やすものがなくなり、村人たちは様子を確かめることにした。若者たちの身内の者が中心となり、決死の覚悟で現地に赴いた。戦いの跡はすぐにわかった。焼け焦げ砕かれた柵の残骸と変色した血の跡がバドルの話を裏づけていた。
しかし柵の残骸の側に奇妙な塚ができていた。若者たちの得物が明らかに礼をもって盛り土の周囲に飾られていた。そして魔物たちの足跡が引き返した跡が認められた。
村の占い師は若者たちの勇気が戦神の奇跡を招いたと告げた。九人の若者たちは村を守った英雄とみなされ、奇跡の証たる塚はそのままの形でルザの村の広場に移された。西から迫る来るべき滅びに対する加護あれかしと、村人たちは東からの脅威を退けた奇跡の塚に祈りを捧げるに至った。
けれど魔の森からの妖気をはらんだ風は、すでにこの村にまで届きはじめていたのだった。
<第2章:荒野>
大陸の西のはずれに広がる広大な森の近くの荒野のただ中で、魔物たちが真昼の太陽の下に身を寄せ合っていた。
岩のような体表をした巨人が太陽に背を向けて立ちはだかり、高い太陽を遮るわずかな日陰に大きなものが小さなものを守るように密集していた。その中央に獅子の体に人の顔と刺のある尾を持つ魔獣が分厚い皮の翼で眠るリアの体を覆っていた。
闇の中で転化した吸血鬼の牙を受けたリアにとって、太陽の光は灼熱の白い闇だった。転化の過程で光に当たる時間が長かったためいくらか耐性が高まり体が焼けるまでには至らなかったが、陽光を浴びれば目はまったく見えず力は大きく削がれ、焙られるような苦痛に容赦なく苛まれた。そして消耗した体は激しい渇きに襲われることを免れなかった。
だから魔物たちはその身をこうして陽光から守っていたのだ。けれど安らぎなき眠りの悪夢からは守るすべがなかった。
生まれてからアルデガンを出たことがなかったリアは外の世界をまったく知らなかった。彼女は魔物たちをつれて南下した果てに広大な砂漠に出たが、砂漠生まれの魔物たちが棲むべき場所と感じているのを察知したため入り口で彼らを解放してしまった。そして人里が少ないと考え砂漠を突っ切ろうと踏み込んだため、導くものもない彼らはたちまち迷ってしまったのだ。
そこは地獄だった。苛烈な太陽が容赦なく彼らの体力を削り、吹き荒れる砂嵐が翻弄した。魔物たちは弱いものから倒れ、生き残ったものはその骸を貪りかろうじて命をつないだ。
果てしなく身を苛む苦痛と己の無知ゆえにこんな地獄へ群れをつれ込んだことへの激しい自責の上に、狂おしいばかりの渇きが重なった。
ついにリアの意識はとぎれた。これほど苦しみぬいてさえ滅びえぬ我が身を呪ったのが、砂漠での最後の記憶だった。
やっと意識を取り戻したとき、どれほど時が過ぎていたかさえ全くわからなかった。
そこはもう砂漠ではなかった。大きな建物の中だった。砂煉瓦の壁も砂岩を敷きつめた床もなにもかもが血にまみれていた。
魔物たちはいたるところで、元の形がわからなくなったものをひたすら貪っていた。
なにも覚えていなかった。だが顎がべっとり濡れていた。
あげた絶叫が悪夢に憑かれた眠りを引き裂いた!
涙のあふれる目が見開かれ真紅の光を捉えた。地平線に黒々とわだかまる彼方の森の背後の空が一面の朱に染まっていた。
「また……」
まだ悪夢の中にいる心地でリアは呆然と周囲を見回した。だが自分を守っていた魔物たちが目に入ったとき、数が減った彼らの姿に少女はふと疑問を感じた。
彼らは解放されなかったわけではなかった。一度はそれぞれに適した場所で解放され同族たちが去ったにもかかわらず、彼女のもとに残ったものたちばかりだった。
これまではさして不思議に思わなかった。数が多すぎれば獲物を奪い合うことになるから、離れた場所に縄張りを作るのだろうと思っただけだった。
でも昨夜の若者たちとの遭遇に呼び覚まされた悪夢に苛まれた身には、彼らがつき従うのがいかにも奇妙に思えた。
「……私についてくるのはなぜ?」
リアは低い声で問いかけた。
「私はあなたたちをずっと苦しめてきた。人の多い場所を避けていくからいつも飢えさせて、あげくに恐ろしい砂漠に迷い込んで多くの仲間を死なせまでした。
さんざん苦しめてきたはずよ。なのになぜついてくるの?
……なぜ、ここまで私を守ってくれるの?」
応えは返ってこなかった。ただ、とまどったような思念の動きが感じられた。
魔物たち自身にもよくわからないようだった。
そこへ彼方の森から妖気に満ちた風が吹き寄せてきた。それはさきほどまでとは比較にならない濃密なものだった。風に乗って森全体がざわめくような気配が伝わってきた。あきらかにただの森ではなかった。
やがてその遠い風の中、なにかがいきなり現れた。森のはずれに突如として現れたそれは明らかに吸血鬼の気配だった。しかも途方もない妖気を放っていた。どんな相手かまるで見当がつかなかった。
彼らを解放するどころではなかった。尋常ならざる場所としか思えない。声におのずと決意が滲んだ。彼らを近づけては、これ以上苦しめてはならないと!
「みんなここから動かないで! 私が確かめるから」
そしてリアはざわめく森へ、魔風に髪をなびかせ歩み始めた。はるか先に待ち受けるものを己が意識で探りつつ。
<第3章:最果ての森 その1>
風がその森から吹き寄せていた。残照の消えた夜空よりもなお暗い深い森の揺れる梢を風が吹き渡っていた。
風が吹き梢がざわめく。あたりまえの光景のはずだった。
しかし風は強い妖気を帯び、ざわめきはそれ自体の法則に従い風とは微妙にずれていた。あたかも樹々が、互いに秘密の言葉を交わしてでもいるかのように。
頭の後ろで束ねたまっすぐな髪が風の孕む妖気に乱れた。この身と同じ吸血鬼の、けれど桁違いに濃く混じりけのない妖気に。相手は人と吸血鬼との力の差さえ比較にならぬ高みに在るのだ。探ろうと伸ばしていた意識をリアは思わず引っ込めた。身を固くした少女の青い目が、緑がかった常闇の奥から歩み寄らんとする姿を捉えた。
それが歩み出たその瞬間、たちまち周囲が明るくなった。天頂からの月明かりを受け、大きくうねる金色の髪が緑の闇を圧してまばゆくあでやかに照り映えたのだ。
見たところはリアよりやや年上の上背のある乙女の姿だった。色の濃い豊かな金髪が丈高き背から腰へと弧を描いていた。浅い紫の長衣に緑の帯を締め紺に染められたマントを羽織った体は、輝く髪とは対照的に月影のごとく夜の闇に溶けていた。
頭には簡素な作りの、しかし白銀色の冠のようなものを頂いていた。その正面に赤い宝玉がひとつ輝いていた。その冠のせいか昔話に出てくる姫のような姿だとリアは思った。
そういえば昨夜山道で出会った若者たちは自分のことを闇姫の眷属とかいっていた。この乙女こそが闇姫と彼らが呼ぶ者に違いなかった。
大きく見開かれた目は緑色で渇きに苦しむ真紅でこそなかったが、訴えに満ちたまなざしだった。なにかを求めてやまぬことが離そうとした意識にいやおうなく届いた。そして小さな赤い唇が動いた。
だが聞こえたのは、耳にしたこともない言葉だった。
相手が白い両腕を差し伸べ、またも言葉が発せられた。やはり理解できなかった。けれどそれは、なにかに似ていた。
だしぬけに思い出された。魔術士の呪文にそっくりだ。けれどこれは呪文ではなく、明らかに呼びかけだった。
高位の呪文の多くは上古の時代に作られたのよ。上古の言葉が失われた今もなごりがいくらか留められているの。
もうはるか昔のような遠い声がした。人間だった彼女に魔術の手ほどきをしてくれた師にして名付け親の導きの言葉が。
「では、これはもしかして上古の言葉?」
ありえない話ではなかった。これだけの妖気を持つ者ならば、どれだけの年数を生きてきたか計り知れないとさえ思えた。だが高位呪文を習得していない少女に、それ以上言葉を解するすべはなかった。
リアは相手に視線を戻した。腕を下ろし、視線も地面に落ちていた。落胆している様子がうかがえた。けれど相手に掴まれないよう意識を引っ込めたせいで、少女にもそれ以上のことはわからなかった。乙女がこちらを見ていないためリアも心を定められぬまま、ちらちらと相手を盗み見ていた。
リアは転化後に他の吸血鬼と出会ったことが一度だけあった。直接顔を会わせてではなく意識を介してのことだったが。
その相手こそリアを牙にかけた者だった。自らを牙にかけた者にあまりにも長く責めなぶられた果てに歪み堕ち、すべての者を呪うしかないところまで追い詰められた者だった。彼女はリアを苦しめるため、牙にかけながらわざと殺さなかった。己が受けた仕打ちをリアにも繰り返さずにいられなかったから。
リアにとって彼女はまさに魔王だった。自分を直接牙にかけた者の力は凄まじかった。転化してからの二十年、吸血鬼としての支配の理の上に彼女は憎悪と怨念に支えられた凄まじい意志力と果てしない悪意を培っていた。人の心ゆえの呪訴が吸血鬼の力を得て、この世を滅ぼす意志に憑かれた最凶の魔物と化しつつある姿だった。アルデガンの長だった彼女の父に滅ぼされなければ、この大陸はその牙に呪われた者で満ち溢れていたに違いない。
吸血鬼は吸血鬼を殺せない。たとえ牙にかけた相手でも、どれほど力に差があろうと。
だからこそ、力ある相手にはうかつに近づけないのだ。もしも支配されれば、待つのはまさに永劫の地獄だから。
リアを牙にかけた者もその苦悶ゆえ、あれほどまで痛ましくも歪み堕ちたのだ。己の落ちた無限地獄に全ての者を引き込まんと呪わずにいられぬところまで……。
もちろんそのことは知っていた。身を持って思い知ったはずのことだった。それでもリアは、いつしか相手から目を離すことができなくなっていた。そんな自分に驚きさえも覚えつつ、いまや少女は冠を頂く丈高き乙女をひたすら見つめていた。
目の前にいるのは自分よりはるかに強大な存在のはずだった。でもそれは、単に年数を経て増した力ゆえのものでしかないようにも見えた。
憎悪や悪意は感じられず、どこか哀れな印象さえあった。
うかつに近づける相手ではないはずなのに、放っておけないと思えてならなかった。
リアは意を決した。
「あなたはだれ?」
言葉とともに意識を伸ばし、直接心にも呼びかけた。
相手が顔を上げ、すがるようなまなざしが向けられた。そして思念が返された。
>……わからない。私はだれ? 私はだれだったの?<
「……もしかして、さっきもそういっていたの?」
相手はうなづいた。
「あなたに会うのは初めてよ。わかるはずがないでしょう?」
大きな緑の瞳がうるんだ。リアは困惑した。これでは話が続かない。とにかく先の続けられる話をするしかなさそうだった。
「では私からきくわ。あなたは私がだれだかわかる?」
>あなたの、名前?<
「名前じゃないわ。私が何者なのかよ。あなたには私は人間に見える?」
緑色の目がかすかに光った。
>人間じゃ、ない……<
「そうよ。私は人間じゃない。あなたと同じよ」
とたんに相手は膝をつき両手で顔を覆って叫んだ。思念だけでなく忘れられた言葉で。
>私は人間だったのよ!<
おぼろげながら、リアにも事情が呑み込めてきた。
「人間だったことを忘れていた。けれども思い出してしまった。そうなのね?」
乙女は身を震わせていた。リアより背が高いにもかかわらず、その様子はまるで置き去りにされた子供のようだった。
確かに置き去りにされたのだ。リアは悟った。記憶のないまま過ごした時の流れの中で乙女に関するすべてのものが消え失せ、彼女はただ一人置き去りにされたのだと。
「人間だったことを思い出したのはいつごろなの?」
>……ずっと、ずっと前<
「それまでは自分を疑問に思わなかったのね?」
乙女が小さくうなづいた。
「なぜ自分が人間だったとわかったの?」
>花を見たの<
「花を?」
>……夜に咲かない花を人間の家で見たの。昼間に摘まれたまま咲き開いていた。私が知っているはずがない形で<
>なのに私はその花を知っていた。そして思い出した。この身に日の光を浴びながら私はこの花を摘んだことがあったと……<
「……それだけだったの? 思い出せたのは」
乙女はまたうなづいた。
どうやら死んで転化した者らしかった。死んでからっぽのまま甦り、人の血を得て転化を終えた者のようだった。そういう者にリアはこれまで出会ったことがなかった。
転化が進みからっぽのまま甦った者の姿を見たことはあった。動く死体のような状態だった。近づく者に盲目的に牙を剥く恐ろしい姿に、まだ牙を受けたばかりだったリアはあのとき怯えた。自分もそうなると思っただけで心が挫けたほどだった。
だが死んで転化した者のいったんからっぽになった魂は、意識が目覚めた時点では生まれたてに等しいある意味無垢なものであるらしいことが乙女の話からうかがえた。おそらく彼らは自分がかつて人間だったなどと夢にも思わず、ただ出会う人間を無心に牙にかけたに違いなかった。人間の心を持つゆえの苦しみとも、さらに苦しみゆえの歪みともそれは無縁の境地のはずだった。
それゆえ今や感じ方が変わっていた。いかに人の目に恐ろしく見えようと、牙にかかり死んで転化する者がからっぽになるのはむしろ自然なのだと、慈悲でさえあるのだと。
自分のように人間の心を残してしまったり、目の前にいる相手のように記憶の欠片だけを取り戻したりするのは不自然であり、それゆえの苦しみを免れないことなのだと。
確かに目の前の名もなき乙女は、長い時の果てに凄まじい力を持つにいたった上古の吸血鬼に相違なかった。
だがその心は、たった一つの記憶を取り戻したばかりに自然に在れなくなっていた。時の流れに置き去りにされた無力な魂が、己が身を見失った不安と無垢でいられぬ哀しみになすすべもなく苛まれているのだ。
こんな状態でどれほど長い時を過ごしていたのか。哀れとしかいいようがなかった。放っておけば永遠にこの状態から抜け出せないに違いない。
決して放っておけないとリアは感じた。でも失われた記憶を、相手が望んでやまぬものを与えるすべはなかった。ではどうするのか。なにができるのか。
答はすぐに見いだせた。けれどリアはためらった。相手が哀れだからこそ、それは容易に決められぬことだったから……。
「……人間だったときのことが知りたいの? そのせいでもっと苦しむかもしれなくても?」
それを聞いて、乙女がリアを見上げた。
「私は五年前に転化した。自分の意識も記憶も全て残したまま、こんな身に堕ちてしまった」
リアは乙女の正面に膝をつき、両手でその肩を引き寄せた。
「私はあなたの望みを叶えられない。でも、あなたが自分のことを知ってしまえば感じるかもしれないことなら伝えられる」
今度はリアの青い目が丈高き乙女を見上げた。
「あなたをもっと苦しめるかもしれない。それでも今の状態からあなたを変えるためにできることはこれだけなのよ。
でも、望まないなら無理強いしないわ。そんなことが許されるものではないから」
緑の瞳に脅えが走った。まぶたが固く閉じられた。
しばしの逡巡を経て、しかし乙女の思念は告げた。
>……もうこのままではいけないと思う。だから、お願い<
リアは乙女の魂に自分の魂を重ねあわせて感応させた。
これまでのすべての記憶が相手の中へと流れ始めた。
ゆっくりと伝えた。
かみしめるように。
<第3章:最果ての森 その2>
終わった時、月は大きく傾いていた。
乙女は呆然と緑の目を見開いていた。
「これが私の過去と今。私は自分のことを忘れなかった。だからこんな道を歩んできたわ……」
>……私が自分のことを覚えていたら、こんなふうに苦しんだというの?<
「同じ道ではなかったかもしれない。でも覚えていたら、あなたも人の目で吸血鬼と化した我が身を見つめるしかなかったはず。私にはあなたが苦しまずにすんだようには思えない」
リアは立ち上がった。
「いくら覚えていたって人間になんか戻れはしない。ただこんな身のまま在り続けるだけ。それは私もあなたも同じだから」
>それで、あなたは願っているの? いつか滅びたい……と<
「私たちは人間じゃない。けれど吸血鬼として自然にふるまえるわけでもない。不安定な状態がずっと続くばかり。このままでは決して安らぎは得られないのよ。
しかも私たちは大きすぎる力を持ってしまった。魂一つ歪んだだけで世界のあり方をねじ曲げてしまう力を。こんなに危うい、脆い心を抱いたまま……」
少女は上古の乙女に目を向けた。
「世界を歪めずにすむ保証なんかどこにもないわ。そうなれば、もう私たちが苦しむだけではすまないもの」
>……いつまでもこう在り続けていてはいけないというのね<
乙女のまなざしが己の内を見つめていた。
>滅びにしか救いはないと……<
だがかみしめるような思念がいったとたん、たちまち風が吹き荒れ渦巻いた。風鳴りにざわめく樹々に乙女がはっと面を上げ、うろたえた様子で中空に叫んだ。
>違う、そうじゃない、違うのよ!<
「どうしたの? これはっ!」
真正面からの激しい風に思わず目をかばったリアが叫んだ。
>森があなたを私に仇なす敵とみたわ!<
渦巻く風に身を巻かれつつ、乙女が少女を振り返った。
「あなたの、敵?」
>あなたに触れて、私は滅びを願うことを知った。
だから森はあなたが私を滅ぼすとみなし、あなたから護ろうとしているの!<
「いったいなに? この森は!」
>私を護り続けてきた。渇きからさえ<
「まさか、あなたの妖気を浴び続けて」
>いつしか私と意志をかわすようになった<
「魔性に目覚め逆にあなたを取り込んだの?」
>私に生きろといっている。そうすれば<
「あなたをいつまでも生かしておいて」
>力を得てどこまでも広がってゆけると<
「妖気を糧にこの大陸を覆いつくすまで!」
乱れ飛ぶ思念と叫びの背後で、樹々のざわめきが一つの響きにまとまり始めた。
>だから、あなたは敵なのだと<
「だめ! それでは世界が! 従わないでっ」
>私を引き離すといってるわ!<
妖気に満ちた空間に言葉に似た響きが織り上げられた。乙女の話す上古の言葉にそれは似ていた。
瞬間、響きと妖気が溶け合い魔力が発動した。風に絡められた丈高き姿がかき消えた!
魔力の余波を放ちつつ、風の渦がほどけて散じた。呆然と立ち尽くすリアのもとに、微かな思念がかろうじて届いた。
>私はあなたを忘れない。でも、森ももうあなたを忘れない。
あなたが森に近づけば、森はあなたから私を引き離す。
あなたにはもう会えないわ。けれど決して忘れない……<
こだまのような思念ははるか彼方に消え失せた。
すると樹々のざわめきが転じ始めた。敵意と悪意のただ中に、貪欲な響きが滲み出てきた。
「まさか私まで狙うというの?」
戦慄する少女の前でざわめきが膨れ上がり、触手のごとき風がどっと吹き寄せた。必死でもがき、倒れ込んだまま地を這った。絡む風から、生の魔性の権化と化した昏き森から逃れるべく。
空がうっすらと白み始め、追いすがる風がようやくやんだ。
リアは青ざめた顔で振り返った。西の地平にわだかまる、影のごとき魔の森を。
「種族を超えた力は種族の運命と世界の命運を狂わせる……」
口に出たのは、かつて出会った異世界の魔物の言葉だった。
その力の源として、強大な妖気と哀しみに染め上げられた魂を併せ持つ上古の乙女はあの森に縛られているのだ。
乙女の心には世界そのものへの害意などまったくなかった。
大昔に吸血鬼の牙にかかった哀れな犠牲者にすぎなかった。
にもかかわらず、彼女の存在自体が森を変貌させたのだ。
長大な年月をかけてじわじわと、しかし確実に世界を呑み込む巨大な魔物へと……。
「……私たちはただ在るだけで全てをねじ曲げるというの?」
低いつぶやきに応えるものはなかった。
リアが戻ると、魔物たちがいっせいに視線を向けた。けれど、なにかが変だった。
人面の獅子のごとき魔獣が出迎えた。これまで以上に人に似た顔で、表情で。
思わず少女は立ち止まった。
「……どうしたの?」
向けられた魔獣の目の奥に、なにかが生まれていた。
荒ぶる魂の中、それが育ち始めていた。
形を取ろうとしつつあった。
やがて哀しみになるはずのものが。
「まさか! そんなっ」リアは叫んだ。
「私の魂に染まったの? こんな心で触れ続けたから?」
ぞっとして見回した。どの魔物の目も同じだった。
人間と区別のつかないものになろうとしていた。
もともとかけ離れていたわけではなかった魂が。
「だめよ! だめっ」少女は悲鳴をあげた。
「離れて! 私のそばにいてはだめ!」
>離レ難イ……<
人面の獅子のごとき魔獣がぎこちない思念を返した。
「去りなさい! それは自然な姿じゃないわ! ただいたずらに苦しむ、歪んでしまう」
>去レルモノハ去ッタ。去レヌモノバカリガ残ッタ<
巨人の思念が応じた。
>去リ難イ、己ガ心ノ求メユエニ<
膝を落としたリアを朝日が照らした。目が見えなくなった。
魔物たちが身を寄せてきたが、その姿ももう見えなかった。
ただ己が魂に、彼らのぎこちない魂が寄り添うのを感じた。
少女は悟った。彼らはもう元に戻ることがないのだと。
「私はなにもかもねじ曲げてしまうの?」
光に盲いた目から涙が溢れた。
「私はどうすれば、償えばいいの?」
>心ノママ憩イノ地ヲ求メ行ケ<
皮の翼で日を遮る魔獣が応えた。
>ソコガ我ラノ憩イノ地ナレバ<
地平線に魔の森の影わだかまる荒野のただなかで、奇妙な絆で結ばれたものどもは戻ることなき旅立ちの夜を待つのだった。
光を耐えしのぶべく身を、魂をぎこちなく寄り添わせつつ。
終