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日めくり

作者: 古流

 今年も除夜の鐘が鳴り出しました。

 私の心には数え切れない煩悩があるのでしょうか、鐘の音を聞くと悲しい気持ちになるのです。


 あぁ、あの時……。

 あの悲しみに満ちた目を持った少年に出会ってから……。


 一年前の大晦日の夜のことです。


 私は長男に嫁いだもので夫の両親と同居を余儀なくされました。気苦労さえ気にしなければ健太という7歳の息子を授かり幸せな生活をしていたのです。

 その日、早めの夕食を済ませた夫は子供と両親を連れて車で親戚の花屋に正月用の花をいただきに出かけておりました。

 私の家では、元日は親戚の接待のために家にいなければならない風習があるので里帰りをすることなく、大晦日の夜のひと時を私一人が留守番として家にいたのです。

 夜の八時頃でしょうか、テレビの歌合戦を見ながら正月の準備をしていました。それほど風は強く吹いてはいなかったのですが、しっかり閉められているはずの窓からどこからとも無くすきま風が吹き込んできて、部屋の窓ガラスがガタガタと鳴りました。そして同時に玄関のチャイムが私の耳に響きました。それは妙に唐突すぎて私を驚かせたのです。誰かが帰ってきたのかと私は玄関へ出ていきました。そこに立っていたのは火のような黄色いセーターを着た健太と同じ年ごろの小さな少年でした。

「カレンダーいりませんか」

 カレンダーが入っているらしい鞄を首から下げて小さな声で言いました。

「悪いけどカレンダーはいらないのよ。ごめんね」

 私は優しく言いました。

 少年は鞄を両手でしっかり抱きかかえるようにして頭を下げたのですが、寒さのせいか唇が青くなり体が小刻みに震えていました。少年は頭を上げてからも、しばらくそこを動こうとせず悲しみに満ちた目で私を見ていました。

 なぜか、私は声をかけずにはいられなかったのです。

「よかったらカレンダーを見せてくれない」

 少年は返事をする代わりに目からひとすじ涙を流したのです。

 私はその時一人だった気安さと、あまりにも悲しく寒そうにしていた少年が可哀想に思ったので、家の中に招きストーブのスイッチを入れました。

 その温もりが少年の頬を赤く染めるのに、それほど時間はかかりませんでした。

「いいわ。カレンダーを買ってあげるわ」

 私がそう言うと少年はうれしそうに笑いました。

「ありがとう」

 鞄から取り出したカレンダーは一日が一枚の日めくりカレンダーでした。

「いくら」

「十円です」

 十円がどれほどの価値があるものか誰だってわかります。

「本当に十円でいいの」

 私は財布から十円玉一枚を取り出し、その子の手のひらに乗せてやりました。そしてお小遣いとして五百円をあげたのです。

「温かいココアよ」

 私は湯気が立ち上るカップを少年の前に置きました。

 少年は嬉しそうに微笑みましたが、すぐに悲しそうに目を伏せました。これほど悲しみが似合う少年を私は見たことがありません。

「あと一冊売らないと怒られるから」 

「あと一冊残っているの。あと一冊も買ってあげようか」 

 少年が喜ぶだろうと思って言ってみたのですが、喜ぶどころか膨らませた風船をいきなり手から離した時みたいに、目の玉をくるくる回して一瞬のうちに表情を変化させたのです。私はその時、奇妙な子だなと思っただけで、そのことに関して深く考えもしなかったのです。

 少年は暖かいココアをおいしそうに飲みました。

「どこに住んでいるの?」

 私は悲しみを和らげるために精一杯の明るい声で言いました。

「この近く……ココアありがとう」

 それだけ言って立ち上がり、少し歩いた少年は玄関のドアの前で立ち止まりました。そして聞こえてきたのが、私の明るい声など飲み込んでしまいそうな、悲しみに満ちた声でした。

「ぼくと一緒に帰ろうよ」

 私は何の事かわからないので小首を傾げると、少年はもう一度言いました。

「ぼくと一緒に帰ろうよ」

 少年は私の手を取りました。冷たい手でした。私は混乱しました。

「ありがとう、でも私のお家は、ここなの」

 少年は黙ってドアの向こうを指差します……まるでそこに私の家があるみたいに……。

「ドアの外にあるのはあなたのお家よ。外は寒いから気をつけてね」

 私の言葉に少年はもう何も言わず、私に背を向けて玄関を出て行ったのですが、私はその背中を見てやはり何か寒いものを感じ無いわけにはいかなかったのです。その時、私は身体の一部に火で焼かれるような痛みを覚えました。時々起こる私の病気のようなものです。実を言うと今日もそうでした。ストーブをつけていたのに、私はあまり暖かく感じられ無かったのは、気づかないうちに私の身体中に断片的な痛みが連続して発生していたからで、それは痛みとして感じることがないほど微細なものでした。日常生活をするなら何の問題もない程度のものですが、それでも年に一度の頻度で私の体を我慢できない痛みが襲うことがあります。それは幻覚を伴って現れます。最初は目の周りに現れ、それがゆっくりと首を下がり脇の下を抜け胸の谷間を這っていき、少しの時間を開けてから私は火で焼かれるような痛みを下腹部に感じるのです。長く続くこともあるし、今回みたいに一瞬で終わることもあります。その痛みの原因を正確に診断してくれる病院が今のところなく、そう度々ではないので私はその痛みに耐えるしかありません。

 その痛みの代償が少年から一冊十円で買った日めくりカレンダーです。


 まさか、あんなことが起こるなどとは想像もせず。

 私はその日めくりカレンダーを戸惑うことなく奥の荷物部屋にかけました。



 目出たく新しい年を迎え、一月三日の朝が開けて、カレンダーのことなどすっかり忘れていました。新年の挨拶帰りに夫婦で入った喫茶店でのことです。古新聞という奇妙な名前の店で、名のとおり広くない店内の至るところに古新聞が貼られ、壁やテーブルの上は勿論、座る椅子やコーヒカップにも古い新聞記事で埋まっていました。

 私は天井からぶら下がっている印刷会社が火事にあったという古い新聞記事のタペストリーを眺めていました。私の家は過去に印刷屋をしていたから興味がわいたのです。

 コーヒーを持ってきてくれた年配のマスターがその様子を見て声をかけてきました。

「この火事は本当に悲惨でした」

 マスターは悲しそうに目をしばたかせました。

「私が住んでいた家の近くだったのでよく覚えているのですよ」

 この喫茶店が一世一代の檜舞台で私たちがそれを鑑賞する観客みたいに……マスターは時には声を荒げ、時には声を潜めて、まるで地下演劇の役者のように苦悩し悶え叫びました。

「元はといえば、その土地の地方紙の印刷をしていたのを、知り合いの薦めでカレンダーの印刷に変えたってわけだ。ただ欲が出たのさ。欲が……。むっくりとしたでっかい欲望だ。そりゃ、やり始めた当時は仕事も大量にあった。機械を止める暇が無いくらいにさ……。必然的にバンクから金を借りて高額な印刷機を導入することになる。当然、人も雇いました。さぁさぁ、設備投資をしてこれからというときになって、とんでもないミスが起きた。一月四日が真っ白なカレンダーを印刷してしまったのさ。気がついたときは大量に印刷してしまった後だった。貧すりゃ鈍す。釘打ちゃ手を打つ、仕事がぱたっとこなくなる。よくあるストーリーだ。発注元は雲の霞のごとく消えてしまい、残るはバンクの借金だけ。印刷機は差し押さえ、可哀想に会社は倒産」

「どうして、そんなミスが起こったの。何度も校正するはずなのに」

「さぁさぁ、喜劇が時に悲劇になる不思議が分かるかね。そこがミスのミスたるものだ。ミスは起こる。それは時と場合を選びはしない。完全なものなどどこにもない。人間が作ったものに完璧なものは爪の先ほどもないのだよ。そのためにどれほどの知恵とコンピューターを駆使したところで無駄なのさ。どれほどのガードを施そうが人間は不完全なものしか作れない。そのように出来ているのだよ、お立ち会い。それを倒産だけで終わらないのが悲劇の悲劇たる所以。かくして印刷会社は火事を出して社長本人と息子夫婦、可愛がっていた八歳の孫まで焼け死んだ。可哀想なのがこの孫でござい。日めくりカレンダーを胸に抱えて死んでいたのさ。さらにとどめの一撃が火事のあった一月四日はその孫の誕生日だったとくれば、涙なしでは語れない。おまけにその子のお腹にはカレンダーの数字がくっきりと焼きついていた。印刷されていないはずの四という数字が……。おぅ、マンマミーア! やけを起こした社長自らが火を放って一件落着となる。だが、そうは問屋が卸さないのが悲劇の悲劇の悲劇たる所以である。それを三連続悲劇と人は呼ぶ。親悲劇の背中に子悲劇乗せて、子悲劇の背中に孫悲劇乗せて、親悲劇焼けたら皆焼けた。さぁて、お立ち会い! その家族にもう一人四歳の女の子がいた。その女の子はその日からまるで神隠しあったみたいに消えてしまったから堪らない。もちろん焼け跡からも発見されなかった。謎じゃよ、今世紀最大のカレンダーミステリー」

 私たちは聞き入ってしまいました。

「女の子?」

「その女の子はあれ以来見つかっていない。その姿を見た者すらいない」

 マスターの余りの熱演に私たちは呆然とするしかありません。

「20年以上も昔のことだよ」

 夫が呆然としている私に声をかけました。

「26年前です。杉並区高円寺○丁目」

「それは私の本籍地」

 少なくとも私の記憶ではそうだった。

「またまた現れた群れたがる偶然、燃えたのは左衣紋(さいもん)印刷」

「左衣紋印刷?」

「そうだ、左衣紋印刷所。まさかあなた……そこまで続くとこれは出来すぎた作り話だ」

「私の旧姓は左衣紋」

「はははは、密に集まる虫はいるが火事に集まる虫がいるとは、飛んで火にいる夏の虫だ」

 私たちはあっけにとられていました。

「さぁて、お立会い……悲劇が喜劇たる訳を語ろうじゃないか。何を隠そう、私はそのカレンダーを持っているのだよ。これ不思議の連鎖。さぁ、日めくりカレンダーをめくってみようじゃないか。日めくりカレンダーの数字が抜けていて、それがあんたの誕生日だったら、おっとビックリ一等の大当たりだ。速やかにカレンダーを裏返し袱紗で包んでご返送ください。この世じゃお目にかかれないお宝「そのまま日めくり」を差し上げます」

 そう言うと、マスターは手品のようにいきなり私たちのテーブルの上に日めくりカレンダーを出現させました。

 それは記憶違いでなければ少年から私が買った日めくりカレンダーによく似ていました。

「そして、明日はその悲劇があった一月四日。印刷の単純ミスとはいえ、悲しいことにこのカレンダーの一月四日は真っ白なのです。」

 カレンダーはマスターの手によって一枚一枚めくられる。

「本当に真っ白だ」

 夫の小さな声が聞こえました。もしかしたらそれほど小さくなかったのかもしれません。私がその白い部分に気をとられていたからそう感じたのかもしれないのです。私にはその白い部分に小さな白い何かが群れ動いているように見えました。それは時として私の身体を這い回る小さな虫のようなものと似ているように思いました。それが私の身体をチリチリと焼くのです。心中をあざ笑うようにジリジリと。

 喫茶店のマスターの声は小さな炎となって私の心に何度も何度も火を突き刺しました。刺しては抜き、抜いては刺した。痛みすら感じない細い、細い火の跡。



 悲しい事件が起きたのは、次の日のことです。マスターが言った一月四日。

 里帰りをしていた夫の妹の子の怜央(れお)が悪さをしたとかで妹が朝早くから酷く叱り奥の荷物部屋に閉じ込めたのです。夫の妹はそれほど子供と接することを好む人ではなく、どちらかといえば自分の時間を自由に使いたい人だったので、子供に束縛されることを極端に嫌いました。実家から近いせいか毎日のように怜央を連れて来て自分は友達と出かけたりしていました。その妹が怜央を奥の部屋に押し込めたまま、さっさと友達と遊び出たのです。私は可哀想だとは思いましたが、その行為自体は躾の一環として見ていましたので、外から鍵がかけられた部屋をそのままにしておきました。昼になっても夫の妹は帰ってきませんでした。お昼ご飯を食べさせてやらないと可哀想なので夫にそれとなく聞くと「かまうな」といいます。それでも気になるので、私が毎日している日めくりカレンダーをめくる作業するために私はその部屋の鍵を開けたのです。

 怜央は奥のタンスの隙間にじっと座っていました。

「おなか空いたでしょう。トイレ大丈夫?」

 私はそう言いながら日めくりカレンダーを一枚めくろうとした時です。明日は一月四日。マスターの声を思い出したのです。めくろうとしていた私の手は止まり大きな恐怖が襲って聞きました。三と印刷された紙切れを不気味に持ち上げる無数の白い何かが、私には見えたのです。その時、これはめくってはいけないのだと私の意志が伝えていました。

 

「一・月・四・日」

 その時、怜央が発した声を聞いたのでした。

「きょう・は・ぼ・く・の・た・ん・じょう・び・だ・よ」

 一文字一文字ゆっくりと聞こえました。まるで言葉が自己主張をしているように、人格が備わっているように。

 そういうなり怜央は私の前に飛び出してきて、私が今めくろうとしていたカレンダーを一枚引きちぎったのです。

 子供が日めくりカレンダーをめくってみたくなる好奇心がわからないではないので私は笑いながら見ていました。

「あっ!」と怜央は声を発しました。

 私はその声につられるように怜央に視線を動かし怜央が見ているカレンダーに目を向けました。怜央がめくった日めくりカレンダーには当然あるべき怜央の誕生日の四という数字が印刷されていなくて、マスターの言ったように真っ白でした。

「ミスは起こるときは必ず起こる!」

 マスターの声が聞こえた様な気がして、今度は私が驚きの声を上げていました。

 荷物部屋の壁に掛けてあるカレンダーを睨みつけるようにして怜央は動かなくなっていたからです。私は最初なにをしているのだろうと思っていたのですが、冗談にしては様子がおかしいので、怜央に声をかけたり、ゆすったりしましたが動かないのです。目は見開いたまま閉じることは無く、身体は氷のように冷たくまるで瞬間冷凍された人間の見本のようなものでした。私はあわてて居間でテレビを見ていた夫を呼びました。私の声に驚いた夫は急いでやってきました。夫が部屋に入った瞬間でした。部屋が白い光を発光させたのです。その光は私にはカレンダーが光源のように思いました。光が収まって次第に目がなれてくると動かなかった怜央の姿がありません。夫は眠そうに目をこすりながら私に言いました。

「怜央の事はかまうなよ」

 夫は怜央が消えたというのに何の驚きもせず、まるで何事も無かったかの如く部屋から出ていきました。それとも怜央が部屋を出たのを見たとでも言うのでしょうか。私は呆然として壁の白いカレンダーを眺めていると、不気味にうごめく白い紙の中からいきなり手が飛び出し、私の腕を掴むと引っ張りました。力強い冷たい手でした。私は力一杯振りほどきました。ガタンと私の身体は箪笥に当たり大きな音を立てました。私は恐怖のために立つことさえ出来ませんでした。真っ白いカレンダーを食い尽くす勢いで白い何かが動いているのが見えるだけでした。

 怜央はどこへ行ったのだろうか。

 その日を境に夫の妹も怜央の姿も見たことが無いのです。



 そんなことがあって半年後には私たちは実家から歩いて少しの距離に念願の家を建て家族水入らずの暮らしを得たのです。 

 その年の暮のことです、私は正月の食材や準備のために近くのスーパーに買い物に子供をつれて出かけました。そこで私は夫の妹を見かけたのでした。正確に言うと夫の妹によく似た女性を見たのです。盆や正月にも親の家に帰ってくることはありませんでした。時々、夫に妹や怜央のことを聞くのですが、なぜか曖昧に返答するだけではっきり答えてくれません。知られたくないこともあるのだろうと、私もそれ以上聞きませんでした。二人兄妹でも男と女だからそれほど頻繁に行き来しないのだなと思うくらいでした。

 夫の妹を見て思い出したのが怜央のことです。忘れた訳ではありません。毎日のように目に浮かぶのが白い光の中へ突然消えた怜央のことです。


 私はそれ以来カレンダーを見ると体に小さな痛みを感じる事が多くなりました。カレンダーが怖いのです。だから夫が会社からカレンダーをもらってくることも銀行から手渡されても丁寧に断ります。勿論、我が家の新居の壁に吊るされたことはありませんでした。

「うちの母さんはカレンダー恐怖症だ」

 子供にそんな冗談を言う夫にどこか後ろめたい思いを感じていました。そして何気ない夫の一言。

「最近知ったことなんだけど、うちのおじいさんが印刷会社をしていたんだってさ。カレンダーも印刷していたらしいよ」

 夫の一言は感情がこもらない平坦な言葉でした。録音されたひとこと、ひとことを一文字、一文字引っ張り出したみたい感じでした。私はなぜか胸騒ぎを覚えました。

「ほんと、あなたの家も印刷屋さんだったなんて……」

 私は夫の印刷会社のことや印刷屋をやっていた祖父のことを何か知っているかと思い、久しぶりにお祖父の弟の叔父のところを訪ねました。私はその叔父が小さいときから苦手でした。若い頃から手荒い事も平気でする口の乱暴な人だったからです。叔母さんは気の休めるときが無く気病で若くして亡くなっていました。自殺したと噂されているくらいです。叔父は八十五歳になり少々ぼけてはいるけれどなかなか矍鑠としたところがありました。私は左衣紋印刷所のことを聞きたかったのですが……叔父は知っているのか、忘れているのか、そのことをあまり話したがりませんでした。遠くを眺めて訳の分からない言葉を繰り返すのみでした。

 私はなにも得ることもなく家を出ようとしたときでした。

「さとみがいなくなった」

 おじが聞き覚えのある言葉を私に突きつけたのです。

「さとみがいなくなった」

 さとみは私の名前です。

「里美は私です」

「さとみが消えた」

 叔父がくるりと首を90度回転させた。そこには1枚の写真がかけられてありました。それは小さな兄妹の写真でした。私はその写真を見たときの驚きは筆舌に尽くしがたい思いでした。そこに写っている男の子の顔を知っていたからです。叔父は首を90度戻すとニヤリと笑いました。そして、相変わらず意味の無い言葉を繰り返しておりました。そして帰り間際に叔父は一枚の写真を見せてくれたのです。それは信州安曇野の童祖神の写真でした。幼い少年と少女が肩を寄せ合っている原色で彩色された石像です。

壁にかかっていた写真と叔父が見せてくれた写真は私に何を訴えたかったのか、私にはその何かが分かるような気がするのです。私の真相に刻まれたその光景がみえるような気がします。体の痛みのことも、たぶん、前から私は気づいていたのです。夫の印刷会社に何があったとしても、あの子が悪いのでもなく、ましてや私が悪いのではない。

 私は玄関の前で見送ってくれるあまり好きではなかった叔父にいつまでも元気でねと声をかけ家を出ました。

 


 私は、息子の八歳の誕生日が来るのをなぜか恐れていました。怜央のことがあったからです。息子の誕生日は十二月三十一日です。大晦日の出来事があってから一年が過ぎたのです。

  今年も除夜の鐘が鳴り出しました。

 私の心には数え切れない煩悩が群れているのでしょうか、鐘の音を聞くと悲しい気持ちになるのです。

 あぁ、あの時……。

 あの悲しみに満ちた目を持った少年に出会ってから……。


 しっかり閉められているはずの窓からどこからとも無くすきま風が吹き込んできて、部屋の窓ガラスがガタガタと音をたてました。玄関チャイムが鳴る代わり、電話のベルが鳴りました。私はその電話で叔父さんが死んだことを知ったのです。そのことは悲しいことですが、その悲しみが私の生活になんの意味も持たないことを私は知っています。嫌いだった人の死が、生きている私にとって意味あるものになることなど決して無いでしょう。私のいるリビングには夫と息子の健太がテレビで漫画を見て笑っている。そのこと以上に意味を見出せることなど無いからです。私はこの幸せな暮らしがいつまでも続くようにと鳴り出した除夜の鐘にお祈りをしました。電話を切って玄関に目を向けたときです。叔父の家で見た写真の少年が黄色いセーターを着て、真新しい赤いマフラーを首に巻いて私の前に立っていたのです。なぜか私にそれほど驚きはありませんでした。少年は黙って鞄を首から外すと私の前に置きました。

「ごめんね。カレンダーはいらないのよ」

 そう言った私の体は全身に燃えるような痛みを感じ、体中に小さな白い虫が這い回る感覚に襲われました。体から力が抜けてその場に崩れ落ちていました。

「もう、帰ろうよ」

 少年は言いました。私は苦しくて声が出ません。

「カレンダーは全部売ってしまったから、もう帰っても大丈夫だよ。もう帰ろう」

 私にはなにも見えていませんでした。声が出ないので心で語りかけました。

「あなたは誰なの。なぜ私を、そしてどこへ帰るというの」

「カレンダーの向こうへ」

 悲しそうにいう少年に私は幸せな暮らしを邪魔させるわけにはいかなかったのです。目の前にあった鞄を手に取ると力いっぱい少年めがけて放り投げたのです。少年は大きく口を開けた鞄の中にめり込むとクルクル回転しながらドアの向こうに消えていきました。

 その刹那、全てが終わったように私の心の中に清んだ空気がどっと流れてきて、清清しい気持ちになりました。身体の痛みも白い虫もすっかりいなくなっていました。


 私は精根尽きて玄関で座り込んでいました。

 

 その時、健太がリビングルームから私に向かって歩いてくるのが見えました。首にはさっきの少年と同じような赤いマフラーをしています。五百円の値札がぶらぶら揺れていました。

「もう帰ろう、僕と一緒だから、もう大丈夫だよ」

 私は健太のその声にあがなうことなど出来ませんでした。健太が差し出す手を握り玄関のドアに向かっていきました。ドアには日めくりカレンダーの最後の一枚が今にも飛んでいきそうな勢いで貼り付いていました。

 十二月三十一日。

 健太の八歳の誕生日です。ドアが開いたとき最後の一枚は三十一の文字だけが黒い粉塵となって吸い込まれるようにドアの向こうに飛んでいきました。

 ドアに貼り付いたままの白い紙には緑の風景が映写され、小さくなった私の手は少年に抱かれるように緑の中へ入って行きました。大きな木の下の小さな祠が私達のお家でした。


 私が誰も気づかれずに塵のように姿を消したのは、風も強くないのに窓ガラスがガタガタとなった十二月三十一日の夜でした。

 夫がチャイムを聞いたかどうかは、私には知るすべがありません。


読んでいただいて有難うございました。ホラーというには程遠い話になりましたが、これが精一杯ですね。もう少しうまく使えば日めくりカレンダーが恐怖の対象になり得たかも知れないと思うと少々残念な思いもあります。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 仄暗い水の底から を少し思い出しました。 [一言] 少年は主人公を連れていくことができて、満足して幸せでいると思います。
[一言] ホラーというには程遠い…と書かれてますが、普通に怖かったです。何か髪の毛がざわざわしました… でも最後はわりと平穏な終わり方だったのでそれが救いです。
[一言]  蝙蝠傘さん、日めくり、作品よませてもらいました。  これは、怪談とお見受けしました。  神隠し、里美は、そう呼ぶコトが出来ますね。  暦が途切れるというのは、縁起が悪い。  この作品に感じ…
2013/08/15 11:31 退会済み
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