第76話 苦手な女性/シリルの逆鱗
-苦手な女性-
すごく、気まずい。一体どうしたらいいんだろう?
何を話せばいいのか皆目見当もつかない。とにかくこの、アリシアさんという女性は僕にとって極めて苦手なタイプの女性だった。
一番の問題は、彼女の服装だ。首元にリボンをあしらっただけの胸元を大きく開いたブラウスに、脚も露わな短めのスカート。一応、『星光のドレス』という魔法具らしいけれど、できればもっと露出の少ないものはなかったのだろうか?
そもそも体つき自体が女性を強く意識させる曲線を描いているうえに、彼女自身もすごく人懐こい性格のようで、僕が少し距離を置こうとしても、何の気なしにその距離を詰めてきてしまう。
そんなふうに半ばパニックに陥りかけた僕に対し、彼女はにっこり笑って話しかけてくる。
「うーん。エリオットくんって、ルシアくんより女性に免疫がないのかな? でも確か、ミスティさんと知り合いだったんでしょ? 彼女の方が露出は大きいじゃない」
「それは、その……」
実際、ミスティとは他の冒険者と一緒に臨時のパーティを組んだこともあったけれど、二人きりにはならなかったから何とか対応できたのだ。けれど、それを説明しようにも、なかなか言葉が口から出ない……。
「……二人っきりなのを、意識しちゃうんだ? でも、うーん、どうしよっかなあ?」
「え?」
アリシアさんには“真実の審判者”という他者の【魔力】に“同調”して、その精神状態や能力・性質などを感じ取る力があるらしいけれど、まさかここまでとは思わなかった。
「じゃあ、他の人ともお話ししながら行く? さっきのシリルちゃんの話じゃ、ヴァリスはシャルちゃんと一緒だし、ルシアくんもエイミアさんと一緒みたいだしね」
……ルシアがエイミアさんと一緒? ふーん。なんて羨ましい。
ルシアがエイミアさんと二人きり? ふーん。なんて妬ましい。
よし、彼には後で、戦闘訓練にでも付き合ってもらうとしよう。たまには因子制御なしでフルパワーでの訓練っていうのも、いいんじゃないかな?
「エ、エリオットくん? ルシアくんは仲間なんだよ? わかってる……よね?」
「もちろんです」
僕はアリシアさんの問いに胸を張って答える。仲間だからこそ、遠慮はいらないのだし。
「うう、全然わかってないじゃない。仕方ないなあ……シリルちゃん、聞こえる?」
〈ええ、聞こえるわよ。〉
アリシアさんの呼び掛けに指輪が振動し、そこからシリルの声がした。
「えっと、エイミアさんたちと繋いでもらえる?」
〈了解。〉
『風糸の指輪』は便利な魔法具だけれど、ルシアとシリルの二人が持っているという『絆の指輪』は、複数同時の会話や中継が可能となるなど、まるで別次元の魔法具だ。
「エイミアさん。聞こえる?」
〈ん? ああ、アリシアか。聞こえるぞ。どうかしたか?〉
「うん。エリオットくんがね。エイミアさんと離れてさびしいって言うから、シリルちゃんにつないでもらったんだけど……」
「ア、アリシアさん! 別に僕はそんなこと、言ってないじゃないですか!」
何をとんでもないことを言い出すんだ、このひとは! 僕は大慌てで弁解したけれど、もう遅かった。
〈エリオット? がんばれ。もう少しの辛抱だぞ? ここは構造上、中央塔までたどり着ければ一つに合流するみたいだからな。もうすぐ会えるさ。〉
うう、やっぱり真に受けた。この人にはあらゆる意味で冗談が通じないんだ。
とはいえ、そんな風に言ってもらって嬉しくないわけでもない。
「大丈夫です。エイミアさんこそ気を付けてください。ここには強力な『幻獣』がいるそうですから」
〈ああ、心配ない。こっちにはルシアがいるからな。彼はなかなかに心強いよ。ま、ちょっとした事故はあったけれど、おおむね問題ない……かな?〉
〈どわああ! エ、エイミアさん!!〉
〈ん? いや、肝心なことは言ってないんだから、大丈夫だろう?〉
〈いや、それはそれでまずいですって!〉
エイミアさんとルシアは、随分と仲のよさそうなやり取りをしている。
「……ルシア。後でちょっと話があるんだけど、いいかな?」
〈へ? い、いや、なんていうか、その、誤解だぞ?〉
「それじゃ、また」
〈あ、おい!〉
僕は一方的に通信を打ち切った。
「あははは! 向こうは向こうで楽しそうだね?」
「笑い事じゃないです。ちょっとした事故っていうのが気になって、気になって……」
「うふふ。エリオットくんって、ほんっとうにエイミアさんのことが大好きなんだねー」
「仕方ないですよ。昔からの憧れの人なんですから」
そんな風に言いながら、僕はふと気づく。そういえば、いつの間にかアリシアさんとも普通に会話ができるようになっているみたいだ。
「ほら、じゃあ、あたしたちも向こうに負けないくらい、楽しくお話でもしながら行きましょ?」
そう言ってにっこり笑うアリシアさんは、僕の苦手意識なんて残らず吹き飛ばしてしまうくらい、魅力的に見えた。
地下通路をたどって僕らが行き着いた建造物は、一本の塔のような形状をしているらしい。途中までは昇降機で上がれたものの、そこから先は、円形の塔に巻きつくように設けられた螺旋階段を上がる必要があるようだ。
「外壁も階段も半透明だなんて、まるで空中を歩いているみたいで怖いよね。まあ、これだけ高さがあれば下からスカートの中を見られちゃう心配とかは、しなくていいみたいだけど」
「ええ……ってス、スカート!? いや、その……」
……やっぱりこの人、苦手だ。
「あはは。ごめんね。余計なこと言っちゃった。でも、ほんとこんなに大きい建物があるのに、ここに来るまで全然気づかなかったよね?」
「そうですね。例の隠蔽する【魔法】でもかかっているのかもしれません」
そんなことを話しながら、僕らは階段を上がり続ける。螺旋階段はその形状ゆえか、あまり急なものではない。半透明の外壁と白く輝く内壁に挟まれた階段の幅はかなり広く、シリルに聞いたところでは、この『訓練』自体、結構な大人数で挑むべきものらしい。それだけあのノエルという『魔族』は本気なんだろう。
「……『魔族』の人の中にも、ちゃんとシリルちゃんのことを心配してくれる人がいたんだね。うーん確かに、周りの人がみんな悪い人ばっかりだったら、シリルちゃんもあんなにまっすぐ育つわけないか」
まるで自分がもう一人の保護者であるみたいな言い方が可笑しくて、僕はつい笑ってしまう。
「あ! 馬鹿にしたでしょう? わかるんだからね、そういうの」
「あ、いえ、すみません」
そして、歩くことしばらく。大して時間もかけないうちに僕らの前には、塔の内壁──その内側へ続くと思しき巨大な扉が現れていた。
「この先に、いるんだろうね。エリオットくん。気を付けて」
「はい」
僕は、慎重に扉を押し開く。
中には相当に広い空間が広がっていた。床も今までのように透き通ってはいない。
──そして、部屋の中央には一匹の『幻獣』がいた。
「あれが『幻獣』?」
僕の目に映るのは、獣というより人の姿だ。鈍い光沢の重厚な全身鎧に肉厚の巨大な半月刀を手にしている。──いや、やっぱり人じゃない。人間には腕が四本もあるわけないし、あんなに巨大な半月刀を四本同時に持つなんて、できるわけもない。
「召喚獣じゃないって、本当なんだ……。【魔法】で造られた生き物なの? 名前は、『ゾルクレイド』だね」
魔法で造られた生物? よくわからないけれど、肉弾戦でやりあえる相手なんだろうか?
〈大丈夫。『幻獣』には、基本的に肉体があるからね。だけど、その分、その肉体は掛け値なく強力無比だ。さあ、頑張ってくれたまえ。〉
どこからともなくノエルの声が響く。けれどそれなら問題ない。思い切って戦うだけだ。
僕は前へ進み出て『轟き響く葬送の魔槍』を構える。
すると、まるでそれを待っていたかのように『ゾルクレイド』は四本の腕を掲げ、すさまじい勢いで間合いを詰めてきた。
「速い!」
暴風のように振り下ろされる二本の半月刀はかろうじて回避したけれど、その風圧だけで思わずよろめきそうになる。
「く!」
でも、怯んでいる暇はない。まだ二本の腕が残っているのだ。僕はとっさに槍を斜めに掲げ、続く二撃を受け流す。高い金属音が響くとともに、腕にかなりの痺れが走る。
「うおお!」
僕は全速力で相手の側面に回り込み、鎧の腰の継ぎ目部分を突こうとした。
しかし、奴は人間にはありえない動きで一本の腕をねじるように回し、手にした半月刀の刃でこちらの槍を受け止める。
そして、巨体には見合わぬ俊敏な動作で身をひねり、再び複数の斬撃を同時に浴びせかけてきた。
「こいつ! 強い!」
力が強く、動きが速い。それだけでも大変な脅威だけれど、……それだけじゃない。
「エリオットくん! そいつ、人間で言えば“剣聖”クラスの【スキル】に似た性質があるみたい!」
「なんだって!?」
どうりで強いわけだ。人間にはありえない四本の腕で達人級の剣技を振るわれては、やりづらいことこの上ない。【オリジナルスキル】“闘神の化身”を持つ僕の戦闘感覚をもってしても、次の攻撃の予測が難しい。
「ぐあ! かはっ!」
容赦なく振り回される四本の半月刀に翻弄されるうち、捕捉しきれなくなった一撃が僕の胴体に直撃する。鈍い音とともに息が詰まるような強い衝撃を受け、吹き飛ばされて床に転がる。
「くそ!」
『乾坤霊石の鎧』のおかげで傷こそ負わなかったが、身体の奥に鈍い痛みが残っている。
「エリオットくん!」
アリシアさんから心配そうな声がかかる。
──心配?
そうか。……心配させてしまったのか。まったく不甲斐ないな。そんなことにならないよう、僕は強くなったはずなのに。
僕はシリルやアリシアさんほど、ノエルのことを信用していない。だから、見られているかもしれない状況で因子制御を解放する気はないが、他にもやりようはある。
僕は、覚悟を決めて自らの鎧に手をかけた。
-シリルの逆鱗-
「やばい。やばすぎる。どうする? 逃げるか? でも、この先でいつかは合流するんだよな……」
『指輪』による通信が切れた後、ルシアは一人でぶつぶつとそんなことを言っている。
「うーん。わたしには君が何をそんなに怖がっているのか、さっぱりわからないんだが?」
「……いや、だからエリオットですよ。あいつ、俺がエイミアさんとペアになっているものだから、嫉妬してるんです」
「ははは! そんなの可愛いものじゃないか。外見は随分と大人びてしまっているようだけれど、あの子もまだ十六歳だ。わたしのことは姉のように慕ってくれているからな。少しくらいのやきもちは無理もないさ」
最強の傭兵だなんて呼び名が付いたせいか、あの子も随分と怖がられているようだけど、久しぶりに会ったあの子は、やっぱり四年前と変わっていなかった。
「ふふっ」
わたしはさっきのやり取りを思い出して、つい笑い声をもらしてしまう。
わたしに会えなくて寂しい、か。もちろん、あの子がアリシアにそんなことを言うわけはないけれど、彼女にはそれがわかる【スキル】があるからな。
よし、ここはひとつ、こんなルートはさっさと走破して、エリオットと合流してあげるとするか!
「さあ、ルシア。キリキリ行こう!」
「やっぱ、行かなきゃダメっすか?」
わたしが景気づけに背中を叩いても、彼はしょんぼりと肩を落としたまま、何とも情けない顔をこちらに向けてくる。なんとなく庇護欲をそそられてしまいそうになる姿だ。
……彼はわたしより年上に見えなくもないのだが、違っただろうか?
だが、男の子がこんなことではいけない。ここはやっぱり厳しくいかないとな。
「なんだ、情けない。……そうだな。少しやる気を出してもらうようにしようか。──シリル? 聞こえるかな?」
〈何かしら?〉
「いやあ、実はな。さっきの話、聞いていたかもしれないが、ちょっと事故があってな」
「ぶ!? ちょ! ま!!」
〈……そういえば、そんなことを言っていたわね。何かしら?〉
わたしは『指輪』を取り上げようと飛び掛かってくるルシアをあっさりかわすと、こう続けた。
「うん。簡単に言えば、ルシアの手が……わたしの胸にぶつかったんだ」
〈……なんですって?〉
『指輪』越しの声なのに、すさまじい迫力だ。それに、声の温度が一気に氷点下にまで下がったような気がする。わたしは再び掴みかかってくるルシアを足払いで転倒させながら、さらに続ける。
「ああ、もちろん、さっき言ったとおり、純然たる事故なんだよ。だからわたしとしても快く彼のことを許してあげたんだが、彼の方はそれだけじゃ申し訳ないと言って聞かなくてな」
立ち上がろうとする彼の頭を押さえつけ、反発するように彼が力を入れてきた瞬間、その力の方向を逸らすようにして再度転倒させてやる。
〈……それで?〉
「うん。ここで出てくるという『幻獣』は彼がひとりで相手をしてくれるらしい。行動で誠意を示そうだなんて、いまどき見上げた男だな、彼も。そちらからは映像か何かでこちらの様子は見えないのか? 見えるようなら是非、彼の戦いぶりを見てもらいたいな」
一息にそう言うと、『指輪』の向こうで沈黙する気配があった。
──そして、数秒後。
〈そうね。そうさせてもらうわ。……ルシア?〉
「は、はい! なんでしょうか!」
シリルに呼びかけられた彼は、転んだ体勢から一瞬で直立不動の姿勢をとる。
〈わたしのところからは、『幻獣』訓練区画の映像を見ることができるわ。だから、エイミアに謝罪する意味も込めて、……死ぬ気で戦いなさい。いいわね?〉
「は、はい!!」
お、軍隊式の敬礼だ。聖騎士団の団員からでも教わったのかな?
と、そこで通信は終了した。
「く、口が軽いにもほどがあるだろ……」
ルシアがぶつぶつとそんなことを呟いていた。
それから、憤慨したようにわたしに文句を言ってくる。
「ちょっとエイミアさん。約束が違うじゃないですか!」
「うん? わたしは事故ということにしてあげようと言ったのだし、彼女もそれで納得してくれた以上、問題はないはずだろう? それに……君は彼女に隠し事をすることをよしとするような男なのか?」
「うぐ……! でも、ほんとに俺がひとりで戦うんですか?」
「彼女のあの様子からしたら、後には引けないだろう? まあ、安心しなさい。怪我ならわたしが治してあげよう」
わたしがそう言うと、ルシアはひときわ大きくため息を吐く。
「…わかってるよ。自業自得だって言いたいんだろ?」などと独り言が聞こえてきた時は追い込みすぎたかと心配にもなったが、しかしルシアは、そこで気持ちを切り替えたのか、左の掌を右拳で打つ仕草を見せた。
「よし! じゃあ、行きましょう」
「ああ、しっかり頼む」
そうして、わたしたちはシリルの言う『幻獣』訓練区画とやらに到着した。
大きな扉をゆっくりと押し開け、中に入ると、そこには想像を絶する巨大空間が広がっていた。それは一言で言うならば、鬱蒼とした深い『森』だ。
「な、なんだこりゃ?」
「驚いたな。これはどういうことだ?」
唖然としてあたりを見回すわたしたちに向けて、どこからか声が響く。
〈そこは空間を多少いじってあるからね。ちなみに、君たちの相手の『幻獣』はこの『森』の中に全部で九体いる。中にはギルドで言う単体認定Aランクモンスターに近い実力のものも混じっているから、一人でというのは無理があると思うんだが……。〉
力を試す、と言っていた割にはノエルの声には気遣いが込められているように思える。
その原因はどうやら、その隣にいるだろう人物にあるらしい。
〈駄目よ。エイミア。手助けは【生命魔法】以外、禁止だからね。〉
「それはいいが、敵がわたしに向かってきたらどうする?」
〈入口から動かなければ、大丈夫よ。もちろん、敵を全滅させないと出口は開かないけどね。〉
……それだと、ルシアが回復を受けるためには、いちいち入口まで戻ってこなければならないのでは?
〈じゃ、ルシア。頑張ってね?〉
「りょ、りょーかい……」
うん。もう、この方法でルシアをからかうのはやめてあげよう。シリルは怒ると怖い。それも、ちょっとやそっとじゃなく、ものすごく怖い。それは身に沁みてわかっていたはずだけど、流石にここまでとは思わなかった。
「じゃ、じゃあ、行ってきます」
「ああ、ここは森の中だ。気配を読むことに集中するんだぞ」
「了解です」
そう言ってルシアは森の中へと入っていく。
ん? これってもしかして、わたしはすごく退屈なんじゃあ? だって、彼が戦っている様子も見えないし……。
「ノエルだったか? そちらで見ている映像はわたしにも見せてもらえないのかな? さすがにただ待っているだけじゃ、退屈で仕方がない」
無駄かと思いながらも行ったその呼び掛けに、少しの間をおいてから返答があった。
〈……正直、僕は彼に同情するよ。このミッションは3人1チーム、3組プラス1人の計10人がかりで行うものなのに……。だから、司令官役の人物が見るための通信画面がそこにもある。装置の使い方は教えてあげるよ。〉
呆れたような声とともに、ノエルから通信画面の使い方の指導を受けたわたしは、入ってきた扉に取り付けられたそれを起動する。どうやら音声も拾えるようになっているし、撮影場所の切り替えもかなり細かくできるようだ。さすがは【魔導装置】だけあって、大した技術だな。
映像に映るルシアは、慎重に森の中を進んでいる。先ほどまでの情けない様子はそこにはなく、なにやら慣れた様子であたりの茂みを確認し、警戒を怠ることがない。
「なんだろう? 彼にはこういう状況に対する経験でもあるのかな?」
わたしは思わず、そう呟く。普通なら、森の中に九体もの手ごわい敵が潜んでいると聞けば、もっと萎縮してしまいそうなものなのに、彼の態度は非常に堂々としたものだ。「怖いもの知らず」というよりは、「怖いものへの対処の仕方を知っている」とでもいうような?
しばらくして、ルシアはおもむろに足元の地面からいくつか石を拾い上げ、周囲の茂みへと投げ込み始めた。
「うーん。『ある』とすればこのあたりなんだけどな? まあ、相手は人間じゃないんだし、当てにはならないかな?」
そんな独り言をつぶやいているのが聞こえてくる。と、そのとき。
〈ギシャアアア!〉
獣の叫び声とともに、ルシアが石を投げた一角から真っ黒な獣が飛び掛かってきた。
「おっと! やっぱりいたか!」
ルシアは慌てず騒がず、後ろへと飛びさがり、その一撃を回避する。
ルシアの前で体勢を低くし、今にも飛び掛からんと身構えているのは、一言で言えば
『狼』だった。しかし、ただの『狼』ではない。その背中からは黒い翼が生えていて、口元からは『黒い炎』ともいうべきものがチロチロと吐き出されている。
「なんだ、こいつ? 俺、狼にはあんまりいい思い出ないんだよな。『ロックウルブズ』とかにも噛みつかれて散々な目にあったことあるし……」
『ロックウルブズ』? 確か集団認定Dランクモンスターだったか? でも彼の腕前からして、そんな雑魚に苦戦するなど考えにくい。とはいえ、目の前の敵は間違いなく、そんな低級モンスターとは比較にならない相手だろう。
〈グバアア!〉
『黒い狼』は口から文字通り黒い炎を吐き出しながら、ルシアに迫る。
「そんなもんにやられるか!」
ルシアは『黒い狼』の動きを冷静に見極めると、吐き出される黒い炎を手にした【魔鍵】で斬り散らし、返す刀で敵本体にも斬りつける。
だが、『黒い狼』の方も負けじと俊敏な動作でその攻撃をかわす。
素早い『幻獣』だ。モンスターで言えば確実に単体Bランク並みの強さはある。
「……やるねえ。でも、これならどうだ!」
ルシアは足元の土を蹴り上げ、『黒い狼』に浴びせかける。だが、本物の狼ならともかく、この相手にはそんなもの、目くらましにもならないのではないか?
わたしがそう思った次の瞬間、ルシアの剣は大きく開いた『黒い狼』の上顎を貫いていた。直後、『黒い狼』は音もなく溶けるように消滅していく。
こちらの攻撃動作に反応する敵に生じた一瞬の隙。それを確実に見逃さず、絶妙なタイミングで突きを放つ。言うのは簡単だが、実現するのは至難の業だろう。
「よし、まずは一体、と」
どうやら彼は、わたしが思っている以上に強く、たくましいようだ。