幕 間 その11 とある研究員の恐怖
-とある研究員の恐怖-
し、信じられない! なんだあの人間は! あの力は、何なのだ!
ただの人間が、我ら『パラダイム』の研究の成果たる【人造魔神】を滅ぼしただと?
あの男は、大した力もない取るに足りない存在だったはずだ。
アルマグリッドで始まった武芸大会の間、奴らを偵察させていたフェイルの報告にもそうあったはずだ。……いや、奴は裏切り者だ。その報告などあてにならないということか。
だが、『魔神』を単に滅ぼすだけならまだしも、元の存在と完全に分離させ、宿主を救うなど奇跡にもほどがある。
……奇跡? まさか、あの男の剣、あれはまさか【魔鍵】だというのか?
だとしても、常軌を逸している。あれだけの力を持った【魔鍵】など、強力なゼスト系やカルラ系のものだとしてもあり得ない。……否、あったとしても人間ごときに扱いきれるわけがない。
私は乗用型の【魔導装置】『リグナの浮舟』を低空飛行させながら、頭の中で何度もあの時のことを反芻する。何よりの誤算は、フェイルの裏切りだ。奴とて『言霊』を埋め込まれているはずなのに、その支配がまったく効かなかった。加えてアイシャの支配までもが無効化されていた。
奴の【オリジナルスキル】“虚無の放浪者”の能力を甘く見ていたということだろうか? だが、これまで奴が支配に抗ったところなど見たことがなかったのだ。
「く、いずれにしても本部に報告する必要があるか……」
思わずそんな独り言が漏れる。今回の件は大きな失態として記録されるだろうと思うと、はらわたが煮えくり返る。
我らの拠点の一つであるアルマグリッドの地下研究施設を廃棄する羽目となり、試作段階でサンプル数の少ない『邪神の卵』の回収すらままならなかったのだ。
だが、銀の魔女の周囲にあのような力を持った者たちがいるということは貴重な情報だ。
「なんとかそれで、面目を保つしかあるまい。あの実験でようやく得られた今の地位を、失うわけにはいかんのだ!」
裏切り者どもの顔を思い浮かべ、操縦する『浮舟』にさらなる加速をかけようとして、私は進行方向に人影があるのに気づいた。遠くてよく見えないが、こちらに向けて両手を広げているような?
「何者だ?」
だが、それを確認する間もなく、その声は私の耳元に響いた。
「さて、止まってもらおうか」
私の喉元には冷たい刃の感触。そんな、いつの間に?
だが、この状況ではどうすることもできない。私はやむなく速度を落とすと、相手に言われるがままに『浮舟』から降りる。
降りるや否や、私は荒々しく蹴り飛ばされ、地面に転がされる。そうしてようやく向き直った先にいたのは、黒い全身鎧に身を包んだ男、フェイルだった。
「き、貴様! 何の真似だ! 裏切り者め!」
私の怒りの声に対し、顔に巻かれた包帯の隙間から冷たい視線をこちらに向けたまま、フェイルはいかにも可笑しそうに笑う。
「裏切り? 俺は初めから貴様の仲間だったことなどないのだがな」
「よくも抜けぬけと! どうやって『言霊』の支配から脱したのだ!?」
「推測はできたのだろう? ならそれが正解だ」
「だ、だが、それなら今になって何故!」
「決まっている。これから死ぬ相手を騙しても意味があるまい」
これから死ぬ、だと? まさか、私を殺すつもりか?
「ば、バカな! そんな真似ができるわけがない。いかに貴様が“減衰”の能力で『言霊』への命令を無効化したところで、肉体そのものと同化した装置自体はどうにもなるまい!」
そ、そうだ。『マスター』として登録された存在を殺害することは最大の禁忌。そんなことをしようとすれば間違いなく装置そのものが起爆し、この男を殺すはずなのだ。しかし、私のその言葉に、フェイルは包帯から覗く目だけでにいっと笑う。
「確かに、その通りだ。俺にもそこまでのことはできなかったよ」
「は、ははは! そうだ! 貴様らは所詮人形なのだ! 人形はおとなしく命令を聞いておればよい! 今なら私も許してやるぞ?」
「……くくくく! 自分に危害が加えられる恐れがないと思ったのか? 随分と強気だな」
どういう意味だ? そもそもこの男、なぜこのタイミングで私の前に現れたのだ?
「何を考えているかはわかるぞ。人の心理を読むのは得意なのでね。だからまあ、疑問には答えてやろう。『パラダイム』には、まだ従わされているふりを続けたいのさ。アイシャの『言霊』が消えれば、残るは貴様だけだ。だから貴様には死んでもらう。──それから、もうひとつ」
フェイルはわざとらしく、一呼吸おいてから言葉を続ける。
「貴様を殺すのは俺じゃない。他に貴様を殺したくて仕方がない奴がいるのでな」
その言葉とともに、それまで誰もいなかったはずの空間に、一人の人影が姿を現す。
“減衰”の力で気配を消していたのだろうか?
……などという疑問は、その姿を見た瞬間に吹き飛んだ。
「な、あ、ううう……」
「混沌の坩堝──『ルギュオ・ヴァレスト』。あれは貴様が独断で行った実験だったかな? 無茶をしたものだと思うが、そこで採取したデータで貴様は『邪神の卵』の研究に大きく貢献し、そのおかげで現在の地位を得た。違うか?」
そのとおりだ。真理研究機関『パラダイム』において、数多の研究の中でも『邪神の卵』の研究は、もっとも重要なものだった。だからそこで何かの結果を出せば、上の地位に上がれるはず。特にあの当時は『セントラル』に生まれた『銀の魔女』の存在が組織に危機感を与えていた頃であり、『実験』が成功すれば注目を浴びることができる。わたしはそう考えた。
研究において、もっとも大切なものは数多くのサンプルだ。それも同一の条件下で一度に複数の実験例を比較検討できる方が望ましい。そこで私は人間の世界でも特に人里離れた集落に目を付けたのだ。
「まあ、最後には『実験』に感づいた『セントラル』の連中の情報操作で、貴様がサンプルと称する人間たちは皆殺しにされたようだがな」
その言葉に、目の前の人影がぴくりと反応する。まさか、これは……。
「気付いたか。そのとおり。こいつはあの『村』の生き残りだよ」
そんな、バカな……。そうは思いつつも、私にはそれが紛れもない真実だとわかってしまう。真紅の色がまだらに混じる、無造作に伸ばされた髪。フェイルとは微妙に色彩が異なる血のような紅い瞳。その目に見つめられるだけで、私の魂は凍りつきそうなほどに震え上がる。
「な、なら、これが、私の『実験』の結果だというのか?」
無意識のうちに、私の口からはそんな言葉が漏れていた。
私の心を支配していたのは、圧倒的な恐怖だ。
だが同時に、こみ上げてくる感情がある。……それは『喜び』だった。
『パラダイム』の機関長より聞かされていた伝説の存在。
絶対の支配者たる『神』をも蹂躙した新たなる変革者。かのモノを連想させるその姿に、私は自分の研究の方向性が間違っていなかったことを知る。
「さて、聞いてのとおり、これがお前の『ローグ村』に種をばらまき、村人たちをモンスターに作り替えた張本人だ。お前が呪いに呪い、憎みに憎んできた相手だぞ? さあ、殺すがいい」
フェイルのその言葉に、私の目の前の人影は首を振る。……ためらっているのか?
ならばチャンスかもしれない。フェイルは私に危害を加えられない以上、こいつをどうにかできれば逃げるチャンスはある。私は懐に隠した【魔装兵器】に意識を向ける。
「なんだ? せっかくお膳立てしてやったというのに、いまさら殺す気がなくなったとでもいうつもりか?」
フェイルも少し苛立っているようだ。くくく、これなら……!
「あ、あのときのことは私も後悔しているのだ。だ、だから頼む。こ、殺さないでくれ!」
必死に命乞いをする私を、汚物でも見るような目で見下ろすフェイル。ふん、今に見ておれ。そして、私は土下座をするふりをして、懐から【魔装兵器】『ディ・ヴィズの魔銃』を取り出した。……否、取り出そうとして、失敗した。
「な? あ、うああああ!」
なんだ? 何が起こったのだ? わけがわからない!わけがわからない!
懐からぽろりと零れ落ちたもの。
それは、対象を貫く【魔力】の光線を放つ武器……ではなかった。
それは、私の右手首の先だった。……斬り落とされた?
──否、それどころではない。私の腕が……喪失なったのだ。
肘から手首までにかけての部分が、ごっそりと消失している。
にも関わらず、全く何の痛みも感じない。
「ああ、そうか。ははは! ただ殺したのでは、つまらないというわけか」
フェイルは再び、可笑しそうに笑う。
私の心は恐慌状態に陥り、まともにものも考えられない。
肘から先が、喪失なった腕。
目の前でニヤリと笑う紅い瞳。それがフェイルのものなのか、この人影のものなのか、判断がつかない。
「ひ、ひ、ひいいいい!」
私は尻餅をついた体勢で後ずさる。片手が使えないが残る左手と両足を使い、ずるずると後退する。……はずだった。
違和感を感じて気付いた時には、私の右足は膝から先の部分を失っていた。
右の太ももの部分だけが動き、地面を掻くこともできずに虚しく空を切る。
ガクン、と身体が後方に倒れる。──支えていた左手を、失ったのだ。
「うあ、ああ、いやだ、いやだ、いやだ! た、助けてくれえ!」
いったい、何が起きているのかわからない。怖い。恐ろしい。信じられない。
これは夢だ。こんなことが現実であるものか。肉体的な苦痛が一切感じられないところが、何よりも恐ろしい。
「くくく、無様だな。さて、あとどれくらい、貴様には時間が残っているのかな?」
私の懇願などまるで無視し、あざ笑うかのようなフェイルの言葉。
なんだ、なんなのだ? こいつらは? 常軌を逸している。こんな、こんな、禍々しいモノどもが、我らの追い求める『変革者』だとでもいうのか? 違う、断じて違う!
「そろそろ終わりのようだな。最後に言い残すことはないか?」
「ち、が、う……」
残った『頭部』から無意識にそんな言葉が漏れ出る。
私が最後に見たものは、ぞっとするほどに美しい血色の瞳。
そして、目が覚めるような金糸の髪と、その中に混じってなお、瞳に焼きつくような紅の髪。
『彼女』は女神のような美しさだった。
でもきっと、あれは『滅び』の女神に違いない。
消失する意識の中、私はそんなことを考えていた……。