幕 間 その5 とある英雄の最期
-とある英雄の最期-
「ね、姉さん……。……ううう。今のうちに、……僕を、殺してくれ」
僕は、ようやく取り戻した正気を失わないうちに、姉さんに懇願する。
こんな僕を、どうか、終わりにしてほしい。
「え?」
「僕はもう、人間じゃない。だんだん、頭がおかしくなってきているんだ。僕に『刻み込まれた』【ヴィシャスブランド】は、僕が誰かと心を通わせることも、誰かと直に触れ合うことも許してはくれない。だから最後に、僕に触れてほしいんだ。その思い出があれば、僕は眠れる」
“絶縁障壁”
僕が『魔神』から受け継いだ「ソレ」は絶対の孤独。
何物にも触れることを許さない悪夢の呪縛。
僕は「ソレ」に触れた時、世界の真実に気がついた。
ああ、もうどうしようもないんだ。この世界はどこまで行っても狂っている。
『魔神オルガスト』。
それは、歪んだ場所で生まれた魚。
群れることなく、群れを呼ぶ。
元は一匹の小さな魚が、世界を滅ぼさんとする『魔神』と化す。
そんな世界を狂っていると呼ばずして、なんと呼ぶ?
「ね、えさん。ごめん。また、ひとりにしてしまう。……」
胸を貫くぬくもりが懐かしくて、愛おしい。
こんな世界に姉さんを残して逝かなければならない。それが何より辛い。
絶望と苦痛に満ちた狂った世界に、最愛の家族を置きざりにしなければならないなんて。
……僕は、目覚めたあの日のことを思い出す。
「ここはどこだろう?」
水の中で僕は呟く。最期の時、確かに『魔神』は滅びた。空から降り注ぐ光の矢は、僕と喰い合いを続けていたがために消失しかけていた『魔神』の【ヴィシャスブランド】“絶縁障壁”を透過し、その内側の本体を完膚なきまでに『貫き潰した』のだ。
「やっぱり、姉さんはすごいや……」
姉さん? そういえば、姉さんはどうしただろう? 姉さんは……。
……姉さんって誰ダ?
「う、あああ……、な、なんだよこれ、一体何が?」
自分の思考がまとまらない。僕が欠け替えのないたった一人の家族である姉さんのことを忘れるはずなんてないのに……。
ここは水の中。なのに僕の身体には、水滴一つ付いていない。
ガラス玉のような球体に包まれた自分の肉体。ふよふよと水中を漂うその周囲には、ひたすらに暗い水の淀みがあるだけで何も見えない。
「この結界、は?」
「自覚もないのか? 面白いな」
「え?」
僕は周囲を見回すが、相変わらず何も見えない。でも確かに、どこからか声がした。
若い男の声。
「こちらだ」
言われて僕は、声のする方を見る。するとそこには、水の中でゆらゆらと揺れる人影のようなものがあった。
「こんな姿で悪いが、『アリオス』の“具現織彩”は想像以上にしつこい力のようでな。こうして我が多少なりとも顕在化できたのも、お前のような比較的知能の高い存在に眷族となってもらったおかげだろう」
彼(?)の言葉は、いまいち要領を得ない。だが彼が、人ならざるものであることくらいはわかる。
「君は誰、……いや、『何』だ?」
僕は目の前に現れた存在に、無我夢中で問いかけた。
「今の我は、【水の骸】といったところかな。でも、そんな我が苦労して『あの子』に授けたはずの【ヴァイス】を、どうしたら人間のお前がそんな状態で維持していられるんだろうな? 」
「【ヴァイス】?」
「知らないのか? まあ、我の一部、とも言うべきものだ。我はそれで、『あの子』に【ヴィシャスブランド】を刻み込んだのだが。こんなことになろうとはね」
信じられないことを平然と口にする人影。
【ヴィシャスブランド】は、Sランクモンスター『魔神』の持つ特殊能力のはずだ。
「不思議なこともあるものだ。【オリジン】との拒絶反応を考えれば、普通の人間ならとうに醜く歪んでいるはずだろうにな。 …と言ったところで、わからないか。ふむ……ほら、今の世界にはいるだろう?『あの子』なんかとは似ても似つかない醜いモンスターどもがさ。まあ、あんな感じだな」
『魔神』が『モンスターとは似ても似つかない』だって?
彼は何を言っているのだろう?
「何があったのか、聞かせてくれないか? 我でよかったら、力になるよ」
彼の声は酷く優しげで、ぼくは何故か、会ったこともない自分の親に話しかけられているような気分になった。彼の話し方が少しずつ親しげなものになってきていたせいもあるかもしれない。
気付けば、ぼくは、ありのままを話していた。
妖術師系スキル所持者のみが使用可能な特技《妖魔支配》を『魔神』に仕掛け、その最中に『魔神』が滅びたという事実を。
「なるほど、それで君の中に【ヴァイス】が入り込んだのか。加えて君の中の【オリジン】も、君が力を使い果たしていたせいで極めて弱まっていたというわけだな。まったく大したものだ。君は仲間のためにぎりぎりまで死力を尽くしたのだろうな。まさしく、英雄的行為だ。……ならば、そうだな。我の眷属には相応しいかもしれない」
彼は何かに納得したように頷く。といっても揺らめく影しか見えないので、雰囲気からそれとわかるといった程度の動きだ。
「とは言え、今の君はその身に取り込んだ【ヴァイス】と元からの【オリジン】の板挟みになっている状態だ。そのままでは可哀そうだし、我が君を生まれ変わらせてあげよう」
「生まれ変わる?」
「ああ。その身の【ヴァイス】に相応しくなれるよう、邪魔なものは追い出さなくては。今の我でも、君のためにその程度のことはできる」
ぼくには彼の言っていることの一割も理解できなかったけれど、彼の言うことがとても恐ろしく、とてもおぞましいことなのだということだけはわかった。
そして、次の瞬間、ぼくの周囲にあった結界は消失する。ぼくは一瞬で深い水の中へ放り出されることとなった。
「は、く、がぼ!がぼ!」
「苦しいか? でも、怖がらなくても大丈夫。少し弄るだけだから。すぐに終わる」
冗談じゃない。息が出来ないことが怖いんじゃない。これからぼくが『される』であろうことが怖いのだ。ぼくは全身を硬直させたまま、あまりの恐怖に目を閉じた。
……そして、次に目を開けた時には、不思議と心がすっきりしていた。身体が軽い。
清々しくて心地いい。ボクの周囲には再び、いや、前以上に強力な結界が出現していた。
「よし、まあまあだな。後は君の好きなようにしたらいい」
「好きな、ように?」
「君の『心の赴くまま』に、だ」
ボクの心……。
そうだ、ボクは憎い。ボクをあの戦いに駆り出して、捨て駒にしたギルドの連中が憎い。そうだ、ボクは殺したい。ボクに決断を迫りながら、笑みすら浮かべていたギルドマスターを殺したい。
憎い、憎イ、ニクイ。殺したい、殺しタイ、コロシタイ。
「う、あああ」
僕が、僕で無くなっていく。なのに不思議と怖くない。そうだ、ボクには『力』がある。絶対無敵のこの力があれば、ボクは何だってできるんだ。そうとも、この力でこんな理不尽な世界をボクが支配し、ボクが変えてやるんだ。
本当は、恐ろしい。自分の中の何かが、取り返しのつかない勢いで消え失せていく。
けれど、心地いい。自分の中の何かが、取り替えのきかないモノで満たされていく
「待ってて、姉さん……」
それからのボクは、復讐のために日々を過ごした。
ワイゲルとはモンスターの手駒を増やそうと、【フロンティア】の側をうろついていたときに出会った。【キメラ】とやらの研究に興味があったわけじゃないけれど、ギルドマスターを憎む彼の気持ちを利用してやることはできそうだったのだ。
そうして復讐を果たし、世界を支配して、姉さんを迎えに行く。
ワイゲルの悪趣味な研究につきあいながらも、ボクはモンスターの収集を続けた。
『生まれ変わった』ことによってボクに新たに備わった【種族特性】“邪を統べるもの”は、本来なら不可能なはずの単体認定Aランクモンスターすら支配下に置くことを可能とし、【アンデット】ですら容易く量産することができた。
加えて『魔神オルガスト』から受け継いだ【ヴィシャスブランド】“絶縁障壁”があれば、この世にボクに敵うものはいない。せめて、姉さんだけでもこの狂った世界から守り抜く。ボクにはそのための力がある。
……いつからだろう?
そんな思いが薄れてしまったのは。
すべてを支配することしか考えられなくなっていたのは。
けれど今、ルシアに“絶縁障壁”を斬り裂かれて、僕はすべてを思い出した。
そして同時に気付かされた。過去の自分の過ちを。
世界を狂わせていたのは、自分だった。守るべき存在を一番深く傷つけていたのは、自分という犠牲を彼女に押し付けた、他ならぬ僕だったんだ。
だから僕は、謝罪の言葉を口にする。
「ね、えさん。ごめん。また、ひとりにしてしまう……」
……けれど。
「馬鹿なことを。わたしは一人じゃない。みんながいる。お前が与えてくれた人生を、わたしはちゃんと生きる。……ふふ、もちろん結婚だってするさ。だから、安心しろ」
姉さんは、そう言ったんだ。僕が与えてくれた人生だって。
ちゃんと、これからも、この世界で、生きていってくれるんだって。
幸せに、なってくれると言ってくれたんだ。
良かった。本当に良かった。
……きっと姉さんのことだから、強がりもあるに違いないけれど、姉さんは一人じゃないんだ。だから、きっと大丈夫。
僕が自分を英雄だと思うことがあるとすれば、『魔神オルガスト』を滅ぼしたことなんかじゃない。
やり方は間違っていたのかもしれないけれど、姉さんを守ることができたということだけで十分だ。
それこそが、僕の最後の誇り。
それだけを、胸に抱いて僕は眠ろう……。
あともう一話、幕間が続きます。