第202話 リクス・ハティア/超神の間隙
-リクス・ハティア-
『エデン・アルゴス』による空間干渉。
わたしの中には、『彼女』の知識や技術も息づいています。だから、それらを総動員すれば、この【神機】を制御することも大して難しいことではありません。
「さあ、皆さん。準備はよろしいですか? この『大聖堂』付近に生み出された別の【異空間】の存在を感知しました。シリルさんたちは恐らく、そこにいるでしょう。敵との戦闘中である可能性も十分にあります。……準備が良ければ、行きますよ?」
わたしは手にした宝玉に指を滑らせ、中に込められた『空間を創造し、干渉し続ける』という事象を調整することで、望みの効果を発現させる。周囲の景色が歪み、消滅し、そして再び再構成されていく。
そんな過程を経て、わたしたちの目の前に出現した光景は──
「こ、これは……!」
「う、嘘でしょ!?」
「まじで……?」
ヴァリスさん、アリシアさん、レイフィアさんの驚愕の声。もちろん、かく言うわたしも言葉が出ない。それほどまでに、目の前の光景は衝撃的でした。
かつて『竜の谷』で見た竜王様の姿。彼は今、あの時とは比較にならないほどの【魔力】をまとい、宙に浮かぶ一人の人物と戦っていました。
しかし、世界最強の存在であるはずの彼は、左半身の三分の一ほどを失った状態で、必死に『無駄な抵抗』を続けているのです。
〈傷が……治らぬ……だと?〉
〈あはは。だって、さっきから再生してばかりで、退屈なんだもの。だから、貴方の身体には、治癒力の無効化を『設定』をしてあげたのよ〉
異空間の中央には、銀の翼で宙に浮かんだ一人の『天使』。彼女は、とても嬉しそうに、なぜか怒ったように、どこか哀しそうに……そして何より、ひどく楽しそうに笑っています。
〈ぐあああ!〉
銀の天使が指先から放つ細い閃光が、まるで刃のように竜王様の残る右腕を斬り飛ばすと、とうとう彼はその場に倒れ込んでしまいました。
〈あははは……もう終わり?〉
〈う、嘘だ! 竜王様が! 何なのだ、あの化け物は!〉
ラーズさんは目の前の光景が信じられないのか、声を震わせて呻いています。実際、周囲を見渡せば、アリシアさんやヴァリスさんを含め、ここにやってきた全員が言葉もなく固まっているようです。
しかし、今は驚くよりも先にすることがありました。わたしは『魔族』特有の合理的思考を働かせ、周囲の状況を確認します。
「……空間が軋んでいる? ……でも、これなら『エデン・アルゴス』でどうにかできそうですね。……後は、ルシアさんの怪我が酷そうです。一刻も早く治療を始めないと……」
わたしは周囲の空間を安定させるべく手にした宝玉に【魔力】を注いだ後、懐から治療用の携帯【魔導装置】を取り出し、倒れているルシアさんのところに駆け寄っていきます。彼はシリルさんを庇うように倒れており、その背中には酷い傷が見えました。
「……じゃあ、ラーズ! あたしたちは治療が済むまでの間、あの化け物を足止めするよ!」
そんなわたしの動きを見て、いち早く冷静さを取り戻したレイフィアさんが叫ぶ。
〈あ、あああ……だ、だが……竜王様まで……〉
しかし、青竜ラーズさんは、倒れている虹色の髪の男性と銀翼の天使を見比べ、戸惑ったような声を出しています。するとレイフィアさんは、彼の首元に飛び乗り、その頭をがしがしと『竜杖』で叩きました。
「おい! この青びょうたん! びくびくしてんじゃない! ご自慢の翼であたしをどこまでも高みに連れて行くって言葉は、嘘だったのか!」
〈ぬお! い、いや、わ、わかった。済まなかった! 無論、嘘ではない!〉
「じゃあ、さっさと行くよ!」
一人と一匹はそのまま宙を舞い、同じく空中に佇む銀の天使──恐らくあれがシェリエルなのだろう──と対峙します。
〈今度は、人間と『竜族』か。いいよ。かかっておいで〉
余裕に満ちた笑みを浮かべるシェリエル。紅い魔女と蒼い竜は、そんな彼女に向けて、恐ろしく巨大な【魔法陣】を構築していきます。
「この空間には……青い空が無いのか。“黎明蒼弓”は厳しそうだな……エリオット! 悪いがわたしは、シャルの治療にあたる! 君はあの二人を援護してくれ!」
「はい!」
シャルちゃんは、ノラさんと一緒に倒れていました。エイミアさんは二人を治療するべく、走り寄りました。ちらりとエリオットさんに目を向ければ、ちょうど『ヴリトラ』の因子を発現させて、背中で竜翼を全開に広げ、シェリエルめがけて飛びかかっていくところでした。
そんな彼らの様子を確認しつつ、わたしはルシアさんの傷の治療を開始します。深く抉られたような傷だけれど、かろうじて致命傷にはなっていません。
「……うう、ル、ルシア?」
治療を続けていると、傍らに寝かせておいたシリルさんから呻き声のようなものが聞こえてきました。彼女には外傷はほとんどなく、気絶していただけだったようです。
「大丈夫ですか、シリルさん?」
「……レイミ? どうしてここに?」
床から身体を起こしつつ、問いかけてくるシリルさん。わたしはそんな彼女に向かってにっこりと笑い返しました。
「向こうが片付いたので、助けに来たんですよ。ほら、エリオットさんたちもいます。つまり、残る敵はあの『天使』だけ、というわけですね」
わたしが指し示す先では、今まさにレイフィアさんとラーズさんの合体魔法《凍てつく紅蓮の息吹》が銀の天使を飲み込むところでした。
「……あれがレイフィア? ラーズも……」
「はいな。……『全員』、無事ですよ」
わたしの言葉に、シリルさんは安心したように頷きました。どうやら、『彼女』の姿が見えないことにまで気付く余裕はなさそうです。わたしは内心で、ほっと胸を撫で下ろしました。この緊迫した状況下では、『彼女』のことを詳しく説明している余裕などありません。
「……あの二人、『真名』を交わしたの? 随分と凄いことになっているみたいだけど、あのままじゃ、それでもやられてしまうわ」
ふらつく身体をどうにか安定させ、シリルさんはゆっくり立ち上がります。
「……ルシア。ありがとう。あなたが護ってくれたおかげで、どうにかいけそうよ」
彼女はわたしの治療を受けるルシアさんに優しく言葉をかけた後、祈るように両手を胸の前で合わせました。
「……そもそもの発想が間違っていたのね。手足を奪い、絆を奪う──そんな方法で彼女に打ち勝つなんて、不可能なのよ。彼女を超えるには……彼女と戦ってはならない。むしろ、わたしこそが誰よりも彼女に近づかなくちゃいけなかったんだわ」
「シ、シリルさん?」
彼女が何をするつもりかはわかりませんが、わたしとエイミアさんは一刻も早く全員の治療を終える必要があるでしょう。エイミアさんが同じく【生命魔法】の使い手であるシャルちゃんを回復させれば、一段と作業もはかどるはずです。
「……何人か、姿が見えませんね」
回復すべきメンバーを確認しようとしたわたしは、フェイルと女神二人の姿が無いことに気付きました。
「ああ……ファラは俺の中に退避したよ。ナオ……じゃなくてアーシェの奴も、フェイルの中かもな。あの二人がやられると、この【異空間】が壊れちまうんだ。俺がどうにか説得して引っ込ませたんだが……まあ、それに気付いたシェリエルに八つ当たり気味の攻撃をされちまって、危うく俺が死にかけたけど……」
ようやく目を覚ましたルシアさんが、頭を振るようにして起き上がりました。
「でも、フェイルさんは?」
「わからない。……まあ、アイツに限って臆病風に吹かれて逃げたわけじゃないとは思うけどな」
なんだかんだと彼を信用するような言葉を口にするルシアさん。いずれにしても、姿が見えない人物の治療はできません。となれば、後は竜王様を回復させれば全員の治療が済むことになるのですが……
「竜王様! しっかりしてください! 貴方が何故ここに?」
〈……ヴァリスか。く、不甲斐ない。ファラを護るため、ここまで《約束の翼》で駆けてきたというのに……このざまだ〉
「……増幅魔法を使った竜王様をここまで傷つけるとは……化け物め」
悔しそうに歯噛みするヴァリスさん。
〈どうやら……我の身体の回復は、難しい。それよりお前は、早くラーズの加勢に向かえ! このままでは全滅だ……〉
最後の力を振り絞っての言葉だったのか、そのままぐったりと気絶してしまう竜王様。
「竜王様! ……おのれ!」
ヴァリスさんは気絶した竜王をその場に残し、改めて黄金の闘気を身に纏います。
「ただの力押しでは勝てない相手か。……ああ、アリシア。そうだな。わかっている。《竜影閃光》!」
ヴァリスさんは誰かと会話するような言葉をつぶやいた後、何かが爆発するような音を残し、その姿を霞ませていく。
次に姿を現したのは、シェリエルの指から放たれた光がエリオットさんを直撃する、その瞬間のことでした。
「うわっと!」
寸前で自分の身体を横から突き飛ばされ、驚きの声を上げるエリオットさん。慣性を制御する『デッドウイングの羽靴』の効果で、辛うじて床への激突を免れたようでした。
〈ん? 今のは何?〉
いぶかしむシェリエルの声をよそに、ヴァリスさんは再び姿を霞ませていきます。
そうしている間にも、赤と青の入り混じる超特大の魔力砲がシェリエルに向かって放たれました。
〈いい加減、これも面倒。……消えろ〉
しかし、彼女が軽く一睨みするだけで、極太の魔力光は彼女の元に届きもせず、萎むように消滅してしまいました。
「なにあれ! まじで反則でしょう?」
〈レイフィア! 敵の攻撃が来るぞ!〉
ラーズさんが緊張した声で叫ぶけれど、狙いすましたシェリエルの指先からは、一条の光線が真っ直ぐ放たれ、ラーズさんに騎乗するレイフィアさんの額へと突き刺さる……かに見えました。
が、その時。
「イタタ! え? え? なに、今の? 誰だ! あたしの頭を叩いた奴! これ以上頭が悪くなったらどうしてくれる!」
強制的に頭を下げさせられた衝撃に、目を白黒させるレイフィアさん。金の残光を曳きながら、レイフィアさんの頭上を通り過ぎた人影は、恐らくヴァリスさんでしょう。
ここでようやく、わたしにも彼の狙いがわかりました。あの超光速駆動の【魔法】を駆使し、戦場を移動しながら致命的な攻撃から他の皆を護ること。それが彼のとった戦略なのです。
「……しかし、いくら速く動けたからと言って、それこそ敵の攻撃が先読みでもできない限り、あんな真似は難しいのでは?」
わたしがつい、そんな疑問を口にすると、ようやく立ち上がって剣を構えたルシアさんがとある方向を指差しました。
「……アリシアさん?」
「ああ。多分、アリシアが『天使』の思考を先読みしてヴァリスに伝えているんだ」
「でも、あの『天使』が“同調”能力を阻害できないとは思えませんが……」
「……同調じゃない。『先読み』だよ。能力じゃなく、技術だ」
「え?」
それこそ、無茶苦茶な話です。【オリジン】に頼らない技術で、【オリジナルスキル】以上の芸当を成し遂げるだなんて、無理があるでしょう。しかし、わたしのそんな疑問に気付いたのか、ルシアさんは自分の剣に意識を集中しつつも、言葉を続けてくれました。
「……彼女は、その能力のせいで、わかりたくもない他人の感情や思考を『わからされて』きた。素知らぬ顔をしておきながら、心の中で他人を罵倒する相手の姿を見せつけられてきた。……でも、そんな彼女だから『わかる』んだろ? どんな顔や、どんな仕草をしたときに、その人間が何を考えているのかってことがさ」
およそ二十年近くもの間、他人の表の行動と他人の裏の心理を見比べてきた彼女。その『実例』の積み重ねが、彼女の中に『他人の行動を先読みする』ための技術を培ったと言うことでしょうか?
「……とにかく、ヴァリスがああやって『時間稼ぎ』に徹してくれているのも、俺やシリルを信じてくれているからこそだ。……信頼には、応えないとな?」
「ええ、そうね……。行きましょう。ルシア」
静かにつぶやくシリルさんの背中には、これまでにない大きさの銀の翼が広がっていたのでした。
-超神の間隙-
アリシアは、必死にシェリエルの姿を目で追いかけている。
彼女の隣に立つわたしは、彼女や他の治療中のメンバーがシェリエルたちの激しい戦闘の余波に巻き込まれないよう、周囲に結界を展開して守りを固めている。
彼女の【オリジナルスキル】“真実の審判者”は、わたしの【オリジン】に由来しているらしい。
脅威を排除し、怖いものから目を背け続けていたわたしが、かつて『魔族』に与えた【オリジン】。けれど無意識のうちに、わたしは彼らに“同調”の『始原の力』を偏って与えてしまっていたらしい。それもそのはず、当時からわたしはきっと「怖いものからは逃げたいけれど、自分のことは受け入れてもらいたい」という想いが強かったのだろうから。
敵意を拒絶し、好意を渇望し、世界の『いいとこ取り』だけを目指したわたし。巡り巡ってわたしのそんな性格のせいで、彼女は生まれてからずっと、この嫌な能力と向き合わねばならなかったのだ。わたしはそれを知って以来、心苦しくて仕方がなかった。
けれど──ある日、そんなわたしに彼女はこう語りかけてくれた
「それは違うよ、レミル。確かに辛い時もあったけど、あたしは……この力を持って生まれて良かったと思ってる。……だって、これが無かったら、あたしはきっと、ここにいる皆には会えなかったから。ここにいる皆との、大切な絆を結ぶことなんてできなかったから。だから、全部あなたのおかげなの。……ありがとう」
その言葉を胸に刻み、わたしはアリシアの隣に立っている。
青竜にまたがり極大魔法を連発し続けるレイフィアさんや、半竜人の姿となってシェリエルの注意をひきつけ続けるエリオットさん。そして、そんな彼らを紙一重で救い続けるヴァリスさん。
次元が違う力を持った化け物に対し、一歩も引かずに戦い続ける彼らもまた、アリシア同様、強い心の持ち主だ。わたしはそんな彼らを護るため、さらに意識を集中し、各人に対して個別の障壁を発動させる。シェリエルがその気になれば薄紙も同然かもしれないけれど、それでも、何もせずにはいられなかった。
〈……ちょこまかと逃げてばかりで、全然面白くない〉
シェリエルは、わずかに苛立ちの混じった声でつぶやいた。
〈あ……うあ!〉
その瞬間、わたしの精神に凄まじい負荷がかかり、意識が遠のきかける。
〈こ、こんな……まさか、ここまでの力があるなんて……〉
あの『天使』は、こちらに向けて攻撃の意志を示したわけでもなければ、特に何かをしようとしたわけでもない。それでもなお、彼女の抱く『感情の波』は、凄まじい圧力を伴って“抱擁障壁”へと打ち寄せてきていた。
神々の領域を遥かに超越した『天使』。
ただそこにいるだけで、世界を軋ませる『超越者』。
怖い。恐ろしい。逃げ出してしまいたい。アレを前にしては、そんな思いを抱いたところで恥ずべきことではない。けれど、わたしの隣でアリシアは、震える身体を腕で押さえつけるようにして立っている。
かつて視界に他人を入れるだけで発動する己の能力を嫌い、他人から目を背け続けてきたアリシア。そんな彼女が今、食い入るようにシェリエルを見つめ、その一挙手一投足を正確に予測しているのだ。わたしはそんな彼女に、改めて敬意を抱いていた。
「だ、だめ!」
しかし、その時だった。それまで気丈に振る舞っていた彼女が突然、悲鳴を上げた。
〈アリシア? どうしたの? いったい、何が……〉
と、わたしがそこまで言いかけたところで、別の声が聞こえてくる。
〈……やめた。逃げてばかりで、つまらない。だから……『壊していく遊び』も、もうおしまいにしよう〉
声のする方を見れば、それまで散発的にエリオットさんやレイフィアさんたちに攻撃を続けていたシェリエルが、だらりと両腕を下げていた。
〈……こんなにつまらないものなら、『存在しなくてもいい』よね?〉
「うわああ!」
「きゃあ!」
周囲の空間が彼女の声に合わせ、ビキビキと軋むような音を立てはじめた。
「くそ! 何だこの振動は?」
敵の攻撃の手が緩み、アリシアからの指示が出なくなったためか、ヴァリスさんが超光速移動を止めて姿を現す。よく見れば、彼の全身は焼け焦げ、こちらに向かって駆け寄る足取りも、どこか辛そうに見えた。やはり、超光速駆動の連続使用は、肉体にも過度の負担を強いるものらしい。
「ヴァリス! 彼女は何か大きい攻撃をするつもりだよ!」
「……なんだと? くそ!」
《凱歌竜砲》!
アリシアの言葉を受けて、ヴァリスさんが【竜族魔法】をシェリエルめがけて撃ち放つ。黄金に輝く破壊の閃光は、しかし、シェリエルに届く前に音もなく消滅する。
〈……リオネルのいない世界なんか、退屈で、つまらない。なんでかな? どうして私、今になってそんなことを思うんだろう?〉
周囲に響く何かが軋むような音は、ますます大きくなっていく。
「……まさか、この空間ごと破壊するつもりか!」
“超感覚”で何かを感じたらしいヴァリスさんが叫ぶ。けれど、シェリエルは首を振る。
〈この空間? ううん、『この世界』だよ。この世界ごと、何もかも、全部。……だって、こんな世界、もういらないもの。だから、みんな消えちゃえばいい〉
彼女は、ぱちりと指を鳴らした。すると、次の瞬間──
「きゃああああ!」
「うぐおおおおお!」
「ぐああああ!」
皆が一斉に苦しみだした。もちろん、わたしも例外ではない。自分の存在を根こそぎ否定されてしまうような恐怖に苛まれ、頭を抱えて悶え苦しむ。
〈う、うああ!〉
彼女は、今までの戦いを『遊び』だと言った。わたしから見ても最上位に位置する女神二人を退けたことも、世界最強にして史上最強の『竜族』の王を激戦の末に打ち破ったことも、彼女にとってはただの遊びだったと言うのだろうか?
信じられないと言いたいところだけれど、これだけの事象が引き起こされている以上、信じるしかない。彼女はまさに、『超神』と呼ぶべきモノなのだ。
『神』が高次精神体、つまり『思うだけで世界に存在する存在』であるならば、彼女はその真逆のモノ──『思うだけで世界を存在させる存在』だった。
世界の存在も不存在も、すべてが彼女の思うがまま。
想いひとつで、誰かを消滅させることができる、人外ならぬ『神外の存在』。
どうにもならない理不尽を前に、わたしが絶望に囚われそうになった、その時──
「おい、どうしたんだ?」
自己を否定する乱流の中、聞こえてきたのはルシアさんの声。いつもと変わらぬ彼の声に驚いて目を向ければ、彼は苦しむ様子もないままに、あたりをきょろきょろと見回している。
〈……あれ? どうして?〉
そんな彼を見て、シェリエルは不思議そうに首を傾げる。ルシアには、何故か彼女の『存在の否定』の力が及んでいない。既にそんなことをする必要がある肉体でもないだろうに、彼女は素手で自分の目を擦るようにしてルシアを見つめ、瞬きを繰り返していた。
不思議。疑問。未知なる問題。
『存在の否定』が、ルシアに及んでいないという事実。
それは、今や思考するだけで世界全ての存在を左右する彼女にとって、唯一と言っていい『思考の間隙』が生じた瞬間だった。
そして、この『間隙』こそが、わたしたちにとっての希望の瞬間。
「……シェリエル。もうこれ以上、あなたの好きにはさせないわ!」
広大な【異空間】に、鋭く響き渡る声。それが聞こえたと同時、わたしたちを苛む『存在の否定』の力が急速に弱まっていくのを感じた。
〈え? どういうこと? まさか《幻想の世界律》? ううん、あれはもう、使えないようにしたはず……〉
シェリエルの視線の先には、銀髪を吹き上がる【魔力】にたなびかせ、凛として立つ一人の少女がいる。
「…………う、く」
苦しげに呻くシリルさん。莫大な【魔力】消費に耐えかねてか、彼女は今にも膝を着きそうだ。
〈うーん、よくわからないけど……。でも、『この現象』も含めて丸ごと『存在を否定』しちゃえばいいかな?〉
言いながら手を動かすシェリエル。けれど、何も起こらない。
〈あれ? ……じゃ、じゃあ、あなたがこれ以上【魔法】が使えないように『設定』を……あ、あれ? それとも、今の【魔法】効果を遡らせて無効にすれば……〉
シェリエルは、これまでになく狼狽した顔でぶつぶつとつぶやき続けている。
「無駄よ。『存在の否定』どころか、今のあなたには『事象の遡及』も新たな『世界の設定』も使えないわ」
〈うそ? どうして? 《幻想の世界律》も使わず、どうやったらそんなことができるの?〉
驚愕に染まるシェリエルの顔。しかし、その時だった。
「おらおら! あたしたちを無視すんな!」
〈喰らえ、化け物!〉
そんな彼女に向けて、赤と青の極大の閃光がほとばしる。何度目になるかわからないその攻撃は、これまで何度となくシェリエルに届く寸前で消滅していたものだ。しかし、シェリエルは慌てて右手を払い、不可視の衝撃波を生み出してその攻撃を吹き散らす。
散らしきれなかった余波に身体を大きく揺らし、悔しげに唇を噛むシェリエル。
〈本当に使えない……どういうこと? どうやって、わたしから力を奪ったの?〉
「奪ってなんかいないわ。……ただ、『心』を繋げただけよ」
〈心を……つなげる?〉
「……忘れたの? わたしとあなたには『魂の繋がり』がある。複製体である以上、どうやっても断ちきれない『絆』がね。……レオンとリオネルと同じよ。わたしたちはお互いが繋がっているからこそ、お互いを拒否することができない」
よく見れば、シリルさんは【魔力】消費に苦しんでいるのではなさそうだ。むしろ、その身に溢れるあまりに膨大な【魔力】に耐えかねている。
〈……その【魔力】、私から『流れた』ものなの?〉
「ご名答。わたしは【魔法】なんて使っていない。ただ、わたしがあなたに『近づいた』だけ。あなたとわたしの『繋がり』を、強化しただけよ。……でもね? 水が高きから低きに流れるように、同質の存在が繋がりを元に【魔力】を共有すれば、それは基本、『低い方』──わたしに向かって流れ込む。わたしとあなたが、『同じ水位』になるまではね」
苦しげに顔を歪めながらも、シリルさんは強い意志のこもった瞳でシェリエルを睨みつける。
「だから、今のあなたには、世界に直接干渉するだけの力はないわ」
〈……でも、あり得ない。繋がりがある? そんなこと関係ない。あなたは『私と違って』、数百年かけて【狂夢】に魂を馴染ませてきたわけでもない。それでいて、そんな力の奔流に耐え切れるわけが……〉
けれど、シェリエルの言葉は、またしても中断する。彼女は気付いたのだ。シリルの隣にもう一人──金の髪を優しくそよがせ、黒のドレスを身に着けた少女がいることに。
「シャル、ありがとう。大丈夫? 辛くない?」
「……ううん。シリルお姉ちゃんと一緒だもん。全然、平気だよ」
シリルさんと手を繋ぎ、流れ込む力を『馴染ませて』いくシャルさん。
《純真世界》
人が人であるがゆえに発動可能なこの【魔法】は、世界におけるどんな理不尽も、受け入れ、馴染ませ、溶かし込む。
「悪いけど、シェリエル。わたしは……『あなたと違って』一人じゃないの」
シリルさんはシャルさんの手を握ったまま、吹き上がる光の中で胸を張って断言する。
すると、その時だった。
〈……ふざけるな〉
怒気をはらんだ声が響く。周囲の空気が、ビリビリと震える。直接世界に干渉できなくなったところで、シェリエル自身の有する膨大な力そのものは、まるで衰えていなかった。
〈一人の何が悪い? ……どいつもこいつも、醜く汚い愚図ばかり。だったら、一人の方が楽しいし、一人の方が面白い! それのいったい、何が悪い!〉
叫び声と同時、シェリエルの周囲に、無数のモンスターが姿を現す。
宙を漂う塵やゴミ、目には見えない微細な生命の気配を凝縮し、【歪夢】の原理で存在を歪め、爆発的な【魔力】を注いで生み出した異形生物。無数の手足に無数の眼球を備えているような、気持ちの悪い化け物たち。
〈ほら、この世界にはこんなにも……愉快な仲間がたくさんいる。醜い愚図どもにお似合いの、醜い醜いモンスター!〉
銀の天使は、モンスターの群れの中央で、両手を広げてケラケラと笑う。
〈他人の力を借りている以上、どれだけ時間を掛けようとも、あなたの力が本当に私と『同じ水位』になんて、なりはしない。私には、誰も届かない。だから私は……一人でいい!〉
その声を号令に、一斉に襲い掛かってくるモンスターたち。姿こそ滅茶苦茶だけれど、どれも人間たちの言う単体認定Aランク、あるいは『魔神』並みの力を感じさせる。
けれど、すでにわたしたちには、反撃の力が残されていない。レイフィアさんたちも【魔力】の使い過ぎで動きが鈍く、ヴァリスさんも限界以上の超光速駆動による反動に苦しんでおり、グランさんの傷は癒えきらない。それに何より、『存在の否定』によるダメージも決して小さくはない。
けれど、その時、一人だけ真っ直ぐ前に進み出た人物がいた。
「……なんつーか、待たせてごめん。ようやく俺の方も準備ができたぜ。……ファラ、いくぞ!」
鋭い気勢の声と共に、横一文字に走ったのは蒼い閃光。一を斬ることで百を斬る。究極にして理想の剣による一閃は、数百体はいるかと思われたモンスター群を有無を言わさず、『ひとまとまり』に斬り捨てる。
〈……へえ、すごいね。『ひとまとまり』にできないように、こいつらは皆、全く異なる形態に『存在』を歪ませてやっているのに……。でも、だから何? こいつらは、いくらだって生まれるよ?〉
手駒のモンスターを切り捨てられながら、シェリエルはまったく動じた様子も見せず、不気味な笑みを浮かべている。リオネルを失ったことで、彼女は既に正気を失いつつあるのかもしれない。
再び虚空に出現する無数のモンスター。いずれも巨大な顎を備えた彼らは、今度はその場から動かないまま、一斉に嵐のような無数のブレスを吐きかけてくる。
「準備なら、俺も済ませたところだ」
唐突に聞こえてきたのは、本来そこにあるべき感情を希薄化したかのような、無機質な声。同時にわたしたちの正面には、紅く輝く無数の『傷口』がばっくりと開き、殺到するブレスがひとつ残らず飲み込まれていく。
気づけば、ルシアさんの隣にもう一人。
全身甲冑に身を包む、長い黒髪の男性が立っていた。