第199話 サドン・エンド/破滅へのプレリュード
-サドン・エンド-
絶望的な戦いとしか、言いようがありませんでした。
わたし自身、何度『死んだ』かわかりません。胸や頭を撃ち抜かれ、確かに死んだはずなのに、それがまるで『夢』だったかのように跡形もなく元の状態に戻り、そして再び殺される。
もちろん、わたしたちはその間、ただ為すすべもなく立ち尽くしていたわけではありません。シェリエルの攻撃を防ぎ、回避し、彼女に攻撃を届かせるべく、あらゆる手段を試みました。
しかし、それらの挑戦は、まったくの無意味でした。彼女には、何一つ手が届かない。どんなに足掻いても、叫んでも、決して望みは叶わない。目の前でルシアが死に、フェイルが死に、わたし自身が死んでいく。
そんな中、ただ一人、世界を思うがままにしているのはシェリエルだけ。
『事象の遡及』という『神』をも超えた力を得たはずのシリルお姉ちゃんでさえ、苦しげに息をつき、悔しげに彼女を睨みつけています。
〈あは? そろそろ限界? 私もいい加減、同じことの繰り返しで飽きちゃったかな?〉
指先から死の閃光を撒き散らしつつ、シェリエルはけらけらと笑います。
「化け物め……」
〈あは!〉
悔しげにうめくルシアに、シェリエルの両手の指から十本の光線が放たれました。
「くそ! そう何回も殺されてたまるかよ!」
文字どおり光速で迫るそれを、ルシアはほとんど勘だけで回避し、斬り散らし、ことごとくを防ぎ切ります。
〈あは! すごいすごい! 普通はそんなこと、できないよ?〉
それでもシェリエルは、ただ、嬉しそうに笑うばかり。
「死ね」
音もなくシェリエルの背後に出現するフェイル。彼の振るう真紅の聖剣は、しかし、シェリエルの輝く指先で食い止められてしまいます。軌道上の空間を斬断する神性の効果そのものも、剣先をわずかに上へと逸らされた結果、彼女の銀髪を一房宙に舞い上げたほかは、天井を虚しく斬り裂くだけでした。
〈あは。君も飽きないね?〉
「ちっ!」
存在を霞ませて離脱しようとするフェイル。けれど、彼女はその腕をしっかりと掴み、遠くへと放り投げました。そして、なすすべもなく宙を舞う彼に、シェリエルの指から複数の光線が放たれます。
「フェイル、危ない!」
光線が直撃する寸前、彼の姿が搔き消えました。
声のした方を見れば、ノラが彼の身体をしっかりと抱きかかえています。
「ノラ!」
「シャル、フィリス! ワタシもこっちを手伝うわ!」
「で、でも、リオネルの方は?」
「母様が……心配ないから行ってきなさいって」
そう言ってノラが振り向いた先には、依然としてリオネルと激しい攻防を繰り返す二人の女神の姿がありました。
〈へえ? あなたも遊んでくれるの? よかった。退屈しないで済みそうね。せっかくだから、『ジャシン』の【ヴァイス】って奴も見せてほしいな〉
ルシアとフェイルの攻撃を片手間にさばきながら、シェリエルは酷く嬉しそうです。
「……ええ、いいわよ。あなたに、見せてあげる。世界に呪われた、ワタシたちの力を。それでも、この世界に生きることを諦めなかった、ワタシたちの力を!」
真紅の髪の少女が掲げた手の中には、世界を拒絶し、世界で暴走し、世界に侵食し、そして、世界ごと喪失していくかのごとき禍々しい力の渦が生み出されていきます。
「あなたが『神』の【オリジン】を集約して使えるように、ワタシはその『神』すら滅ぼした『ジャシン』の【ヴァイス】を使うことができる」
〈へえ? すごいね。どうやったら、そんな真似ができるのかな?〉
不思議そうに首を傾げるシェリエルですが、どこかわざとらしく、人を食ったような仕草に見えました。
「……ワタシの『友だち』のおかげよ。数百年も連れ添った、ワタシの友だち。彼女の存在が、ワタシを変えた。ワタシはもう、ただの『ジャシン』ではない」
〈……ふうん。【世界の欠陥】か。そんなもの、あったんだね。初めて知ったよ。面白い面白い面白い面白い面白い!〉
ノラの心を読んだのか、シェリエルはこちらが語ってもいない言葉を口にして笑う。けれど、その声にノラが怒る。
「笑わないで! あの子の苦しみを、面白いだなんて言わないで!」
〈でも、心配しなくていいよ。そんなものが『ある』と知った以上、私がそれを失くしてあげる。あはは! 世界の欠陥? 私は至高、私は最強、私は無敵、私は万能。そんなもの、私の世界には必要ないからね〉
「許さない!」
ノラは真紅の髪をはためかせながら、掌に集束した力の渦をシェリエルに向けて突き出しました。
「ルシア、フェイル! 下がって!」
慌ててわたしは叫びました。あんなものに巻き込まれては、二人とも到底無事ではいられないでしょう。その間も、ノラの言葉は詠唱のように続いています。
〈わたしたちは世界に叫ぶ。わたしたちはここにいる。わたしたちは生きている。否定されても拒絶されても、わたしたちは諦めない!〉
《欠陥の存在証明》!
〈すごい歪み……〉
放たれた黒い渦は、目を見開いてそれを見つめるシェリエルを正面から飲み込んでいきます。
〈く! ……うう〉
激しく荒れ狂う渦の中、時折垣間見えるシェリエルの顔は、苦悶の表情を浮かべているようにも見えました。
「や、やったか?」
油断なく剣を構えたまま、ルシアが呟きます。よく見れば、彼の身体はかすめた光線のせいで血まみれでした。
「ルシア! 大丈夫?」
わたしはすぐさま、そんな彼に回復魔法を施します。
「ああ、助かったぜ。ついでに面倒だろうけど、仕方がないからあいつも頼む」
「え? あ、うん」
わたしはルシアに言われ、憮然とした顔で立ち尽くすフェイルにも同じく回復魔法をかけてあげました。少し嫌そうな顔をしながらも、身体の傷は浅くはないのか、彼は黙って治療を受けてくれています。
「……駄目だな。あれでは倒しきれないようだ」
ぽつりと、そんな言葉をつぶやくフェイル。言われてシェリエルに目を向ければ、渦の隙間から見える彼女の姿は、依然として健在のようです。
「まだよ! まだ終わりじゃない!」
ノラもまた、黒い渦へと手を伸ばし続けており、依然として攻撃を継続しているようでした。
〈あは。面白い力。まさか私がこんなに『解析』に手間取るなんて、すごく面白い。でも、これじゃあ、まだまだ私には届かないかな?〉
ついには、そんな余裕の声さえ聞こえてきました。
〈……フィリス。やれる?〉
〈うん〉
わたしは心の中でフィリスに呼びかけ、『わたしたち』が使えるもののうち、最強の【精霊魔法】を発動させるべく、準備を始めます。一度の攻撃で倒せないなら、倒せるまで畳み掛けるだけです。
〈へえ……いいよ? じゃあ完成するまで、このまま待っててあげる!〉
けれど、彼女は銀の瞳に楽しげな笑みを浮かべ、わたしに笑いかけてきました。おそらく、“同調”能力でわたしの心を読んだのでしょう。その余裕が悔しかったけれど、それでもチャンスはチャンスです。最大限の力をもって、その余裕に付け込ませてもらいます。
声を合わせ、わたしとフィリスは【魔法】を……否、世界への意志を紡ぎます。
〈わたしは歌う……〉
〈消えることなき始原の炎よ。迷える子らを母の腕へ返し給え〉
〈わたしは歌う……〉
〈命をはぐくむ不変の大地よ。驕りに満ちた愚かな子らに、天罰の楔と戒めの鎖を〉
〈わたしは歌う……〉
〈命の始まりを知らぬ氷河よ。孤独に震える哀れな子らに、祝福と安らぎの眠りを〉
〈わたしは歌う……〉
〈時の彼方より吹き来る風よ。罪深き子らを母の腕に還し給え〉
フィリスが紡ぐ歌声は、わたしが振りかざす『差し招く未来の霊剣』の輝きに乗って、広間に響き渡ります。わたしの首にかけられた『樹精石の首飾り』の四連石が次々と色を変えて輝き、空間を超えて世界の【マナ】がわたしの周囲に集いました。
〈歌え世界に、わたしの色を──掲げよ世界に、わたしの意志を──〉
〈四色に染まれ、わたしの世界。鮮やかに、わたしの色を世界に描け〉
そして、その【魔法】は完成します。
《聖歌色彩》
発動する連続属性魔法の調べ。
後に続くは究極の四属性魔法。
《烈火繚乱》
《自重磁縛》
《永久氷晶》
《号砲雷落》
フィリスの多重属性魔法、わたしの増幅属性魔法。その二つの性質を重ねあわせ、わたしたちは、未だかつてないほどの暴力的な力を解き放ちます。
虹色の刀身が奏でる七色の旋律に乗って発動した、始原にして四元の魔法は、シェリエルを中心とした一帯をまるで別世界のように染めあげました。
視界を埋め尽くす真っ赤な炎がすべてを溶かして蹂躙し、宙に出現した無数の岩石が磁力と重力を生み出しながら空間を歪め、煌めく氷晶の渦がすべてを包み込むように凍りつかせ、耳をつんざく轟音と共に炸裂する稲妻が、世界を打ち砕かんばかりに降り注いでいきます。
直前で退避していたルシアとフェイルでさえ、あまりの衝撃に大きく体勢を崩すほどの大爆発でした。
すでにシェリエルの力で保護されなくなっていた『大聖堂』の構造物は、そんな爆発に耐えきれなかったようです。祭壇ごと奥の壁面が粉々に吹き飛び、上部に飾られた天使のステンドグラスの破片がきらきらと舞い散るように降ってきました。
そんな幻想的な景色の中──高らかに響くのは、楽しげな女性の笑い声。
〈あは! あはははははは! すごいすごい! 世界の混沌と世界の秩序。その両方を極限にまで高めた力を同時に味わえるだなんて! すっごく面白い!〉
空を舞う銀髪の天使。背中に輝く翼を生やした彼女は、まさしく『天使』でした。そして、そんな彼女からは、禍々しくも凶悪な力が放たれていて……。
「シリルお姉ちゃん?」
わたしが振り返ると、シリルお姉ちゃんは息を荒くして床に膝を着いていました。
「ご、ごめんなさい……。制御を……奪われてしまったわ」
つまり、再びシェリエルは元の力を取り戻してしまったということでした。
〈ごめんね。もう少しあの状態で遊びたかったんだけど……今のは流石に危なかったから〉
笑う天使に見下ろされ、わたしたちはあまりの絶望に言葉もありません。一体、どこまで隔絶した力の差があるというのでしょうか。
宙に浮かぶ彼女を見上げるわたしたちの目の前で、破壊された祭壇が瞬く間に修復され、砕け散ったステンドグラスの欠片が光を反射させながら元の位置へと収まっていきます。
けれど、彼だけが希望を捨ててはいませんでした。
「はっ! なんだよ。無敵の天使とやらも、大したことないんだな。つまり今のは、ノラとシャルたちに冷や汗をかかされたってことだろ?」
あまりにも強気な言葉の主は、ルシアでした。この期に及んでそんな言葉が吐けるなんて、彼はどこまで強いのでしょうか?
対するシェリエルは、そんな彼を今度こそびっくりしたような顔で見下ろしています。それから、満面の笑みを浮かべ、お腹を抱えて笑い出しました。
〈うふ、うふふ!〉
これまでとは違う笑い方。愉悦に満ちたその顔は、常人離れした雰囲気を有する彼女にしては、これまでになく人間的なものに見えました。
〈まだ絶望しないの?……ああ、どうしよう。すごく気持ちいい。予想を裏切られることが、こんなにも楽しいだなんて! さあ、もっともっと、私を楽しませ……〉
……けれど、そんな彼女の言葉も、そこで中断してしまいました。
その瞬間、永遠に続くかと思われた『彼女の遊び』には、あまりにも唐突な終わりが訪れたのです。
-破滅へのプレリュード-
可愛い娘を友達の応援に送り出した後、わたしはお姉様とともに、小憎たらしい『魔族』との戦いを続けていた。
お姉様は何故か、シリルのかつての姿だという黒髪に白いローブ姿のままで戦っている。でも、本来なら『神』の姿に制限はない。だから、どんな姿にもなれるはずなのに、お姉様は力を取り戻した今でさえ、お姉様が『扉』にしたトライハイトの『理想』の姿を取り続けている。
そんな義理堅いとも言えるお姉様の心意気は、実に清々しい。千年前と変わらず、彼女の心は誇り高く、わたしの『憧れ』そのままでいてくれた。わたしは、それがすごく嬉しい。
〈うふふふ!〉
〈なんだ、気持ち悪い! 戦いの最中に笑うな、たわけ!〉
酷いわ、お姉様。わたしは頬を膨らませて拗ねる。戦い? そんなもの、関係ない。わたしはたった今、こうしてお姉様の隣に居られることが何より幸せなのだから。
一番危険だった“陥魂葬砕”の神性を持つ『ヴァルガーの鉄槌』こそ、お姉様の力で打ち砕きはしたけれど、依然としてリオネルには厄介な【擬似魔鍵】がある。
特に、『シュレインの守護盾』だ。あらゆる事象をその境界面で防ぎ遮る神性“硬化適面”は、ただそれだけに特化しているというだけあって、わたしたちの力でもまったく突破できない代物だった。その一方で、リオネルは多種多彩な【擬似魔鍵】を繰り出し、次々と強力な攻撃を仕掛けてくる。
「どうした、女神ども! この僕に傷ひとつ付けられないのか? クハハ!」
間合いを取ったわたしたちに向けて、リオネルは手の中に出現させた弓を引き絞る。
「射抜け……『リュミエルの聖弓』」
放たれた矢が、たちまちのうちに光の奔流と化して襲いくる。わたしたちは、慌てて散開するようにその攻撃を回避した。
だが、奴の狙いはまさにそれだった。分散したわたしたちのうち、【擬似魔鍵】を砕いたお姉様の方が危険だと判断したのか、奴は『ライオネルの斧槍』の“雷化速度”でそちらに迫る。
けれど、お姉様はわたしが護る。あんな奴に、指一本触れさせてやるつもりなんかない。わたしは手にした剣で世界を引っ掻く。世界を渡り、お姉様とリオネルの間へと割り込むように斬撃を出現させる。
「ちっ! 遮れ……『シュレインの守護盾』」
リオネルの舌打ちと共に響く、ガキンという金属音。奴の『斧槍』を弾いたわたしの剣は、しかし、宙に浮かぶ『守護盾』によって受け止められている。
大きく飛びのくリオネルに、お姉様が追撃を仕掛ける。重力などまるで無視し、宙を駆けるように移動したお姉様は、奴の真後ろに着地して、その背中に蒼い剣閃を走らせる。しかし、再び『守護盾』が鋭い動きを見せ、その一撃を防ぎ止めようとする。
〈隙あり!〉
けれど、その瞬間こそをわたしたちは狙っていた。あの盾がこちらの攻撃を防ぐ瞬間、逆側からも攻撃を叩き込む。
「無駄だよ。愚か者どもめ!」
同じく響く、金属音。お姉様の剣を防いだ『守護盾』は、大きく湾曲しながらわたしの振り下ろした剣の元まで伸びていた。
「クハハ! この『シュレインの守護盾』の『境界面』は、僕の周囲を真円状に囲っている! どんな攻撃をしようと無駄なことだ!」
奴の手の中に、杖が出現する。
「罠にかかったのはお前たちだよ。留め置け……『テミスの星杖』」
“静死領域”。それは領域内に侵入した者の動きを、問答無用で止める神性。『神』であるわたしたちでも、そこから抜け出すには数瞬の時を要した。
「死ね! 溶かせ……『アニエスの霊剣』」
悲しみの女神『アニエス・カルラ』の神性“溶姿嘆霊”は、わたしも良く知っている。わたしと同じカルラ神族の『神』だった彼女は、己の涙で他者の精神を溶解する物騒な力を有していた。
〈きゃああ!〉
〈うあああ!〉
魂を溶かす短剣の力を浴びて、わたしとお姉様はたちまち身を焼かれ、悲鳴を上げて飛びさがる。銀の短剣の短い間合いに救われたけれど、今のは流石に危険だった。一歩間違えれば……わたしのお姉様が死んでいたかもしれないのだ。
現にお姉様は、苦しげに斬られた場所を押さえている。“溶姿嘆霊”による傷は、わたしたちでもそう簡単には癒せない。
〈……許せないわ〉
既にわたしは、痛む己の腕のことなど忘れていた。わたしの傷のことなんて、どうでもいい。わたしの憧れ。わたしの大好きなお姉様。千年間、会いたくて逢いたくて、その無事を祈り続けたお姉様。そんな彼女を……この男は傷つけた。
わたしの中に、怒りが溢れる。情念の女神。刹那の衝動。この瞬間、わたしの手には、歪んだ形の赤い刃が生まれていた。ギザギザの刀身は、ただそこに存在しているというだけで、周囲の空間を滅茶苦茶に斬り裂き続けている。
〈お、おい! アーシェ? お前……〉
お姉様が何か言っている。でも、聞こえない。待っててね? お姉様を傷つけた奴なんか、このわたしがぐちゃぐちゃに切り刻んであげるんだから!
〈いや、お前、それは……って、あぶな! あぶないぞ。おい!〉
ただ溢れゆく衝動のおもむくままに、わたしはわたしの“爪”を振るう。誰かの叫びも戸惑いも、わたしの耳には入らない。目の前の男が憎い。お姉様を傷つけた奴を切り刻みたい。衝動、衝動、衝動、衝動。爆発的にわたしの中で、膨れ上がる【オリジン】の奔流。
「馬鹿な! 何だ! この力は! くそ! 空間が切り刻まれて歪んでいるのか? くそ! 動けぬ!」
真っ赤に染まる視界の中で、わたしは滅茶苦茶に刃を増やした剣ともいえない形の剣を振り上げ、衝動のままに振り下ろす。
〈このクソガキが! 死にさらせ!〉
──あらやだ、わたし、そんなにお下品な言葉を使ったりしませんことよ?
──そうねえ……きっと、空耳じゃないかしら?
何かが粉々に砕け散る音が響き渡り、雷撃と化したリオネルが大きく距離を取るように離脱するのを目にしたところで、わたしはようやく理性を取り戻す。
「そんな! 我が最強の盾が!」
リオネルが何かを叫んでいる。ああ、いい気味。今の一撃で殺せなかったのは残念だけど、でも、これで少しはすっきりしたかしら。
〈こ、このどアホウ! 考えなしに暴れおって!〉
〈ちょ、ちょっとお姉様? きゃあ! どうして叩くのよ?〉
頑張ったわたしへのご褒美が、頭への拳骨だなんて酷い話だ。
〈どうしてもなにも……滅茶苦茶に空間を斬断する奴があるか! わらわが周囲の空間を遮断しなかったら、今頃ルシアたちまで皆殺しだったぞ!〉
〈え? うそ?〉
あれ? おかしいわね?
いくらなんでも、そこまでの力を出した覚えはなかったんだけど……。
〈やっぱり無自覚か!〉
〈イタタ! やめてってば! 仕方ないじゃない! お姉様が傷つけられて腹が立ったんだもん!〉
〈こ、この馬鹿妹めが……。はあ……〉
何故か途中で怒るのをやめ、呆れたように息をつくお姉様。
〈本当に、相変わらずだな。お前は。だが、あんなことがあってもなお、お前が千年前と変わらずにいてくれて……良かった〉
ぶっきらぼうにそう言って、こちらから目を逸らすお姉様。ああ、たまらなく可愛いわ!
〈お姉様!〉
〈だああ! やめい! 今は戦闘中だ! 抱きつくんじゃあ、ない!〉
わたしの愛情表現をすげなく振りほどくお姉様。でも、戦闘中と言ったところで、リオネルの奴はもう敵じゃない。先ほどわたしが砕いた『シュレインの守護盾』がなければ、たった一撃で片が付く。
そう思って、わたしたちが彼に目を向けた、その時だった。
絶対の防御を打ち破られ、呆然とする神官服姿の男──リオネルの背後に紅い影が見えた。
〈何かしら?〉
呆気にとられて見守るわたしたちの目の前で、その紅い影は赤黒い剣を振り上げ……そのままリオネルの背中めがけて振り下ろす。
「な! ぐあ!」
『守護盾』を失ったリオネルは、為す術もなくその斬撃に斬り伏せられ、前のめりに倒れ込んだ。
〈な、なんだ? 何者だ?〉
お姉様もわたしと同様、とっさに何の反応もできないまま、呆然とつぶやいている。新たに現れたその人影は、紅い鎧を身に着けていた。銀の髪に銀の瞳。狂気に満ちたその顔は、いまだ幼い少年のものだった。
「くははは! ああ、ついに我が宿願を果たすことができた! 我が主よ! 我が絶対なる主よ! 今こそ祝福の時!」
声高く哄笑する紅い鎧の少年。
──けれど、次の瞬間。
〈わたしのものに、何してくれてるの?〉
そのすぐ傍に、世界を震わす圧倒的な力を持った、一人の天使が舞い降りる。
「ぐあああ!」
彼女が片手を振るうだけで、紅い鎧はひしゃげ、少年は血反吐を吐いて吹き飛んだ。
〈なにこれ? リオネルの気配が『二つ』もするから変だと思ったら……何だ。人形か。仕方がないなあ〉
つまらなさげに吐き捨てる『天使』。彼女の有する馬鹿げた力を前に、わたしもお姉様も身動き一つできない。
〈リオネル。大丈夫? すぐ直してあげるからね〉
そう言って、彼女はリオネルを助け起こす。
「う……あ……シェリエル様」
助け起こされたリオネルの顔に掛けられたヴェール。それがはらりとめくれ上がる。下から現れた顔は、先ほどの赤い鎧の少年と瓜二つで……けれど決定的な違いがあった。
「こんな顔で、申し訳ありません。八百年は、僕には長すぎました……」
彼の顔は、その半分が白骨化していた。しかし、シェリエルはそんな不気味な顔を見ても、眉一つ動かさない。
〈だから、馬鹿だって言ってるの。やっぱり、その身体はもう駄目だね。このまま直してもいいけど……それより、もっといいものがある〉
「え?」
唇から血を滲ませながら、リオネルが呆けたような声を出す。
祭壇の上に置かれていた、銀の箱。それがいつの間にか、二人のすぐ傍に出現していた。
「こ、これは……貴女の寝床……」
〈うん。寝床。私はね、大事な玩具や宝物を、寝床にしまっておく癖があるんだ〉
「……知っています。僕は貴女のことならなんでも」
〈その割には馬鹿だよね。素直に寿命で死んでおけばよかったのに〉
辛辣な言葉を吐くシェリエル。
「……はは。でも、僕はどうしても、もう一度貴女に会いたかった。だから……」
〈それが馬鹿だって言ってるの。ほら、これ〉
ゆっくりと箱が開く。人ひとりがどうにか入れそうな大きさの箱。こちらからは良く見えないが、シェリエルはリオネルの身体を抱き起し、その箱の中を指し示している。
「こ、これは……」
〈うん。リオネルの新しい身体。これならもう間違いなく、不老不死不滅だよ。リオネルが寿命で死んだときのための『入れ物』だね〉
悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべ、シェリエルが笑う。そんな彼女の笑みを見て、リオネルもまた、半ば白骨化した顔に笑みのようなものを浮かべ、無事な方の目から涙をこぼす。
「は、はは……。やっぱり、僕は馬鹿ですね。でも、どうして? どうして、こんなところに僕の……」
〈私の癖、知っているって言ったでしょ? それにリオネルは、私の『枕』だもの。枕は寝床に置いておかなくちゃね?〉
「……う、嬉しいです。すごく、嬉しい。ははは……僕は、馬鹿だ。貴女に、そんな風に大切にしてもらえているだなんて、思いもしなかった。でも、良かったです。死ぬ前に、貴女の想いを知ることができて……僕は、幸せです」
かすれた声で泣き笑いの表情を浮かべるリオネル。
〈だから、何言ってんの? 今から魂をこっちの身体に移し替えるんだから、死ぬみたいなこと言わないの〉
呆れたように肩をすくめた彼女は、リオネルの身体に手をかざす。
しかし、その時だった。再び辺りに哄笑が響き渡る。
「くはは! ふはははは! そいつはもう、終わりだよ! 天使! 我が『滅びの魔剣』は、我が主様の魂までもを滅ぼすだろう!」
〈うるさいなあ〉
一睨み。ただそれだけで、倒れたまま笑い声をあげていた紅い鎧の少年の頭が消し飛ぶ。
〈魂が滅びる? 私の力なら、そんなもの、簡単に元に戻してしまえるんだから関係ないでしょ〉
しかし、その言葉にはリオネル自身が首を振る。
「……人形が……レオンが使ったあの『剣』は、【魔血結晶】のあの剣には……数百年分の憎悪と怨念が宿っていて……」
〈なにそれ? そんなもの関係ない〉
〈くはは! 関係はあるさ! 我らの憎しみ、我らの恨み。それらを元にした我らの願い、我らの希望、我らの信仰! そうした諸々のものを、その男は『糧』にしてこれまで生き永らえてきたのだ! だから! それゆえに! その男は我らの『滅び』に抗えぬ!〉
〈まだ、いたの?〉
シェリエルがうるさげに目を向けた先には、赤黒い剣が浮いている。
〈ずっと殺したいと願ってきた! 我らを殺し、我らを奪い、我らを弄んできたその男を! 偽りの信仰を与えられ! 狂おしいほどの怒りと憎しみを溜めこまされながら、それでもなお、数百年に渡り、我らはその男を主と崇めてきた! だが、だからこそ! この『刃』には数百年に渡る我らの怨念、そのすべてを込めたのだ! 神だろうと絶対者だろうと救世主だろうと! たとえ世界そのものをなかったことにできる力が貴様にあったとしても! その男だけは必ず滅びる! 我らが滅ぼす! この想い、なかったことにできるものなら、してみるがいい!〉
〈黙れ〉
シェリエルの短い呟き。それと同時に、赤黒い魔剣は今度こそ、中に込められていた【瘴気】もろとも粉々に分解され、消去されていく。
〈大丈夫。大丈夫だからね。リオネル。私が『材料』を使って造り出した、この特別製の身体があれば……きっとリオネルにも『永遠』が……〉
『何か』を掌にすくい上げ、それを箱の中へと注ぎ込むシェリエル。
でも、それは傍から見ていたわたしにもわかる。すくった傍から指の隙間を零れて落ちていくモノは、もはやどうやっても取り返しがつかないものだ。
「ごめん……なさい。で、でも、う、れし、か……た。シェ、エ……ルさ……ま」
力無き声と共に、事切れるリオネル。そんな彼を見下ろし、シェリエルは肩を震わせる。
〈どうして? どうして目を覚まさないの? なんで? どうしてこうなるの? 私は……私は至高、私は最強、私は無敵、私は万能! なのに、なのに! どうして!〉
狂ったように叫び始めるシェリエルの身体から、すさまじい力が溢れ出す。
〈まずい! このままでは皆が!〉
お姉様の声にようやく我に返ったわたしは、咄嗟に空間を大きく斬り裂き、皆を一か所に引き摺り寄せるようにして集める。
〈アーシェ! 全力で防御だ!〉
〈ええ、わかったわ!〉
最強の女神二人が全力で展開する結界。それを掻き消さんばかりの勢いで、爆発的な力の奔流が周囲全てを吹き飛ばしていく。
「うああ!」
「きゃあ!」
──気付いた時には、この『魔族』の都市で『大聖堂』と呼ばれていた建物は、跡形もなく消し飛んでいた。