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異世界人と銀の魔女  作者: NewWorld
第20章 伝わる想いと伝える言葉
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第193話 交える言葉/交わる想い

     -交える言葉-


 それから俺たちは、グレイルフォール家の屋敷に泊まらせてもらうことになった。さすがに激闘を終えた昨日の今日では、敵陣に乗り込むのはきついだろう。ノエルの感じた胸騒ぎの件はあるが、それでも不眠不休で動くわけにはいかない以上、ここは休息を取るべきだった。


 『魔導都市』への突入時に先陣を切ってくれたラーズのおかげもあり、敵の混乱は未だに収束しておらず、しばらくは大きな動きもないだろう。ラーズについては、ある程度敵を撹乱した後、『魔導都市』の外縁部ぎりぎりの場所まで退避して身を潜め、こちらの合図に合わせて都市に再突入してもらう手はずになっていた。


 俺は夕食後、二階のバルコニーから外に出ることにした。このグレイルフォール邸は広大な敷地面積があるものの、生い茂る木々が美しい庭園の各所には、侵入者に備えた【魔装兵器】のトラップがあるのだそうだ。外での散歩は諦めるしかないようなので、せめて外の空気でも吸おうと考えた。


「……げ」


 それがいけなかったのか、バルコニーには会いたくもない先客がいた。


 フェイル・ゲイルート。かつての天敵。今でもなお、いけ好かない男だ。相変わらずの辛気臭い顔であらぬ方角に視線を向けている。いつも顔に巻かれていた包帯は無く、素肌を外気にさらしているが、その肌にはかつてのような赤い光は無い。


「なんだよ。それなら包帯なんか、いらないんじゃないのか?」


 なんとなく、そんな風に声をかけてしまった。対するフェイルはと言えば、急に声を掛けられた割には大して驚いた風もなく、こちらを向いた。黒い髪を長く伸ばし、整った顔立ちに赤い瞳をしたこの男は、漆黒の全身甲冑さえなければ、ただの優男にも見える。


 くそう、なんだか腹が立ってきたな……・


「この魔導都市は、『世界ではない世界』だ。『邪霊』たちも大して騒がない。……その点では、ここもあの【異世界】と同じだな」


「え?」


 意外にも、奴は真面目に返事をしてきた。てっきり無視されると思っていただけに、むしろ俺の方が驚かされる。


「【異世界】か。お前が過ごしたその場所は、……俺がかつて生まれた世界だ」


「ああ、知っている。お前のことなら、あちらにいる間、アレクシオラに聞かされた」


 そう言われると気になってしまう。あの女神、フェイルに俺の過去のことをどう話したのだろうか?


「……偽りの空。この『アストラル』の空は、『エデン・アルゴス』で造られた偽物だ。だが、あの世界の空は、紛れもなく本物だった」


 満天の星々が輝く、偽物の空。とはいえ、あのハイアークの残した【神機】によるものだけあってか、擬似的な星の輝きは、本物とほとんど区別がつかない。


「とはいえ、氷に閉ざされた世界だ。……よくもまあ、あんな場所に落ちて、生き残れたもんだぜ」


「あの日……俺は女神に拾われて、あの世界を知った。すべてが『神』に管理された世界。どいつもこいつも『絶対者』の決めたシステムどおりにしか生きようとしない。そのことに疑念すら抱かない。……当然だ。奴らにとって、『世界とは、そういうもの』なのだからな」


「ああ……本当に、うんざりする世界だったよ」


 俺が吐き捨てるように言うと、フェイルはぼそりとつぶやいた。


「俺には、わからない」


「なに?」


 唐突な言葉に俺が疑問の声を返すと、フェイルはそこで視線を空からこちらに戻す。


「何故お前は、あんな世界に生まれながら、そうしていられる?」


 フェイルの問いかけは、曖昧すぎて具体性に欠けている。だが、それでも俺には、奴の言いたいことが理解できた。


「……決まってるだろ。足掻いたからさ。死ぬのが嫌だった。あのまま意味も分からず、終わりたくはなかった。理不尽な世界を理不尽なまま、認めたくなかった。たとえ、それがどんなに無謀なことだろうが、それでも俺は、諦めたくなかったんだ」


 偉そうなことを言ってはみたが、結局のところ、俺はあの世界で何もできなかったのだ。だが、そう言って自嘲気味に笑う俺に、フェイルは首を振る。


「……あの世界を救ったのは、お前だ」


「え? 何を救ったって?」


 フェイルの言葉は、まるで意味が分からない。


「あの女神は、決して語りはしないだろうが……俺には分かる。お前という存在があの世界に生まれなければ、絶望したあの女神は、あの世界を終わらせていたはずだ。それこそ……己が衝動のままに、な」


「……アレクシオラが?」


「お前と俺は、あの女神の姉妹と同じ──いわば、真逆の存在だ。お前は、世界を否定し、すべてを投げ出し、理想を見据えることすらなく、ただ刹那の衝動のままに破滅に向けて歩き続けていた俺とは違う。……だからこそ、あの女神はお前の姿に希望を抱いたのだ」


「俺だって、そんなに上等なものじゃない。理想なんてものは、まったく考えちゃいなかった」


「だろうな。だがそれでも、お前の歩む先には『理想』があったのだろう。考えるまでもなく、それができる者。あの女神が憧れ続けた、『姉』と同質の存在」


 いい加減、背中がむず痒くなってきた。こいつ、実は俺に嫌がらせをしているんじゃないだろうか? こいつに褒め言葉らしきものを連発されるのは、どうにも居心地が悪くて敵わない。


 俺が顔をしかめたのに気付いたのだろう。奴はわずかに苦笑したようだった。


「心配しなくとも、こんなことは二度と言わない。貴様と慣れ合うつもりもない。……ことが終われば、俺はノラとあちらの世界に帰るつもりだからな」


「……ふうん。そうかい。でもお前、随分あのノラって女の子と仲がいいじゃないか」


 俺がからかい半分で言うと、そこで初めて奴の表情が動揺の気配を見せた。


「……アレには借りがある。それだけだ」


「嘘を吐け。お前、あの子には貸しっぱなしなんじゃないのか? むしろ、お前の方が世話してばかりだって聞いたぜ?」


「うるさい。……何かを与えている人間の方が、与えられている相手よりも大きな恩恵を得ることなど、いくらでもあるだろう」


 意味の掴みづらい言葉だが、俺はそれをこう解釈する。


「……つまり、彼女を救うことで、その実、お前の方が救われていたってわけか。……ノラがセフィリアにしてやったように」


「…………」


 フェイルは答えない。だが、その沈黙こそが何よりも雄弁だった。


「まあ、お前なんかどうでもいいけど……いなくなられるのは寂しくなるな。ノラって子、シャルやフィリスとも仲がいいみたいだし」


 俺が話を変えるようにそう言うと、フェイルは大きくため息を吐いた。


「あの女神は世界の境界を自在に斬り裂ける。俺もお前になど会いたくないが、ノラなら好きな時にこちらに来れるだろうさ」


「ふん。だったら、なんであんな世界に行くんだ?」


「ハイアークが滅びた以上、【ヒャクドシステム】の破壊は容易だろう。そうすれば、あの世界は元の緑にあふれた世界に戻る。さらに言うならば……あの女神は、あの世界で生まれる『精神』にハイアークでさえ気付かぬレベルの『不確定因子イレギュラー』が混ざるよう、世界そのものに細工を施していたらしい。そのせいかはわからんが、【異世界】では『邪霊』どころか『ジャシン』ですら、歪むことなく存在できる」


「なんだよ。やっぱりノラのためじゃねえか」


「……アレの中には、お前たちが出会ったファルネートを含め、無数の『ジャシン』が存在している。そいつらをこの世界に野放しにするわけにもいくまい。向こうの世界で一体ずつ、影響を確認しながら解放してやる必要がある」


 もっともらしいことを口にするフェイル。だが俺は、そんな返事で満足してやるつもりはない。大体、饒舌な奴ほど嘘つきだというのは定番だろう


「で? お前はノラのこと、どう思ってるんだ?」


「くだらん質問をするな。思うことなど何もない」


「冗談を言ってるつもりは無いぜ。例えば俺は、シリルが大事だ。あいつのためなら命を賭けるぐらい、余裕でできる」


「……お前は惚気を俺に聞かせたいのか? 付き合いきれんな」


「いいから聞けよ。でも俺は、アイツが大事だからこそ、死にたくない。俺が死ぬことで、あいつが少しでも傷ついて、悲しむのなら、俺は断じて死ぬわけにはいかない。……ノエルは俺に、こう言ったよ。『君は、自分の存在の重さって奴を自覚した方がいい』ってな」


「…………」


「だから、お前にも言っておきたい。少しでもノラを大切に思っているのなら、あの日、【風の聖地】であの子の手を振り払った時のような真似だけはするな。人との絆を自分で捨てて、簡単に死を選ぶような真似だけはするな。今のお前には、お前が死んだら悲しむ人がいる。それを忘れるな」


「……くくく。まさか、お前に命の心配をされるとはな」


 フェイルは可笑しそうに笑う。だが、馬鹿にしたような雰囲気はない。俺はそれを確認し、さらに言葉を続ける。


「前に『価値』がどうとか言ってたな?」


「…………」


「人は独りじゃ生きられないし、独りじゃないからこそ、生まれるものがある。お前の『価値』は、お前が生きて誰かと結んだ『絆』にこそあると思え。それこそが、お前の生きる理由になる」


 俺はこれ以上ないくらい、真剣な言葉で語る。

 かつてフェイルは、俺に向かって、言葉ではなく、刃を交えようと語った。

 でも、刃なら既に十分交えただろう。──だから今は、言葉でいい。


「知ったようなことを言ってくれるな。……だが、一応、聞くだけは聞いておいてやる」


「あ、おい!」


 フェイルはバルコニーの柵にひらりと飛び乗ると、そのまま下へと飛び降りていく。下には【魔装兵器】のトラップがあるかもしれないのだが、あいつの虚無化能力にかかれば、問題ないということか。


「……ったく。らしくもなく、語っちまったな。でも、そうか……俺の世界は、あの忌々しい【ヒャクド】から解放されるのか……」


 俺の中にあった最後のわだかまり。それが今のフェイルとの会話を経て、ようやく解消されようとしている。心が軽い。どんな形であれ、俺の故郷が救われたのだ。嬉しくないはずがない。


 そこまで考えて、俺はふと思う。あいつがいつになく饒舌に話し続けていたのは、もしかして、俺にそのことを伝えるためだったのだろうか? あいつに上から目線で助言してやった気になっていた俺は、その実、それと気付かぬよう遠回しに気を遣われてしまっていたというのだろうか?


「うお……そう考えると、なんだか一杯喰わされたような気分だな」


 俺がそんな風に一人で呟いていた、その時だった。


「ルシア……こんなところにいたの?」


 ためらいがちな少女の声が、背後から聞こえてきた。



     -交わる想い-


 自分で言っていて、白々しいにもほどがある言葉だ。わたしは彼に声を掛けながら、酷くばつの悪い思いを感じていた。

 明日が最終決戦だと思うと、不安で仕方がなかった。だからわたしは、何もせずに一人で過ごすことに耐えきれず、彼と話して……ううん、彼に甘えることで、どうにかこの不安を払拭しようと彼の姿を探して歩いた。


 彼の後姿を見つけ、ついていった先で、彼がフェイルと話しはじめるのに気付いたわたしは、何故かそのまま物陰に身を潜めてしまっていた。


 特に意味もなく、反射的な行動に過ぎなかったはずなのに、その後の二人の会話をそのまま盗み聞きしてしまったがために、彼に上手く話しかけることもできない。


「ああ、シリルか。どうした?」


「え? あ、うん。その、ちょっと話でもできればって思って……」


「そっか。じゃあ、こんなところで立ち話もなんだし、中に戻るか?」


「ううん。大丈夫。椅子ならそこにもあるし……」


 わたしが指差した先には、バルコニーで午後のお茶でも楽しむためのものなのだろう──簡易式のテーブルと椅子のセットが置かれている。


「ん? ああ、そっか。気付かなかったな。じゃあ、あそこに座るか」


 わたしは彼の様子に、どことなく焦っているような、ぎこちない印象を覚えた。でも、先ほどまでのフェイルとの会話の中に、彼がそんな態度になってしまう要因なんて、なかったような……。


 そこまで考えて、わたしはようやく思い出す。『俺はシリルを愛してる。だから、シリルのためになら、命ぐらい余裕で賭けてやる』だったかしら? 前半はもう少し違う言葉だったような気もするけれど(脳内補完してしまったような気もするけれど)……よく考えてみれば恥ずかしい台詞だ。


「ほ、ほら、座れよ。……ところで、シリル」


「え?」


 人に座るよう勧めておきながら、わたしが座る前に話を切りだすルシア。


「あ、ああ、悪い。……えっと、さっきまで俺、フェイルの奴と話をしていたんだが、何か聞こえたりはしなかったか?」


「え、えっと……」


 ルシアは、すごくストレートに聞いてくる。それだけ気になっているということかもしれないけれど、こうまで真っ直ぐ聞かれては、嘘はつきづらい。と言うより、彼に嘘なんてつきたくなかった。


「……ご、ごめんなさい。その……邪魔しちゃ悪いと思ってたんだけど……つい、そのまま話を聞いちゃって……」


 わたしは正直に謝ることにした。するとルシアは、完全にテーブルに突っ伏すようにしてうめく。


「う、うあああ……。恥ずかしい。つまり、あれだろ? お前のことまで引き合いに出して、俺がフェイルに『想い人は大切にしろ』とか上から目線で語っちゃってるのを、ばっちり聞いてたってことだろ?」


「……ご、ごめんなさい」


 何もそこまで自虐的にならなくても、と思わなくもなかったけれど、とりあえず謝っておくしかない。


「うう、穴があったら入りたいぜ……」


 テーブルに突っ伏したままの彼の腕が、相向かいに座るわたしの目の前まで伸びてきている。わたしは何となく、その手を掴んでみた。


「ん? シ、シリル?」


 焦ったような声を出すルシア。わたしはそれが可笑しくなって、顔を上げようとする彼の頭に手を伸ばし、黒くて柔らかな髪を優しく撫でる。


「あ、う……えっと、シリルさん?」


 戸惑いが最高潮に達したのか、ルシアの口調が怪しくなっている。


「……嬉しかったわよ」


「え?」


「わたしのことを凄く大事にしてくれているんだなって、伝わってきた。だから、恥ずかしいことなんてないわよ」


 わたしがそう言うと、彼の頬が見る間に赤くなっていくのがわかる。


「あなたが死ぬことで、わたしが少しでも傷つくなら……なんて言っていたけど、違うからね?」


「え?」


 驚いたように頭を上げ、わたしを見るルシア。そんな彼に、わたしは満面の笑みを浮かべて見せる。


「あなたが死んだら、わたしは生きていけないわ」


「うお……めちゃくちゃ可愛い」


 ぼそりとつぶやく彼の声が、はっきりと耳に届いてしまう。さすがにわたしも、今の言葉には頬の熱さを自覚してしまう。レムリアの街でデートをしたときにも、同じように面と向かって『可愛い』なんて言われたけれど、あの時はわたしの精神状態が浮かれすぎていて普通じゃなかった。


 だから、改めてそんな言葉を言われると、やっぱり少し恥ずかしい。


「声に出てるわよ。ばか!」


「うえ!? あ、い、いや……その、面目ない」


 顔を真っ赤にしたまま、申し訳なさそうに頭を下げる彼を見ていると、ますます愛おしさが込みあげてきてしまう。


「と、ところで、シリル。話ってなんだ?」


 ルシアは照れ臭さを誤魔化すように、本題を聞いてきた。この際、精神状態がどうだろうと、恥ずかしがってばかりはいられない。わたしは彼に、正直に自分の用件を言うことにした。


「明日のことが不安なの。だから……あなたと話がしたくて」


「……そうか。まあ、そうだよな。話に聞くだけでも、シェリエルって化け物じみてるし、聖堂騎士団も相当に手ごわい。問題はまだまだ山積みだもんな」


 納得したように頷くルシア。だけどわたしの言葉はこれで終わりじゃない。


「もっと正確に言うと、わたしが不安じゃなくなるよう、あなたに……甘えさせてほしいの」


「うんうん。まあ、その気持ちもよくわかる……って、うえええ!?」


 ルシアは素っ頓狂な声を上げ、目を皿のようにしてわたしを見た。


「い、今、甘えるって言ったか? 言い間違いとか、冗談じゃなく?」


「うん。……だめ?」


 これで拒否なんかされたら、恥ずかしいなんてものじゃない。彼がそんなことをするはずがないとは思うけど、それでもそんな不安もぬぐえない。


「うう……だからその目は反則だって……。くそ、あまりの可愛さに、俺が憤死しそうだぜ。……って、それはともかく、具体的にはどうすればいいんだ?」


 当然のように、肯定の返事。わたしは密かに安堵の息を吐く。けれど同時に、彼の問いに言葉が詰まる。考えてみれば、具体的なことは何も考えていなかった。ただ、胸の中にじわじわと広がる不安な気持ちも、彼の傍にいれば少しは和らぐかもしれないと思っただけなのだから。


「……傍に、いてくれれば」


 わたしは、どうにかそれだけ言った。うう、もう少し勇気を出して、何かを言うべきだったかしら? などと考えた、その時だった。

 ルシアが急に立ち上がり、テーブルを回り込んでこちらに近づいてくる。


「え? え?」


 驚いて見上げるわたしが腰かける椅子は、かろうじて二人が座れる程度のものだ。ルシアは何も言わず、無言でわたしの隣に割り込むように腰を下ろしてきた。


「……こ、こんなものでいいか?」


 至近距離に腰かけたというのに、こちらを見もせずに聞いてくるルシア。傍にいて欲しいというわたしの言葉を、観念的な物ではなく、直接的な物だと捉えての行動らしいけれど、まさにこれこそがいつもの彼だった。頭でわかっていなくても、心でわかってくれている。


 彼はいつだって、わたしの欲しいものをくれる。不安なときに、わたしがもっとも欲しいと思うもの。それは、シェリエル第三研究所の通路で寄り添ってくれた時と同じく──彼の温もり。


 でも、今は、これだけじゃとても足りない。あの時と違ってわたしたちは恋人同士で、お互いに遠慮しあう必要なんて、もうないのだから。


「……ルシア」


「な、なんだ?」


「わたしを……抱いてほしいの」


「……な、な、なななな!」


 顔を真っ赤にして意味不明の声を上げるルシア。でも、少し様子がおかしい。確かに大胆なことを言ってしまったとは思うけれど、でも、恋人同士なのだし、それぐらい当然なのではないかと思う。けれど、わたしがそう言うと、彼はますます狼狽えたような顔になった。


「う、そ、そりゃ、俺だって、できればそうしたいというか……願ってもないというか、……で、でもいきなりすぎるし……そもそもここはノエルの実家だぞ?」


「それが何か関係あるの?」


 きょとんとしたまま、わたしは彼に聞き返す。すると彼は、何とも言えない顔になった。


「い、いくらなんでも大胆すぎだろ。……そ、それに、部屋はどうするんだ?」


「部屋? 別に部屋に戻る必要は無いでしょ?」


「い!? な、なな、何言ってんだよ! そ、そんなわけにはいかないだろう? い、いくらなんでもこんな場所でそんなこと……」


 あれ? 明らかにこれはおかしい。わたしと彼の会話が噛みあっていない。わたしは首を傾げつつ、今までの会話を脳裏で反芻してみた。


 …………それから。


「ち、ちがっ!? 違うの! 違うのよ! いやあああ!」


 顔から火が出そうだった。よりにもよって、わたしはなんてとんでもない言い間違いをしてしまったのだろうか。


 わたしが言いたかったのは、『抱いてほしい』じゃない。『抱きしめてほしい』だった。言葉とすればほんのわずかな違いだけれど、その意味はまるで大違いだ。ああ、どうしよう。その後の彼とのやりとりなんて、……わたし、まるっきり痴女じゃない!


「違う、違うのよ! 違うから! そうじゃないから!」


 わたしの心の中には、もはや『違う』という言葉だけが溢れ返り、わけもわからず取り乱してしまっていた。もはや自分が何を言っていて、何をやっているのかさえわからない。


 けれど、そうしているうちに、ふわりと温かい感触がわたしを包み、一気に心が落ち着いていく。


「ごめんごめん。今のは俺が悪かったよ。だから、ほら、落ち着いてくれって」


 わたしの身体をぎゅっと抱きしめ、背中をさするようにして優しく呼び掛けてくれるルシア。わたしは肩で荒く息をしていたけれど、少しずつそれも収まっていく。


「うう……こんなはずじゃなかったのに……」


 そんなことを言いながらも、わたしは自分の腕を彼の身体にしっかりと回している。かなり恥ずかしい思いはしたけれど、これはこれで、当初の目的は達成できたと言っていいかもしれない。


「はは……。さすがに驚いたけどな。ここがノエルの実家じゃなかったら、俺だって……」


「その先は言わないで!」


「ああ、ごめん」


「で、でも、わ、わたしだって……その……」


「え?」


「う! な、なんでもない!」


 わたしは今、何を言おうとしていたのだろう? 再び混乱し始めた心を鎮めるように、わたしは彼の身体にしっかりとしがみつく。じんわりと身体全体に広がる温もりは、ただそれだけで途方無く気持ちよくて……。


「ご、ごめんね。変なこと言って。……ほんとは、こうやって抱きしめて欲しかっただけなんだ」


 男の人に思わせぶりなことを言って気を揉ませるのは良くないことだって、昔、ノエルから教わったような気がする。だから、わたしとしては謝るしかない。


 するとルシアは、こんなことを言ってきた。


「じゃあ、俺からも一つお願いしていいか? それでチャラにしようぜ」


「な、何かしら?」


 何となく不吉な予感がしたわたしは、恐る恐る聞いてみる。


「キスがしたい」


「ふえ!?」


 唐突な言葉に驚いて、彼から身体を離し、その顔を見上げた直後のこと。

 わたしは、ほとんど不意打ちのように唇を塞がれてしまったのだった。

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