第192話 彼女の友人/彼女の両親
-彼女の友人-
ノエルの部屋で僕らを待ち受けていたのは、以前『ラフォウル・テナス』を使った『幻獣』の強化に協力してくれた『魔族』の女性、ローナさんだった。
すらりとした長身を白衣に包んだ彼女は、優雅な姿勢で椅子に腰かけたまま、理知的な眼差しを僕らに向けてくる。とはいえ、僕らとしてはつい先程、まるで別人のように怒り狂った叫び声をあげ、シリルとレイミさんに取り押さえられているノエルの方が気になって仕方がない。
「僕は、説明を、要求する」
興奮のあまり息が切れたのか、途切れ途切れに言葉を口にするノエル。彼女の部屋だというこの室内には、先ほどからけたたましい動物たちの鳴き声が響いていた。
「いや、君が言ったんだろう?」
「何がだよ」
剣呑な目で彼女を睨むノエル。
「身の危険を感じたら、君の実家を頼れってさ」
その一言に、ノエルの表情が引き締まる。それまでの怒りは消えうせ、心配そうな顔でローナさんに問いかける。
「危険? 大丈夫なのかい?」
「ああ、見ての通り。怪我はないよ。ただ……」
「なんだい?」
「ほら、あのいけ好かない議員がいただろう? えっと……ガイエルって言ったっけ?」
「ガイエル……」
ローナさんの口から出た名前に、ルシアが気遣わしげな眼をシリルへと向ける。
「大丈夫よ。アイツは所詮、ただの小物だもの。もう何とも思わないわ」
シリルが声に出して言ったところを見る限り、念話で話しかけられていたわけではなく、彼の視線の意図を読み取ってのことらしい。
「そうそう! あの小物の癖に態度と図体だけは、やたらと大きいおっさんだよ」
「ぶふ!? あはははは!」
ローナさんがすかさず言った一言がツボに入ったらしい。シリルはお腹を押さえて笑い始めた。
「で? ガイエル議員がどうしたって?」
「うん。よくわからないんだけどね。わたしの大事な『ラフォウル・テナス』を接収するとか言って、研究室まで押しかけてきたんだ」
「なるほど。でも、身の危険ってことは……ついでに君のことを逮捕しようとでもしたのか?」
「うん。まあ、もしかしたら……腹いせにわたしが『幻獣』をけしかけてやったのが気に入らなかったのかもしれないけどね」
「いや、明らかにそれが原因だと思うよ……」
呆れたように肩をすくめるノエル。
「でも、どうしていきなりそんなことに?」
「さあ? お偉方の間で、揉め事が起きているみたいだったけどね。わたしはその手の話には興味ないし……その辺は君のお父上の方が詳しいんじゃないのかい?」
そう言って軽やかに立ち上がるローナさん。どうやら僕らを連れて、ノエルの父親のところにでも案内しようというつもりのようだ。さきほど使用人たちが僕らをここに案内してきたのも、彼女が言いつけていたのかもしれない。
「ちょっと待った。この部屋をこのままにしていく気か?」
「え? 何か問題がある? こいつらをここまで連れてくるの、結構大変だったんだけどな」
「『幻獣』だろう? だったら封印具にでも戻せばいいじゃないか」
「いやいや、さっきも言ったじゃないか。本物の生物に限りなく近づけてあるってさ。封印具なんてないよ。力こそそっちの神獣クラスの飛竜や霊獣クラスの一角獅子には遠く及ばないけど、そういう意味じゃ彼らより革新的な存在なんだぜ。こいつらは」
誇らしげに胸を張って断言するローナさん。ノエルの中で、ブチリと何かが切れたような音がした。いや、実際にはそんな音が聞こえるはずもないけれど、それとわかってしまうほど、彼女の身体からは怒りのオーラが溢れていた。
「……レイミ。久しぶりの再会だ。生みの親でもある彼女のことを、めいっぱい可愛がってあげなさい」
「え? いいんですか? うふふふ! 許可が出ちゃいました!」
それまで珍しく慎ましげに控えていた変態メイドさんは、喜色満面の笑顔で黒い鞭を取り出し、胸を揺らして白衣の女性ににじり寄る。
「え? な……ちょ、ちょっと待て! や、ヤメ! く、来るなあああ! ……あー!」
僕らはローナさんの断末魔(?)の叫びに耳を塞ぎ、動物園と化したノエルの私室を後にする。
「え、えっと……凄い声でしたけど……ローナさん、大丈夫なんでしょうか」
自分の『幻獣』を強化してもらったこともあってか、シャルは心配げに後ろを振り返ろうとするけれど、ルシアがそれを押しとどめた。
「シャル。駄目だ。振り返るな。アレは多分、お前が一生知らない方がいい部類のことだぞ」
首を振りながら彼女の肩を抑えるルシアに、シリルも同調するように頷いている。
「……まったく。どうしてわたしの周りには、シャルの教育に悪い大人が多いのかしら?」
などとシリルが言った、その時だった。
「わわ! す、すごい……。うそ、縄を使ってあんなことまでできるの? シャ、シャル。すごいよ。見て見て!」
その声は、ごく若い少女のものだ。真紅の髪をフワフワとなびかせ、後ろ向きの姿勢で宙に浮いている。彼女の紅い瞳は、『何か』を一心不乱に見つめ続けていた。
「……………」
シリルが固まっている。
「…………」
ルシアもまた、あんぐりと口を開けたまま、反応できないでいた。
「ノラ? す、すごいって……何がどんな風にすごいの?」
後ろを向くことができないでいるシャルも、ノラのあまりのはしゃぎように興味をそそられたらしい。そんな風に問いかえしている。
「え? えっとね……」
「だ、駄目よ! ちょ、ちょっとあなたね……お願いだから、シャルに変なこと吹き込まないで。……うう、大人どころか友達まで、こんなのばっかりなのかしら」
シリルは頬を赤らめつつ、無邪気に笑う少女をたしなめるように言う。
「え? どうして? ワタシは見たままを言うだけだよ?」
けれど、ノラは何もわかっていないようだった。
「お、おい、フェイル。あの子はお前の管轄だろ? なんとかしろよ」
ルシアも困ったようにフェイルに苦言を呈している。
「管轄? いや、俺は別に……」
珍しく戸惑った声で言い淀むフェイル。
「別に、じゃない。この中じゃ、お前が一番付き合いが深いんだ。だったら注意するのはお前の役目だろうが」
「……俺に指図するな。それに、そんなことをする義理は、俺にはない」
フェイルは、一転して低い声音で突き放すような言葉を口にする。だが、ルシアは怯むことなく続けて言った。
「じゃあ、何か? お前は、連れの少女が特殊な性癖に目覚めても……」
「ノラ! 今すぐ前を向け。見たモノも全部忘れてしまえ。いいな?」
ルシアの言葉の語尾が終わるのを待たず、ノラを制止するフェイル。
「え? うん。フェイルがそう言うなら、わかった」
彼女も彼の言うことなら素直に聞くらしい。くるりと正面を向き直ると、床に降りて彼の隣まで近づいていく。そしてそのまま、その手にしがみつくようにしながら、彼と歩調を合わせて歩く。
「あれが、あのフェイルなのか?」
僕の隣を歩くエイミアさんが、呆然とした声で言う。まあ、無理もない。僕だって信じられない。
「まあ、【異世界】に行って帰ってくるなんて経験をすれば、性格だって変わるのかもしれませんね」
僕らには想像もつかない世界。ルシアから聞かされた話を額面通りに捉えれば、そこはまさに地獄のような世界だったはずだ。
〈うふふ! 癒されるわねえ〉
僕らの最後尾を歩く二人の女神。そのうちの一人が弾んだ声を出している。そこに、もう一人の女神が呆れを含んだ声で問いかける。
〈随分とご機嫌だな?〉
〈ええ、それはそうよ。今まで千年近くも、暗くてジメジメしてて、自由の欠片もない世界の人間たちを見続けてきたのよ。こういう雰囲気は、本当に久しぶり。やっぱり、人間はこうでなくっちゃね!〉
〈……そうか。その、なんだ〉
妹の浮かれた声とは対照的に、姉の声は、暗く沈んだものだった。何かを言い淀んでいるかのようだ。
〈なあに?〉
〈悪かったな。……わらわのために、そんなにつらい目に遭っていたと言うのに……なにもわかってやれず、再会した時、酷いことを言ってしまった〉
〈本当よ。わたし、飛び蹴りを喰らったのだって千年ぶりぐらいだったのよ?〉
〈うう! それを言うな。悪かったと思っておる〉
ファラの声は、ますます力ないものになっていく。だが、その時だった。
〈ああ、もう我慢できない! お姉様の落ち込んだ顔、最高だわああ!〉
〈ぬあ! 何をする。これ! 抱きつくな! やめんか! ちょ、おま! そんなところを触るなああ!〉
なんだか、凄いことになって来たぞ。思わず後ろを振り返りたい衝動に駆られた僕だったが、そこに氷よりも冷たい声が響く。
「エリオット。今振り返ったら、わたしは君との縁を切るからな?」
「は、はい……」
どうやら諦めるしかなさそうだ。仕方なく、聞き耳を立てるだけにとどめる。
〈うふふ。まあ、姉妹のスキンシップはこの辺にしておきましょうか〉
〈……はあ、はあ、はあ。ぐ、人が逆らえないのをいいことに……〉
〈でも、お姉様。気にすることなんてないわ。わたしはいつだって、自分の衝動に従って、自分のやりたいようにやって来ただけ。……お姉様をハイアークから護ったのも、わたし自身が『そうしたかった』だけ。それにあの世界で千年もの時を耐え抜いてこれたのも、お姉様の『欠片』が共にあったから。……だからわたし、寂しくなんてなかったわ〉
〈ア、アーシェ……〉
感極まったようなファラの声。少し涙ぐんでいるようにも聞こえる。ところが一方、妹女神の方はと言えば、スキップでもするかのように僕らの脇をすり抜けながら、とんでもないことを口走っていた。
〈うふふ! お姉様ったら、相変わらず『チョロい』わねえ〉
……うん。聞かなかったことにしよう。やっぱり、聞き耳なんて立てるものじゃないな。僕は胸中で一人、反省するのだった。
「──お帰り。ノエル。無事で何よりだよ」
長い廊下を抜けた先にある応接室には、温和な顔立ちの男性がいた。黒髪黒目は『魔族』の特徴だけれど、お洒落に切りそろえられた口髭と言い、綺麗に撫でつけられた髪型と言い、気品ある『貴族』そのものといった容貌の男性だった。
ノエルの父親である以上、少なくとも四十歳は超えているはずだが、その若々しい顔立ちは、髭が無ければ二十代でも通用しかねないものがある。
「ただいま、父さん。……少し、やつれたんじゃない?」
ノエルは、心配げに問いかける。僕から見る限り、元気そうに見える彼ではあったけれど、家族にしかわからない変化というものもあるのかもしれない。
「まあ、いろいろあったからな。それより、お前がローナさんの他にも友人をたくさん連れてきてくれたことが、私には嬉しくてならないな。さあ、私にも紹介してくれるんだろう? ノエル?」
グレイルフォール家の現当主にしてノエルの父、メルクリオ・グレイルフォールは、自慢の一人娘と抱擁を交わしながら、そう言って笑った。
-彼女の両親-
ノエルの父上は、実に度量の大きい人物に見えた。こうして大所帯で突然押しかけたわたしたちにも嫌な顔一つせず、応接のソファに座りきれないわたしたちのために、他の部屋から椅子を持ってこさせたばかりか、今も眠りについたままのセフィリアのために寝台まで用意してくれたのだ。
お互いの情報交換は、ノエルの側から今回の状況を手短に話すことから始まった。どうやらここにきて、彼女はその一切を隠すつもりはないようだ。衝撃の事実を告白し続ける娘を前に、さすがのメルクリオ殿も顔色を徐々に青褪めさせていく。
「……ふう。お前が『最高傑作』と呼ばれた少女の教育係に指名されて、こともあろうに教え子となった彼女に惚れ込んでしまった時点で、娘は彼女に取られたものと諦めてはいたのだが……」
ちらりと優しげな眼をシリルに向けた後、メルクリオ殿は額を押さえ、小さく頭を振る。しかし、どうにか気を取り直したらしい。直後には掌で頬を叩き、毅然とした表情で顔を上げる。
「しかし、これでどうやら話の全体像が見えてきたな。『元老院』があんなことになったのも、メゼキスの『死』も、すべてはそこに繋がっているのか」
「何があったの?」
「ああ……。ほら、お前の部屋にローナさんが住みついてしまっていただろう?」
「……ああ、そうだね。どうして放り出してくれなかったんだい?」
不満げに言う彼女に、メルクリオ殿は困ったような顔で笑う。
「こら。心にもないこと言うんじゃない。お前の友達だろう?」
「それはそうだけど……でも、僕の部屋が……」
「ま、まあ、流石にあれは私にも予想外だったが……。とはいえ、彼女のもたらしてくれた情報が無ければ、私も死ぬところだったのだからなあ……」
「え?」
驚いたように腰を上げかけるノエルを制し、彼は言葉を続ける。
「ガイエルの奴は……と言うより、いわゆる『反議長派』の連中は、なりふり構わぬ強硬手段に打って出たらしい。『ラフォウル・テナス』の接収もその一環だろう」
「理由に心当たりは?」
そう言って問いかけたノエルの目は、おおよそ娘が父に向けるものではなく、政治家同士の会話のようにさえ思えてくる。
「……メゼキス・ゲルニカの死去」
「でも、さっき話した通り、彼が死んだのはつい昨日のことだよ?」
「ああ、死んだのは『表』のメゼキスだ。一週間ほど前のことだったかな? 無論、狙いがあってのことだろう」
「……『反議長派』を暴走させることで『魔導都市』全体を混乱させ、自身の大願成就を邪魔されないよう『議長』の目を逸らそうとした。そんなところかな?」
「だろうな」
父と娘は、息の合った会話を続けている。
「だとしたら……、ガイエルたちは『ラフォウル・テナス』を接収して何をしようとしているのかな?」
ノエルがそんな風に言いながら首を傾げたその時だった。部屋の入口から新たな人物が姿を現す。
「ノエル! ああ、良かった!」
甲高い女性の声。上品な身なりをした黒髪の女性は、ノエルとよく似た顔立ちをしている。恐らくは彼女の母親に当たる人なのだろうが、ノエルは彼女を見て、何故か顔を引きつらせる。
「あ、ああ、母さんも元気そうだね」
ソファから立ち上がり、駆け寄ってきた母と抱擁を交わす彼女の声は、わずかな震えを伴っているようだ。
「……でも、ノエル。その格好は、どうしたのかしら?」
ノエルの母上は、ようやく身体を離すと、ノエルの姿を頭から爪先まで眺めながらつぶやく。
「え? い、いや、これはその……」
ノエルは例のごとく、男装の麗人と言ったスマートな装いに身を包んでいる。つまりは、男物の衣装だ。
「わたしが作ってあげた服は? いつも言っているでしょう。女の子は女の子らしく、綺麗な衣装を身に着けなくちゃ……。そんなことだから中々お嫁に行けないのよ?」
「あ、い、いや、そ……それより! 今日は友達を連れてきたんだ。その話は後にして、紹介させてよ」
どうにか話題を変えるようにノエルが言ったその直後、さらにもう一人、部屋の中へと飛び込んできた人影があった。
「ミレニア様、お久しぶりですぅ!」
「あら、レイミじゃない! 貴女も元気そうで何よりだわ! それに……貴女はノエルと違って、わたしがしつらえた衣装をちゃんと来てくれているみたいだし、嬉しいわ!」
それまで年相応の落ち着いた趣を感じさせていたミレニア殿は、露出の激しいメイド服を着こなす変態メイド──レイミと手を取りあい、少女のようにはしゃいでいる。
……いや、ちょっと待て。今、聞き捨てならない言葉が出なかったか?
「え? えっと……レイミの服って……、ノエルのお母様がつくったものなの?」
わたしと同じことを思ったのか、シリルがそんな彼女らに割り込むように声をかける。
「あ、シ、シリル……」
何かに気付いた様子のノエルが止めに入るも、手遅れだった。ミレニア殿はレイミから手を離すと、自分のすぐそばまで寄ってきた銀髪の少女に顔を向け、それから驚いたように目を丸くした。
「え? な、なに……って、きゃああ!」
「可愛い! 可愛いわ! すごい! なんて可愛い女の子なの!」
「ちょ、ちょっと、離し、 離してください!」
身長差がある相手に覆いかぶさるように抱きしめられたシリルは、それでもどうにか彼女の身体を突き放す。
「……銀の髪に銀の目。そう……貴女が『シリル・マギウス・ティアルーン』なのね」
「う……」
まじまじと見つめられ、シリルは狼狽えたように後ずさる。
「うちの可愛いノエルを奪っていった子……」
「か、母さん? それは……」
ぶつぶつとつぶやき続けるミレニア殿をなだめようと、ノエルが口を開きかける。しかし、それより早く──
「でも! こんなに可愛い子なら、許してあげちゃうわ! ああ、その衣装も凄く可愛いけど、やっぱり、全体のコーディネートがなっていないわね。うふふ! さあ、こっちにいらっしゃい。もっともっと可愛くしてあげる!」
言いながら、呆気にとられたシリルをぐいぐいと引っ張って行こうとするミレニア殿。
「ちょ、ちょっと待ってよ。母さん! 今はそれどころじゃ……」
ノエルがそれを制止しようとすると、ミレニア殿はそこでようやくこの場に大勢の人間がいることに気付いたのか、我に返ったようにシリルから手を離した。
「い、いけない。わたしったら……」
「ふう……。困るよ、母さん」
安堵の息をつくノエル。けれど、その後ろでは、レイミが含み笑いを洩らしている。
「他にもこんなに可愛い子たちがいるなんて! ああ、そっちの貴女? お名前は?」
「え? シャ、シャルです……」
「そう! シャルちゃん。いい名前ねえ。そのティアラも悪くはないけれど、もっと色合いの濃い宝石の方が綺麗な金髪に良く映えるわよ」
狼狽えるシャルの頭をなでながら、彼女は次なる獲物を物色し、真紅の髪の少女、ノラに狙いを定めたようだった。
「……ノエル。これは、何なんだ?」
それまで呆気にとられていたルシアが、小声でノエルに問いかける。
「……ごめん。母さんは服飾品を自分で作るのが好きなんだ。特に可愛い少女を飾り付ける衣装を考えるのが大好きみたいで……時々こんなふうに暴走しちゃうんだよ」
恥ずかしいところを見られたと言いたげに、顔を俯かせるノエル。こんな彼女の表情は珍しいかもしれない。
一方のメルクリオ殿は、暴走する妻を止めるでもなく、力無い声で笑う。
「……ま、まあ、仕方ないさ。ここのところの不安定な政情には、ミレニアもお前の無事を心配して胸を痛めていたからね」
「うん。心配をかけてごめん」
神妙に頭を下げるノエル。するとそこに、かすれたような女性の声が聞こえてくる。
「……あ、謝るなら、わたしにも謝ってもらえないかな?」
声がする方を見れば、やつれた顔で戸口に立ったローナ殿がいた。長い黒髪はわずかに乱れ、身に着けた白衣もヨレヨレに見えなくもなかったが、その他は特に無事なようだ。
「ああ、ローナ。久しぶりの『娘』との再会はどうだった?」
「……再会? ……うん。いいものだな。いいものだ。『あれ』は本当にいいものだ……」
遠い目をして呟くローナ殿。どうやら、全然無事なんかではなかったらしい。
「ま、それは置いといて。ローナ、今度こそ事情を話してくれるね?」
「置いておくな! 危うく新しい世界が見えかけたんだぞ! ……だが、事情なら話しただろう?」
「君が話したのは、ここに来るまでの経緯だ。でも、他ならぬ君がガイエルたちの真意を洞察していないはずがないと思うんだけどね」
信頼に満ちた声でノエルが言うと、何故かローナ殿は嫌そうな顔をする。
「……まったく、君って奴は。まあ、いいや。御察しの通り、わたしだって奴らが『ラフォウル・テナス』を接収した理由くらい、わからなくはないさ」
「その理由とは?」
「手持ちの『幻獣』の強化だろうね。新たな種の開発をするなら、わたしたち『研究者』の存在は不可欠だし、都市の【魔力貯蔵施設】の使用なり、【魔力】の補充要員なりの目途さえ付けば、『幻獣』そのものは無限に再生するんだ。なら、考えられるのは生産じゃあなく、強化だろう」
「彼らは、戦争でも始める気なのか?」
「そうだろうね。それだけ『メゼキス・ゲルニカ』は、反議長派にとって大きい存在だったってわけだ。当然、このグレイルフォール家にも矛先は向けられている。僕が間一髪、ここへの到着に間に合っていなかったら、今頃、君のお父上は『元老院』からの呼び出しにノコノコと出かけて行った挙句、謀殺されていただろう」
当の本人がいる前で、『ノコノコと』などと言うあたり、ローナ殿もいい性格をしているな。しかし、案の定、メルクリオ殿は気分を害した様子もなく、頷きを繰り返していた。
「ああ、本当にローナ殿の忠告には助かった。この屋敷にはノエルが創った防衛用の【魔装兵器】が山ほどある。外にさえ出なければ、ここより安全な場所は無いからな」
メルクリオ殿がそう言ったところで、シリルがようやくミレニア殿の魔手から逃れ、用件を告げる。
「その安全性を見込んでお願いがあります」
ちらりと目を向けた先には、寝台に横たわるセフィリアの姿。
「わたしたちの仲間を……セフィリアをここで預かってはいただけないでしょうか」
「その子を?」
「はい。ずっととは言いません。わたしたちが目的を果たすまでの間だけです。どうにかお願いできないでしょうか?」
「お願い……か。だが、その前にひとつだけ言わせてくれ」
メルクリオ殿は表情を曇らせ、声を低くして先を続けた。
「……シリル君。わたしはね……正直に言うと、君のことが好きではなかった。無論、君に罪はないことはわかってはいた。それでも『元老院』の指示で娘が君の世話係に任命され、やがて自ら進んで危険な立場に身を置くようになった時は……『君さえいなければ』と何度も思ったものだったよ」
「…………」
シリルは悲痛な表情で、その言葉を黙って聞いている。
「……だが、たった今、娘から話を聞かされて、ようやくわたしは理解した。娘の常人離れした才能も、君との出会いも、妻と二人で娘の身を案じ続けた日々も……そのすべてが、我々の大切な未来を掴みとるために、必要なことだったのだとね」
「メルクリオ様……」
「『様』はいらないよ。シリル君。娘は……家に帰ってきた時はいつも君のことを嬉しそうに……そう、まるで自慢の『妹』のように話していたよ。こうして面と向かって話すのは初めてだが……それでも君は、わたしたちにとって『娘』も同然だ。お願いなんて必要ない。いつでも我が儘を言って、頼ってくれていいさ。娘が親を頼るのは、当然だろう?」
やはりこの人は、ノエルの父親だ。こうして優しげにシリルに向かって笑いかける様は、まさに彼女の生き写しだった
「……あ、ありがとうございます」
おやおや、シリルも随分と涙腺が緩くなったものだな。わたしは、彼女と出会ったばかりのことを思い出していた。感極まったように瞳から涙を零す銀髪の少女は、冷静沈着で何事にも警戒を怠らなかったあの時の彼女とは、まるで別人のようだ。
「……あ、あの、わたしからもお礼を言わせてください。この子、……セフィリアはわたしの大事な友だちなんです。だから……ありがとうございます」
シャルもまた、立ち上がって礼儀正しく礼を言う。すると、これにはさすがのメルクリオ殿も相好を崩し、愛想よく応じた
「シャルさんだったかな? ……これはまた、可愛らしいお嬢さんだ。ははは。安心しなさい。君の友達は、責任をもってわたしたちが見守ろう。ただ、問題は……」
そこでいったん言葉を切り、メルクリオ殿は自分の妻を指し示す。彼女は、いつの間にか寝台ですやすやと眠るセフィリアの傍にいた。
「まあ! この子もすごく可愛いわね! 目が覚めた時のために、たくさんお洋服を用意してあげなくちゃいけないわ。……それに寝巻だって同じ服じゃ、よくないわよね。それから……髪飾り! そうよ! 女の子なんだもの。お髪ぐらい綺麗に結って、飾りも付けるべきだわ。それから……」
すやすやと穏やかな寝息を立てる少女の周囲をくるくると歩き回り、思いつくままに喋り続けるミレニア殿。
「……君たちが戻ってくるまでに、屋敷の中が妻の作った服であふれかえってしまわないようにしないとなあ……」
ぼやくメルクリオ殿の姿に、一同から笑いが起こった。