第189話 無謬の神様/永遠の彼女
-無謬の神様-
〈あ、あがが……あぐ……〉
俺が斬りつけた胸の傷。ハイアークの魂そのものに刻まれた、ファラの剣閃の跡。ちょうどその傷跡を貫くように、鋭く、そして真っ赤な刃が奴の身体から突き出ている。
「無様だな」
声の主は、いつの間にかハイアークの背後に立っていた。少年のような姿の最高神の頭越しに、俺はそいつと視線を合わせる。赤い瞳に黒くて長い髪。抜けるように白い肌には、うっすらと紅い光が浮き沈みしている。
「フェイル?」
「……ふん」
秀麗な顔に気だるげな表情を浮かべ、奴は俺から目を逸らすと、手にした剣を更に押し込む。
〈ぐぎゃああああ! あ、あが……ば、馬鹿な! まさか、まさか!〉
胸元を貫く真紅の刃にもだえ苦しむハイアークは、驚愕に目を見開く。気づけば、尻餅をついた俺のすぐ横に、一人の女性が佇んでいた。
〈め、女狐め……〉
〈やれやれだわ。本当に間一髪。わたし、心配で心臓が止まりそうだったんだから……なんちゃって、うふふ! 精神体のわたしには、心臓なんてないんだけどねー〉
明るく弾むような声。かつて病床にあった俺を、何度となく励ましてくれた『彼女』の声。もう二度と聞くことは無いと思っていた、幻の声。
彼女は、ちらりと俺を振り返る。慈愛に満ちた黒い瞳。艶やかな黒髪を軽く掻き上げ、彼女はにっこり笑ってみせる。彼女はなぜか、あたかも女騎士さながらに凛々しくも美しい甲冑を身につけていた。
〈トライハイト。元気そうで良かったわ。……あなたのおかげでわたしはようやく、目的が果たせそうよ〉
「ナ、ナオ……」
俺は喉が干上がりそうな感覚を覚えつつ、かすれた声で返事を返す。
〈あら、今でもわたしをそう呼んでくれるの? 嬉しいわ。……色々と聞きたいことはあるだろうけど、少し待っててね〉
彼女はそれだけ言うと、ハイアークへと向き直る。
〈女狐め! どこに消えたかと思えば……小賢しい策を弄していたか! だが、この程度で僕を滅ぼせるとでも思っているのか? 貴様の『爪』の傷など、僕にとっては些細なものだ〉
明らかに致命傷というべき胸元の刺し傷も、『神』である奴にとっては見た目どおりのものではないのだろう。ハイアークは、徐々に余裕を取り戻してきているようだ。
〈そうね。お姉様の一撃。わたしの一撃。そうやって世界の表と裏から切り結んでもなお、あなたを完全に滅ぼすには足りない。そもそも『神』が『神』を滅ぼすこと自体、至難の業なのだけど……まあ、封印するにはこれでも十分だわ〉
〈ククク! 馬鹿め! 封印だと? 『支配の神』たるこの僕が、いつまでもそんな境遇に甘んじていると思うか?〉
勝ち誇ったように笑うハイアークに、女神は不敵な笑みを浮かべる。
〈思わないわ。でもね? わたしが手に入れた『世界の希望』は、トライハイトとフェイルの二人だけじゃないのよ。実際、『彼女』のおかげで、わたしはあなたを『滅ぼす』目途が付いたのだから〉
〈な、なんだと?〉
意味深な彼女の言葉に、だんだんと焦りの色を見せはじめるハイアーク。
彼の目には、新たな人影が映っていた。
〈不完全な世界を捨てた? ううん。違うわ。……あなたは、ワタシを、……ワタシたちを誰よりも恐れていた。だからこそ、『逃げた』のよ〉
厳かに響く少女の声。
「ノラ!」
即座に反応したのは、シャルだった。喜びに満ちた彼女の視線が向かう先には、真紅の髪をなびかせた、少女が一人。
〈シャル、フィリス。久しぶり! また会えて嬉しいな〉
「あ、あ……ほんとに? ほんとに生きてたんだ!」
涙声で叫ぶシャルに『ジャシン』の少女ノラは、優しい微笑を返す。
〈う、う、『ジャシン』だと? そ、そんなもの、そんなもの、いるはずがない! 僕は失敗しないし、間違えない。無謬にして最高の絶対神だ!〉
〈無謬? ……それは、あなたに相応しい言葉じゃないわ。それが相応しいのは、ここにいるアーシェだけ〉
ノラがつぶやけば、彼女──アーシェもまた、笑って続ける。
〈後はせいぜい、お姉様ぐらいだわ。さあ、あなたも年貢の納め時ってやつかしらね?〉
〈馬鹿な! 待て! 何を……何をする気だ! ぐが、あがが………〉
顔に恐怖の色を浮かべ、胸に刺さった真紅の刃を抜こうと必死にもがくハイアーク。
「無駄だ。傷は小さくとも、貴様にこの『爪』を抜くことなどできん。刹那の瞬間、貴様の力を遥かに上回るレベルに跳ね上がった力で突き立てられた、この刃はな」
フェイルはなおも、手にした剣を捩じるように食い込ませながら、つまらなそうに吐き捨てる。
〈ぎああああ! く、来るな!〉
〈……あなたに、教えてあげる。この世界には、『ワタシたち』のような存在が確かにいるんだってことを。この身に宿るすべての『ジャシン』の力。その身をもって味わいなさい〉
しゅるしゅると伸びる真紅の髪は、ハイアークの胸元の傷へと吸い込まれるように入り込んでいく。
〈か、は……ぐぎゃあああああああ!〉
断末魔の叫び声。空気が萎むような音を立て、ハイアークの身体が歪んでいく。輪郭が崩れ、霞み、そして再びはっきりとした形を取り戻した頃には、その肉体はメゼキス・ゲルニカのものに戻っていた。
フェイルはそれを見届けると、ずるりとその身体から『聖剣』を引き抜く。
倒れ伏す『魔族』の身体に目も向けず、奴は俺の姿をまっすぐに見据えてきた。
──生きていた。フェイル・ゲイルートはやはり、死んでなどいなかった。それはあの時、『ナオ』の姿を見たときから予感していたことではあった。だが、こうして現実に目の前に現れると、俺の中には複雑な感情ばかりが広がっていく。
かつて敵として戦った相手。だが、今この時、奴は何のつもりかは知らないが、俺たちを助けてくれたのだ。
正直、何と言って言葉をかけたものかもわからない。だが、俺がそんな風に迷っていると、奴はこともなげにこう言った。
「無様だな」
言われて、俺は自分の姿を見下ろす。……腕が無い。痛みも感じない状態だが、俺の腕が無くなっている。まあ、それはいい。かつての俺には、義手しかなかった。だからこの際、その問題は後回しにしよう。それよりも問題は、だ。
この期に及んで、そんな俺に憎まれ口を叩きやがるフェイルの野郎だ。
「て、てめえ! いきなり出てきた挙句、人のこと見て無様だとか抜かしてんじゃねえぞ! いいか? お前は卑怯にも背後からばっさり不意打ちかましただけで楽してやがるけどな。俺はあの化け物みたいな奴と正面からまともにぶつかったんだぞ! 褒めろとは言わないが、他に言い方って奴はねえのかよ!」
口を突いて出た言葉は、自分でもよく意味が分からない。だが、そんな俺を見て、奴はふっと笑いを洩らす。あ、何か今、上から目線で馬鹿にされたぞ、俺。
「……勘違いするな。俺のことだ。あの時、あんな風にお前に語っておきながら、こうしておめおめと戻ってきた自分自身が無様だと、俺は言った」
「へ?」
奴は殊勝にも、そんな言葉を口にする。あまりにも意外な言葉に、俺は二の句が継げなくなった。
〈はいはい。話はそこまで。今はまだ、解決しないといけない問題があるでしょう?〉
そこに割って入る、彼女の声。
「ナオ……いや、アレクシオラか?」
〈あなたには、ナオって呼んでほしいわね。トライハイト。気に入ってるのよ、その名前〉
「…………」
あの時と同じ笑みを見て、俺は複雑な想いと共に唇をかみしめる。
〈……悪いなんて思ってないわよ。あの時、わたしはああするのが最善だと思ったのだから〉
言葉どおり、悪びれもせず舌を出す彼女。だが、その直後のことだった。
〈さて、じゃあ、まず、あなたの腕を……って、きゃあああ!〉
〈アーシェええええええ! おぬし、よくもわらわを裏切ってくれたなああああ!〉
それはもう、見事な飛び蹴りだった。それまであんぐりと大口を開けて固まっていたファラは、今この時、軽やかに宙を舞い、その両足を彼女の鳩尾に叩き込んでいる。
〈え? ちょ、ちょっと、待って! お姉様! だめ! 蹴っちゃ駄目! いたた! 痛い、痛い、痛いってばあ!〉
〈うるさい! この! この! この!〉
倒れた女神をひたすら足蹴にするもう一人の女神。……あまり、見ていたくはない絵面だった。
「いや、ほら、二人とも姉妹喧嘩なら後にしてくれって!」
〈喧嘩って言うか、わたし、一方的に蹴られてるんですけど!〉
〈喧嘩と言うより、これは正当な復讐だぞ!〉
「いいからやめろ! 今がどんな状況か、わかってんのか? ああん?」
いい加減腹が立ってきた俺は、思わず声を荒げた。シリルの様子だって心配だと言うのに、こいつらときたら何をやっているんだか。
〈……トライハイト。あなた、しばらく会わないうちに随分ガラが悪くなったのね。お姉様の影響かしら?〉
〈うるさいぞ! ……ま、まあ、だが話は後だ。まず、ルシアの腕だが案ずるな。わらわが治す。いや、直す〉
「え?」
俺がファラの言葉に疑問符を浮かべた次の瞬間には、俺の腕は元の形を取り戻していた。
「な、なんだこれ? 嘘だろ?」
〈ふむ。ようやく全盛期の力を取り戻した気がするぞ〉
〈わたしが最後の欠片を返してあげたんだから、当然だわ〉
〈やはり、そうか。ルシアの『扉』が完全に開ききらなかったのも、そのせいだな?〉
ようやく合点がいったと言うように頷くファラ。だが、俺の腕のことなんか、どうでもいい。とにかくシリルが心配だ。俺がそう言うと、二人の女神は揃って「ごちそうさま」と言いたげな顔をしつつ、とある方向を指差した。
そこには倒れたままのシリルの脇に座り込む、二人の少女の姿がある。
「彼女の魂と世界との『つながり』を喪失せばいいのね?」
「うん。でも、やりすぎないように注意して。ワタシも手伝うから」
シャルはどうやらフィリスと入れ替わっているらしい。ノラと二人、何やら相談しながらシリルの身体に手を当てている。
「……ルシアくん。シリルちゃんなら、もう大丈夫だよ。あの二人が何とかしてくれるみたい」
二人の話を聞いていたらしいアリシアが、俺を安心させるように語りかけてくる。
「……そう言えば、エイミアとエリオットは?」
「わからない。嫌な予感がして、すぐにこっちに来ちゃったから……。でも、あたし、何の役にも立てなかったな……」
「何を言っている」
すっかり落ち込んだ顔をするアリシアの肩を、後ろから叩いたのはヴァリスだった。
「え?」
「アリシア。自分を卑下するのはよせ。それでは仲間を想い、駆けつけてきた自分の気持ちまで否定することになるぞ。我とて、今回ばかりは不甲斐ないところを見せた。だが、だからこそ、次こそは……お前にいいところを見せてやろう」
「え? え?」
「む、そ、その……だ、だからだな……」
唐突なヴァリスの言葉に、アリシアは顔を真っ赤にして狼狽えている。どうやらヴァリスなりに彼女を元気づけようとしたらしいが、言った本人が照れてしまっては格好もつかないのではないだろうか。
「もう、ルシアくんまで!」
俺の考えていることに気付いたのか、アリシアは頬を膨らませて怒ってしまった。
俺は、倒れたままのシリルの元まで歩いていく。フィリスとノラ、二人の少女の手から溢れる光は、それまで苦しげだったシリルの表情を穏やかなものにしていた。
-永遠の彼女-
『クロイアの楔』がわたしの魂を世界に繋ぎ止めてから、すぐのこと。
シェリエルは、わたしに語りかけてきた。
〈苦しい? 辛い?〉
それは単なる確認のようなもので、わたしのことを心配してのものではなかった。苦しいかと言われれば、苦しいに決まっている。『世界』という途方もなく巨大なものに自身の意識を連結し、世界に生じたあらゆる事象を自身の身に起きたこととして感じるなんて、普通なら発狂してもおかしくはない。
メゼキスの術式も完全なものではなかったらしく、わたしは辛うじて正気を保つことができていたけれど、それでも心を裂かれるような苦痛はわたしの意識を朦朧とさせていた。
〈く、苦しいわよ。……だから、なに?〉
それでもわたしは、彼女に弱いところを見せまいと虚勢を張る。すると彼女の声が、愉快気な調子に変わった。
〈あはは、それだけ話せれば十分。すごいすごい。やっぱり、あなたは私と同じ。もう一人の私なんだね〉
〈……よくわからないけれど、わたしはわたしよ。あなたじゃないわ〉
わたしはノエルに言われたことを思い返しながら、否定の言葉を彼女に返す。けれど彼女は、そんな言葉など気にも留めずに別の言葉を口にする。
〈この世界は、私の『夢』。思い通りに形を変える、私の楽しい箱の庭〉
〈意味が分からないわ〉
〈教えてあげる。……私、自分の知っていることを知らない相手に教えるの、大好き〉
〈……よくいるわよね。そういう人〉
彼女の軽口に、憎まれ口を返すわたし。けれど、彼女がこれから語ろうとしていることは、とても重要なことなのだろうと察しはつく。わたしは黙って彼女の言葉の続きを待った。
〈この世界には、馬鹿が多い〉
〈は?〉
突然、何を言いだすのだろうか? わたしはつい、言葉にならない言葉を挟んでしまう。
〈この世界を思うがままに生きようと望んだモノたち。でも、どんなに我が物顔で世界を歩こうとも、世界を思うがままにすることなんてできない。少なくとも……馬鹿にはね〉
〈……何が言いたいの?〉
〈まずは『神』。世界の外に自分を創り、世界の内へと自分自身を吐き出すモノ。『客観的に』世界を見つめて世界を操る? 矛盾もいいところ。もともと世界から生まれているくせに、真の意味で世界に対して客観的になんて、なれはしない〉
だからこそ、彼らの世界の改変は失敗した。彼女はそう言いたげだった。
〈それに『竜族』。世界の内で世界を飲み込み、自分の中に内包するモノ。それ自体で自己完結した一個の世界になる? 馬鹿みたい。他の何者とも関わらないなんて、その時点で『世界』に生きているとは言えない〉
だからこそ、彼らは裏切りに気付かず、世界の改変に取り残された。彼女はそう言いたげだった。
〈『ジャシン』なんて論外。世界を客観的に見るために、世界を歪めて自分の居場所を生み出すモノ。……解説するまでもないよね?〉
存在自体が矛盾する存在だ。彼女はそう言いたげだった。
〈ああ、それから『精霊』も。世界そのものから発生し、世界とともにあるモノ。存在自体が世界に等しい? まるで無意味。それでは何もできないのと同じ〉
だから『精霊』は、【瘴気】に弱く、【歪夢】に弱い。己の存在を確固たるものにできない。彼女はそう言いたげだった。
〈……世界の外側にあることも、世界の内側で自分だけの世界を持つことも、世界そのものを歪めて居座ることも……そして、世界そのものであろうとすることさえ、愚の骨頂。すべてを思うがままにしたいなら、最初から答えはひとつ〉
そこから先は、聞きたくない。彼女の天才がもたらす、真の天災。
けれど、どんなに耳を塞ごうと、心の中での会話においては意味がない。だからわたしは、自分の『元』となった人物が世界にとってどれだけ禍々しい存在なのかを、ここではっきりと突きつけられることになる。
〈──世界を私とひとつにする。それは、世界の融合。『個』であると同時に『全』であること。中心に『私』を置きながら、世界そのものもまた、『私』と為すこと。そうしてこそ、世界は『私のもの』になる〉
〈まさか……〉
世界を重ねる試み。八百年前に実行された【儀式】。
それは『魔族』のうちでも『天才的な術者』によって考案され、実行に移されたものだった。そして誰もが、その術式とは、『世界に無数に散った世界律を統合する』ことだと思っていた。だからこそ、その試みは『失敗』したのだと考えられていた。
でも、そうではない。
『彼女』は、『失敗』などしていなかったのだ。
〈世界の中心に自我を残し、世界全体に『私』の欠片を張り巡らせて、世界そのものを手足と為す。私は『世界の夢』を見る。だから……ここにいる『私』もまた、私の見る夢のひとつ〉
〈……狂ってる。そんなの、狂った夢もいいところよ〉
そんな発想を思いつくということ自体が異常だ。でも、思いついたところで、そんな馬鹿な真似ができるはずがない。ノエルが複数の身体を制御しているのとは、次元が違う。
『天才』だから、という言葉で片付けていいものではないはずだ。どれだけ優れた『始原の力』を有していようと、ただの『魔族』に可能な限界をはるかに超えた所業だ。
けれど、彼女はそんなわたしの胸中の疑問には答えず、別の言葉を口にする。
〈【狂夢】だっけ? 私の『寝床』の名前。あはは。面白い面白い。誰が考えた名前だろうね?〉
〈寝床? ……じゃあ、貴女は【狂夢】の中に?〉
宝箱──かつてシャルは、天空神殿でノエルに見せられた【狂夢】の画像を見て、そう言った。ノエルもまた、【魔法】の源泉たる【幻想法則】を大切に思う術者の意識が【狂夢】をそのような形にしたのだろうと言っていた。
だけどもし、宝箱の中に存在するものが、『彼女自身』だったとしたら?
それはまさしく、彼女にとっての『宝物』が彼女自身であるということに他ならない。
怖い。気持ち悪い。おぞましい。これまで、多少なりとも彼女に対して親近感にも近い気持ちを抱いていたわたしは、得体の知れない化け物を目の前にしているような気分に襲われる。
〈……ど、どうして? どうしてそんなことをする必要があるの? そんな真似をしなくたって、貴女には十分な力があったはずでしょう?〉
天才的な術者として、彼女は『魔族』の中でも特別な地位にあったはずだ。そうでなければ、個人名を冠した研究所を三つも保持することなど、できるわけがない。
〈永遠が欲しかったから〉
彼女の答えは短い。永遠? それは確か、あの日記に書かれていた言葉だ。
〈クロイアの楔、の続き?〉
〈うん。あれは失敗だった。でも、失敗したまま終わりじゃつまらない。だから、他の方法を考えた。ただ、それだけだよ〉
〈そんな……たったそれだけのことで? 貴女の【儀式】のせいで、世界にどれだけの被害が出たと……〉
〈知らない。どうでもいい〉
我が儘で傲慢で。自分勝手で他人の迷惑を顧みない。
悪魔のように天才的な、惨劇の天使。
〈ふ、ふざけないで! あなたのせいで! 皆が! わたしが! どれだけ苦しんだと思っているのよ!〉
わたしは激昂して叫ぶ。
〈そうなの? ごめんね〉
〈え?〉
悪気を感じさせない謝罪の言葉。悪いと思っていないと言うより、彼女にはそもそも、『善悪』という概念がそっくり抜け落ちているようだ。
〈そうそう、そう言えば、リオネルが『私の身体』を創った理由。わかったかもしれない〉
〈なんですって?〉
何が『そう言えば』なのか意味不明だ。話が唐突に飛び過ぎている。
天才ゆえの悪癖とでも言うべきなのか。彼女は一人、自分の思考を進めていく。
〈『寝床にある私』と話をすることは、すなわち『世界そのもの』と対話するに等しい。アレにそんなことが可能なほどの高次な精神がない以上、私と話をするには、『世界の夢』をかき集めて、仮初の身体に意識を宿らせるしかなかったんだろうね〉
〈は、話をする?〉
嫌な予感がわたしの脳裏をよぎる。もうこれ以上、彼女の言葉の続きを聞きたくない。けれど無情にも、彼女はこともなげに続ける。
〈アレでも結構さびしがり屋だから、久しぶりに私の声を聴きたくなったんだろうね。でも……馬鹿みたい。アレは本当に、私の『考え』を理解していない〉
〈……貴女と話をするために? そ、そんなことのために、わたしを生み出したの? わたしのために犠牲になった『失敗作』は、世界を救うためなんかじゃなく、彼が貴女と話をする、そのためだけに死んでいったと言うの?〉
目の前が真っ暗になる。意味が分からない。わけがわからない。シェリエルもリオネルも、頭がおかしい。
〈おかしい? あはは。よく言われる。でも、そうと決まればアレと話くらいはしてあげようかな? たまには『寝床』も掃除した方がいいかもしれないしね〉
言うや否や、何かがわたしの中から離れていくような感覚があった。
〈ま、待ちなさい! まだ、話は終わっていないわ!〉
〈そう? だったら、『寝床』までおいで、シリル。あなたの『目的』は、私の寝床を壊すこと。そうでしょう?〉
〈な……それがわかっていて、どうして?〉
わたしと分離した今の彼女なら、わたしを始末することくらい、簡単なはずだ。
〈それじゃ、つまらない。正直、リオネルとの話なんて、どうでもいい。私はただ、『もう一人の私』が、独りきりじゃなく、『誰かと一緒』に私の寝床を壊しに来るところが見たいだけ。それはとても、面白い面白い面白い面白い面白い面白い面白い面白い……〉
徐々に小さくなっていく、彼女の声。
代わりにわたしは、自分の魂を包み込むような輝きを意識する。世界から流れてくる無数の情報を遮断し、わたし自身を意識の水底からすくい上げてくれるような優しい光。
「……う、シャル?」
ゆっくりと瞼を開くわたしの視界に、涙で濡れたシャルの顔がぼんやりと映り込んでくる。
「シリルお姉ちゃん!」
「シリル!」
わたしの視界には、新たに彼の顔が入り込んできた。心配そうにわたしの顔を覗き込む黒い瞳に、わたしはどうにか微笑を返す。
「ご、ごめんね……。肝心な時に役に立てなくて……」
意識を失っていた間も、わたしの中には世界の情報が無数に流れ込んできていた。だから、この場で何が起きていたのかも、ある程度は理解している。
「シャル、フィリス。ノラに会えて、良かったわね」
「うん」
「ルシア。フェイルに会えて……」
「言っとくけど嬉しくないぞ」
憮然とした顔でわたしの言葉を遮るルシア。そんな顔がおかしくて、わたしはつい、笑いを洩らす。
「ふふ。でも、言い足りないことがたくさんあるんだって、言ってたじゃない」
「ま、まあな……っと、もう大丈夫なのか、シリル?」
ルシアは身体を起こそうとするわたしを支えるように、腕を回してくれた。
「ええ、身体にダメージがあったわけじゃないからね。……それに、皆にも話さなくちゃいけないことがあるし……」
シェリエルのこと、リオネルのこと、【狂夢】のこと。
もし、何も知らずに『魔導都市』に向かい、何の警戒もせずに【儀式】に取り掛かっていたらと思うと、わたしはぞっとする。
『彼女』が言ったことが本当なら、わたしたちの目的はまさしく、リオネルの目的とは真っ向から対立するものになる。
だから、わたしたちは、【儀式】の前に彼を打ち倒さなくてはならないだろう。
そのための準備は、万全に整えなければならない。
いつもの皆だけでなく、ノエルが治療している青竜の力も必要だろう。なりふり構っている余裕なんてない。借りられるなら、猫の手だって借りたいほどだ。
これからわたしたちが対決しなければならない存在は、まさしく『永遠』を具現化したモノであり、世界そのものを己の手足と為すモノなのだから。