第187話 クリアランス/エグゼキューション
-クリアランス-
胸を襲っていた苦しさが、ふっと和らいだのを感じました。いつの間にか、ルシアがわたしのすぐそばにまで来ています。
「シャル。シリルを頼む」
「え? う、うん……」
わたしは彼の言葉に頷きを返すと、這いつくばるようにシリルお姉ちゃんが倒れている場所へと近づきました。
「大丈夫? シリルお姉ちゃん」
しかし、呼びかけても反応はありません。呼吸こそ穏やかですが、気絶したままの状態が続いているようでした。
〈なんだ、お前? この僕の前では、|跪けよ!〉
淡い光を伴った圧倒的な力の波動。しかし、有無を言わさず膝を着かされてしまいそうな圧迫感に、ルシアは歯を噛み締めるように耐えていました。
〈抵抗しただと?〉
「うるさい。お前には……どうしても聞かなきゃいけないことがある」
〈黙れ、下等生物。塵芥にも等しいクズが、僕と口を利けると思うな!〉
再び放たれる支配の波動。けれど、それはルシアの正面に出現した蒼い光の格子によって粉微塵に斬り散らされる。
〈その力……まさか、お前がファラの『扉』なのか?〉
「こっちの質問に答えろ! 貴様は、……貴様は【ヒャクド】なのか?」
【ヒャクド】──それはルシアの世界で絶対者だったモノ。世界を氷に閉ざし、人々を限定的な『国』に閉じ込め、掠奪の戦争を繰り返し行わせていた狂気の支配者。
このハイアークという『神』が、ファラさんの言うとおり【ヒャクド】なのだとしたら、ルシアにとっては憎んでも憎み切れない相手に違いありません。
〈何故だ? どうしてお前が、僕の【ヒャクドシステム】を知っている?〉
「ヒャクドシステムだと?」
〈……僕が何度も試行錯誤を繰り返し、ようやく完成させたシステム。完全な世界を僕自身が手を出さずに楽しむための道具立て。僕の力を中心に、ルシア・マーセルとヴォルハルト・サージェスの二柱の存在そのものを組み込んだ『秩序』を維持する至高のシステムだよ〉
「……楽しむため?」
〈まったく、つくづく惜しまれるよ。千年前のあの時、僕があの女狐の言葉に騙されず、意地でもファラリエルを連れていければ、あんな『出来損ないの世界』にならなくて済んだはずなのに〉
ハイアークは、つまらなそうに笑っています。ルシアを苦しめた世界の在り様を生み出しておきながら、楽しむために生み出したとまで言いながら、その世界を『出来損ない』と彼は呼んだのです。
「……けるな」
〈ああ、そうか。そう言えば、ゴミ。お前の名はルシアだったか? システムのことを知っているあたり……どうやらお前、システムから報告があったバグの1つだな〉
「……ざけるな」
ルシアの身体が小刻みに震えています。
〈敗北して消去するはずのゴミの中に、消えずに残ったバグがあったって話だっけ? 珍しいから覚えてたんだよな。いつの間にか消えてたみたいだけど、まさかこんなところにいたとはね。……ファラリエルの『扉』になっているなんて、本当に驚きだよ〉
「ふざけるなああああ!」
絶叫するルシア。手にした剣を振りかざし、彼は激情に任せて叫びます。
「貴様は! そんな、そんなことのために! 世界をあんな風に! 貴様のせいでどれだけの人間が苦しんでいたのか、わかっているのか!」
〈はあ? 馬鹿なことを言うものだね。アレは僕が創ったモノだよ? それを僕がどう扱おうが勝手じゃないか……それに……〉
「ちくしょう! 殺してやる! 殺してやるぞ!」
蒼く輝く剣を手に、ハイアークに向かっていくルシア。けれど、その動きは最後まで続かない。
〈馬鹿め。少しばかりファラリエルの力が使えるぐらいで、僕に敵うと思うな。当のファラリエルだって、僕の力には及ばないというのに〉
ルシアの身体に絡みつく、無数の光の帯。それはハイアークの手にした魔力球から生み出されていました。
〈お前、誤解してるだろ? お前は僕やルシア・マーセルに造られた、ただの人形だ。下等生物ですらないんだよ。それを……くくく! いっぱしの人間気取りかい?〉
「な、な……ぐおおおお!」
ルシアは自分に絡む光の帯に、イメージで発生させた蒼い剣閃を叩きつけ、次々と斬り裂きます。けれど、斬り裂かれる傍から新たな帯が出現し、次々と彼の身体に絡みついていきました。
〈だから、無駄だと言ってるだろう? 滑稽だけど見苦しい人形だな。まあ、ここは製作者として僕が責任をもって、壊してあげるよ。ゴミとして、捨ててあげよう。ああ、でも元からゴミだったっけ? 負けた『国』の人形だもんね〉
「ふざけやがって! ふざけやがって! くそ! くそ! こんな、こんな奴のために! 俺は! みんなは! ゴミだと? 俺たちは人間だ! 喜びも怒りも、悲しみも楽しみも、想い、感じる……生きてここにいる人間なんだ!」
ルシアは叫びと共に全身から蒼い剣閃を放ち、すべての光の帯を斬り裂きました。そしてそのまま、ハイアークへの距離を詰めます。
〈だーかーら! それは僕らが与えたまやかしの感情なんだって! まったく、あの女狐が精神を司るカルラ神族の役を担っていたせいで、随分と不安定になっちゃったみたいだけどね〉
なおも余裕を見せるハイアーク。彼の手には、依然として強い輝きを放つ魔力球が浮かんでいます。
〈光栄に思えよ、ゴミ。システムを介さず、僕直々に消滅させてもらえることをな〉
ルシアが振り下ろす『魔剣』を、ハイアークの『魔力球』が下から迎え撃ちます。すると両者が激突した瞬間、耳をつんざく大きな爆発が起こり、ルシアの身体がまるで紙切れのように吹き飛ばされたのが見えました。
「ル、ルシア!」
わたしは、自分の顔から血の気が引くのがわかりました。あれだけの爆発に巻き込まれては、いくら彼でも無事で済むはずがありません。『放魔の生骸装甲』でもどこまで衝撃を逃しきれたものか……。
「く、くそ……!」
ルシアはぼろぼろになりながらも立ち上がり、再びハイアークへと駆け寄って行きます。
〈あれ? 今ので死なないなんてね。……やっぱりまだ、力が世界に馴染んでいないのかな。でも、そうだね。僕の支配の力がこの世界に馴染むのと、お前の『人形の心』が折れるのと、どっちが早いか試してみようか?〉
「うるせえ!」
再び激突する両者。爆発に吹き飛ばされるルシア。
「ぐ……!」
それでも彼は立ち上がり、愚直とも言える突撃を繰り返す。
〈無駄な足掻きだ。忌々しい。ファラリエルの力さえなければ、お前なんてとっくに存在ごと吹き飛ばしてしまっているものを……〉
幾度目かの衝突で、ハイアークは苦々しげに吐き捨てました。それはともかく、このままではルシアが死んでしまいます。
「ルシア! くそ! こうなれば《竜血支配》を使ってでも!」
〈駄目だ。奴の領域内では、ただ強いだけの【魔力】は意味を持たん。悪戯に消耗するだけだ!〉
ファラさんは半透明の状態のまま、ヴァリスさんの叫びに首を振りました。
「で、でも、どうしたら……、さっきからあたしとレミルの障壁も発動しないし……」
そうなのです。先ほどからわたしも【精霊魔法】や【魔鍵】の力を使おうと試みているのに、まったく発動しないのです。まるで世界そのものに【魔法】の使用を禁止されているかのような、不可解な現象です。
逆に言えば、こんなとてつもない力を持つ『神』を相手に、【魔法】を発動させているルシアが異常なのでしょう。
「どうしよう、シリルお姉ちゃん……」
彼に回復の【魔法】さえかけてあげられない自分の無力さに、わたしは唇を噛みました。悔しい。どうしてこんなとき、わたしは何もできないんだろう。わたしには、何も……。
そう思った、その時でした。
〈シャル。諦めちゃ駄目。あなたには、他の誰にもない、世界に影響されない力があるでしょう?〉
フィリスの声でした。
〈で、でも、《純真世界》は攻撃魔法じゃないし……〉
どころか、この力はハイアークをこの世界に馴染ませることにだって使えてしまうものでした。
〈だからよ。……馴染ませることができるということは、馴染ませないこともできる。そうは思わない?〉
〈反作用の【魔法】を使えって言うの? でも、そんなこと、どうやって……〉
〈わたしが手伝う。あなたと共に、あなたの中で、あなたがセフィリアに何度となく使い続けた魔法だもん。その構成なら、ある意味、わたしが一番よく知ってる〉
〈わかった。お願いね。それと、ありがとう!〉
わたしは、わたしの心強い相棒に心の中で礼を言う。いつだって、彼女はわたしの一番近くでわたしを支え続けてくれていた。だから、わたしは彼女を信じるのです。
〈ああ、しつこいなあ……いい加減に折れろよ!〉
もう何度目になるかわからない、ハイアークとルシア、二人の激突。ぼろぼろの血塗れで、『放魔の生骸装甲』の治癒機能すらまるで追いついていないルシアの姿に、わたしは胸に痛みを覚える。この魔法が効かなければ、いよいよ彼が危ないかもしれない。
〈我はすべてを包むものにして、害なすものを拒むもの〉
〈ワタシが紡ぐ……世界の想い〉
《潔癖世界》!
穢れを拒絶する力。異界から召喚され、この世界に馴染もうとする異物を拒む力。わたしはそれを、フィリスの力を借りながら、己の心の内から世界に向けて解き放つ。
〈ほら、吹き飛……な、なんだこれは!?〉
爆発は、起こりません。わたしの発動した魔法は、間一髪で彼の領域を瞬間的にゼロにまで押し戻していました。千年間を異界で過ごしてきたハイアークと創世の時から世界に生きる『精霊』とでは、世界とのかかわりの深さが違うのです。ましてや召喚されたばかりの彼に、世界との関係において負ける道理はありませんでした。
「ククク! あはは! やっと届いたぜ! む、無駄な足掻きも……やってみるもんだろ?」
満身創痍の状態で剣を構え、驚愕に固まるハイアークへと叩きつけるルシア。
〈く、くそ!〉
魔力球を失い、両手で顔を庇うように『魔剣』を防ごうとするハイアーク。けれど、一瞬早くその腕をすり抜け、『魔剣』の刃は彼の胸元を深く斬り裂く。
〈ぎあああ! こ、こんな! 僕が、この僕が! 下賤な人形なんかに!〉
「人形じゃないって言ってんだろうが! 今ここで、貴様に向けられている刃が──心が! 造り物だなどと、まだぬかす気か! だったら、この痛みを心に刻め! てめえは今、『人間』に傷つけられているって事実をな!」
〈あ、が、あ、がアアアアア! ふ、ふざけんじゃねえぞ! このくそったれがあああ! 僕は最強だ! 僕は至高の神だ! 思い通りになれ! 言うことを聞け! 黙って従え! 支配されろ! くそがくそがくそがあああ!〉
整った少年のような顔立ちを屈辱に染めたハイアークは、それまでとは打って変わった醜い言葉を吐き出していました。それは、追い詰められている証だったのでしょう。けれど同時に、彼は窮鼠猫を噛むがごとく、わたしが使った《潔癖世界》の力を押し戻してきたのです。
〈死ね! 人形がああああ!〉
そして、ハイアークの絶叫があたりに響き渡りました。
-エグゼキューション-
爆発的に吹き上がる力。それは物理的な破壊力ではなく、世界を包む『支配力』とでもいうべきもの。指一本動かせず、呼吸さえままならない状況の中、ワタシは気付く。動かせない指も、自由にできない呼吸も、それが完全に不可能になっているというわけではない。
少なくとも怒り狂った支配の神ハイアークには、ワタシたちに対して容赦する余地などないはずだった。にもかかわらず、こうして心臓が止まるでもなく、呼吸が一切できなくなるわけでもない──その理由。
それは間違いなく、先ほどルシアが彼に付けた『傷』だった。
〈ううううう! 下賤な! カスが! 完璧で完全なこの僕に傷を! 許さない許さない! 殺してやる殺してやる!〉
胸元の傷を押さえ、血走った目で叫び続ける金髪の美少年。彼が暴走気味に力を振るっていることも、幸いしているのかもしれない。己の『支配』のムラや漏れと言った些事に気付かず、ひたすら放射状に力を撒き散らしているだけなのだから。
とはいえ、状況が良くなったとは考えにくい。逆に言えば、今でもなおワタシたちは、全員まともに身動きすら取れないのだ。砕け散った建物の瓦礫を眺めつつ、シャルはちらりと首を別方向に巡らすけれど、遠くにレイフィアさんが生み出した炎の壁が見えるだけで、援軍に来てくれそうな気配もない。
「吠えてんじゃねえよ、神が! もう一撃くれてやる。そこで待っていろ!」
先ほどの衝撃で吹き飛ばされていたルシアは、またしても立ち上がり、ハイアークへと歩いていく。けれど、今まで以上に彼の足取りはおぼつかない。時折転んでさえいるようで、なかなかその距離を詰められずにいた。
「う、うあああ……ハ、ハイアーク様」
震える声の気配を感じ、シャルが視線を向けた先には、離れた場所で呆然と立ち尽くすメゼキスの姿がある。あそこまでは“絶対領域”の力も及んでいないのだろうか。
だったらもう一度、《潔癖世界》を使えば……。などと思っていた、その時だった。胸に走る、鈍い痛み。痛みと言うより、急激に胸を締めつけるような感覚に、ワタシは息を詰まらせる。この感覚は、身体の主導権を持っているシャルにも直結してしまったようで、彼女は胸を押さえて倒れ込んでしまう。
「シャルちゃん!?」
アリシアお姉ちゃんの呼びかけの声も、ワタシたちには別世界から聞こえてくるように感じていた。……何かが、おかしい。苦しい。辛い。苦しさの源泉を探ろうと、ワタシは感覚を鋭敏に研ぎ澄ませる。そうすることで、より一層の苦しさを感じることになったけれど、原因はすぐに明らかになった。
「……シ、シリルお姉ちゃん」
そんな風につぶやくシャルも、同じことに気付いたのだろう。
そう──現在シリルお姉ちゃんは、『クロイアの楔』によってその魂を【自然法則】に串刺しにされているような状態だった。世界の根本原理を操作する媒体として、心臓に杭を打たれる苦しみ。それがそのまま、世界に近い存在であるワタシに伝わってくる。
「こ、このままじゃ……」
ワタシは改めてメゼキスを見る。彼は、なんて馬鹿な真似をしたのだろう?
この苦しみは、肉体的なモノじゃない。かつてセフィリアが味わった、世界と関わりを持てないことによる孤独の苦しみ。……それとはまた、対極に位置するモノ。世界に溢れるあらゆる意識、世界に宿るあらゆる感覚、世界を構成するあらゆる事物と強制的に関係し続けなければならないことによる苦しみ。
こんなものに、『心を持った人間』が耐え切れるはずがない。一時は法則を支配下におけたように思えても、すぐに暴走し、取り返しのつかないことになる。
彼は、シリルお姉ちゃんを『道具』だと言った。
人の形を与え、自我を与えた存在が、人の心を持たないはずがないと言うのに、彼はそんな事にも思いを馳せなかったのだろうか?
今もなお、自分を信奉する『魔族』の存在など歯牙にもかけず、巻き添えにする勢いで力を振るうハイアーク。そんな身勝手な『神』の姿を、陶酔の目で見つめ続ける狂信者。
〈おい! そこの『魔族』! 何が世界を整えただよ! この世界、意味がわかんねえんだよ! なんだこれ? なんでこんな、歪んで気持ちの悪い形をしているんだ! これだから僕が力を発揮しきれないんじゃねえか!〉
乱暴に腕を振り回し、周囲をぐるりと見渡して、八つ当たりするように叫ぶハイアーク。その姿は、何かに苛立っているように見えて、その実『何かに怯えて』いるように見えた。
「ジャ、ジャシンどものことなら、ご安心ください! 奴らはすでに、この世界から消えております。眠っていた連中も、わたしが調べた範囲では、存在が確認でき……」
〈ジャシンだ? そんなことを言ってんじゃねえんだよ! だいたい、ここにある【幻想法則】自体、僕がいなくなる前の、どの『神』のものとも一致してねえじゃねえか! お前ら一体、何をやってんだよ! この役立たずが!〉
激しい言葉に合わせるかのように突風が吹き荒れ、ハイアークの目前にまで迫っていたルシアが吹き飛ばされて倒れ込む。
「お、お待ちください! 【幻想法則】と【自然法則】との結合なら、今まさに、そこの『道具』にやらせておるところで……!」
思わぬ『神』の叱責に、メゼキスは見る間に顔色を青褪めさせる。でも、今のシリルお姉ちゃんがそんなことができる状態にないことは、明らかだ。
〈気持ち悪い気持ち悪い! なんだこれ? なんなんだよ、この絡みつく糸みたいなモノは……。くそ! 駄目だ……緩衝材がわりの肉体を……そうだ! お前の身体を寄越せ!〉
「え?」
〈僕のためなんだ。他ならぬ僕のために犠牲になるなら、お前も本望だろう?〉
「え? な、ちょ、ちょっとお待ちください! わ、わたくしは、あなた様のお傍に!」
〈黙れよ。ああ? お前ら『魔族』は、僕らの避難場所ぐらいしか利用価値が無いんだからよお。黙って差し出しやがれ!〉
「そ、そんな……何故です? 我が神よ……」
絶望に満ちた表情でうめくメゼキス。しかし、あれほど心無い言葉をかけられながら、その『絶望』は信じていたモノに裏切られたことに対するものではなかった。ただ、崇拝する『神』からの怒りを恐れ、役立たずだと断罪されることに対するものだ。
「く、狂ってる……気持ち悪い」
アリシアお姉ちゃんは、そんな彼の心に同調してしまったのか、胸を押さえるようにしながら顔をしかめている。
〈この気持ち悪い【法則】から、『一線』を隔す! そうすれば僕は、全盛期の力が振るえるはずだ!……出でよ、【魔鍵】『絶対たる支配の神杖』〉
ハイアークの手の中に、純白の柄の先に金の装飾品が付けられた、豪奢な杖が出現する。そして彼は、それをメゼキスめがけて突きつけた。
「あ、あ、あははは……」
メゼキスの身体がふわりと浮かび、宙を移動するようにハイアークへと引き寄せられていく。己に迫る『神』の姿を恍惚の表情で見つめ、メゼキスは力無く笑いを洩らした。やがて、二人の身体が重なると、吸い込まれるようにハイアークの身体が消えていく。
「ひ、ひはは! この身体に『神』が宿るなんて! あはは! 素晴らしい! 素晴らしいぞお! ぎひひひ……負荷が、強す、ぎる……。が、あ、がが……だが、わた、しは、ま、んぞくだ…… あひゃひゃひゃひゃ!」
無様に地に落ち、メゼキスはひとしきり狂ったように笑った後、沈黙して動きを止めた。
〈くそ! この僕がまさか、仮初とは言え、『受肉』をせねばならないとは……〉
ハイアークの忌々しげな声と共に、起き上がったメゼキスの肉体が徐々に変化を見せ始める。身に纏う元老院のローブがゆらゆらと動いて色を変え、形を変えて上下一繋ぎの派手な衣装となり、少年と老人のどちらにも見えていた不気味な顔立ちが美しい少年のものとなる。
体格も骨格も、すべてがすべて、先ほどのハイアークの姿へと変身を遂げていく。
ただし、彼の胸には相変わらずルシアが付けた深い傷跡が刻まれたままだった。
〈……くそ! この『身体』に入って以降、ますます絡みつく『糸』が増えていやがる!なんなんだよ、これは? だが、『一線』を隔した分だけ、気持ち悪さは減ったか……。とにかく、後のことは目障りなクズどもを消してから考えよう〉
つぶやくハイアークの掌には、再び『神杖』が出現する。
〈今度こそ全力だ。覚悟するがいい。《定めし破滅の神槍》」
『神杖』の先に集う光は、槍へと姿を変えていく。その切っ先が狙う先は、よろよろと歩み続けるルシアの眉間。光の槍から漏れ出る力は、電撃のような音を伴って周囲の瓦礫や石床を粉々に打ち砕いている。
「ルシア! 逃げて!」
渾身の力を振り絞り、シャルが叫ぶ。
「ぐ……動け! 動かんか! この身体め!」
悔しそうに唸るヴァリスさん。
〈おのれ……わらわにもっと力があれば……『扉』はまだ、開き切っていないと言うのか? いったい、何が足りんのだ……〉
ファラさんの声が震えているのがわかる。
心臓が止まりそうな思いは、ワタシも同じだった。あの槍は、『危険』だなどという次元にはない。この場の全員はもちろんこと、あの炎の壁の向こう側で戦い続けるエイミア様やエリオットさんだって無事には済まない。それどころか、眼下に広がる『ゼルグの地平』そのものだって、大規模に破壊されかねないほどのものだ。
『ラグナ・メギドス』による《解放の角笛》でさえ比較にならない圧倒的な破壊の力。ビリビリと震える大気が、あの槍に込められた力の程を示しているようだった。
〈あははは! 避けようとしても無駄だ! 僕の生み出したこの槍は、ただ破壊の力を撒き散らすわけではない。あらゆる事物に『破壊』という名の未来を定め、その存在ごと貫く槍なのだからな!〉
杖を大きく振りかぶるハイアーク。宙に浮かぶ槍は、その動きに連動して切っ先をルシアに向ける。
〈死ぬがいい!〉
「ご忠告、ありがとよ。だったら、正面から斬って捨ててやるまでだ!」
皆が絶望的な顔で見つめる中、唯一ルシアだけは希望を捨てず、手にした『魔剣』を振りかぶる。
〈だ、駄目だ。今のわらわの【オリジン】では、奴の全力の【魔法】に未来を上書きすることなど、できるわけが……〉
時は止まらない。この絶望的な状況において、これを覆すための手立てを考える時間はない。たとえどんなに叫ぼうと、無情にも時は過ぎ、その瞬間は訪れる。
運命を定めし絶対神は、支配にまみれたその腕で、破滅の神槍を投げつける。
運命を切り拓く青年は、希望に伸ばしたその腕で、理想の魔剣を振りかざす。
まばゆい光が辺りを包み、真っ白に染まる光の中で、ワタシは見てしまった。ルシアの『魔剣』が宙を舞い、その柄を握る彼の両腕が、光と共に消し飛ぶ様を。
「ルシア……!」
「ぐあああ!」
それでも、辺り一帯を消し飛ばすはずだったハイアークの槍が、その程度の破壊しか引き起せなかったという事実は、ルシアが世界最強の『神』の力を抑え込んだことを示していた。
〈馬鹿な……嘘だ! ファラならまだしも、その力を借りているだけの人形ごときに……〉
驚愕に打ち震えるハイアーク。でも、今はそれどころではなかった。ルシアの……彼の腕が無くなってしまっている。どんな傷なのか、血さえ出てはいないけれど、一刻も早く治療を開始しなければ、あの腕は二度と元には戻らない。
「ルシア……、今、今行くから!」
絶対領域の中、動かぬ身体を必死で動かそうとするシャル。でも、あんなに酷い怪我では、【生命魔法】だって禁術級でなければ厳しいだろう。でも、シャルにもエイミア様にも、そこまでの【魔法】は使えない。
そんな風に焦りを募らせるワタシたちの前では、圧倒的でどうにもならない『絶望』が再び鎌首をもたげていた。
〈……貴様は、殺す。わけがわからない。思い通りにならないイレギュラーめ。バグはすぐにでも消去すべきなんだ。だから、貴様だけは、僕が確実に殺してやる〉
ハイアークが掲げた『神杖』の上方には、先ほどと同じ槍。
「う、嘘でしょ……?」
「そんな馬鹿な……」
「こ、こんなのって……」
アリシアお姉ちゃん。ヴァリスさん。シャル。三者三様の驚愕の声。
宙に浮かぶ破滅の神槍。ただし、その数は十本ほどに増えている。
〈これで終わりだ!〉
やっぱり、駄目だった。あんなの、どうしようもない。
世界最強の神。万物の支配者の名は、伊達ではなかった。愉悦と憎しみに目の色を輝かせるハイアークが、ゆっくりとその槍を投擲するべく『神杖』を振り降ろそうとして……
〈……あ、あが!〉
────動きを、止めた。
言葉も出ないほどの衝撃。
乾いた音と共に、地に落ちる『神杖』。
彼の胸元の傷から、何かが突き出ている。
真っ赤な血が吹き出している? いいえ、そうではない。
──あれは、鮮血よりもなお赤い、紅の刃。




