第186話 どうしようもない人たち/絶対領域
-どうしようもない人たち-
エイミアとルシエラ。エリオットくんとヴァルナガン。レイフィアが生み出した広大な『炎の箱庭』の中で、それぞれがそれぞれと一対一で対峙している。
どうしてこんな展開になったのか、心が見えるはずのあたしにも、よくわからない。ルシエラからは『困難な目的を達成したい』という意識しか感じられないし、ヴァルナガンからは猛り狂う闘争本能しか見えてこない。
でもそれは、この二人がそれだけ精神を集中しているからだった。どんな分野に関してもそうだけど、その道の達人というものは、一度これと決めたものがあれば、余計なことは考えない。考える余裕がないというわけでもなく、その余裕を不測の事態に備えて、あえて余しておく、とでも言えばいいのかもしれない。
そしてそれは、エイミアやエリオットくんにも同じことが言えた。
いずれにしてもそれ以上のことを読み取ることができないあたしには、この戦いの意味が見出せていない。
「ほらほら、アリシア。そんな顔してないで、しっかり観戦しようぜ」
「……あなたって、ほんとに楽しそうだよね!」
人の気も知らずに呑気なことを言うレイフィアに、あたしは思わず声を荒げた。
「何怒ってんの?」
「決まってるでしょ? あなたが余計なことをするから、こんなことになっちゃったんじゃない!」
あたしの言葉に、レイフィアは目を丸くする。心底、意外そうな顔だった。
「へ? だってあんた、心が見えるんでしょ? どうしてわかんないの?」
「う……」
そう言われると、返す言葉がない。それでもあたしは、どうにか言葉を探して口にした。
「……あ、あたしには、皆が意地を張ってるようにしか見えないよ。同じ人間同士で、世界を救うことに異議があるわけじゃないはずなのに……どうして戦わなくちゃいけないの?」
「ふうん。アリシアには、その『意地』って奴がわからないってことか」
なんだか一人で納得したような顔をするレイフィア。
「どういうことなの?」
「簡単だよ。あれが根っからの『戦闘系』冒険者って奴なのさ。……アリシアは確か、非戦闘系の支援系冒険者なんだっけ?」
レイフィアの言う『戦闘系』や『非戦闘系』とは、冒険者ギルドのランク区分のことだろう。そう言えば登録の時、あたしは支援系冒険者のCランクとしてライセンス証をもらったはずだ。
「あいつらはさ、ただ単純に、自分と相手、どっちが強いかを確かめたいだけなんだよ」
「え? う、嘘でしょ? こんな場面でそんなどうでもいいことを?」
あたしは絶句した。いくらなんでも馬鹿すぎる。というか、あたしが見えていたモノは、そっくりそのままその通りだったんだ。深読みする必要なんてなく、ただひたすらに戦いたいだけ。
「だから、連中にはどうでもいいことじゃないんだよ。根本にある理由は違うかもしれないけど、それぞれが『強さ』を求める理由に従って、自分が敵より弱いことを認めるわけにはいかないんだ」
「……よくわかってるんだね。レイフィアも……『同じ』なの?」
あたしがそう訊くと、彼女は猫の瞳を悪戯っぽく細めて笑う。
「あたし? にゃははは! あたしはそんなもん、どうでもいいよ。あたしが『強さ』を求める理由は、自由気ままに生きたいからだもん。それさえできるなら、あたしより強い奴がいたって知ったことじゃない。……でも、連中はそうはいかないんでしょうね」
「…………」
あたしは彼女の口ぶりに呆れつつも、あらためて二組の向かい合う姿に目を向ける。お互いに今さら交わし合う言葉もないらしく、黙って相手の出方を窺っている。
「いいのですか? わたくしに先手を許せば、その瞬間にあなたの負けですよ?」
先に動いたのは、ルシエラだった。いつの間にか手の中に光り輝く剣を生み出し、それを振り上げようとする。あれは、確か《舞い降りる天使の剣》。最強の光属性禁術級魔法。
「いいや、その瞬間こそ、待っていたよ」
けれどエイミアは、不敵に笑って蒼く輝く弓を掲げ、一息に宣言する。
〈還し給え、千の光〉
「そう来ましたか」
空から降り注ぐ光の雨。ルシエラの姿が光のカーテンに覆い隠され、大地に着弾した光は爆発し、小さいクレーターが無数に生み出されていく。
「ちっ! さすがにそこまで甘くはないか!」
土煙の中から放たれる光弾を見て、エイミアはとっさに真横へ跳躍して回避する。けれど、その光は追尾するように彼女に迫る。
「あちゃあ……あれ、追尾型の中級魔法、《妖精の魔弾》だよ。かわせんのかな?」
レイフィアの間の抜けた声が耳に届くけれど、あたしの方はそれどころではなかった。今にも【魔法】の直撃を受けそうなエイミアの姿に、あたしはとっさに障壁を発動しようとする。が、その直後──背中に奇妙な熱さを感じた。
「だめだめ。邪魔したらあたしが焼き尽くすって言ったじゃん? あたしがなんで、こんなにすぐ傍にいたと思ってんの?」
竜杖が背に押し当てられている。彼女の姿は見えなくても、声の調子から彼女が本気だと言うことはわかった。
「……レイフィア! どうして?」
「そんなこと、エイミアだって望んじゃいないからだよ」
そうしている間にも、エイミアは追尾する光弾に追い詰められていた。
光弾自体は、急激な方向転換ができないらしく、彼女が回避すると大きく迂回しながら追尾を続けている。でも、あまりにも速度が違う。
「あ、危ない!」
今にも彼女に命中しそうな光弾の動きに、あたしは思わず悲鳴を上げる。
〈還し給え、十の光〉
エイミアの凛とした声が響くと同時、彼女の目前で何かが弾け、光の粒子が四散する。
「なるほど、“弓聖”とはいえ、大したものですね。まさか《妖精の魔弾》を弓矢で防がれる日が来るとは思いませんでした」
悠然と立つルシエラの手には、次の光弾が輝いている。なおも時間差で降り注ぐ光の雨は、彼女の頭上に展開された光の壁に、そのことごとくが阻まれていた。
「君の方こそ、でたらめだな。それだけの防御魔法を展開したままで、中級魔法を放ってくるんだから」
「言っておきますが、あなたに勝ち目はありませんよ? 光属性を使う限り、わたくしには【魔力】切れだけはあり得ません。ですが、対するあなたには……」
「『捧げ矢』に限界がある。そう言いたいのかな?」
「ええ、そうです。何のためにわたくしが、あなたに『魔神ナギ』の相手をさせたか、おわかりでしょう?」
『謳い捧ぐ蒼天の聖弓』の神性である“黎明蒼弓”。それは毎日、朝の一定の時間に空に放った矢を、任意のタイミングで地に降らせることができるものだ。
彼女の捧げ矢も噂では、数万本の規模に達していると言う話だったけれど、あの時の戦いで、それもかなり消費してしまったはずだった。しかし、エイミアはきょとんとした顔で首を傾げる。
「ん? ああ、なんだ。そういうことだったのか。道理であんなにベラベラと情報を教えてくれると思ったよ。親切な奴だなあと感心していたんだが」
「……まったく、あなたは本当に苦手なタイプです」
呆れたように言うルシエラに、エイミアは再び不敵な笑みを浮かべて見せた。
「だが、心配は無用だよ。今さらだし、参考までに教えてやる。……わたしの『捧げ矢』は、現時点でもなお、数十万本の規模で残っているよ」
「……数十万ですって?」
ルシエラは、珍しく同様した声で尋ね返す。
「馬鹿だなあ。このわたしが朝の鍛錬の時間に矢を放つ数が、百本や二百本で済むと思っているのか? それを四年間、ほぼ欠かさずに続けてきたのだ。その程度の数はあるさ」
「……馬鹿な。そんなことができるわけが……そ、それに、わたしが得た情報とは違います」
何故か酷く驚いた顔で言うルシエラ。でも、エイミアはおどけたように首をすくめて言い放つ。
「情報? 多分、それはわたしがサイアス副団長に流させたデマだ」
「……なぜ、そんなデマを?」
「決まっている。その方が面白いからだ」
悪戯が成功した子供のような顔で笑うエイミア。
「……本当に苦手なタイプです」
言いながらルシエラは、手の先の光を繰り出す。
「お! あっちも動きがあったみたいだよ」
楽しそうに弾んだ声で言うレイフィアに促され、あたしはエリオットくんたちの方に視線を向けた。
「がははは! 楽しいなあ! おい!」
「そうかよ! 僕はそうでもないけどな!」
全身を漆黒に染めた悪魔と純白の鱗を纏った竜人とが、目にも止まらぬ速さで激しい攻防を繰り広げている。エリオットくんの繰り出す槍の一撃を素手でいなし、唸りを上げて丸太のような脚を振り上げるヴァルナガン。背中の翼で宙に飛び、それを回避しながら炎の息吹を浴びせかけるエリオットくん。
「やっぱり、ブレスはダメか!」
炎の中から平然と姿を現すヴァルナガンの姿に、舌打ちするエリオットくん。ヴァルナガンは、その巨体からは想像できないほどに身軽な動きで跳躍し、虫でも叩き落とすように掌を振るう。虚を突かれたエリオットくんは、身をよじってその攻撃を回避しようとしたけれど、完全には避けきれなかった。
「ぐあ!」
身体をかすめる一撃にバランスを崩し、急降下するエリオットくん。一方のヴァルナガンも空を飛べるわけではないため、追撃にまでは至らない。そのまま真っ直ぐに着地の体勢をとった。しかし、足が地面に着くや否や、まるで弓から解き放たれた矢のようにエリオットくんの落下地点へと突進を仕掛ける。
「やらせるか!」
対するエリオットくんは、無難な着地を諦めたような斜めの体勢のまま、空中で腰だめに槍を構え、それを一気に繰り出した。
「うお!」
放たれた轟音衝撃波は、【魔法】に例えるなら上級クラスの威力はあるはずだった。けれどヴァルナガンは、それを立ち止まったままで耐えきってしまう。
「うわあ、えげつないねえ。あれ。見た?」
あたしの背中に竜杖の頭を押し当てたまま、レイフィアが聞いてくる。
「なに?」
あたしはそんな彼女に諦めたように聞き返す。
「ヴァル兄はさ。今、一瞬だけど身体の一部が吹き飛んでたんだよ。まあ、それだけさっきのエリオットの攻撃が強かったってことだろうけど……でも、怪我する傍から回復されたんじゃ、打つ手ないよねえ」
けらけらと笑う彼女の言葉に、あたしは耳を疑った。ただでさえ、あんなに苦戦していると言うのに、そんなの勝てるわけがない。
「……つくづく化け物だな。アンタ」
「その言葉、そっくり返すぜ。若造。この状態の俺とここまで渡り合える奴なんざ、これまでただの一人もいなかったんだからなあ!」
身体を揺らして笑うヴァルナガンからは、この戦いが楽しくて仕方がないという思いが見えた。……でも、似たような感情ならエリオットくんにも垣間見えている。
「ほんとに、どうしようもない人たちなんだね……」
あたしが呆れたように言った、その時だった。
──ドクン、と世界が揺れたような気がした。今までにない胸騒ぎがする。たった今、シリルちゃんたちが向かった先で、何かが始まった。どうしようもなく、取り返しのつかないような何かが、そこで起ころうとしている。
「レイフィア。あたし、シリルちゃんたちのところに行く!」
驚く彼女に有無を言わせず、あたしは振り向き、そちらに向かって駆けていく。
-絶対領域-
突如としてシリルの背後に出現した男。
『魔族』特有の黒い髪に黒い瞳。身体には、元老院の連中が身に着けるというローブをまとっている。背の高さは、シリルより頭一つ分高い程度か。それでも男にしては多少小柄な方かもしれない。
だが、特に印象的なのは、その顔だった。年を経た老人のようでありながら、年若い青年のような顔。老いと若さという相容れない二つのものを同居させてしまったがゆえに、歪んでいるかのような、気持ち悪い印象を他者に与える顔立ちだ。
「くそ! シリルに何をした!」
ルシアが叫ぶ。だが、依然として男の手には【魔装兵器】が握られており、それは彼女のこめかみに突きつけられているのだ。動くに動けない。
そのシリルはと言えば、苦しそうに胸元を押さえ、声にならない声を上げている。
「う、うう……ああ、う」
「案ずるな。間もなく【儀式】は終わる。この日のために数百年間、わたしが部下の『魔族』どもに溜めこませた【魔力】。それを胸元の『楔』を介して供給されているのだ。多少は苦しいだろうさ」
男は、歪な顔で歪に笑う。
「……ふざけるな」
「下手な動きはしないことだ。貴様の【魔鍵】の力なら知れている。その剣先をわずかでも動かして見ろ。最高傑作には二度と覚めない眠りを与えよう」
ルシアを牽制するような男の言葉。だが、それはそれだけ、この男がルシアを警戒しているということだろう。
「黙って見ているがいい。わたしとしても、観客がいることは好ましい。『神』をこの世界に呼び戻し、このメゼキス・ゲルニカこそが『真の神官長』となる瞬間を目撃する者がいることはな!」
メゼキスが叫んだ次の瞬間だった。シリルの全身から眩い光が放たれる。
「ははは! よし、いいぞ! これで【自然法則】は我が手中に収まる! さあ、後は『神』を呼ぶのみだ!」
ドクン、と胸の奥で何かが跳ねる。と同時、周囲の世界が軋むように音を立てる。聞こえるはずのない音だが、何故かそう思えてならない。
「駄目! そんな……【自然法則】が!」
「どうした、シャル!」
シャルは血相を変えたまま、我の呼びかけに激しく首を振るように応えた。
「駄目なんです! このままじゃ、この世界が! あんなの、無理です! あれじゃあ、ただ、いたずらに世界を壊してしまうだけで……」
『精霊』をその身に宿すシャルだからこそ、感じ取れるものがあるのかもしれない。事態は、予想以上に深刻なようだ。やはり、『クロイアの楔』を本来の使用目的とは異なる用途に使おうとすることに無理があったのだろう。そもそも、『神』でさえ手を出さなかった世界の根本に手を出そうなど、驕りにも程があるというものだ。
「ちくしょう!」
〈ルシア、落ち着け。【事象魔法】の本質を忘れたか?〉
実体化したファラ殿が、悔しげに叫ぶルシアの背中を叩く。ルシアは彼女の言葉に、何かに気付いたように顔を上げた。
「そうか……フェイルと同じだな」
〈わかればよい〉
「さあ今こそ、その役目を果たすがいい。最高傑作! ……否、【人造魔鍵】『救い導く世界の理』よ! その身を鍵となし、世界法則の『扉』を開け! 『神』の異世界からの召喚は、今、この時をもって叶う! さあ、来たれ! 我らが神よ!」
「させるか!」
ルシアは微動だにしない。だが、彼の眼前から蒼い光が剣閃の形となって放たれ、力無く項垂れるシリルと彼女を拘束するメゼキスへと迫る。剣を使わずとも、【魔法】は使える。ファラ殿が言いたかったことは、このことのようだ。
「な、なに!?」
予期しない攻撃に、メゼキスはまったく反応できない。手にした【魔装兵器】が粉微塵に斬り裂かれ、ぼろぼろと崩れていく。
「今だ!」
我はその隙を突いて一気に接近し、シリルの身体を奪い返すようにしながらメゼキスの胴に蹴りを叩き込む。
「がは!」
呻き声をあげながら、部屋の壁へと叩きつけられるメゼキス。並の人間が相手なら、胴を蹴り破ってもおかしくはない威力で蹴ったはずだが、特殊な装備でもしているのか、そこまでのダメージにはならなかったようだ。
「だが、もう遅い! 『クロイアの楔』によって起動した【人造魔鍵】は世界律を穿ち、異なる世界へ我らが祈りを送り届ける! ──数百年の時をかけて、我が行い、行わせてきた研究のすべて! シェリエルのごとき異端の研究者などに、このわたしが劣るはずがない! せいぜいあの世で見ているがいい、惨劇の天使よ! 我が祈りは、今こそ神に届くのだ! ……は、は、ははは!」
口元に血を滲ませ、メゼキスは壁に寄り掛かるようにしてずるずると身を起こす。我はシリルの身体をルシアに預けると、油断なく奴を見据えた。だが、様子がおかしい。狂ったような顔で、ひたすらに笑い続ける奴の目は、我らを見ていない。
「な、なんだ?」
嫌な予感がする。なぜこの男は、シリルを奪還されたこの状況で、こんなにも嬉しそうに笑っているのか? なぜ我は、奴が向ける視線の方向に、目を向けようとしないのか? 圧倒的で絶対的な何かの気配を感じながら、我は己の身体が動かないことを知る。
〈ば、馬鹿な……!〉
ファラ殿の驚愕の声。そこでようやく、我は振り返ることができた。
最初に目に飛び込んできたのは、『腕』だった。何もない空間から、脈絡もなく突きだされている腕。大人のような、子供のような、微妙な大きさの腕だ。
だが、何よりも、その腕は、『支配』にまみれていた。世界という世界を支配し、支配という支配さえ支配する。絶対にして唯一の、『支配』という概念そのものと言うべき存在。
〈……いいじゃないか〉
その声は、聞く者を平伏させずにはいられない圧力をもって、我らの耳に響いてくる。
〈うん。実にいい。世界の根本原理そのものを弄繰り回そうだなんて、どこの馬鹿だろうね? そんな愉快なことを考えたのは。それを知りたくてつい、捨てたはずの場所に千年ぶりに戻ってきてしまったよ〉
まばゆい光と共に、腕はこの世界へと徐々に差し込まれ、ついには声の主の全身が露わになる。
〈ハイアーク……〉
ファラ殿が震える声で呼んだ名は、かつてこの世界の最高神だった存在のものだ。つまり、この『少年』がそうだと言うのだろうか?
〈おや? まさか君、ファラリエルかい? ……くくく、これはいい。やっぱり無事だったのか。まさかこんな形で会えるなんてね。最高だ。久しぶりだね。元気そうで何よりだよ〉
にこやかに語りかけてくる少年。金の髪に蒼い目をした美しい顔には、しかし、傲慢を絵に描いたような薄ら笑いが浮かんでいる。
〈き、貴様……今頃おめおめとこの世界に戻るとは……〉
〈仕方ないじゃないか。この世界は不完全だ。どうしようもない。だったら、そんなもの、さっさと捨てて、自分が自由に造り替えられる世界を弄繰り回していた方がいいだろう? その方が、より完全な秩序が創れるんだからね〉
見たこともない上下一繋ぎの衣装には、きらびやかな装飾が無数についている。この館の趣味と言い、確かに派手好きな神のようだ。だが、その発言は狂気の一語に尽きる。いや、ここはやはり『傲慢』と言うべきだろうか?
「おお! か、『神』よ! ああ、ハイアーク様! このメゼキス・ゲルニカ! あなた様のためにこの世界を整え、数百年間、お待ち申し上げておりました!」
土下座せんばかりに歓喜の声を上げるメゼキス。そんな彼に対し、ハイアークと呼ばれた少年は、にこやかに笑いかける。
〈うんうん。いいね。いつ見ても『魔族』は可愛い。素直で従順で、僕の支配に良く馴染む〉
「はは! あ、ありがたきお言葉!」
どう聞いても馬鹿にされているとしか思えない言葉に、感極まった声で礼を言うメゼキス。大の大人が年若い少年にかしずく様は、何とも異様で不気味だった。
〈それに引きかえ……なんだろうね? そっちの生意気そうな連中は〉
ハイアークは、ほんの少し身じろぎしただけだ。視線を我らの方に向けるべく、身体を動かし、わずかに不快感のようなものを示したに過ぎない。
「うあああ!」
「きゃああ!」
「ぐあああう!」
だというのに、ただそれだけで、全身の自由を奪われ、凄まじい圧迫感に息が詰まる。
「おのれ……」
床に転がったルシアたちは、苦しげに身体を痙攣させている。どうにか我だけは倒れずにいるものの、奴に攻撃を仕掛けるまでには至らない。
〈おや? 人型の『竜族』なんて珍しいね。僕の“領域”で立っているだなんて生意気だよ。ほら、早くひざまづけ〉
「ぐううう……!」
少年の蒼い目が細められ、我の身体に凄まじい負荷かがかった。最高神ハイアーク・ゼスト──それは、存在そのもので世界を支配する、まさに神の中の神だ。
〈ふうん。なんだか珍しい取り合わせだけど……でも、僕の世界には『いらない』かな? 消しちゃおうか〉
「ぐ、あ……が、ぐががが……」
その一言は、ほとんど致命傷のようなものだ。ただそれだけで、自身の存在が抹消されそうな恐怖を覚える。周囲の空気が圧力を伴って、我らの身体を縛り、今にも絞め殺さんとしてくる。想いひとつでここまで凶悪な現象を引き起こすこの化け物は、まさに『支配の神』の名に相応しい。
〈待て! やめろ、ハイアーク!〉
そんな状況の中、ファラ殿が両手を広げ、我らを庇うように立つ。
〈ん? なんだ、ファラリエル。そいつら、『君の』だったの? なら、そう言ってくれれば良かったのに。危うく消しちゃうところだったよ〉
急激に我らの身を苛んでいた圧迫感が緩んでいく。
〈……領域内では【事象魔法】の根本原理さえ意味をなさない力。“絶対領域”か。相変わらず、非常識な奴め〉
〈あはは。でも、そう言うファラリエルだって大したものだよ。いくら手加減しているとはいえ、この僕の領域内で、そうやって己の理想で世界を書き換えられるんだからね。やっぱり君こそ、僕の理想の人だ。君のその力があれば、僕の世界はもっともっと完全になる〉
熱っぽい目でファラ殿を見つめるハイアーク。だが、先ほどから彼が言う『ファラリエル』というのは、ファラ殿の名前なのだろうか?
〈その名で呼ぶな。わらわの名は、ファラリエル・カルラではない。その名は、とうの昔に妹に剥奪されている〉
〈え? あの女狐に? ……どういうことだい?〉
ファラの言葉に、驚愕の表情を見せるハイアーク。
〈さあな。だが、今の我が名は……ファラ・グランだ〉
ファラ殿がそう言った、その瞬間だった。
〈……グラン、だと?〉
世界が軋む。世界が歪む。世界が回る。世界が傾く。
滅茶苦茶に掻き回される周囲の空間に、我は思わず膝を着いた。見ればルシアもシャルも、メゼキスまでもが苦しそうに呻きながら、地に身体を横たえている。
〈まさか、まさか、まさか! お前はああああ!〉
〈どうした? なにをそんなに怒っている?〉
怒りに狂うハイアークに、ファラ殿だけは毅然とした声で応じていた。
〈あの! 汚らわしい! 力だけが能の『竜族』に! 誇り高き『神』であるはずの君が! 魂を売り渡したとでも言うのか!〉
〈ふん! 『邪神』を封印するため、『竜族』を裏切った貴様らの方が恥知らずであろうが! 隔離空間の中で共に戦った、彼らの方がよほど誇り高いわ!〉
〈隔離空間の中だと? まさか、それであの女狐! 僕を、この僕を騙したな! ちくしょう! 今からでも、草の根分けてでも奴を見つけ出し、八つ裂きにしてやる!〉
びりびりと空間が震える。周囲の壁や天井が瓦礫となって身動きの取れない我らに降り注ぐ。
「くそ! やばい! シリル!」
ルシアが叫んだ、その時だった。圧死しかけた我らを護るように、半球状の淡い輝きが出現する。
「みんな! 大丈夫?」
アリシアが駆けつけてきた。崩れてきた建物から皆を護ってくれたのは良かったが、ここは危険すぎる。
〈まずいな……。冷静さを失なったことで、多少は『支配』の力も弱まったようだが、それにしても強すぎる。ここから逃げる算段が必要だろう〉
ファラ殿はルシアの『絆の指輪』を介して、我らに語りかけてくる。だが、逃げると言っても状況が厳しすぎる。シリルは依然として気を失っているうえ、そもそもこんな圧倒的な力を前にしては、逃げることすら容易ではない。ファラ殿が盾になってくれていなければ、とっくに全滅しているところだろう。
案の定、ハイアークはアリシアと彼女に付き従う『レミル』の姿を睨みつける。
〈ん? なんだ、落ちこぼれの『神』か。次から次へと……虫けらが!〉
〈ひっ……〉
ハイアークの鋭い言葉に、怯えたように身を縮こまらせる『レミル』。
「アリシア! 皆を連れて下がれ」
我は全身の【魔力】を爆発的に増幅し、支配の力を振り切るようにハイアークへと飛び掛かる。ここは少しでも時間を稼ぐべき場面だった。だが、振り下ろした拳は見えない壁に阻まれるように動きを止め、ハイアークは憎々しげに我を見上げてくる。
〈うるさい! 下等生物が!〉
「ぐあ!」
不可視の衝撃に弾き飛ばされた我に、続いてハイアークは掌を向けてきた。
〈死ね!〉
〈く! させるか!〉
ファラ殿が腕を振り、どうにか我にかかる圧力を霧散させてくれたが、逆にハイアークはその隙を逃さなかった。
〈汚らわしい『竜族』に交わったお前など、僕の世界には必要ない!〉
〈なに? うああああ!〉
我への対処に気を取られていたファラは、ハイアークの掌から放たれた光を浴び、アリシアの方に弾き飛ばされる。
「きゃあ! だ、大丈夫? ファラちゃん」
〈ぬぐぐ……あ、ああ、大丈夫だ〉
とは言いながらも、彼女の身体はほとんど半透明な状態に戻ってしまっている。今の一撃は相当堪えたようだ。
〈くそ! まだこの世界に馴染み切れていないせいか、“絶対領域”の有効範囲が狭すぎる!〉
どうやらファラ殿とアリシアがいる場所まで、奴の領域とやらは届いていないらしい。ならば、逃げ切るチャンスはあるのだろうか。だが、そんな我の期待も、次の瞬間にはあっさりと打ち砕かれることになる。
〈馬鹿が。領域外に僕が力を振るえないとでも思ったのか?〉
ハイアークが掲げた手のひらの上には、凄まじい密度に凝縮された魔力球があった。あんなものを投げつけられれば、それこそこの島そのものが崩壊してしまいかねない。
だが、その時。ゆらりとルシアが立ち上がる。




