第181話 彼女の欲しいもの/わたしの幸せ
-彼女の欲しいもの-
【水の聖地】復活を祝うパーティは、街全体を包み込む盛大なお祭り騒ぎとなっている。月も昇り始めたこの時間、本来なら店じまいをするだろう各店舗も、この時ばかりは明かりを照らし、街を鮮やかに彩っている。
中央通りは街の人々と観光客でかつてない賑わいをみせ、そこかしこにカップルの姿も見える。水路にたっぷりと張られた水は、月明かりとかがり火の光を反射して幻想的な煌めきを見せ、否が応にも雰囲気を盛り上げてくれる。
俺たちは、そんな街中を二人、手を繋いで歩いていた。最初は照れもあったものの、周囲の雰囲気に流されるようにどちらともなく手を差し出して、握り合った。柔らかく、少し冷たく、でもすぐにじんわりと温かくなっていく彼女の手。瑞々しい上にすべすべとした感触は、俺の心臓を痛いくらいに弾ませていた。
ちらりと、横を歩く彼女の姿に目を向ける。月の光を浴びて、美しく煌めく銀の髪。斜め上から見下ろす彼女の横顔は、人形のように整っている。けれど、少し上気した紅い頬は、彼女が人形なんかじゃなく、れっきとした人間なのだということを示していた。
「……シリル」
「え? な、なに?」
名前を呼ばれて、彼女が俺の顔を見上げてくる。長いまつ毛に囲まれたつぶらな銀の瞳。まともに視線を合わせれば、吸い込まれてしまいそうな深みのある輝きに目を奪われる。
「どうしたの?」
不思議そうに聞いてくる彼女。身にまとう薄紫の聖衣は、肩の部分の布地が無いために、形の良い肩が剥き出しだ。服全体を彩る装飾は、控えめながらも一点一点がとにかく可愛らしくできており、一時たりとも目を離したくない気にさせられる。
「あ、い、いや、その……なんとなく、名前を呼んでみたくなったというか……」
しどろもどろに訳の分からない言葉を口にする。実際、ほとんど無意識に名前を呼んでしまったのだ。何と言い訳したものかわからない。
「ご、ごめん。なんか、変だよな?」
「……別にいいわよ。名前くらい、いくらでも呼んでくれて」
「ま、まあ、そうなんだけどさ」
駄目だ。自分の情けなさに涙が出そうだ。なんというか、気の利いた言葉のひとつも出ない。俺は気を取り直すように、あらためて視線を前に向けた。依然として、手は繋いだままだ。
道行く人々が、こちらを見ている。それはそうだろう。はっきり言って、今のシリルは超可愛い。いや、ベタな言葉だが他に表現のしようがない。無理に別な言葉で言うならば、めちゃくちゃ可愛い。どうしようもなく可愛い。これでもかというくらい、彼女は可愛い。
……いや、少しばかり有頂天になりすぎだな。反省しよう。
とはいえ、仕方がないと思う。何しろ並んで歩く道すがら、人とすれ違うたびに男女を問わず、彼女にうっとりとした視線を向けてくるのだ。男に限って言えば、直後には俺に嫉妬の視線を向けてくる。優越感に浸れるなんてものじゃない。
こんな言い方もなんだが、俺はこの時、声を大にして叫びたかった。俺の隣にいる、この超絶可愛い美少女は、俺の恋人なんだと。
そこまで思考が及んだところで、俺はようやく思い出す。今この時、あえてシリルを皆から離れた街中に誘い出したのには理由があるのだ。
あの時の告白──あれをもう一度、やり直す。思わず、彼女の手を握る手に力が入る。とはいえ大した力じゃない。痛くはないだろうが、少し驚いたようで、彼女の手がびくりと動いたのが分かった。
「……ねえ、舟に乗らない?」
「え? 舟……か」
俺たちは、いつの間にか、水路に浮かぶ渡し舟の船着き場の傍まで来ていた。
「うん。いいな。乗ろう!」
これはまたとないチャンスだ。
「うふふ。随分張り切ってるわね?」
そう言う彼女の声も、嬉しそうに弾んでいる。
俺たちは早速、船着き場の係員に声をかけた。普段は観光客を相手に商売しているらしいが、何と言っても今の俺たちはこの街の救世主だ。料金もいらないとのことで、中でも一番上等な舟を貸してくれた。なんでも【魔法具】のひとつであり、簡単な操作で誰でも動かせる代物だということだった。
俺たちが恋人同士であることに気を利かせてか、いくつかの注意事項を伝えてくれた後、二人きりで水路に出ることを許してくれた。ありがとう。係員のお兄さん。
【魔力】の操作が必要だと言うことで、操船作業をシリルに頼む形になったのが多少恰好がつかないが、この際仕方がない。俺は彼女の相向かいに腰をおろす。彼女が船縁の水晶球に手を触れると、舟は滑らかに夜の水面へと進んでいく。
「さすがは『水の都』ね。すごく綺麗……」
水面を進む船の左右には、露店が居並ぶ路地がある。祭りの夜。二人だけの船の上。可愛い彼女がうっとりと綺麗な景色に見惚れている。俺は、そんな景色にこそ見惚れてしまったが、そんな場合じゃない
「な、なあ、シリル。少しあっちの方にも行ってみないか?」
俺が指差したのは、比較的人通りが少なそうな方面だ。
「……ええ、そうね。静かな場所も雰囲気があって良いかも」
するすると舟は方向を変え、そちらへと進み出す。目的の場所は、ちょうど裏通りに当たるのか、道行く人の数は少ない。つまり、絶好の場所だと言うことだ。
「シリル。ひとついいか?」
「え? なにかしら?」
「シェリエルが出てくる気配はないか?」
これは肝心なことだ。どうしても確認しておく必要がある。俺がそう言うと、彼女は一瞬呆気にとられたような顔をした後、何かに気付いたように微笑んで、頷いた。
「うん。大丈夫よ。……多分、寝てる? みたいだし……」
「そ、そうか……」
よし、それじゃあ、もう一度言うぞ。と、俺が考えたその時だった。
「ねえ、そっち行ってもいい?」
「うえ?」
出鼻をくじかれて、妙な声が出てしまった。シリルはそんな俺を見て、くすくすとおかしそうに笑っている。これは少し恥ずかしい。
「この舟、重心は相当安定しているみたいだし……隣に並んで座っても、大丈夫だと思うの」
「そ、そっか。うん、いいんじゃないか?」
渡りに船とはこのことだ。俺は内心で狂喜乱舞しながら、頷きを返す。すると彼女は再び微笑んで、それからゆっくりと、這いつくばるような姿勢で舟の上を動き、俺の隣に腰を落ち着け……って、近い! いや、これはもう、近いとかいう次元じゃないぞ?
身体を寄せて、しなだれかかる。そうとしか言えないほど、彼女はぴったり俺に寄り添ってくれていた。
「な、なあ、シリル」
顔が熱くなるのを感じながらも、どうにか俺は言葉を続けようとする。だが、彼女は俺の腕をぎゅっと抱きしめ、それから機先を制するように言った。
「大好き」
「ええ?」
「……あの時の、返事」
はにかみながらも、俺の顔を見上げてくるシリル。
「だ、だって、あの時、ルシアはわたしに、ちゃんと言ってくれたじゃない。……なのに、あんな結果になっちゃって……。だ、だから、今度はわたしから言わなきゃって……思ってて……」
顔を真っ赤にして、尻すぼみに言葉を途切れさせていくシリル。なんだかもう、今すぐ抱きしめたいくらいに可愛い。……だが、そうだったのか。彼女もまた、いろいろ考えてくれていたんだ。舟に乗りたいと言い出したのも、そういうことだったのかもしれない。
「……嬉しいよ。ありがとう。シリル」
「お礼なんて言わないでよ。わたしは単に、自分の気持ちを言っただけだもん」
「だから、嬉しいんだよ。シリルが気持ちを伝えてくれたことが、嬉しい。ただ、欲を言えば……」
「な、なに?」
「さっきのは唐突過ぎて、若干実感がわきにくかった。もう一度、今度はゆっくりはっきり言ってくれると、もっと嬉しいんだけどな」
俺がそう言うと、彼女は目を丸くする。そして、そのまま顔を俯かせ、そっぽを向くように視線を横に逃がすシリル。けれど、俺の腕を抱きしめる力だけは、ますます強くなっていった。
「も、もう……わかったわよ。言えばいいんでしょ? 言えば……」
拗ねたように言う彼女は、抱きかかえた俺の腕に頭を預け、軽く息をついた。
「……大好きよ。わたし、あなたのことが大好き。ずっとずっと、あなたと一緒にいたい。離れたくない。自分でもどうにかなりそうなくらい、あなたのことが好きなの」
「シリル……」
やばい。めちゃくちゃ嬉しい。ここが舟の上じゃなかったら、跳び上がりたいくらいだ。まさかあのシリルから、ここまで熱烈な告白をしてもらえるなんて夢のようだ。俺がそんな感激に浸っていると、彼女の言葉がさらに続く。
「……大体、あなたはずるいのよ。いいえ、卑怯だわ」
「え? な、なんだ。いきなりどうしたんだ?」
唐突な言葉に、俺は目を瞬かせる。
「最初にわたしが『魔族』であることを話したときだって、そうだった。ライルズが『魔神』になった時もそう。……『絆の指輪』をくれた時も、カシム博士の【魔装兵器】と戦った時も、『シェリエル第三研究所』でわたしについて来てくれたときだって……そうだったわ」
「シリル?」
「あなたはいつだって、わたしの欲しいものをくれた。まるで、わたしの心がわかってるみたいに。温かくて、居心地が良くて、幸せで、……心が満たされるようなものばかり、わたしにくれた」
俺は黙って、彼女の『告白』を聞き続ける。
「この世界を救えるのはわたしだけなんだって……。だから、誰にも頼らず頑張らなくちゃいけないんだって……。そう、思ってたのに……。いつの間にか、わたしは……あなたがいないと駄目になった」
彼女はまだ、顔を伏せたままだ。俺は、そんな彼女を見下ろし続けている。
「あなたのせいで、わたしは弱くなった。……あなたのおかげで、わたしは強くなった。今のわたしは、あなたさえいれば、何処までだって強くなれる。でも、あなたがいなかったら……」
その気持ちは、俺も同じだ。彼女がいるから強くなれる。だからその分、彼女がいないだなんてことは、考えられなくなっていた。
「だから、責任とってね?」
「責任?」
俺はおうむ返しに訊き返してしまった。すると、彼女は弾かれたように顔を上げる。その顔は、何故か少し、怒っているみたいに見えた。
「決まってるでしょ? これから一生、わたしの傍にいてくれるって……約束してよ」
潤んだ瞳で見上げてくる彼女。……駄目だこれは。もう、我慢なんてできるか。
「当たり前だ。もう一生、離すものかよ」
「きゃ、きゃあ!」
俺は力いっぱい全力で、彼女の身体を抱きしめた。それはもう、ジタバタと慌てたように暴れる彼女がその動きを止めるまで、ひたすらずっと、抱きしめつづけたのだった。
-わたしの幸せ-
心がうきうきしている。彼とこうして街並みを眺め、隣を歩いているだけで、嬉しさがこみあげてくる。想い合う相手と同じ時間を過ごせることが、こんなにも幸せなことだなんて思わなかった。
アリシアもヴァリスと一緒にいて、こんな気分を味わっていたのかな。そう思うと、少し悔しい。親友に自分より一歩先をリードされてしまったような気分だ。
「シリル。なんか楽しそうだな」
道端に並ぶ露店を眺めていたはずの彼が、いつの間にかわたしの顔を見下ろしている。
「……そう見える?」
試しに、訊き返してみた。自分の顔に、思わず笑みがほころぶのを止められない。
「あ、ああ。まあ、お前が楽しそうにしてくれてるのは、俺も嬉しいし、いいことなんだけど……何か面白いものでも見つけたのかと思ってさ」
「別に見つけてないわよ」
意地悪く言い返すと、彼は少し困ったような、不思議そうな顔をする。
「うーん……じゃあ、気のせいだったかな」
「ううん。気のせいじゃないわ。わたしは今、すごく楽しいもの」
そう言うと、彼の顔はますます困惑気味なものに変わっていく。そんな様子はなんだかすごく可愛かった。でも、さすがに少し気の毒になってきたので、わたしはそのまま言葉を続けた。
「ルシアと一緒にこうやって歩いているだけで、わたしはとっても楽しいの」
自分の声がものすごく弾んでいるのがわかる。気分が高揚していて、今ならどんなに恥ずかしいことでも言えてしまいそうだった。というか、この時のわたしには、自分の言っている台詞に対する自覚なんて、欠片もなかった。
「そ、そうか。うん。それは良かったな」
あ、頬が少し赤くなってる。照れちゃったのかしら? わたしは彼の腕にすがりつくように腕をからめた。
「え? お、おい……みんな見てるぞ」
「いいじゃない。見せつけてやれば」
街の人々の視線なんて、全然気にならなかった。そんなことがどうでもよくなるくらい、今のわたしは幸せだ。
「……はあ。わかったよ。ここまで来たら俺も腹をくくるとするか」
よくわからない決意めいた言葉を口にするルシア。わたしはそんな彼にますます頬を摺り寄せながら、歩き続ける。
あてもなく歩き続けていると、飲食店が立ち並ぶ一角に出た。立ち並ぶと言ってもほんの二、三軒だけれど、それでもこのあたりはちょうど、この街で言うところのお食事処となっているようだった。
「なあ、シリル。少し小腹がすかないか?」
そう問われて、わたしは首を縦に振る。始まりの宴会の時には、彼に告白することで頭がいっぱいだったせいか、ろくに食事もできなかったことを思い出した。もしかしたら、彼も同じなのかもしれない。
「うふふ! じゃあ、行きましょ」
彼との間に、そんなちょっとした共通項があると言うだけで、ますますわたしの心は浮足立ってくる。
「そ、それはいいんだが、さすがに店に入る時は普通に歩こうぜ」
「いや」
「いや、じゃなくてさ。少し歩きづらいし、流石に店の人に何事かと思われるだろ?」
なだめるような彼の声は、あくまで優しい。わたしがあえて口にした我が儘を、怒るでもなく受け止めてくれている。
「……もう、仕方ないわねえ」
わたしは、渋々、と言った感じを前面に出しながら、彼の腕を離してあげた。
「積極的なのは嬉しいんだが……さすがにちょっと変わり過ぎじゃないか?」
「聞こえない」
「いや、聞こえないって、お前なあ……」
「きーこーえーなーいー!」
「まさか、酔っぱらってるわけじゃないよな? ……だとしたら誰だよ、未成年に酒を飲ませた奴は」
お酒なんて、一滴も飲んでない。あの宴会の席では、そんな余裕なんてなかったから。でも、酔っているという部分に関しては本当かもしれない。わたしはこの時、自分の幸せに酔っていたのだと思う。
「はいはい、わかったよ。お前は酔ってないんだよな? 正気だ、正気。うんうん、わかったわかった」
わたしが自分は酔ってなんかいないのだと強く言い募ると、彼は仕方がないとばかりに笑い、わたしの頭を撫でてくる。あれ? なんだかこれ、とっても気持ちいい。いつまでも撫でられていたいような……。
「ほら、じゃあ、入るぞ」
「……もう」
彼はわたしの頭から手を離すと、自分だけさっさと店の中に入って行ってしまう。その素っ気なさに少しだけ不満を覚えつつ、わたしは彼についていく。
洒落た内装のお店の中には、お祭りの日だということもあってか、何組かの恋人同士と思われる男女がいた。それを横目で見つめつつ、わたしは彼と相向かいに席に着いた。わたしたちも、彼らと同じ、『恋人同士』なんだ。そう思うと、つい頬が緩んでしまう。
そこでふと、視線を感じたわたしは、ルシアの顔に目を向ける。すると彼は狼狽えたように目を逸らした。
「どうしたの?」
「え? い、いや、なんでもない」
嘘だ。どう見ても、何でもないようには見えない。
さて、どうやって問い詰めようかしら? わたしはテーブルに両肘を突き、組んだ両手の上に顎を乗せるようにして、彼を見つめる。すると彼は、わたしが言葉を発するより早く、観念したように口を開いた。
「……その、見惚れてたんだよ」
「え?」
「いや、こうして面と向かってお前の嬉しそうな顔を見てたら……何と言うか、俺には勿体ないくらいに可愛い娘だなあと、つくづく思ってさ」
「…………」
わたしは言葉が出ない。
「う、ああ、だから、言いたくなかったのに……」
「ぷふっ! くふふ! あははは!」
「わ、笑うなよな……」
ばつの悪そうな顔で頭を掻く彼に、わたしは改めて笑顔を向ける。
「ごめんね。でも、ありがとう。でも、ルシアだって……すごく格好良いと思うわよ。わたしは」
わたしが照れるでもなくそう言うと、彼は何かを諦めたような顔で息をついた。
「そうかい。それはありがとな」
そんな会話を続けているうちに、ようやく店の人が注文を取りに来てくれた。彼はメニューの書かれた壁の掛札を見ながら、店のおすすめが何かを聞き、わたしの希望を聞いた上で、てきぱきと注文を終えていく。
店の人がいなくなってから、わたしは少しおかしくなって、くすくすと笑ってしまった。
「今度はなんだよ……」
「ごめんなさい。そんな顔しないでよ。……ほら、昔初めて飲食店に入った時のこと、思い出しちゃったのよ」
「え? あ、ああ。なるほどな」
その時の彼は、まだこの世界の仕組みに慣れていなくて、店の注文ひとつ満足に取れず、いつも不安そうな顔をしていた。そんな彼にわたしは色々と教えてあげたのだけど、それが今やこんなに立派になって……。
「いやいや、その台詞は、それこそ『お母さん』そのものだぞ?」
言った直後に身構えるあたり、彼はわたしと違って、自分の発言に自覚があるらしい。でも、そんな反応をされると、かえって予想を裏切ってあげたくなるのも心情だった。
「ええ、そうね。母親代わりを自任していた覚えはあるわよ。ルシアったら、出来の悪い子供みたいだったもの」
「……悪かったな。出来が悪くて」
少し拗ねたような顔で言うルシア。そんな顔もまた、可愛らしくて仕方がない。わたしは、自分の気持ちをそっくりそのまま言葉に変えた。
「でも、出来が悪い子ほど、可愛いものなのよ?」
「……くそう、今日はどうしたんだ? シリルにこんなからかわれ方をしたのは初めてだぜ」
ルシアは少し悔しそうだ。けれど、少しの間、二人で見つめ合っていると、どちらともなく笑みがこぼれ、いつの間にか声を上げて笑い合っていた。
やがて、テーブルに料理が運ばれてくる。近くのレムール川で獲れる魚料理がここの名物らしく、この魚は川に水が復活した翌日早朝に早速釣り上げることができたものなのだそうだ。
「ってことは、この魚、ちょっと前まで氷漬けだったのか?」
不器用な手つきでナイフとフォークを掴み、魚をつつくルシア。
「かも知れないわね。まあ、氷漬けになっていた人も無事だったみたいだし、あの『氷の世界』での凍結は、普通のものとは違ったのかもしれないわ」
わたしは慣れた手つきで骨と身を綺麗に切り分け、身の部分を口へと運ぼうとして、その手を止めた。
「ん? どうしたんだ。シリル」
急に食べるのをやめたわたしを見て、ルシアが訝しげに問いかけてくる。けれどわたしは、手元のフォークに刺さった魚の身とルシアの皿の上で汚らしくほぐされた魚の身とを見比べ、それから小さく頷いた。
「ねえ、ルシア」
「なんだ?」
きょとんとした顔で訊き返してくる彼。そんな彼の目の前には──
「はい。あーん」
「え?」
ルシアは目を丸くして、わたしを見た。わたしは手にしたフォーク──その先に刺さった魚の身を彼の口元に近づけ、同じ言葉を繰り返す。
「あーん」
「え、えっと……」
「あーん」
そこでようやく、わたしの意図を察したらしい。彼の顔が見る間に赤くなっていく。わたしは、なおも『追撃』の手を緩めない。
「ほら、早く。あーん」
「あ、あーん」
観念したように開かれた彼の口に、フォークの先をゆっくりと突き入れる。
「はい。ぱく」
「……ぱく」
わたしの声に合わせ、彼の口が閉じられた。もぐもぐと、噛み締めるように魚の身を咀嚼し、ごくりと飲み込む彼。
「ふふ! おいしい?」
わたしはこみ上げてくる楽しさに声を弾ませながら、彼に聞く。
「あ、ああ……。若干心臓には悪かったけど……なんというか、最高の気分だ」
「そう。よかった」
顔の熱さを和らげようとでもしているのか、彼は手で仰ぐように自分に風を送っている。少し安堵したような顔にも見えるけど、もちろん、ここで終わるわけにはいかなかった。
「じゃあ、ルシア」
「な、なんだ?」
「あーん」
わたしは頬にかかる髪を手で耳元にどかしながら、小さく口を開いて見せる。
「う、あ、ま、まじでか?」
狼狽える彼に、わたしはいったん口を閉じ、不満げな目を向けて言う。
「うん。まじで。当たり前でしょう? ルシアばっかりじゃ不公平じゃない」
「う……そ、それもそうか……って、あれ? なんか違うような……」
「いいから、ほら、早く。あーん」
再び口を開くわたし。ごくりとつばを飲み込む彼。けれど、彼の皿の中の魚は、ボロボロに身が崩れていて、わたしのように簡単にはいかなかった。刺すのではなく、すくい上げるような形でフォークの上に身を乗せ、それを恐る恐るわたしの口元に近づけてくる。
「よ、よし、行くぞ……」
緊張をはらんだ彼の声。ゆっくりと近づいてくるフォークの先。
「えい」
掛け声とともに、それを一気にくわえ込む。塩味の利いた魚の風味と共に、得も言われぬ幸福感が、わたしの口の中いっぱいに広がった。
「ど、どうだ?」
律儀にもそんなことを聞いてくる彼。わたしはそんな彼に、軽く首を傾げて見せた。
「うーん……」
「う、や、やっぱ、身が崩れてたからな……」
不安そうな声音。
「ふふ! すごくおいしかったわよ。うん。最高の気分だわ」
「な、何だよ。驚かせるなよな……」
ほっとしたように息をつく彼。
それからわたしたちは、時折お互いの料理をお互いの口に運びあうという遊びを交えて、楽しくて幸せな食事を続けたのだった。
──もちろん、この時のわたしは、気付いていなかった。わたしたち二人が、この街の中でどれだけ注目を集める存在であったのかということに。
そして、無数の目撃者によって語り継がれるその情報は、間違いなくわたしたちの仲間の元にも届いてしまうであろうことを。
後日、そんな衝撃の事実をアリシアやレイフィアからたっぷりと聞かされたわたしが、自室にこもって頭から布団をかぶり、たっぷり一時間以上は悶え続ける羽目になったことは、言うまでもない。