幕 間 その33 とある蛇神の本懐
-とある蛇神の本懐-
ワタシは、誰にも祝福されずに生を受け、『絆を奪う』という禍々しい力を持ったがために、ずっと孤独に過ごしてきた。ワタシの『生みの親』たちは、己の力が尽きようとするその瞬間まで、ワタシのことを認めることなく『呪い』をかけた。
きっと彼らは、自分たちが眠りについた後でさえ、ワタシがこの世界に存在していることが許せなかったのだろう。
持って生まれた呪わしい力のために、生みの親から呪いを受ける。
そんなワタシは、生まれた時から世界そのものに呪われているのだ。そう思っていた。この世界の誰よりも不幸で、誰よりも孤独な存在なのだと、自分の悲劇に浸っていた。
だから、この世界を呪ってやろうと思った。
ワタシを必要としない世界なんて必要ない。
それこそ、ワタシの最後のプライドだった。
けれどワタシは『彼女』と出会い、真の悲劇とは何かを知った。
本当の意味で、世界から必要とされていない少女。関係性を喪失させるワタシの力が、まるで意味をなさない少女。最初から、何とも関係していない少女。
なのに彼女は、そんな冷たい世界のことを、誰よりも愛していた。それはとても悲しいことで……でも、同時にとても眩しくて。だからワタシは、彼女の力になりたいと願った。たとえそれが、自身の存在の消滅に繋がろうとも、分不相応にも、誰かに必要とされる存在でありたいと願ってしまった。
「……フェイル。今なら、あなたの気持ちがわかるよ。……あなたは、証明したかったんだよね? あなたみたいな、そして、ワタシみたいな存在でも、誰かを救うことはできる。望まれない命でも、いつか誰かが必要としてくれる時が来る。ワタシたちがこの世界に生まれてきたことは、決して無駄なんかじゃない。……ワタシたちのようなモノにだって、他の誰とも違う、掛け替えのない『価値』があるんだってことを……」
──崩壊していくセフィリアの精神世界。それは、彼女が『心』を取り戻してきたことの証。ワタシは『歪み』の力で生み出した『道』に立つシャルとフィリスが、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見ていることに気付く。
「大丈夫、泣かないで。先に脱出してて」
ワタシの声は聞こえただろうか? いずれにせよ、崩壊する世界の断片にワタシと彼女たちは分断される。視界から消えていく彼女たちは、何かを叫んでいるようにも見えた。
「ねえ、フェイル。……あなたがワタシにくれたこの力で、ワタシの大切な人たちを護ることができたよ。だから、もう……いいよね?」
『ジャシン』の復活も【聖地】の巡礼も、ワタシがセフィリアの“無法”に飲み込まれないようにするためのものだった。ワタシに同族の力を取り込ませるためだった。
彼は、他の誰でもない『ワタシ』のために、動いてくれていたのだ。……きっと、彼本人にそんなことを言っても、絶対に認めようとはしないだろうけど。
ワタシは、もう満足だ。ワタシの想い、彼の想い。その本懐を遂げることができたのだから。ここでワタシが消えちゃっても、この世界にはワタシが護ったあの子たちが残る。
それはきっと、ワタシが最後に、世界に残した【爪痕】なんだ。
……だから、もう、満足だ。
「残念なのは、ワタシが取り込んだ仲間の皆も、道連れにしちゃうことかな……」
すでに逃げ場はない。崩壊する世界の中で、ワタシはわずかに残った力で自身が存在するための『歪み』を創っているけれど、それももう限界だった。
「ねえ、フェイル。……あなたはあの時、『満足だ』って言ったよね? でも、それって本当なのかな? あんな終わり方で、あなたは本当に良かったの? フェイル、ワタシ……あなたにお礼も言っていないのに……」
壊れゆく世界に侵食される『歪み』。
大切な友達を護ることができたワタシには、もう後悔はない。この時、この瞬間まで、ワタシはそう思っていた。
「でも……でも、フェイル……ワタシは、ワタシは……」
──駄目だった。諦められない。諦めたくない。今さらこの状況では、どうしようもないことはわかっていても、このまま消えてしまいたくはなかった。
「フェイル……。ワタシは、もう一度、あなたに会いたい! ……あなたに伝えたいことが、いっぱいあるの……あなたに聞いてほしい想いが、ここにあるの!」
だから、ワタシは、たとえどんなに無駄なことだとしても、最後の最後まで力を振り絞ろうと決めた。無駄な足掻きかも知れないけれど、ワタシはここで、何もしないままで消えていきたくはない。せめて、最後まで戦い抜きたい。
なけなしの力を振り絞り、周囲の『歪み』を押し広げる。崩壊する世界の中では、ほんのわずかな空間を確保するだけでも、恐ろしいほどに力を消耗してしまう。
とても耐えられそうになかった。悔しい。すごく悔しい。こんなところで終わりだなんて。……けれど、ワタシの心にそんな絶望の影が差しこみかけた、その時だった。
目の前の虚空に、真っ赤な亀裂──否、『傷口』が生み出される。
〈気に入ったわ〉
心に響くそんな声。
「え?」
〈あなたもきっと、希望のカケラ。わたしが求める新たなる世界の断片。あの忌々しい『秩序』を破壊するべく、世界を引っ掻き足掻くモノ〉
世界に生まれた赤い『傷口』から、女性の姿が現れる。酷くおぼろげで輪郭さえもはっきりしないその影は、辛うじて身体つきと髪の長さで女性だろうと推測させる程度のものだ。けれど、ワタシには、そんな視覚情報など関係なく、彼女の正体が理解できてしまう。
「神……なの?」
苦い記憶を思い出す。ワタシを拒絶し、ワタシを否定した生みの親たち。この世界の神という神は、押し並べてワタシたち『ジャシン』を忌み嫌い、病的なまでに恐れている。
けれど彼女は……
〈素敵だわ〉
「……へ?」
意味が分からない。彼女は何を言い出すのだろう?
〈己の立つ世界そのものの崩壊という抗い難い絶望を前に、足掻くことを止めないあなたは、とてもとても美しい。その姿は、わたしの喜び〉
「……あなたは『神』でしょう? ワタシのことが怖くはないの?」
〈怖い? なぜ?〉
『彼女』の影は首を傾げる。本当に意味が分かっていないのだろうか?
「ワタシたち『ジャシン』は、あなたたち『神』の【欠点】だもの。思うだけで世界に存在するあなたたちは、自分の誤りを認めたくないのでしょう?」
ワタシは過去にワタシを拒絶した連中を思い出しながら、半ば投げやりにそう言った。けれど……
〈うふふ! あは、あはははははははははは!〉
突然、何かに衝き動かされるように笑い始める『彼女』
「な、何がおかしいの?」
〈何がですって? 馬鹿を言わないでほしいわ。あははは! そんなの、決まってるじゃない。──すべてよ。すべてがおかしいわ。わたしの誤り? くくく! わたしには、『誤り』などない。『過ち』など存在しない。わたしは常に、刹那の時を己の衝動に従って生きている〉
おかしそうに、笑い続ける彼女。ワタシは、そんな彼女の姿に強い苛立ちを募らせた。どこまで傲慢な『神』なんだろう? 頑なに自分の誤りを認めようとしない彼女は、きっとワタシの存在でさえ認めないに違いない。
「何を言っているの? あなたたちが世界を不用意に改変したせいで、ワタシはこんな風に、間違った存在として生まれてしまった。なのに、そのあなたが『自分は間違っていない』と言うの?」
ワタシは、強い憤りを言葉に変えて、彼女に向かって叩きつける。
けれど、続く彼女の言葉は、ワタシを絶句させるものだった。
〈『その時』のわたしは、いつだって絶対に正しい。後になってから、それがどんな結果になって、どこの誰が何を言おうと、わたしはその時の自分の決断を後悔しないし、その時の自分をいつだって誇りに思う〉
「あ……」
究極の刹那に生きる、無謬の女神。輪郭だけの外見にも関わらず、気高く崇高な女神の立ち姿は、凛として美しく、ワタシの心を激しく揺さぶる。
〈わたしの行いであなたが生まれたと言うのなら……あなたもまた、わたしの誇り。誇るべき、わたしの『娘』〉
「………………」
めまいがした。自分の視界が明滅してしまうほどの強い衝撃だった。彼女の言葉は理解できない。彼女は、『神』であるはずなのに、要らないはずのワタシのことを『誇り』と呼んだ。何のためらいもなく、当然のように、『娘』と呼んでくれた。
「あ、あなたは……誰?」
嬉しかった。思わず、泣き出しそうだった。自分を誇りだと言ってくれた『神』の名を知りたい。そう思ってしまった。
〈アレクシオラ・カルラ。──刹那の衝動を司る女神。今はそれだけ知っていればいいわ。あなたには、二つの道がある。わたしがそれを選ばせてあげる〉
「……二つの、道?」
女神はぼんやりと揺らぐ影のような手を伸ばし、二本の指をワタシの前に突きつける。
〈ひとつは、このまま元の世界に帰る道。この『世界の揺らぎ』とも言うべき場所に、あなたがいたのは不運でもなんでもない。僥倖ともいうべきものよ。今のわたしの『力』なら、あなたをここから脱出させるくらい、容易なことだわ〉
「え? ワタシ、助かるの? シャルやセフィリアに、また会えるの?」
〈あなたがそれを望むならね〉
「じゃ、じゃあ! お願い!」
目の前に示された希望に、ワタシは一も二もなく縋りつく。けれど女神は首を振り、ワタシに言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
〈選ぶのは、二つ目の道を聞いてからにしなさい。生きるも死ぬも、希望にすがるも絶望に身を投げるも、全ては自由。けれどあなたは、死を拒絶し、絶望に抗った。ならばわたしは、生きようとするあなたに、希望に手を伸ばそうとするあなたに、更なる選択肢を与えてあげる〉
「え? で、でも……」
他に選ぶ道なんてあろうはずもない。それとも、何か交換条件でもあるのだろうか?
〈交換条件などない。わたしは足掻く者に、与えるだけの女神。わたしは何も奪わない。だから、もうひとつの道もまた……あなたが欲しいものを与える道よ〉
彼女の輪郭が、徐々にではあるけれどはっきりしたものになっていく。髪の色は黒。艶やかな長髪で、顔立ちは美しく、慈愛の笑みを浮かべた彼女は、誰よりも神々しかった。
「あ、あのときの……」
フェイルが飲み込まれた白い世界。その奥にいた、黒髪の女性。
〈さあ、選びなさい。もう一つの道は、辛く険しい運命が待ち受けているかもしれない。けれど、そこには……あなたの愛する人がいる。……フフフ、『あの子』は本当によく似ているわ。わたしの『息子』──トライハイトにね〉
差し伸べられた女神の手。
「う、嘘……。彼に、もう一度、会えるの?」
〈あなたがそれを望むならね。……本来ならこんなことを言うべきではないのだけれど、わたしとしては是非、そうしてほしいわね。『あの子』ってば、本当に聞き分けが無いのよ。わたしも、手を焼くばかりで困っているわ〉
茶目っ気たっぷりに笑う女神。彼女が嘘をついているようには見えない。何より、彼女の言葉の端々からは、『彼』の存在が確かに感じられる。
ワタシに、迷う余地などあろうはずがなかった。