第178話 痛々しい人形の終わり/白銀世界
-痛々しい人形の終わり-
あたしはシャルちゃんと自分の周囲に“抱擁障壁”を展開し続けたまま、胸を押さえて息を吐く。聖堂騎士団の『ダインレイフの聖槍』の光は、ただの力押しでは破れないはずのあたしの障壁に、『魔神』の攻撃よりもさらに強い負荷を与えてきた。
そして、ヴァリスやエリオットくんも、同じ槍から受けた傷に苦しめられている。けれど、あたしの後ろにはシャルちゃんがいる。皆を信頼し、無防備なまま全神経を『氷の世界』に向けている彼女を護るため、あたしはここから動けない。
ヴァリスのことは心配だけど、今はエイミアが治療をしてくれているみたいだし、あたしにできることはないだろう。
歯がゆい気持ちをこらえつつ、戦況を見つめるあたしの目には、全身を覆う氷をものともせずに歩き続ける騎士団長の姿が映っている。でも、彼の姿は痛々しくて、とても見ていられなかった。
リオネルとは違って、彼には“同調”系の能力を阻害する力はない。
だから、あたしには彼の素性がはっきりとわかる。彼は、『生きた人形』だった。レオンという名前は、彼の名前じゃない。それは『人形』に与えられる称号だ。彼自身には、名前なんて存在しない。誰かに認識されるために呼ばれる名前として、レオンという呼称はあっても、それは『彼』という人格そのものの名ではない。
そもそも、『彼』を人格という概念で捉えること自体、間違っているのかもしれない。
『彼』にとっては、リオネル・ハイアーランドこそがすべて。生きる理由だなんて生易しいものではなくて、話す言葉も手足の動きも、目の瞬きでさえ、リオネルのためのものだ。与えられた武器も能力も……作り変えられた『人格』そのものも、それがたとえ、『彼』自身を苦しめるものであったとしても、『彼』はそれを至上の喜びとしてとらえている。
「く、狂ってる……」
思わず、そんな言葉が口から出る。あんな状態で生きているだなんて、馬鹿げている。何をどうやったら、誰かをあんな存在にしてしまえるのだろう? あたしは彼自身より、彼の主であるリオネルに、より一層の恐怖を感じていた。
「氷で固めたぐらいじゃ、動きを鈍らせることしかできないようね」
「いや、それでも十分だぜ。ファラの話じゃ、あの剣、不用意に斬るとやばいらしくてな。でも、今ならどうにか間合いを計りながら、行けるかもしれない」
「駄目よ! 今のアイツに近づいたら、あなたも凍ってしまうでしょう? その状態であの剣を壊したりしたら、暴発した魔法を回避する余裕なんてないわよ」
「大丈夫。俺には『放魔の生骸装甲』もあるし、多少の冷気なら自分で斬り散らせる。後は、シリルが上手くコントロールしてくれるだろ?」
信頼に満ちたルシアくんの言葉。対するシリルちゃんは、少し戸惑ったような顔をした後、呆れたように大きく肩で息をつく。
「……仕方ないわね。あなたの無茶はいつものことだものね。……わかったわよ。わたしに任せて、あなたは安心して突撃しなさいな」
「りょーかい」
嬉々として剣を構えるルシアくん。
〈だが、ルシア。奴の鎧も恐らくは【擬似魔鍵】とやらだろう。あの剣をどうにかできたところで、奴自身を倒すための決定打にはなりえないぞ?〉
いつの間にか姿を現したファラちゃんが、ルシアくんに尋ねる。
「ん? なんだよ、ファラ。お前は正真正銘、本物の『理想の女神』様なんだろ? 擬似だか何だか知らないけど、そんな『紛い物』が俺たちに斬れないわけがあるか?」
自信たっぷりに根拠の薄い言葉を口にするルシアくん。ファラちゃんは、呆けたように目を丸くしたかと思うと、にやりと笑みを浮かべた。
〈……はは! 違いない! 確かに、わらわとお主にかかれば、あの程度の紛い物、斬れぬ道理はないわ!〉
「じゃあ、いくぜ!」
威勢よく言葉を交わし合うルシアくんとファラちゃんの二人。
うん。あたしも負けていられないな。
「ルシアくん! あたしの“抱擁障壁”も使うから! 安心して戦ってね!」
「え? 大丈夫なのか?」
あたしの声に、驚いたように訊き返してくるルシアくん。
「うん! 他の敵はいないみたいだし、大丈夫」
護るべきものを護る力。あたしには今、そのための力がある。
「ね? レミル」
あたしの足元で、小さく頷くレミル。ヴァリスの《転空飛翔》が終わってしまったために話すことはできないけれど、それでも彼女の顔を見れば、彼女が同じ気持ちでいてくれることはわかる。
「ルシア! アリシアの障壁はわたしの冷気までは防げないから、それだけは忘れないでね」
「ああ。でも、これでどうにか、あの剣をどうにかする目途もついたな」
シリルちゃんとあたし、二人のバックアップを受けながら、ルシアくんは冷気に包まれながら立ち尽くすレオンに向かって走り寄る。あたしは展開した障壁でルシアくんを包むように意識する。微妙な調整は難しいため、相手に接近し過ぎてしまえば、直接の攻撃は防げないかもしれない。でも、暴発した魔法の余波を防ぐには、あれで十分。
「氷の【魔力】を解析。熱源、再起動。失敗。再試行。……成功」
ルシアくんがレオンに近接する寸前、レオンはそれまでの緩慢さが嘘のような動きを見せた。ぶら下げていた剣を、素早い動作で斜め上方へと振り抜く。当然、その軌道上には不意を突かれたルシアくんの身体がある。
「ルシア!」
シリルちゃんが叫ぶ。けれど、次の瞬間、レオンから驚愕の声が上がる。
「事象の変動……否、消滅?」
レオンの手にした黒い刀身は、ルシアくんの身体を深く斬り裂く軌道で通過し、振り上げられている。にも関わらず、その刀身には一滴の血も付いていない。あたかも、「ルシアくんの身体を斬った」という事象そのものが切り捨てられたかのような現象が、そこにはあった。
「斬り裂け!」
ルシアくんの『切り拓く絆の魔剣』がレオンの掲げた黒い剣へと振り下ろされる。蒼い輝きを帯びた剣閃は、黒い刀身をあっさりと斬り砕き、そのままレオンの脳天から股下までを一刀両断に斬り裂いていた。
「うわっと!」
刀身が砕けると同時、ルシアくんは後方へと飛びさがる。放たれた黒い乱流は、ルシアくんの身体を包むあたしの障壁がガードする。
「損傷甚大……制御不能……」
鎧の前半分を左右に両断されたレオンは、血の一滴すら流さないまま、自身の手にした剣の暴走に巻き込まれるように倒れていく。
「やったか?」
「ルシア! 大丈夫?」
安堵の息を吐きながら、倒れた騎士を見下ろすルシアくんへとシリルちゃんが駆け寄っていく。そしてそのまま、迷うことなく彼の胸元に飛び込んだ。
「おっと! ははは。ごめんな。心配かけて」
「まったくよ! いつもいつも……心臓がいくつあっても足りないんだから……」
そう言いながらも、シリルちゃんは照れたようにルシアくんの胸に顔をうずめてしまう。
そんな光景を目にして、あたしはなんだか感慨深い思いを抱いていた。前にマギスレギアでフェイルと一騎打ちをしたルシアくんに再会した時のシリルちゃんは、ああやって駆け寄って言った挙句、寸前で立ち止まってしまったんだっけ?
「……ふむ。どうにか片付いたみたいだな」
いつの間にか、あたしの隣にはヴァリスが来ていた。
「ヴァリス! 大丈夫なの?」
「ああ。“竜の血”のおかげだろうが、我にはあの『聖槍』の呪いもそれほど強くは効かなかったらしい」
よく見れば、ヴァリスの身体から流れていた血は、そのほとんどが止まっている。
「そっか。よかった。……でも、エリオットくんは?」
「今、目が覚めたようだ。……シリル! エイミアが呼んでいる!」
ヴァリスの呼び声に、シリルちゃんとルシアくんがこちらに気付き、慌てて駆け寄ってきた。あたしたちは急いでエリオットくんの元に向かう。
「エリオット。大丈夫か? しっかりしろ」
「エイミアさん、ははは。よかった。エイミアさん、さっき泣いていたみたいだから……」
力のない声で笑うエリオットくん。でも、その顔には、大分生気が戻ってきているみたいだ。
「このばか! どうして君は、そんな……」
エイミアは、そんな彼を泣き笑いのような顔で怒る。それでも、彼女の心の中は、嬉しさでいっぱいだった。
「……ふう、良かったな。エイミアがそれこそ、自分が死ぬみたいな顔で叫び始めた時には、俺も心臓が止まりそうだったからなあ」
「な! べ、別にわたしは……」
ルシアくんの軽口に、エイミアは顔を赤くして言葉を詰まらせる。
「すみません。本当に。心配をかけてしまったみたいで」
「う、ま、まあ、無事だったんだから、それでいいんだ。……無事、だったん、だから……」
あれれ、エイミアってば、また泣き出しちゃった。蒼い瞳からは、ぽろぽろと次から次へと涙がこぼれていく。
「エイミアさん。泣かないでください。ほら、僕は無事ですから」
エリオットくんが戸惑ったように、身を起こそうとする。けれど、それはシリルちゃんによって押しとどめられた。
「駄目よ、動いちゃ。胸の傷は凍らせてあるだけなのよ? その『呪い』の解除は時間がかかるかもしれないんだから、安静にしていなさい」
「それに、これは嬉し泣きなんだから、思う存分泣かせてやれよ。な?」
ルシアくんが言ってる傍から、エイミアはエリオットくんの胸にすがりつき、とうとう泣きじゃくり始めてしまった。
「あ、ほら、だから傷口が……駄目ね、これは。まあ、余程のことがない限りは溶けないでしょうし、大丈夫だとは思うけど……」
シリルちゃんは困ったようにそう言って、笑ったのだった。
「……と、ところで、あのレオンとかいう奴はどうなったんだ? 本当に死んだのか?」
ようやく落ち着いたらしいエイミアが、周囲から注がれる生温かい視線に耐えかねたように言った。
「……ええ。死んでるわ。もっとも、もともと『アレ』が生きていたなんて言えるのか、怪しいけれど」
やっぱりシリルちゃんも“魔王の百眼”で彼の正体を感じ取っていたらしい。
「どういうことだ?」
「アレは多分、リオネルを信奉する『魔族』の身体を使って造った、【魔装兵器】のようなものよ。ただ、あれだけの思考能力がある以上、身体の所有者の意識もあったのかもしれないけれど……」
「でも、その『意識』は造られたものだよ。……『本体の雛形』を元に、造られた時から創造者にとって都合の良い記憶や感覚を自分のモノだと誤解させられて、自分自身を『ソレ』……レオン・ハイアーランドという存在だと思い込まされていただけのモノ」
あたしはシリルちゃん言葉を継ぐように、自分が読み取ったものの内容を皆に伝えた。
「なるほどね。命の複製ならぬ、『精神の複製』というわけか。議長もえげつないことをするものだ」
そこへ唐突に割り込んできたのは、ノエルさんの声だった。
「ノエル! 大丈夫だったの?」
「ああ。本当はこっちで戦闘が始まった時点で、すぐにでも駆けつけたかったんだけど……最初のうちは爆風が凄かったからね。迂闊には近づけなかった」
「でも、エリオットさんの胸の傷に関しては、解呪の方法を分析しておきましたよ?」
ノエルさんの後ろから姿を現したのは、レイミさんだった。何故かいつものメイド服の上から研究者のような白衣をまとい、眼鏡をかけている。っていうか、あんな着替え、わざわざ持ってきていたの?
「うふふ。気分ですよう気分。でも、こんな風に研究者用の白衣を着ていると、『お母さん』を思い出しますねえ……」
皆の視線を受けて、相変わらずの胸を強調した決めポーズを取りつつ笑うレイミさん。
「ノエル。あなた、この『呪い』のこと、知ってるの?」
「いや、知らなかったよ。でも、戦闘中に隙を見てレイミに落ちてた『聖槍』を一本、回収してもらったからね。それでどうにか分析できたってわけさ」
「うふふ。拾った瞬間、いきなりルシアさんに向かって光が発射されたのは驚きましたけどねえ」
レイミさんはこともなげに言うけれど、あの戦闘の最中でそんな危険な真似ができたものだと思う。ノエルさんたちはノエルさんたちで、自分ができる最大限のことをしてくれていたんだ。
「だとしても、よくもこんな短時間で……」
感心したような顔でノエルさんを見るシリルちゃん。
「ふふん。少なくとも【魔導装置】がらみのことでは、まだまだ君に負けるつもりはないよ。精進したまえ、我が弟子」
「うふふ! 了解いたしました、お師匠様」
にこやかに笑いあう姉と妹。微笑ましい姿に、思わずあたしの頬も緩んでしまう。そうしている間にも、レイミさんがエリオットくんの傷口の『解呪』をしてくれたらしい。
「助かりました。ありがとうございます」
ノエルさんに神妙に頭を下げるエリオットくん。
「いやいや、僕なんて大したことしてないよ。君の命を救ったのは、紛れもなくシリルだ。見ていてビックリだったよ。それこそ大がかりな医療用【魔導装置】の中にでも放り込まなきゃ助からないだろうと思っていた君を、まさかあんな発想で助けるなんてね」
「まあ、わたしだけの思いつきじゃなかったんだけどね……」
シリルちゃんは、何故かノエルさんから感心の目を向けられて、少しバツの悪そうな顔をしていた。
何はともあれ、皆が無事でよかった。……後は、シャルちゃんだね。
あたしは、シャルちゃんの方へ振り返る。すると、驚くべきことが起きていた。
-白銀世界-
我らの前に広がる氷の世界──否、『喪失の世界』。
その中を真っ直ぐな一本の道が貫いている。色までも失ったかのように純白に凍りついた景色の中、山頂へと続く道にあたる部分だけが、元の色合いを取り戻していた。
「……シャル? 大丈夫?」
道の先をまっすぐに見据え、こちらに背を向けたまま立つシャルに、シリルが気遣わしげに声をかける。
「うん。平気。……この道は、セフィリアの中に残された最後の希望なの。わたしと彼女を繋ぐ糸。か細いけれど、確かな絆。だから、わたしは行く。もう一度、わたしは彼女に胸を張って『わたしはあなたの友達よ』って、伝えたいから」
「……そうね。行きましょう。この先に何が待っているとしても、あなたならきっと、乗り越えられる」
「うん」
「でもね。これだけは忘れないで。確かに、今のセフィリアに対峙できるのは貴女だけかもしれない。でも、あなたは決して一人じゃないわ。わたしたちがいるし、フィリスもいる。そうでしょう?」
「うん!」
シリルに背中を軽く叩かれ、シャルは力強く返事をする。出会ったころに比べ、随分と成長したものだと思う。かつては我の姿を見ては怯え、シリルの陰に隠れていた少女とは、到底思えない。
「うふふ! なんだか感慨深いよねー?」
「む? ああ、そうだな。だが、良く我の考えていることが分かったな?」
「うん。それくらい『顔を見れば』わかるよ」
そう言って、我の隣で微笑むアリシア。他人の心が読めるがゆえに、人の顔から目を逸らし、それがために他人の心を『推し量る』ということができないでいた彼女。彼女もきっと、この旅の中で多くのことを経験し、変わったのだろう。
我は軽く息をつき、ついで後方へと目を向ける。そこには、一人の……否、『一体』の人形が転がっている。
我の【竜族魔法】による攻撃さえも防いでしまう鎧をまとい、同じく強化された我の肉体さえも容易に傷つける『聖槍』を振るっていた騎士。だが、最も恐るべきは、そうした強力な武具の類ではない。
永遠に時間が停止したかのような、絶対の信仰。過去は無く、未来も無く、現在すらもうち捨てた、その心の在り様が恐ろしかった。アリシアとの《転空飛翔》によって多少なりとも同調能力を得ていた我にとって、この騎士はまったくの未知なる化け物だったのだ。
「……奴が単なる『複製体』だと言うのなら、また会いまみえることがあるのだろうな」
つい、そんな言葉を洩らしてしまう。
「うん。酷いよね。本当に酷い。あんなの、可哀そうだよ」
我の言葉に反応して、アリシアが悲しげな声で言う。我はそんな彼女の頭を軽く撫でるようにしながら、哀れな人形から目を背けた。次は必ず、我が引導を渡してやろう。
哀れな複製体などではなく、『本体』として存在しているだろうレオン・ハイアーランドそのものに、己の意志無くして生きることの愚かさを、思い知らせてやる。
それから我らは、慎重に一歩、また一歩と『一線』へと近づき、ついには、それを越えることができた。
「……ふう。大丈夫だったみたいだな」
ルシアが安堵の息をつく。一方、エイミアとエリオットは道の途中で凍りついていた人々の様子を確認している。
「……よかった。どうやら息はあるようだぞ。とはいえ、このまま放置しておいてよいものではないだろうが……」
「そうだね。かなり衰弱しているみたいだし、治療は必要だ。でも、僕の手持ちの道具だけじゃ少し厳しいかな」
「聖堂騎士団が襲撃してきたことを思えば、『アリア・ノルン』で来なくて正解でしたけど、あの船の治療装置が使えないのは痛いですねえ」
誰に言われるでもなく、先ほどまで凍っていた人々の治療を始めるノエルとレイミ。
「仕方がないな。この中ではシャル以外に【生命魔法】が使えるのはわたしだけだ。ここはわたしが残ろう」
「それなら、僕も残りますよ。これだけの人数となれば、力仕事をこなす人間も必要でしょうし……正直、今の僕じゃ戦闘では足手まといになりそうですから」
結局、ノエルとレイミ、それからエリオットとエイミアの四人を残し、我らはシャルの後に続いて山道を進むこととなった。
「……とはいえ、これだけ非常識な光景を見せつけられると、正直不安はあるよな」
凍りついた世界を貫く一本の道を歩きながら、ルシアがぼやく。珍しく弱気な発言だが、無理もない。道を一歩外れれば、依然として白銀の氷の世界が続いている。それがいつ牙をむいて襲い掛かってくるか、わからないのだ。我とて内心の不安は殺しきれない。
周囲に広がる『喪失の世界』は、既にアリシアの“抱擁障壁”で防げるようなレベルではないだろう。
「…………」
その想いは皆同じだったらしい。そのまま、誰も言葉を発することもなく歩き続ける。そして、しばらく進むとようやく目的の場所が見えてきた。
「あれが【水の聖地】クアルベルド? 山頂の湖だって聞いてはいたが、あれはどっちかって言うと滝壺なんじゃ?」
ルシアが疑問の声を上げた。彼が指差した先には、見上げるような高い絶壁から降り注ぐ、膨大な水の流れがある。ただし、それはまるで、時間が止まったかのように凍りつき、滝の形をそのまま残した氷塊と化していた。
茶色い岩肌に沿うようにして立つ、巨大な氷柱。荘厳な空気さえ醸し出すその光景に、我らはしばらく言葉を失う。
「なるほど。だから遠目には変化が無いように見えたわけね」
やがてシリルが、納得したようにつぶやいた。
「どういう意味だ?」
「あなたの言うとおり、【聖地】そのものは山頂の湖よ。この滝は、その湖から流れ落ちてきているのだけど、ほら、遠くから見えれば滝の水はそのまま流れているように見えなくもないでしょ?」
「ああ、なるほどな。確かに、湖そのものが見えないんじゃ、滝の状態で判断するしかないか」
いずれにしても、我らの正面に存在する巨大な滝壺が凍りついている以上、ここはすでに行き止まりだと言えた。
「どうするの? シャルちゃん」
アリシアが不安げにシャルに問いかける。
「……セフィリアはここにいます。『最後の邪悪』は、セフィリア自身が抱え持っているんです。だから、呼びかけてみます。きっと、ここからなら声も届くから……」
そう言うと、シャルは大きく息を吸い込む。
「セフィリア! 聞こえてるんでしょ? 約束どおり、わたしはここに来たわ! あなたの振り撒いた邪悪、ちゃんと集めてきたよ!」
腰のポーチから束ねられた金の髪を取り出し、掲げて見せるシャル。
「セフィリア! 聞こえないの? 返事をして!」
なおも続くシャルの呼びかけ。するとようやく、反応があった。凍りついた滝壺の中央に、幽鬼のようにゆらりと揺れる少女の姿。純白の景色の中に浮かび上がる、金色の髪。だが、その髪には幾筋かの黒い髪が混じり始めている。
「セフィリア……」
「シャル。来ちゃったんだ。……来ないと思ってた。来れるわけがないって思ってた。なのに、来ちゃったんだね」
よく見れば、少女の素足は凍りついた水面に着いていない。わずかに宙に浮いたまま、滑るようにこちらへと進んでくる。
「当たり前でしょう? わたしはセフィリアの友達だもの。それに、あなたがやれって言ったんじゃない。今さら何を言ってるの?」
憤慨したように言うシャル。セフィリアに対する時の彼女は、普段の大人びた雰囲気はなくなり、子供らしさが垣間見えるようだった。セフィリアは、そんなシャルの言葉に悲しげな笑みを浮かべ、それから軽く首を振る。
「それでも……それでも、わたしは、来てほしくなかった。わたしに近づけば、シャルが傷つく。わたしは、そんなの……いや」
「そんなの、関係ないよ」
「え?」
「あなたは、わたしの大切な友だちだよ。わたしがあなたに会いに来た理由は、ただそれだけ。友だちに会いに来て、何が悪いの?」
「……ありがとう、シャル。でも、そんな問題じゃないよ。わたしは……《無法者》だもの。わたしといればシャルは死ぬ。シャルといれば、わたしはシャルを失う」
「そんなことない!」
シャルは大きな声で否定する。だが、己の言葉で己の心を絶望に塗り固めていく少女は、そのまま自身の髪の色に、それを体現していく。刻一刻と、黒に染まりゆく金の髪。
「……だから、コナケレバヨカッタノニ」
金色の輝きを宿す瞳。だが、それはどこまでも虚ろな輝き。
「シャルちゃん! あの子は、セフィリア本人じゃない! あれは『最後の邪悪』だよ!」
アリシアが何かに気付いたように叫んだ。
「ひええ! ちょ、ちょっと! いつの間にか逃げ道なくなってんですけど! っていうか、さっきまでこっそり描いてたあたしの【陣】が……ああ!」
その声は、我らの最後尾にいたはずのレイフィアのものだ。驚いて振り向けば、彼女の言うとおり、我らが歩いて来た道は、再び氷の世界に閉ざされていた。無事なのは、我らが立っている滝壺の前の平地ぐらいのものだった。
「……わたしたちをここまで通しておいて、わたしたちをここから帰さないつもり? それじゃあ、まるで……」
シリルの言葉は、最後まで続かなくともその先はわかる。
それではまるで……『傍にいて欲しい』と願っているかのようだ。
「……セフィリアは寂しいのかな。本当は誰よりも人の温もりが欲しいのに、彼女の『あり方』がそれを許さない。だから彼女は、他の誰かからそれを奪う。でも、それじゃ本当の意味では満たされないことも、彼女は知ってる……」
アリシアは小さくつぶやく。
自己矛盾。かつての我には理解できなかっただろうが、今ならわかる気がする。実際、セフィリアの力なら、いつでも我らを殺せたはずだ。だが、行く先々の【聖地】に置かれた『邪悪』は、すべてがぎりぎり我らに対処できるレベルのものだった。
なぜならそれは、我らを……否、シャルを試すためのものだったからだ。有無を言わさず拒絶するでもなく、抵抗を許さず侵食するでもなく、是非を問わずに暴走するでもない。
ならば、今回のこれも同じだ。一見して為すすべのない敵に見えて、どこかに彼女の迷いがある。乗り越えられない壁などではない。
我は頭上に浮かぶ巨大な氷塊──『アリア・ノルン』の十倍はあろうかという馬鹿げた大きさのそれを見上げながら、自らにそう言い聞かせていた。