第175話 フリージング・ワールド/情けは己のためならず
-フリージング・ワールド-
とはいえ、レイフィアさんの目論見も成功とはいきませんでした。確かにヴァリスさんなら離れた場所からでも二人の会話を聞き取れるのかもしれませんが、その内容を他でもないヴァリスさんから聞き出そうという時点で、計画は破綻しています。
「だからあ! そうじゃなくって。あたしはあの二人がイチャイチャしてないかどうかを知りたいんだってば」
「そうは言うが……先ほどから別に特別な会話などしていないようだぞ?」
「じゃあ、雰囲気は? どんな感じで話してる?」
「どんな感じ? ……ま、まあ、普通ではないか? いささかぎこちないような気もするが、特におかしなところは……」
「うあああ! 駄目だこりゃ!」
赤毛の頭を抱え、がしがしと引っ掻き回すレイフィアさん。
「うーん、遠目に見る限りじゃ、大してくっついてもいないしねえ。がばっと抱き寄せて、ぶちゅっとキスのひとつでも見せてくれないかなあ……」
かと思えば、いきなりこんなとんでもないことを言い出すのだから、油断できません。
「な、何を言ってるんですか! いくらなんでもこんな往来の真ん中で、そんなことあるわけないでしょう?」
「おやあ? シャルってば初心だねえ。だって二人は恋人同士なんだよ? あんなこととかこんなこととか、オトナな関係ならとっくに始まってるかも知んないんだよ? 道の真ん中でキスくらい、大したことないって」
「大したことあります!」
「ほら、シャル。そんなに大きな声を出したら、ばれちゃうってば」
「うう……」
いったい誰のせいだと思って……わたしが恨めしげにレイフィアさんを睨みつけた、ちょうどその時のことでした。ヴァリスさんが何かに気付いたように言いました。
「む?」
「どうしたんですか?」
「うむ。どうやら冒険者らしき連中が来たようだぞ。早速二人が接触を始めたらしい」
「えー、もう? なんかつまんない!」
レイフィアさんはその知らせに、むくれたような顔になりました。
「……お前も大概、自由すぎるな」
呆れたようなヴァリスさんの言葉には、わたしもただただ頷くばかりです。
「んで? どんな話になってる感じ?」
しかも変わり身が早すぎです。
「……まあ、いい。あの冒険者たちは何かに怯えているようだ。断片的な情報しか得られていないな。……やはり最終的には、我らの目で確かめるしかあるまい」
ルシアとシリルお姉ちゃんは、さらに二言三言その冒険者の人たちと話した後、諦めたように歩き出しました。
「あ! こっちにくる」
そんな呑気な言葉をレイフィアさんが口にしたのも束の間のこと。シリルお姉ちゃんがものすごい形相でこちらに向かって走ってきたのです。あれ? もしかして……。
「レイフィア~! あなたねえ!」
わたしは今も『聖天光鎖の額冠』の隠蔽機能を発動させています。だというのに、シリルお姉ちゃんは顔を真っ赤にしながら正確にレイフィアさんに詰め寄り、その襟首を掴んで首を絞めるように持ち上げました。
「わわ! ぐぎゅうう! ぐ、ぐるじ……!」
手足をばたつかせ、苦しげにもがくレイフィアさん。
「さっきから何を恥ずかしいこと言ってくれてるのよ! シャルにまで変なこと吹き込んで! 死ね! 死んじゃえ! 二度とそのお喋りな口を利けなくしてやるんだから!」
「うきゅう……」
あ、レイフィアさんが白目を剥き始めました。いざという時のシリルお姉ちゃんの腕力は、なかなかのものがあるようです。
「いや、流石に助けた方がいいのではないか?」
「……」
わたしはヴァリスさんのつぶやきを、聞こえないふりでやり過ごします。
「……」
ヴァリスさんも何かを悟ったのか、それ以上、何も言うつもりはないようでした。
「……がはっ! ケホケホ! うう、あんたたち……なんでそんなに平然と人のことを見捨られんのよ……」
かろうじて息の根が止まる前にシリルお姉ちゃんの手から逃れたレイフィアさんは、苦しげに喉を押さえてこちらを睨みつけてきました。けれど、わたしはまたしてもここで、彼女の視線に気づかないふりをします。
「ぐ、あんた……最近性格が悪くなってきてない?」
「……もしかして、シリルお姉ちゃん。こっちの声が?」
「……ええ。シャルの【魔法具】の気配がしたから、こっそり『絆の指輪』を繋げてみたのよ」
わたしが話を逸らすように問いかけた言葉に、肩で息をしながら返事を返すシリルお姉ちゃん。まさかこの距離で【魔法具】の気配を察知されるとは思いませんでした。そういう意味でも、シリルお姉ちゃんの“魔王の百眼”の能力自体、強化されてきているのかもしれません。
「おい、どうしたんだ? いきなり走りはじめたりして?」
ようやく追いついて来たルシアが、何もわかっていなさそうな顔で声をかけてきます。
「あ! ルシア。聞いてよ。酷いんだよ。シリルってば……」
「レイフィア!」
「うひっ! じょ、冗談よ。冗談。このくらいで【魔法陣】とか構築すんの、まじやめてくんない? 本気で怖いんですけど……」
懲りずにそんなことを言ってくるレイフィアさんには、事情を知らないルシアを除く全員が、がっくりと肩を落としてしまうのでした。
──その後、わたしたちは宿に戻り、さっそくルシアとシリルお姉ちゃんが収集した情報を確認することにしました。
「──氷の世界?」
疑わしげに問い返す声は、エイミア様のものです。
「ええ。……彼らが向かった水源地帯。【水の聖地】『クアルベルド』にあるものは全て、一つの例外もなく凍りついている──そういう話だったわ」
シリルお姉ちゃんがためらいがちな口調で言えば、
「実際、ギルドまで戻ってきた連中は三人だったんだが、もともとは五人パーティだったらしい。そのうち二人は『とある一線』を越えたところで、一瞬で凍りついたんだとさ」
ルシアもまた、自分で言いながら意味が分からないと言った顔をしています。
「……いくらなんでも信じがたい話だな」
そう唸ったきり、黙り込むエイミア様。
その後、その場を静寂が包み込みました。黙ったまま、誰一人として一言も口を利こうとしません。ですがそれは、皆がわたしに気を使ってくれているせいでしょう。
「……やっぱり、『セフィリアの邪心』の力かな?」
だから、わたしがそう言い出す必要がありました。
「シャルちゃん……」
アリシアお姉ちゃんが気遣わしげに声をかけてきてくれました。でも、わたしは首を振ります。
「ううん。いいんです。わかってたことだから。でも、それならなおのこと。わたしがそこに行って、彼女の心と対峙しなくちゃいけない。そう思います」
「いずれにしても、こうして事前の情報が得られただけでも良かったね。一歩間違えれば、『アリア・ノルン』ごと凍らされるところだったんだから」
ノエルさんの言うとおりでした。もし、冒険者たちの言う『氷の世界』の話が本当なら、『クアルベルド』への接近は慎重に行う必要がありそうです。
「でも、その『とある一線』って言うのは何なんだい? それがわからなければ、近づきようもないんじゃないか?」
「まあ、見分けるのは簡単な話だよ。物が凍っているかいないか。それでわかるらしい」
エリオットさんの疑問に答えるルシアは、口では簡単だと言いながらも、何か複雑な顔をしています。そう言えば、彼の元いた世界は、まさに『氷の世界』ではなかったのでしょうか?
「……自分で言ってて信じられないけどな。俺が前にいた世界だって、確かに氷で覆われてはいたけど、生き物が一瞬で凍りつくような寒さじゃなかった。というかそれはもう、『寒さ』なんて域を超えてるだろ?」
「……うん。わたしの【魔法】でも《永久氷晶》ならできるかもしれないけど、それをそんなに広範囲で維持するなんて……」
でも、あのセフィリアであれば、あり得ない話ではありません。彼女の抱く『最後の邪悪』。それは今までに増して、厳しい障害になりそうでした。
「ならば、明日にもここを出発するか?」
「いえ、すぐにでも出発しましょう。今でこそ街の生活用水は井戸水で補っているようだけど、それも水量が少なくなってきているみたいだしね」
「そうだね。今回の冒険者が二人やられて……その前の街の人間の偵察隊も返ってこなかったんだ。その『一線』とやらの明確な線引きは、実際には曖昧なのかもしれないよ。船を使うのは危険だし、徒歩で前方の状況を確かめながら進むべきだろう」
ノエルさんの言葉に頷きを返したわたしたちは、早速出発の準備を始めたのでした。
清流の都レムリアに流れるレムール川。
わたしたちが街を出て、その川の上流を目指すべく歩く川縁の堤防の上──地ならしがされたその道は、もともとは街から【聖地】へ巡礼に行く旅人達のために整備されたものだそうです。
ですが現在は、この異常事態のためか、人通りもまばらでした。普段なら午後の日射しを浴びて川面が美しく輝く景色が見られるはずですが、カラカラに干上がった川は見るも無残な姿をさらしています。
「……なあ、ちょっと心配なことがあるんだが、いいか?」
道すがら、ルシアが突然、そんなことを言い出しました。
「なに?」
「この川から水が無くなったのってさ。干上がったんじゃなくて、上流の水が全部凍り付いているからなんだろ?」
「ええ、そうでしょうね、それがどうかした?」
言わずもがなの疑問を言うルシアに、首をかしげるシリルお姉ちゃん。ちなみに二人は、列をなした皆の先頭で仲良く並んで歩いています。
「いや、上流がどんな形で凍ってるのかにもよるだろうけどさ。今回の件を解決して、凍っていた水が一瞬で溶けるようなことがあったら……まずくないか?」
「え?」
虚を突かれたように、目を丸くするシリルお姉ちゃん。
「……確かに。考えてもみなかったが、氷の溶け方次第では、まずいかもしれないな。わたしも祖国の復興の際には河岸工事の指揮に携わった経験もあるが……一斉に押し寄せてくれば、この程度の堤防では耐えきれないかもしれないぞ」
エイミア様は、腕組みをして唸るように言いました。またしても難題がまた一つ、増えたようです。するとそこに、ノエルさんがもったいぶった口調で割り込んできます。
「まったく、仕方ないなあ。僕としては縁もゆかりもない街が濁流に飲み込まれようと知ったことじゃないんだけど……みんなのお人好しぶりには敵わないからね。その辺は僕が対策を考えてあげるよ」
「うふふ。ノエルさんってば、相変わらず心にもないことを言いますねえ」
「こらこら、僕を素直じゃない奴みたいに言うのは止めなさい」
「えー? だって本当のことじゃありませんか」
「く、たちが悪いね君も……」
ノエルさんとレイミさん。二人の会話を聞いていると、形式的には主従のはずの二人が、まるで仲の良い姉妹のように思えてしまいます。記憶や感覚を共有する関係というのは、他人には測りきれない絆があるのかもしれません。
「まあ、とにかく。水の流れを制御する方法くらい、目的地にたどり着くまでには十種類くらい考えつくと思うから、心配しないでくれていいよ」
こともなげに、そんなことを言うノエルさん。頼もしいとは思いますが、十種類という言葉をわざわざ口にするところに、彼女の性格が表れているようでした。
-情けは己のためならず-
わらわたちが目的地にたどり着いたのは、夕刻のことだ。──そう、そこは明らかに『目的地』だとわかる場所だった。山脈の中に分け入り、山道を登ることしばらく。目の前の景色が突如として純白に染まったのだから、間違えようがない。
「……確かに、『一線』が引かれているみたいだな」
ルシアが唖然とした顔で言う。その視線の先には、凍りついたまま立ち尽くす数人の人影。街で編成された先遣隊のほか、彼らを助けようと近づいてしまった後発部隊。そして、さらに不用意に近づいてしまった二人の冒険者。
「……まずいわね」
さすがに言葉もない皆の中で唯一、シリルがそんな言葉を口にした。
〈なにがだ?〉
他の皆が圧倒されて言葉を失っているようなので、わらわが代わりに問いかける。
「彼らの立ち位置よ。一線を越えて一瞬で凍りついたはずなのに……境界線ギリギリの場所にいるわけでもない。ということはつまり、『氷の世界』はその範囲を少しずつ広げているんじゃないかしら」
言われて、凍りついた人間たちを改めて見る。確かに、先にこの場に来たと思われる者ほど奥にいる。
「……セ、セフィリア。どうして? どうしてこんな、酷いことを……」
目の前の惨状に声を震わせるシャルの声。シリルは痛ましげな顔をして、そんな彼女の肩に手を置く。
「シャル……。大丈夫よ。この人たちも、助けてあげられる可能性はあるわ。セフィリアだって、意図的に彼らをこんな目に合わせたわけじゃないでしょうし……」
「違う」
「え?」
シリルの慰めの言葉に、シャルは激しく首を振る。
「……わたしにはわかる。あの子は、わざとやってる。新しい犠牲者が出るたびに、少しずつ領域を広げてる」
「そんな……考え過ぎよ」
「ううん。わかるの。……だってこれは、『相手を思いやる心が、自分自身を傷つける』──そういうことだもの」
凍りついた人間を助けようとして、彼らに近づく。その想いこそが、自身を凍りつかせてしまう。そういうことなのか?
「……あの時、あの子が言ってた言葉。そのままだから……」
世界を暗黒に染めあげ、儚く笑った破滅の少女。ならばこれは、彼女の想う世界そのものの姿だと言うのだろうか?
そんなことを考えていると、シリルは突然、妙なことを言い出した。
「レイフィア。悪いけど、あの凍りついた木に向けて火属性の【魔法】を使ってみて」
「え? いいの? じゃあ、遠慮なく」
と言いつつレイフィアは、火属性の上級魔法を構築し始める。いや、なぜ彼女はそこで、迷いなく『上級』を選択できるのだろうか?
「おいおい、あれじゃ山火事になっちまうんじゃないのか?」
「大丈夫よ。……わたしの分析が正しければ、そんな結果にはなりようもないわ」
心配げなルシアに、落ち着いた声音で言葉を返すシリル。
「よーっし! 行くよ!」
《蹂躙の赤熱波》!
レイフィアの構築した赤と白の【魔法陣】。その中心から伸びるように真っ赤な炎の大蛇が出現する。そしてそれは、周囲の空気を焦がすように燃え盛りつつ、シリルが指示した一本の樹木に迫る。
だが、それも『一線』を越えるまでだった。一線を越えた瞬間、何の前触れもなく唐突に、音すら立てずに消滅する炎の大蛇。
「あれ? うそ?」
「……やっぱりね」
シリルは言いながら、足元から拾い上げた石を力いっぱい『一線』の向こう側めがけて投げつける。だが、それは一線を越えた瞬間に動きを止め、力無く地に落ちる。
「なんだ、あれは? まるで我が武芸大会で戦ったグレゴリオの【魔鍵】の力のような……」
ヴァリスが言う【魔鍵】の神性は、以前、話だけは聞かされたことがあった“静死領域”のことだろう。領域内のすべての『動き』を禁じるという、いかにもゼスト神族らしい神性だったはずだ。
「……この現象は、あれをもっと極端にしたものよ」
「なに?」
「……これ以上なく単純にして明快な力ね。熱も動きも、【魔力】でさえも、存在するもの『すべてのすべて』を“喪失”させる『世界』。それが今回、セフィリアが用意した『最後の邪悪』なんだわ」
最初の邪悪は“拒絶”の『邪神』。
第二の邪悪は“侵食”の『黒竜』。
第三の邪悪は“暴走”の『死神』。
そして……最後の邪悪は“喪失”の『世界』というわけか。
「無茶苦茶だな。前みたいにどっかにある本体を見つければ何とかなるとか、そういう話なのか?」
「……無理よ」
ルシアが呆れたように言った言葉に、シリルは力無く首を振る。
「仮に本体があるとしても、この『氷の世界』の中心にあるはずよ。問題は、そこまでどうやって辿り着くかだけど、正直、有効な手段は思いつかないわ」
「……悩んでいても仕方ないだろ。今この場で、やれることは何でもやってみようぜ。俺の世界にいた研究者の連中だって、そういう試行錯誤を繰り返して、新しい理論を発見したんだからな」
ルシアの言葉はどこまでも前向きだ。
「……そうね。あなたの言うとおりだわ」
シリルは、そんなルシアのことを感心の眼差しで見つめながら頷いた。
それからしばらくの間、全員が思い思いの方法で『氷の世界』とこちら側を隔てる『一線』に対し、【魔法】を使ったり、【魔鍵】の力を行使したりといった『実験』を試みた。
しかし、シリルやレイフィアが放つ禁術級の【魔法】でさえ、その領域内では一瞬のうちに消滅してしまう。【魔鍵】による擬似的な【事象魔法】も同様で、エリオットの『轟音衝撃波』もエイミアの光の矢も、すべてがすべて、虚しく消える。
「我の【竜族魔法】ですら、まるで効かないとはな。……他に試していないのは、《竜血支配》ぐらいのものだが……」
すでにヴァリスはアリシアとの『真名』の呼びかけを済ませ、黄金の輝きを纏っていた。
「いえ、それは消耗が激しすぎるわ。そもそも、やっぱり力業では難しそうだしね」
シリルは難しい顔で『氷の世界』を眺めたまま、ヴァリスの言葉に首を振る。
「……なんか引っかかるんだよな」
言いながら、ルシアは足元の石を拾い上げ、それを『氷の世界』目がけて投げつける。すると石は、『一線』を越えたところで動きを止め、力無く地に落ちた。
「何が気になるの?」
問いかけの声は、先ほどから【精霊魔法】による実験を繰り返していたシャルのものだ。
「グレゴリオの“静死領域”を見たときにも思ったんだけどさ。……どうして『落下の動き』は、止められないんだろうな?」
「え?」
「俺は研究者じゃないから詳しいことは知らないけど……、それでも一般教養のレベルでわかることはある。『氷の世界』が熱を失った世界で、そこに侵入するものからあらゆる『何か』を喪失させるモノなら、その『何か』って奴はなんなんだろうな?」
問いかけの形ではあるが、どうやら今のルシアの言葉は、自分の考えを整理するためのものらしい。なおも独り言のように言葉を続けている。
「俺は最初、それが俺の世界で言う『エネルギー』って奴なんじゃないかと思った。でも、だとするなら、物が落下するのはおかしい。そもそも、重力自体が無くなっていないことがおかしいんだ。だから、俺たちの前にあるモノは、無機質で感情のない法則性に基づく『世界』なんかじゃない」
他の皆もルシアの様子に気付いたのか、実験の手を休めてこちらに視線を向けてきている。
「……さっきシャルが言った通りだよ。セフィリアは『わざとやってる』んだ。ここには彼女の意志がある。熱を奪っているのは彼女だ。そして……物が落下する動きの元、つまり重力を『奪っていない』のも、彼女なんだ」
わかるような、わからないようなルシアの言葉。しかし、それに敏感に反応した者がいる。
「わかった!」
シャルだった。彼女は何かを噛み締めるように、何度も頷きを繰り返している。
「セフィリアは、熱を奪ったんじゃありません。彼女が奪ったものは……『温もり』なんです。そして、誰かが誰かを助けようとする思い。絆。そこにある人の意志。彼女が“喪失”させているものは、そういうものなんです」
「……つまり、人の意志の込められた『現象』を“喪失”させている?」
「投げられた石の動きには、それを目的の場所に到達させようとする意志がある。でも、落ちる石の動きには、それがない。そういうことか」
シャルの言葉に、シリルとルシアの二人が納得したように頷いた。確かに、それならこの現象にも説明がつくのかもしれない。ヴァリスの言うグレゴリオの“静死領域”も、使用者が認識する『動き』だけを止める性質があった。逆に言えば物の落下は、使用者があまりに『自然』だと思うことであるがゆえに、止まらなかったのだ。
「……やっぱりこれは、セフィリアがわたしのために用意した『邪心』なんです。彼女の心を理解できないなら……この先に進むことはできない。そういうものなんだと思います」
「理解……。じゃあ、シャルちゃん。あたしにも協力させて。あたしの“同調”能力なら、きっと役に立てると思う」
「いいえ、アリシアさん。これは、わたしが一人でやらなくちゃいけないことなんです。……きっと彼女もそれを望んでいるから」
シャルは言葉に強い意志を込め、静かに首を振る。
「そっか……。うん。わかった。でも、無理はしちゃ駄目だよ。いくらあの子があなたの友達だと言っても、心を閉ざしてしまっている以上、簡単にはいかないと思う。だから、焦らず、ゆっくりね?」
「は、はい。ありがとうございます!」
アリシアに頭を撫でられながら、シャルははにかんだように笑う。
「でも、他に危険が無いとも限らないわ。周囲の警戒は万全を期しましょう」
シリルが冷静な声で言えば、
「ま、とにかくバックアップなら俺たちに任せて、お前はお前のやるべきことに集中しろよ」
ルシアは気楽な様子で、ぽんぽんとシャルの金色の頭を叩いて笑う。シャルはそんな手を不満そうに振り払いながらも、力強く頷いた。
「うん。頑張る」
あたりはすでに夕闇に包まれている。長い夜の始まりだった。