第170話 怒ると怖い、彼の神様/喜劇終幕
-怒ると怖い、彼の神様-
あたしは走っていた。
あたしの障壁をすり抜けて、『魔神』が城へと落ちていくのが見えたから。心配になってヴァリスに『風糸の指輪』で呼びかけてもみたけれど、反応も返ってこない。もうこれ以上、一人で隠れて待っているなんてできなかった。
「どうしよう、あたしのせいだ!」
城の中にはシリルちゃんたちがいるはずなのに、よりにもよってそこに『魔神』が侵入するなんて。でも、いったいどうして? あの『魔神』には障壁をすり抜ける力でもあったのだろうか?
〈ううん。あれがわたしたちが護るべきものにとっての『脅威』である以上、すり抜けることなんて、できないはずだよ〉
あたしの横を併走するレミルの声。
城への侵入を阻む空間の歪みは、ノエルさんたちが無効化してくれたらしく、あたしたちは簡単に城内に入ることができた。
《転空飛翔》を使った直後のこの状態なら、中にいる敵から身を護るくらいの障壁は展開できると見越しての行動だったけれど、城内には敵らしい姿も見えない。
あたしは正門から真っ直ぐ進んだところにある大階段を駆け上がり、一気にその先にあった大きな扉を開く。そして、広間に飛び込んだあたしが目にしたものは……
「え? ファラちゃん?」
広間では、ヴァリスと『魔神クロックメイズ』が激闘を繰り広げている。激しく周囲の器物を破壊しながらの戦いを見て、レミルがとっさにあたしの周囲に障壁を展開してくれたけれど、それでもあたしが放った第一声は、ファラちゃんの名前だった。
彼女は、シャルちゃんの傍に立っている。その手には【魔鍵】『切り拓く絆の魔剣』があった。完全に実体化を果たした彼女は、その黒髪をざわざわと揺らめかせていて、彼女の『怒り』を見た目にはっきりと示している。
「こ、こわっ!」
思わず間の抜けた声を出すあたし。声もつい、大きくなっていたらしい。その場にいたノエルさんとレイミさん、それからシャルちゃんの三人が一斉にこちらを見た。
「アリシアさん? どうしてここに?」
「駄目じゃないか。こんなところに来たら」
「まあまあ、アリシアさんも皆さんが心配だったんですよね?」
「あはは……」
三者三様の言葉に笑いを返しながら、あたしは残る二人にも目を向けた。
「こわ? その表現、面白い面白い」
最初に目があったのは、シリルちゃんだ。彼女は楽しげに笑っている。でも、違う。……彼女は、シリルちゃんじゃない。あたしには、それがすぐにわかった。
「だ、誰なの?」
「うん。私はシェリエル」
言葉少なに返事を返してくる彼女。彼女は笑いながら、指でルシアくんの方を指し示す。面白いことが始まるから見るように。どうやらそう言いたいらしい。
「ふむ。旧式にしてはやるではないか。【魔鍵】が近くにあるとはいえ、あの状態からそこまでの具現化を果たすとはな」
別人のような声で、ルシアくんの姿をした人が言う。その赤い瞳は、剣をだらりと片手にぶら下げて立つファラちゃんに向けられている。いったい、この状況、なんなの? さすがにあたしも頭が混乱しそうだった。
「ああ? 貴様ごときが、わらわに向かって上から目線で何を言っておるのだ?」
彼女の口から放たれたとは思えないほど、ドスの利いた声。続いて彼女は、片手で目の辺りを覆うようにして身体を震わせ、笑い始める。
「くっくっく! あっはっは! わらわを旧式呼ばわりした挙句、扉の奥に引っ込んでいろだと? 面白い! ここまでわらわを虚仮にしてくれた奴は、貴様が初めてだ!」
手に提げていた剣を持ち上げ、その切っ先をルシアくん(?)に突きつけるファラちゃん。彼女の心の中には、プライドを傷つけられたことに対する激しい怒りが渦巻いているようで、ものすごく怖い。
「まずは、その身体から出て行ってもらおう! わらわの相棒の身体を器にするなど、身の程知らずと思い知れ!」
「くだらぬ。吠えるな。旧式の神が我に敵うものか」
言いながら、彼は片手をファラちゃんに突きだすようにかざして見せる。その手の中に、光の粒子が集束していく。
「塵となって消えよ」
目を焼くほどの眩い閃光がファラちゃんに放たれる。しかし、ファラちゃんは手にした『魔剣』を一振りするだけで、それをかき消してしまう。
「ふむ。やるではないか。では、これならどうだ? 《我が狂える世界》」
その言葉と同時、ぐにゃりと世界が歪む。滅茶苦茶な視界に、吐き気がするほどの気持ち悪さを覚え、あたしたちは脱力したように床に膝をつけてしまう。
「この歪んだ空間は、我のものだ。この中においては、汝らの行動は全て、我によって阻害される。試しに、その中の誰か一人の心臓を止めて見せよう」
歪む視界の中、彼の紅い目があたしを捉えたのを感じた。
「うあ!」
途端に、息苦しさを感じる。胸が痛い。だんだんと、あたしの意識が遠のいていく。
「ふん。くだらん。《斬神幻想》」
遠くに聞こえる、ファラちゃんの声。けれどとうとう、あたしの意識は暗転する。
「……あ、あれ?」
けれど、その直後。あたしは、唐突に目が覚めた。でも、何が起きたのかわからない。周囲の景色は歪んでなんかいないし、あたしの心臓は問題なく動いている。
「ば、馬鹿な! 我が世界を書き換えただと?」
「わらわは『理想』の女神。貴様ごとき半端者に負ける道理はないわ! ……ほれ! 起きろ、ルシア!」
ファラちゃんがルシアくんに向かって叫ぶ。すると……。
「……うう! な、何なのだ、この男は……制御でき、ない……。ば、馬鹿な!」
『彼』は叫ぶ。もがき苦しむように頭を抱えたかと思うと、その身体の輪郭がぼんやりとぼやけていく。二重に重なる人の影。
──気付けば、彼のほかにもう一人、王冠を被った男の人の姿が出現していた。銀の髪に紅い瞳。整ってはいるけれど、覇気のない、精気の抜けたような顔は、苦痛に大きく歪んでいる。
「ふん。貴様ごときにルシアを支配できるものか!」
ファラちゃんは乱暴にルシアくんの頬を叩く。ああ、あんなにひっぱたいたら赤くなっちゃうんじゃ……。
「って! いててて! 痛い! 痛いって! ファラ!」
「まったく、寝ぼけておるからだ。それよりほれ! お前の『魔剣』だ。受け取れ」
呆れたように言いながらも、ファラちゃんの心には安堵の気配がある。どうやらルシアくんも正気に戻ったみたいだ。
「あれ? どうしたんだ、これ」
ルシアくんは、手渡された剣を不思議そうに見つめている。
「決まってるだろ。僕らが取り返してきたんだよ。ね? シャル」
「はい!」
ノエルさんの声に、元気よく返事するシャルちゃん。あの二人、いつの間にあんなに仲良くなったんだろう?
「馬鹿な……馬鹿な……。他者が引き起こした事象を上書きする? そ、そんなことが旧式の神などに……」
王冠を被った人──ラディス・クヴェドと言うらしい──は、よろよろと後退しながらうめく。
「サンキュー。みんな。助かったぜ。じゃあ、ここからが反撃開始だな?」
「もちろんだ。ルシア。いいな? もう同じ手は食わん。奴の『歪み』の魔法はわらわが封じるゆえ、お前は奴を塵になるまで徹底的に切り刻んでやるのだ!」
「お、おう……。ってか、怖いな、お前……」
ファラちゃんの迫力に、たじたじのルシアくん。
「ふふふ。面白い面白い。どうしてあの神様、穢れてないのかな?」
相変わらずシェリエルと名乗った彼女は、良く分からない言葉を口にしている。あたしの眼でも、彼女のことはよくわからない。まるで、心がここに無いかのようだ。たまにシリルちゃんがこんな状態になったことがあったけれど、今回のこれも同じなのだろうか?
「詮索は後。今は見物見物」
彼女は、あたしの心を“同調”して読んだかのように言った。よくわからないけれど、少なくとも敵ではないのかもしれない。
「さて、それじゃあ現人神様。人の身体で好き勝手してくれた報いは、きっちり受けてもらうぜ?」
「……異形の者とはいえ、下賤な人間風情を器にしようとしたのが誤りか。だが、我は旧式の神とは違う。己の過ちは過ちとして認めよう。変革の世のために、汝らを今ここで、一人残らず滅ぼしてくれる」
生気のない顔の王様は、その目だけを紅く爛々と輝かせ、いつの間にか手にしていた巨大な斧を振りかざす。
「やっとまともに戦う気になったか。搦め手ばっかでうんざりだったぜ!」
ルシアくんは一声叫ぶと、異様な大きさの斧を掲げたラディスに対し、ひるむことなく突進していく。
《我が斧は世界を断つ》
間合いの外で横薙ぎに振るわれる巨大な戦斧。その刃先に沿うように、視界が歪み、空間そのものが悲鳴を上げるかのように耳障りな音が響く。
「は! これならフェイルの【傷跡】の方が厄介だったぜ!」
ルシアくんは横薙ぎの歪みに対し、垂直方向からの剣閃を振り下ろす。ただそれだけで、歪んだ世界は理想の形を取り戻す。
そのまま一気に接近し、ラディスの身体に斬撃を叩き込むルシアくん。
「ぐ……!」
けれど、ばっさりと袈裟懸けに身体を斬られながら、ラディスは驚くほどの敏捷性で後方へと飛びさがる。
「ルシア。奴は『邪霊』のような精神体に近い存在だ。そう思って斬れ」
「りょーかい」
二人のやりとりは、まるで長年連れ添った相棒のように軽やかだ。けれど、これでファラちゃんの腹の虫がおさまったかと言えば、また別の話だったようで……。
「いや、やっぱり待て。このままでは、わらわの気がどうしても収まらん」
「え?」
思いがけない言葉に固まるルシアくん。ファラちゃんはそんなルシアくんを無視して、ずんずんとラディスに向かって歩み寄っていく。
「くくく! ならば、一足先に貴様らには、新たな世界を教えてやろう! さあ思い知れ! 我が究極の【変革魔法】──《できそこないの世界》!」
ラディスは声高く笑う。手にした斧をまるで紙屑のようにぐちゃぐちゃに丸めた彼は、ごみでも捨てるような気軽さでそれを放り投げた。ラディスの掌を離れたソレは、巨大化しながら無数の色が混じり合う奇妙な塊となって、ファラちゃんを押し潰さんばかりに迫る。
「え? なんなの、あれ?」
「……触れる物すべてを『目的を達成できない存在』に作り替える。そんなところかな?」
独り言のようなあたしの言葉に、なぜか彼女──シェリエルが答えてくれた。
「そ、そんな……ファラちゃん! 避けて!」
あたしは叫ぶ。けれど、ファラちゃんは動じない。
「最初から出来損ないの世界だと? そんなものが美しいわけがあるか!」
叫びつつ、投げつけられた塊を片手で受け止め、あっさりと握りつぶすファラちゃん。
「そんな馬鹿な! い、今のは、我が力の結晶だぞ? ば、化け物め……!」
今度こそ本当に狼狽えた声を出すラディスは、恐怖に怯えながら後退する。けれど、ファラちゃんは、素早く歩み寄るように間合いを詰めていく。
「な、何をする?」
ラディスの問いかけを無視するように、その襟首を掴みあげる。そして、彼女はそのまま片手で握り拳を構え、大きく振りかぶってから一気に振り抜いた。
「ぐぎゃああ!」
頬を殴られ、床に殴り飛ばされるラディス。
「ああ、すっきりした!」
満足げに声を張り上げるファラちゃんを、頬を押さえて倒れ込んだままのラディスは、恐ろしい物でも見るような目で見上げている。
「や、野蛮な真似を! “神性”も使わず、同じ『神』である我を素手で殴るなど、信じられぬ!……貴様はそれでも『神』か? こ、この化け物めが!」
「はあ? 何を言っておる。わらわはわらわだ。他の何者でもないわ!」
「ひ、ひいい!」
うん。ルシアくんの相棒の神様は、怒ると怖い。
いつも『ファラちゃん』なんて呼んでからかっていたけど、今度から気をつけようかな? ついあたしは、呑気にそんなことを考えてしまうのだった。
-喜劇終幕-
わけがわからない。我は少し前まで、この街の上空で『魔神クロックメイズ』と一対一の戦いを続けていたはずだ。しかし、身体に纏う【魔力】を強制的に実体化させられ、身動きを制限されながらの苦しい戦いを続けていたところで、突然、奴の身体が何かに絡め捕られ、アリシアの結界さえ無視して城へと落ちていったのだ。
慌てて後を追った我を待っていたのは、身体を乗っ取られたルシアとシリルの二人だった。だが、状況をまともに把握する余裕もないままに、我は引き続き『魔神』との戦闘継続を余儀なくさせられた。
《凱歌竜砲》!
奴の放つ見えない炎を吹き飛ばすように、我は【竜族魔法】を放つ。しかし、破壊の光線は奴の身体に直撃するや否や、岩の塊のように具現化して動きを止めてしまうのだ。
「厄介な相手だ!」
奴が振りかざす指の鞭をかわしながら、我はその懐へと潜り込む。魔法攻撃が通じない以上、肉弾戦で倒すしかない。我はそんな考えから、奴の腹部に全身の力を込めた掌打を叩き込む。確かな手ごたえと共に、広間の奥の壁へと叩きつけられる奴の身体。
「思ったとおり、どうやら身体全体を幽体化できるわけではないようだな」
特に体幹の部分は変化できないらしい。つまり、奴のブレスや指鞭に気をつけてさえいれば、恐れるような相手ではない。とはいえ問題は、肉弾攻撃だけで異常な生命力を有する『魔神』を倒しきれるかどうかだった。
「ならば、倒せるまで叩き込むのみだ!」
我は体力の続く限り、攻撃を続けることを選択した。声を掛け合う余裕すらなかったが、この部屋には我を心配して駆けつけたであろうアリシアもいる。彼女の前で無様は見せられない。我は我の全力で戦うのみだ。
「うおおおお!」
敵の動きは何故か、この城に墜ちてきてから鈍くなっている。何が原因かはともかく、畳み掛けるチャンスだった。我は拳を振るい、蹴りを叩き込み、数十、数百と連撃を放ち続ける。
「ど、どうだ?」
しばらく攻撃を続けた後、動く気配のなくなった『魔神』を見下ろして息をつく。倒せたのかどうかはわからないが、かなりのダメージにはなったはずだ。あともうひと押しと言ったところだろうか?
しかし、その時だった。
「があああ! おのれおのれおのれ! 我が下僕よ! 汝の【ヴァイス】を我に捧げよ!」
我の背後から、屈辱に打ち震える声が聞こえた。と、その直後。我の目の前から『魔神クロックメイズ』の気配が消失していく。これは先ほど、奴が『真霊』を消した時と同じ現象ではないだろうか?
「クハハハハ! そうだ! これこそが我が力! 我こそが世界の神。さあ、ここからだ! 世界はこの我が変革する!」
振り返った部屋の中央。そこには、げらげらと笑いながら、急激に姿を変えていく一人の男がいた。
「ルシア!」
我はその近くにルシアの姿を確認し、急いで駆け寄る。
「おお、ヴァリスか。なんだか、面倒をかけちまったな」
「いや、それより、正気に戻ったのか?」
「ああ、こいつがどうやら敵の親玉のようだぜ」
ルシアが顎で指し示した相手は、背中から翼を生やし、身体から無数の突起物を生やした化け物の姿に変貌していた。恐らく、『魔神クロックメイズ』の姿を模しているのだろう。肉眼で見える今となっては、禍々しさも際立つ姿に思える。
「歪んで砕けよ」
振り下ろされる巨大な拳は、周囲の空間を歪ませながらこちらに迫る。
「ふん!」
我はとっさにルシアの前に進み出て、その一撃を正面から受け止めようとした。
「おい、ヴァリス! 無茶だ!」
後ろからはルシアの声。だが、我も無策に挑んだわけではない。前に出る直前、我は己の身体を傷つけ、両手にたっぷりと“竜の血”を付着させていたのだ。
「《竜血支配》!」
奴が放つ歪みの力を、我は己の【魔力】で強引に支配する。さらには奴の両腕をも支配し、逆にそれを破壊する。
「ぐがあああ!」
腕を砕かれ、よろよろと後退するラディス。
「ルシア、今だ!」
我は大量の血を失い、朦朧とする意識の中、ルシアに呼びかける。
「よし! これで終わりだ!」
《斬神幻想》!
青く輝く燐光がルシアの『魔剣』に収束していく。
「グガ、あがあああ……」
うめくラディスの巨体、その中心に青い剣閃が走る。脳天から股下まで、まっすぐに通った光の筋は、そこを境目としてラディスの身体を分断する。さらに縦と横、さらには斜めに走る無数の剣閃。バラバラというより、粉々に切り刻まれた狂神の身体は、石床の上へとまき散らされる。
「ア、アアア……アガ……」
『パラダイム』の現人神──ラディス・クヴェド。数百年に渡って世界を『歪み』に飲み込もうと試みていた狂える神は、今この瞬間、あっけなくも滅びの時を迎えたのだった。
「どうにか、なったな」
「ああ……」
我はルシアと視線を交わし合う。そこへ、それまで部屋の入り口付近に立っていたアリシアが駆け寄ってきた。
「ヴァリス! 大丈夫!?」
今回は強い思いを重ねたためか、《転空飛翔》の効果もまだ切れていないらしい。アリシアの髪も目も金色のままだ。よかった。どうやら彼女には怪我ひとつないようだ。
「良かった、じゃないでしょう? もう、またこんなに酷い怪我をして……」
我の心境を読んだのか、呆れたように言いながら我の身体を支えてくれようとする。
「ヴァリスさん。今、治療しますね」
遅れてやってきたシャルが【生命魔法】をかけてくれた。
「よかったね。どうにかこれで、一つの大きな懸案事項が解決したわけだ」
と、安堵の表情で言ったのはノエルだ。だが、しかし……
「でも、まだ懸案事項はありますよねえ」
レイミがとある方向を指し示す。そこには、先ほどルシアが斬り刻んだラディスの遺骸の前にしゃがみこみ、興味深そうに弄繰り回しているシリル──否、『シェリエル』の姿がある。
「……えっと、なんだ? シリルの奴、どうしたんだ?」
この場では唯一、状況を把握していないらしいルシアが不思議そうな声を出す。すると、『シェリエル』はゆっくり立ち上がる。
「うん。面白い面白い。【ヴァイス】なんて興味なかったけど、意外と面白かった」
楽しそうに言いながらこちらを振り向く彼女。
「……な!?」
驚愕のあまり、思わず声が出た。──『シェリエル』の掌の上には、奇妙な色の球体がある。
禍々しい力の塊。あれは先ほど、ラディスが放った《できそこないの世界》に良く似ている。まさか、さっきのほんのわずかな時間で、ラディスの力の使い方を習得したと言うのだろうか?
「うん。そうだよ」
『シェリエル』は、我の心を読んだかのように言う彼女。
「お前は何者だ? それに先ほどからこちらの心を読んでいるような言動があるが、まさか、アリシアと同じ“同調”系の【スキル】でもあるのか?」
「ううん。“同調”だけじゃなくて“増幅”も“操作”も“減衰”も、私はみんな得意。苦手なものなんてないし、できないことなんてない」
こともなげに言う『シェリエル』。我には良く分からないが、ノエルにはそれがどういうことだかわかったらしい。
「……『始原の力』すべてに通じているだなんて、それが本当なら、君は正真正銘、信じられないような魔法の天才じゃないか」
「うん。よく言われる」
淡々と口にされた言葉には、特に自慢げな響きなどない。彼女にとっては、それは当然のことなのだろう。
「……で? あんたは結局何なんだよ。シリルをどうしたんだ? 返答次第じゃ、ただじゃおかないぜ」
ここでようやく、アリシアから概ねの事情を聞かされたらしいルシアが、彼女に向かって凄んでみせる。だが彼女は、きょとんとした顔で彼を見ただけだ。
「……答えろよ」
「うん。この身体、乗っ取った。ううん。目が覚めたら、貰ってたって感じ?」
「じゃあ、さっさとシリルに返せよ」
ルシアは声を低くして彼女を睨む。
「やだ」
「なんだと?」
「久しぶりの身体。このまま返したらつまらない」
「つ、つまらないって……それじゃ、シリルはどうなる? 彼女には、お前の楽しみに付き合って身体を奪われる筋合いなんか無いんだ」
「……あなたもこの子が大事?」
「なに? どういう意味だ?」
「いいから答えて。大して大事なものじゃないなら、返す必要なんてないでしょ?」
ルシアは不機嫌そうな顔になったものの、今の状況は人質を取られているようなものだ。相手の言葉に従うしかない。
「……大事だよ。決まってるだろ」
「大事って言うのはあれ? 愛してるってこと?」
『シェリエル』は、間髪入れずに畳み込むように聞いてくる。
「な、何だよ。唐突に」
「私とこの子は『同じ』もの。でも、私は愛なんて知らない。……だから、あなたがこの子を『愛して』いるなら、それはとても……面白い面白い面白い面白い」
「……あ、あのなあ」
「答えてくれたら、この身体。この子に戻してあげる」
そう言われれば、他に返事のしようもないのだろう。ルシアは諦めたように息をつく。周囲の皆が気にはなるようだが、それでも覚悟を決めて口を開いた。
「あ、愛してるよ。俺にとってはかけがえのない、大事な人なんだ。だから、頼む。彼女を俺に……返してくれ」
ルシアがそう言うと、シリルの顔をした別人の少女は、にやりと笑う。一方、我の周囲では、アリシアやシャル、ノエルと言った面々が感嘆の息を漏らしている
「……どう? 嬉しい? 恥ずかしい? あは。いい反応。面白い」
彼女は軽く目を閉じながら、誰かに語りかけるようにくすくすと笑う。
「お、おい! 言ったぞ! 返してくれるんじゃないのか?」
ルシアは顔を紅潮させながら、まくしたてるように言い募る。いくら相手が別人の意識とはいえ、シリルの顔をした相手に愛の告白をさせられたのだ。無理もあるまい。
当の彼女はと言えば、ようやく目の前の相手に気付いたとでも言うように、目を開けてルシアを見た。
「え? ああ、そうだった。じゃあ、『今日のところはこれで満足』。またね」
「ま、またねって、おい!」
ふらりと揺れるシリルの身体。脱力したように倒れそうになる彼女の身体を、ルシアはとっさに助け起こす。
「ったく、なんだってんだ? ……大丈夫か、シリル? しっかりしろ!」
「……う、ううん」
「シリル!」
「シリルちゃん!」
「シリルお姉ちゃん!」
意識を取り戻す気配を見せたシリルに、皆が一斉に駆け寄っていく。
「み、みんな……ご、ごめんなさいね。なんだか、心配かけちゃったみたいで」
シリルはどうにかルシアの腕の中で身体を起こすと、弱々しくこちらを見上げ、笑いかけてくる。どうやら元に戻ったらしい。今度こそようやく、一安心といったところだろう。
「よ、良かった、シリルちゃんが無事で……。あたしの結界を抜けられちゃったせいで、シリルちゃんに何かあったらどうしようかと……」
「ううん。あれはアリシアのせいじゃないわ」
半ば泣きそうな顔で言うアリシアに、シリルは小さく首を振る。
「とにかく、シリルが正気に戻ってくれてよかったよ」
「ノエルにも、随分と心配をかけてしまったわね。でも、あなたまでこんなところに来るなんて、危なくなかったの? それともその身体も人形なの?」
「え? ああ、大丈夫。シャルが護ってくれたからね……って、シャル? ああ、わかってるよ。後でちゃんと話すって。隠し事は良くないもんね」
何やらシャルに袖を引っ張られたノエルは、なだめるように何かを言い聞かせている。
「それより、シリル。もう大丈夫なのか? 身体におかしいところはないか? 辛かったら無理しないで言ってくれよな?」
シリルを助け起こしながら、ルシアは彼女に心配そうな声をかけ続けている。だが、対するシリルの方はと言えば、
「だ、大丈夫よ。心配しないで……」
何故かもじもじと横を向き、彼と目を合わせようとしない。うっすらとではあるが、彼女の頬には朱が差しているようだ。
「ん? なんだか、やっぱり具合が悪そうだぞ?」
「う……、そ、そんなこと、ないわよ……」
自分の顔を覗きこもうとするルシアの顔を避けるように、顔を背けるシリル。ルシアからは見えないだろうが、その顔は既に真っ赤に染まっている。
「あれれ? あれってもしかして……わわ! すごい展開かも……」
「どうした、アリシア?」
隣で嬉しそうな声を出したアリシアは、我の問いを受けて、にんまりと笑う。
「ねえ、ヴァリス」
「なんだ?」
「多分だけど……さっきのシェリエルさんと話していた時も、シリルちゃんは意識を失ってたってわけじゃないみたいだよ」
「なに?」
と、言うことはつまり……