第169話 現人神の御座/遊びの始まり
-現人神の御座-
他の皆は、どうしただろうか。俺はそんなことを考える。ラディス・クヴェドとやらの怪しげな術により、俺とシリルだけがこの謁見の間に連れてこられて以降、まったく連絡が取れていない。空間を歪めているのだか何だか知らないが、『絆の指輪』の風糸機能さえ通じないのだ。
「異世界で生まれし、異形の者よ。汝は、我が『器』に相応しい」
まあ、そんなことを考えていても、目の前のトチ狂った馬鹿な神もどきの台詞が忘れられるわけじゃない。というか、何言ってんだこいつ、としか言いようがない。
「はあ? 何言ってんだ、お前?」
なので、その通りに言ってみた。すると……
〈貴様……どこまで我が主を愚弄するつもりだ〉
耳に心地いい声ながらも、『真霊』が憎々しげにつぶやくのが聞こえた。
「我に恐れを抱かぬか。よい。それでこそだ。いずれにせよ、汝の魂は我のもの。その強き心をもって、我が『器』となるがいい」
言いながら、俺に掌を向けてくるラディス・クヴェド。
「ルシア! 下がって!」
シリルの警告の声。残念ながら今の俺には【魔鍵】がない。多少の攻撃なら『放魔の生骸装甲』でも防げなくはないだろうが、仮にも敵は『パラダイム』の親玉だ。やむなく俺は、シリルの言葉に従って後ろに下がろうとした。
だが、足が動かない。
「汝への仕掛けなら、一度捕虜とした際に終わっている。足がかりは済んだ。後はただ、我をそのままに受け入れよ」
「ぐ、うう……」
「ルシア!?」
目がかすむ。シリルの声が遠く聞こえる。足元がふらつき、立っていられない。腰砕けになりながらその場に座り込み、俺は身体の自由を失う。
「く、くそ……!」
「脆弱な人の身で、『新たなる神』たる我に抵抗することなど叶わぬ。大人しく諦め、大人しく意識を手放せ。抗えば抗うほど、辛くなるばかりであろう」
感情の色は見えないながらも、酷く厳かな声で、俺に語りかけてくるラディス・クヴェド。
「ふざけるんじゃないわよ! そんなこと、させるものですか!」
彼女は先ほどから【魔法陣】の準備をしていたらしい。薄紫の聖衣と銀の髪をはためかせ、周囲に無数の真っ黒な【魔法陣】を展開している。【古代語魔法】によるアレンジ版の闇属性魔法だろうか。
〈肉を喰らい、心を蝕み、魂を咀嚼するモノ〉
〈ロアン・ガラン、サイファス・ヴィネバ、ルーン・ガルラ・ラファ〉
〈我が指先の糸を頼りに、無明の闇より現れ出でよ〉
〈エウラ・ソーク・ノレア・ヴァクサ、フラールズ・ヴァハム・カルデス〉
《神喰らいの漆黒大蛇》!
彼女が前方に伸ばした指先から足元へと垂れる黒い糸。詠唱が終わるや否や、その足元に黒い円陣が出現し、糸によって引き摺りあげられるように漆黒の大蛇が出現する。
【召喚魔法】ではないみたいだが、まるで生き物のようなその大蛇には、目を合わせただけで飲み込まれてしまいそうな、凶悪な威圧感があった。
〈素晴らしい力だ。やはり君こそが、新たな【刻印】に相応しい。『古代魔族』と比してなお、圧倒的な魔法の才。我が主が生み出す新たなる世界において、その力は必ずや福音をもたらす助けとなろう〉
極めて攻撃的な彼女の【魔法】を前にして、『真霊』の声には、まったく動揺した気配がない。
「この【魔法】は、あなたが実体を持っていようといまいと関係なく、その存在ごと喰らって飲み込む。さあ、覚悟しなさい!」
怒りに満ちた声で叫ぶシリル。彼女は、奴が俺のことを『異形の者』と呼んだことを怒ってくれているのだろうか?
「悲しいな。報われぬ想いは虚しく、無力なる者の無駄なる足掻きは、見ていて悲しい。だが……美しくもある。ゆえに我は、誰もが等しく『報われない世界』を創ろう。頑張っても報われない。努力は実を結ばない。誰もが等しくそうであるなら、誰も悲しむ必要はない」
漆黒の大蛇に飲み込まれながら、奴はそんな言葉を口にした。俺はそれを聞いて、思わず全身が総毛立った。鳥肌が立つほどに気持ち悪く、おぞましい思想だ。
とはいえ、奴の姿は呆気なく闇に沈み、消えていく。
「……やった、のか?」
「わからないわ。でも、わたしの“魔王の百眼”でも、何も感知できな……え?」
そこでシリルは、銀の瞳を驚いたように丸くして、言葉を詰まらせる。
「どうした?」
「あ、ああ……う、嘘でしょう?」
「え?」
彼女は、俺を見ている。何だろう? まさか、俺の後ろか? 俺は背後を振り返ってみようとした。だが、俺の身体は動かない。
「ル、ルシア! ルシア!」
シリルが泣きそうな声で俺の名を呼ぶ。なんだ? いったい、何が……。そう思ったところで、俺の意識は闇に閉ざされた。最後に、自分の身体がゆっくりと倒れ込むのを感じながら。
──それから。
「ルシア! ルシア!」
俺を呼ぶ声がする。俺は目を覚まし、どうにか瞼をこじ開けて声の主を見た。
「……シリル、じゃなくてファラか」
「まったく、お主という奴は呑気なものだな」
黒髪の頃のシリルの姿で、呆れたように息をつくファラ。
「でも、この状態ってもしかして、また俺、死にかけてるのか?」
「いや、そうではない」
「なんだ、よかった」
俺は安堵の息をつく。だが、ファラは首を振った。
「良くはないぞ。あれを見てみろ」
「え?」
俺は、ファラが指差した方へと目を向ける。ぼんやりとした白い景色の中、そこには、男が一人、立っている。だが、おかしい。ここは俺の精神世界であり、俺の他には、俺の精神に同居するファラだけがいるはずの場所なのだ。
「なるほど。これが汝の精神世界か。悪くはないが、我はもう少し、歪んだ形の方が好みである」
言いながら、こちらへと歩いてくる男。俺は、その男の顔を見て、ぎょっとした。
「……俺、なのか?」
「どうやらわらわと同じように、姿を借りているだけのようだが……」
ファラにも奴のことは良く分からないらしい。
「ふむ。そちらは……はぐれ者の『神』か? くくく! なるほどな。異形の者には、異形の【オリジン】というわけか。面白い」
俺の姿で奇妙な笑い方をするのは、やめてほしいものだ。
「で? 何の用だ?」
わけの分からない状況に戸惑いつつ、俺は一応、そう尋ねた。
「言ったはずだ。汝の魂、汝の肉体、それを我が器として貰い受ける」
「……そんなことをわらわが許すとでも?」
鋭い視線で奴を睨むファラ。
「許す? 我は世界の新たなる『神』だ。誰に許しを乞う必要もない。……ましてや、世界の変容に耐えきれず、【魔鍵】を残して眠りについた愚者どもに、許されるいわれなどない」
「……ふん」
ファラはそういった他の神々とは一線を画しているはずだが、あえて反論する気はないらしい。それにしてもこいつ、一体何なのだろう?
「……ラディス・クヴェド。お主はかつて、ハイアークとその取り巻きどもに『神』としての【想像世界】を切り離され、地に墜ちたと聞いたが……。よくも今まで、自我を保っていられたものだな」
「当然である。我には愚鈍なる旧式の『神』が有する【想像世界】などいらぬ。居場所なら、自分で生み出せばよい。……ほら、このようにな」
奴が言った、その瞬間だった。世界が歪む。ぐにゃりと曲がる目の前の景色に、俺は吐き気を覚えてしまった。
「ぐ……気持ち悪い」
「ルシア! 気をしっかり持て! おのれ、これ以上はさせん!」
ファラが俺を叱咤しながら、ラディスに向かおうとするのが見えた。
「無駄だよ。旧式。汝は他の神々同様、扉の向こうにでも閉じこもっておればよい」
「な!? ぐ、うああああ!」
ファラの悲鳴が聞こえる。いったい、何がどうなっている? 俺にはわからない。自分の意識が遠のきかけているようでありながら、同時に覚醒し始めているような、奇妙な感覚。
「さあ、汝の意識も我のものだ。我にゆだねよ。世界は汝を我が御座として、新たに生まれ変わる」
「ぐ、ううう、うあああ……」
俺は精神世界においてもまた、意識を手放す羽目になった。
──俺は目を覚ます。
「ルシア! ルシア! しっかりして! 目を開けて!」
シリルの声だ。彼女はよほどに俺のことが心配なのか、半狂乱になって叫び続けている。俺は彼女を安心させようと、どうにか瞼をこじ開けた。
「あ……、ルシア!」
視界に飛び込む彼女の顔。その美しい銀の瞳を見開いて、俺の顔を覗き込んでいる。だが、直後には、彼女は驚愕の表情で俺から顔を離してしまった。
「ルシア? そ、その目……」
「目? 目がどうかしたか? くくく、『俺』の目が赤いことがおかしいか?」
俺の口からは、俺の意志によらない声が発せられる。これはなんだ? だが、シリルは何かに気付いたらしい。俺からさっと飛び離れると、油断なくこちらを見据えて叫ぶ。
「あなたは誰!? ルシアをどうしたの!?」
俺は、ゆらりと立ち上がる。だが、それも俺の意志じゃない。
「くくく、何を驚く銀の魔女。お前の力……“魔王の百眼”だったか? それで見れば、この身体に宿る力の正体ぐらい、わかるのだろう? そして、『俺』が何者であるのかもな」
「……ラディス・クヴェド。『パラダイム』の神」
「そのとおり」
「じゃ、じゃあ、ルシアは? 彼にいったい何をしたの?」
彼女は顔を真っ青にしながら、悲痛な声で問いかける。
「お前の言う『ルシア』なるものは、もういない。魂も既に同化済みだ。だが、安心しろ。お前は『俺』に仕えることになる。ならば、この男の身体とは、ともに在ることはできよう。どうだ? 嬉しいか?」
違う。騙されるな。俺はいる。ここにいるぞ。
……俺は、俺は、あれ? 俺って誰だ?
俺は、いったい……。オ、オレは…………………………。
「う、嘘よ! 騙されないわ! うそ、うそよ、そんなの……嘘よ!」
否定の言葉を叫び続ける彼女。
まったくもって、耳障りだ。往生際が悪いにもほどがある。
『俺』は、呆れて首を振る。
「──嘘ではない。それはお前が何よりわかっていよう。魂を上書きされると言うことは、すなわち『死』と同義だ。お前の知る男はすでに、この世におらぬ。二度と会うことなど叶わぬ。お前の前に在るはただ、神の器となりし人形に過ぎぬ」
『俺』の言葉に、銀の魔女はその心を絶望に染めていく。
「い、いやよ……そ、そんな……そんなこと……い、いやあああ!」
〈ふむ。ほどよく心が弱ったようだな。君には新たな『真算』となってもらうとしよう〉
『真霊』の声。彼は『俺』が与えた能力を駆使して、彼女の心に侵入していく。
「う、うあああ! いや! 入ってこないで!」
必死の抵抗も虚しいものだ。あれだけ心が弱れば、もはや【刻印】が施されるのも時間の問題と言うものだろう。『俺』は、黙ってそれを見つめる。
〈さあ、大人しく、我を受けいれよ。汝は今日から『真算』なり。我が同志として、その【魔法】の才を思う存分振るうがいい〉
「いや! いや! 違う! こんなの、全部嘘よ! ルシア! ルシア! ル、シ……」
『真霊』の術式は、男の名を呼ぶ彼女の心を確実に蝕んでいく。ああ、素晴らしい。すべてが順調だ。あの日、あの時、あの屈辱を経て、ようやく『俺』が座すべき場が整うのだ。
だが、その時だった。それまで激しく身を震わせていた目の前の少女、『銀の魔女』の動きがぴたりと止まる。
「む? もう終わったのか? 案外、早かったではないか」
だが、『俺』のその問いに、『真霊』は答えない。不思議に思っていると、再び少女の身体が小刻みに震えだす。何事かを、ぶつぶつとつぶやいているようだ。『俺』は耳を澄まして、その声を聞いてみた。
「………………面白い面白い面白い面白い面白い面白い面白い」
「な、なんだと?」
「なにこれ。びっくり。どうして私、こんなところに身体があるの? ……まあ、いいや。せっかくだし、少しは遊ばせてもらおうかな?」
深い銀色の瞳には、無邪気な子供のような光が宿っている。つい先程までの彼女とは、まるで別物の瞳。その瞳に『俺』の目が合う。途端、にやりと楽しそうに笑う彼女。
『俺』は現人神である。新たなる神であり、世界の支配者たるものだ。
なのになぜ、『俺』はこの少女のことが……こんなにも恐ろしいのだろうか?
-遊びの始まり-
『私』はゆっくりと周囲を見渡す。どうやら、どこかのお城の中みたいだ。
目の前には、一人の男。なかなか端正な顔立ちの若者だけど、目の色が気に入らない。ああ、そうか。彼の身体を乗っ取っている奴がいるんだ。わたしは笑う。身体を奪う? 馬鹿馬鹿しい。『神』のくせに、自分の身体すら創れないなんて、無能にもほどがある。
でも、その若者本人は、とってもとっても『おいしそう』だ。
そして最後に、わたしは自分の『身体』を確かめる。掌を見つめ、指を動かす。なんだかこの感覚も久しぶりだ。でも、なんだろう? この身体。わたしは自分の身体をあちこちまさぐる。胸なんかも揉んでみたけど、やっぱりそうだ。これは昔の私の身体に良く似てる。
「……リオネルかな? こんなことをやりそうなのは、アレぐらいのものだ」
私がつぶやくと、目の前の男がびくりと身体を震わせた。
「お前は何者だ? 銀の魔女ではないのか? 『真霊』はどうした?」
「質問は一度に一個」
私がそう言うと、目の前の男は鼻白む気配を見せた。
「ところで、『真霊』ってなに?」
「……『真霊』は、お前の魂を書き換えるべく、【刻印】を刻んだはずだ」
「ああ、あれ?」
私はたった今、気付いたかのように言いながら、ある方向を指差した。ついさっき、私は自分の中にいた幽霊みたいな奴を一匹、追い払ったところだった。
〈主よ! この女は、何者なのでしょう! し、信じられない! わ、我が力が、我が【刻印】が、まるで玩具のように……〉
虚空に頼りなく浮かぶ精神体。普通の奴には見えないそれも、『私の眼』には良く見える。ぶるぶると情けなく震える幽霊みたいな男の姿。あれが『真霊』なのだろうか。なんだか、面白い。狼狽える姿が面白くて仕方がない。
「……ふむ。さすがは『セントラル』の最終兵器ともいうべき魔女だ。意識の下に潜む、もうひとつの意識ということか? なるほど、洗脳や精神破壊に対抗するための手段ぐらいは備えていたか」
男の方はそれなりに冷静な口調で言ったけれど、虚勢を張っているのは、ばればれだ。
「つまらないつまらない。あなたが誰かは知らないけれど、的外れな推理は、無能の証明」
私は相手を怒らせるつもりで言ってやる。けれど男は、不思議そうに首を傾げるのみ。
「ふむ。意識が変わる前の記憶はないのか? ならば改めて名乗ろう。我はラディス・クヴェド。この世界の新たなる神だ。お前も『魔族』であるならば、新たなる神に忠義を尽くすがよい」
本当につまらない。勘違いが酷すぎて、かえって笑えもしない。
「新たなる『神』? ううん。違うでしょ? だって、あなたは全然、『おいしそう』じゃないもの。できそこないの失敗作。もしかして、“無能”の神性でも持ってるのかな?」
「き、きさま!!」
ああ、おかしい。やっと本性を現した。ラディスと名乗った男は、私に向かって手を伸ばす。その手の中に歪んだ空間が生まれ、周囲の【マナ】を強引に収束させていくのが見える。
あれって確か、《解放の角笛》? 少し違うけれど、似たようなものかな。どっちにしても、山をひとつ、削り飛ばすくらいの威力はありそうだし。
「我を愚弄した罰を受けよ!」
私に向けて、真っ白な閃光が放たれる。文字どおり光速で迫るそれを見つめて、私は『ゆっくり』考える。よけようかな、どうしようかな? 止めちゃおうか? 弾き返すのもいいかもしれない。それにしても、まだ来ない。のろのろと進む光を見つめ、私は思わず欠伸をしたくなる。
私の『眼』は、はるか上空で戦いを繰り広げる、二つの気配を察知していた。そのうち一つは、『竜族』のもの。うん。なんで『竜族』がいるんだろう? 不思議だね。まあ、いいや。もうひとつは、『魔神』のもの。あれの能力は面白い。あれを使ったら、面白いことが起きそうだ。
私は視界の端に映る『真霊』の怯えた姿を見て、思いついたことがあった。うん。これがいい。そうしよう。
「うん。こうしてみたら面白い」
私はゆっくり、目の前に迫る光へと手を伸ばす。先ほど確かめてみた限り、今の私は仮初の意識だ。世界に広がる『私』の意識。それをかき集めて器に注ぎ、形にしただけのもの。少なくとも『私』の本体そのものは、依然として『寝床』にあるのだろう。
だから、離れ過ぎた場所の『私』には、その力のほとんどが使えない。
でも、私には本来、そんな力は必要ない。力ならいつだって、目の前にある。ほら、こんなふうに……。
「なんだと!?」
ラディスの驚愕の声をうるさく思いながら、私は破壊の光線を素手で掴み、引っ張って形を変え、投げ縄の要領で空に向かって放り投げる。
〈ま、まただ。我らの力を……まるで、玩具のように……〉
『真霊』と呼ばれた男の怯えたような声。うんうん。面白い。待っててね? あなたにはもっともっと、私を楽しませてもらいたいのだから。
お城の天井が破壊され、そのまま空へと伸びていく光線。それは上空にいた『魔神』を捉え、引っ張り始める。その間、アレの能力である“幽体喪失”が光の縄を消そうと頑張るけれど、私はその働きさえ“操作”する。
「い、一体何を?」
私のしようとしていることがわからないのか、ラディスは疑問の声をあげている。
「あれ? ひっかかった。……障壁があるの? うん。でも、これって『外向き』だね」
私は街の周囲に張られているらしい不可視の障壁に“同調”し、その性質を読み取って、それを騙して『魔神』の身体を通過させる。
「よし、釣れた釣れた」
私が破壊した天井の穴を更に激しく壊しながら、『魔神』がここへと落ちてくる。
「馬鹿な! 貴様、正気か?」
ラディスは私が昔、耳にタコができるほど聞かされた台詞を口にする。
「うん。正気。ほら、面白い面白い」
常人には見えないだろう『魔神』の姿。けれど、この場において、代わりに見えてくるものがあった。それは……
「う、うぎゃああああ! か、身体? ひ、ひい! こわいこわい! いたいいたい! 眩しい眩しい! 気持ち悪い、苦しい、か、身体がああああ!?」
精神体のまま震えていた『真霊』が絶叫をあげた。私が狙ったとおり、彼の身体は実体化し始めていた。気持ち悪い。男の裸なんて、見ていて楽しいものじゃない。でもあの狼狽えぶりは見ていて楽しい。あれだけ成熟した意識を持つ存在が、生まれて初めて外気に触れる赤子と同じように肉体を得る。長年肉体を持たなかった存在が、急にそれを与えられたらどうなるか? うん。こうなる。
身の程知らずにも私の意識に手を触れようとした彼には、この世には絶対に手を出してはならないものがあるということを、文字どおり『身を持って』体験してもらおう。
あれ? いま私、うまいこと言った? うん。面白い面白い。
「こ、これは……?」
「自分で呼び寄せていた割には、知らないの? この『魔神』の力。あなたって本当に『無能』なんだね」
私は笑い、ついでに解説してあげる。自分のわかっていることを、わかっていない奴に説明するのは大好き。
「“幽体喪失”。虚実を反転させる力。実体を破壊された『魔神』は、代わりに実体のない炎や雷、【瘴気】の力を振るう。逆に敵に対しては、【魔力】や【気功】といった実体無き力──つまり、『幽体』を実体に変えてしまう。……ほら、そっちの『竜族』がいい例」
わたしは『魔神』に続いて飛び込んできた『竜族』に目を向ける。彼の身体には、びっしりと何かの塊がまとわりついている。あれが、実体化した【魔力】だ。
「……なんだ? どうなっている? シリル? 無事だったか!」
金髪の美青年の姿をした『竜族』は、私に『シリル』と呼びかけてきた。ああ、そうか。それがこの子の名前か。いい名前だね。私の名前に似ているのが良い。
「ごめんね。この子の身体は拝借中。ちなみに、そっちの彼はラディスが身体を拝借中」
私はなんだか楽しくなって、そんな風に言いながら笑う。
「なんだと?……状況が掴めないが。お前はシリルではないということか?」
さすがは『竜族』。“超感覚”での情報把握はお手の物みたい。
「うん」
「……ルシアは敵に身体を奪われたのか。くそ! だが、ならば貴様も敵か?」
「さあ?」
私は首を傾げて笑う。実際、敵とか味方とか、よくわからない。この遊びには、そういうルールがあるのかな?
「……やむを得まい。『真霊』よ」
「は、はい! お、お助けください! 我が主よ!」
汚い裸の男が、情けなくも涙で顔を濡らしながら、ラディスにすがるような目を向けた。
「お前は我が糧となれ。この『魔神』を従えるには、お前の『真霊』が必要だ」
「え? そ、それはどういう……」
皆まで言う暇はなかった。『真霊』と呼ばれた男は、ラディスが手を一振りしただけで、その姿を消してしまう。私の眼には、彼がラディスに吸い込まれるのが見えた。嘘? もう消えちゃうの? つまらないつまらないつまらない。
「ふん。仲間をあっさり消すとは、やはり外道の類か」
『竜族』の彼が吐き捨てる。
「くくく、銀の魔女よ。何の手品かは知らぬが、失敗だったな。仲間を呼んだつもりのようだが、『魔神』は我が糧となる【ヴァイス】を蓄えたモノだ。加えて、我が力ならば、下僕として従えることすら可能」
ラディスの声と同時。『魔神』から見えない炎が吐き散らされる。
「く! 下がれ、シリル!」
彼は私の前に立ちはだかり、その炎を一身に浴びて防ぐ。馬鹿みたい。あんなもの、私がどうにかできないはずはないのに。
それより、私がせっかく楽しもうとしてた『真霊』を消しちゃうなんて、つまらない。気に入らないからラディスの方は、さっさと片付けちゃおう。私は、そう思った。
〈やめて!〉
突然、声がした。私の中から。あれ? これってもしかして。
〈あなたがシリル?〉
私の問いかけに驚いたような気配。
〈……そうよ。あ、あなたは……シェリエルね〉
〈そうだよ。似た名前のよしみ。よろしくね〉
〈そ、そんなことはどうでもいいの!〉
〈そうなの?〉
〈そうよ。とにかく、ラディスの身体は……その、わたしの大切な人のものなの。だから、傷つけないで。……お願い〉
私は面白いと思った。この状況で彼女は、自分の身体を返してもらうことより、彼の身体の心配を優先している。私はいつだって、面白い物が好き。決めた。
──『今日の私の欲しいもの』は、コレにしよう。
〈うん。わかった。まあ、私が見た限り……彼みたいな『イレギュラー』な存在を、中途半端な『神』もどきがいつまでも支配できるとは思えないけどね。それに、彼の【魔鍵】も近づいてきているし〉
私は目の前で攻防を繰り広げる『魔神』と『竜族』の姿を眺め、ちらりと部屋の入口に目を向けた。
「シリル! ルシア! 無事かい!」
思った通り、扉が勢いよく内側に開き、外から何人かの人が入り込んでくる。先頭に立つのは、なんだろう? メイドさん? それから、すぐ後ろに黒い髪の人が続く。あれは絞りカス? ……じゃなくって……そっか。あれが今の『魔族』なんだね。
最後に入ってきたのは、『精霊』みたいな不思議な感じの女の子。
〈ノエル! シャルも……レイミまで!〉
私の中でシリルが喜びの声を上げる。
「無事で良かったよ……」
『魔族』の彼女が小さくつぶやく。どうやらシリルは、彼らに随分と大事にされているらしい。
「残念。この子の身体は、わたしが拝借中。……でも、そっちの彼は、時間の問題かな?」
私は不思議な女の子が胸に抱える【魔鍵】の輝きを見つめながら、親切にもそう教えてあげたのだった。