第161話 この美しい世界で/二人、ここにいる奇跡
-この美しい世界で-
この世界は、美しいもので溢れている。少なくとも俺は、そう信じたい。かつて俺が、氷に閉ざされた世界にいたから……というわけでもない。そんな事とは関係なく、俺はこの世界が美しいと思う。
ほら、今も目の前には、こんなにも美しい夕焼けが広がっている。鮮やかに染められた茜色の空に浮かぶ雲は、黄金にも似た輝きで世界を彩っていた。
美しいものを美しいと感じる気持ちは貴重なものだ。かつての氷原の世界にだって、美しい景色ならあったはずだ。だがそれも、それと意識しなければ、そんな心の余裕が無ければ、ただ日常の中に溶け込み、いずれは消えていってしまうだろう。
だからこそ、そんなときには、人は心に思うことをあえて口に出すべきなのだ。口に出すことによって、それは己の耳にも届き、目に映るものをあらためて認識させてくれる。
誰かが隣にいるのならば、共感してくれる誰かがいるのならば、なおのこと。
人生を、豊かにするための一言。
俺は万感の思いと共に、その一言を口にする。
「……綺麗だな」
「そうね」
短い返事。
「な、なんというか、幻想的な感じだよな」
「幻想……? でも、現実よね」
身も蓋もない答え。
「……ま、まあ、あれだ。この世界にも現実に、こんな美しい景色があることを思えばだ……」
「なあに?」
冷たい声音。
「た、たいていのことは、……水に流せるんじゃないかと思う」
「…………」
残酷な沈黙。
……やばい。答えが返ってこない。何故だ?
話の展開は完璧だったはずだ。これ以上ないほどに、自然かつ円滑に事を運んでいたはずだ。
「それで……現実逃避の時間は、そろそろ終わったのかしら?」
心臓が! 心臓が痛いです、シリルさん!
なんだその声の冷たさは……。それが俺と同じ、血の通った人間が出す声なのか?
だいたい、あの件はもう三日も前の話じゃないか。明日には目的の【聖地】『エルベルド』に着くわけだし、終わってしまった過去に目を向けるより、来るべき未来を見るべきなんじゃないだろうか。
「あら、あなただって過去を踏みしめてきたからこそ、今、ここにいるんでしょう?」
「………」
彼女は何故か、俺がかつてフェイルに言った決め台詞を、聞いたわけでもないだろうに再現してくる。というか、シリル──お前があの日、踏みしめていたのは、かろうじて原形をとどめているだけの無惨な『物体×2』だったと思う……。
俺たちは今、魔導船『アリア・ノルン』の甲板上にいる。風防障壁こそ展開されてはいないが、いざという時のために巡航速度は抑えてあるようで、甲板の上も心地いい風が吹いている程度だ。
夕涼みに何気なくここに上がってきた俺は、運悪くと言うべきか、先客として船縁から景色を眺めていたシリルに遭遇してしまった。この三日間と言うもの、どうにか彼女と二人きりになることを避け続けていた俺だったが、ついに運が尽きてしまったのだろうか?
こちらに気づくなり、完全に据わりきった目で見つめてくる彼女に対し、俺は『綺麗な景色にかこつけて、過去のことはウヤムヤにしちゃおう大作戦』を敢行したわけだが、あえなく玉砕して今に至る……というわけだった。
「冗談よ。なんだかタイミングを逃しちゃったし、もういいわ。水に流してあげる。……ひとつ、条件があるけどね」
夕焼けの空を背に、風になびく銀髪を軽く払うシリル。不覚にも見惚れてしまいそうになったが、まだ油断はできない。今、彼女は『条件』と言わなかったか?
「なんでそんなに不安そうな顔になるのよ? 失礼ね」
「い、いや、そういうわけじゃないんだが……」
不安なのは図星だったが、俺はどうにか言い繕う。
「そ、それで……条件ってなんだ?」
「うん……」
俺が尋ねると、シリルは少しうつむくようにして、言い淀む。
「あ、あのね? その、気にしてるってわけじゃないんだけど……あの時のことなの」
「あの時?」
「あなたの世界。あれが見えた時、一緒に見えた女の人がいたでしょう?」
「あ、ああ……」
そう言われて、今度は俺の方が言葉が出てこなくなる。何もやましいことはないはずだが、何故か気まずい気分にさせられていた。
「あ、あなたは、もう死んだはずの人だから驚いただけだって言っていたけど……なんだか、それだけじゃないような気がして……」
歯切れの悪い言葉を繰り返すシリル。俺が何も言えずにいると、彼女はふと、何かに気づいたように首を振った。
「う、ううん! やっぱり、いい! ご、ごめんね? 変なこと聞いて」
どうやら、俺に昔のことを思い出させることになりそうだと思ったらしい。お人好しと言うべきか……なにもそんなに気を遣わなくてもいいのにな。
「いや、謝らなくていいよ。それどころか、シリルが俺のことを気にかけてくれていることがわかって、嬉しいくらいだしな」
「え?」
この時、夕焼けに染まる彼女の白い肌が、わずかに赤みを増したように見えたのは気のせいだろうか?
「むしろ、シリルには聞いてほしい。俺の世界のことを。俺があの世界で何を経験し、何を感じてきたのか。それこそ、俺が踏みしめてきた過去を──そして俺自身のことを、お前には知ってほしい」
「う、うん……」
シリルは、子供のように素直な返事で頷いてくれた。
それから、話すことしばらく──
「そ、それじゃあ、あのナオって人は、【機械兵】だったの?」
話し終えて、彼女が最初に聞いてきたのは、そのことだった。
「ああ、そのはずなんだが……」
「でも、だったらどうしてあの時……」
「わからない。でも、ファラが言うには、少なくともあの時見えたあの『ナオ』は、ファラの妹のアーシェ、つまり、『四柱神』のアレクシオラ・カルラなんだそうだ」
「四柱神……。そっか。そうなんだ」
シリルは何故か、ほっとしたような顔で頷きを繰り返している。
「どうしたんだ? そのことで何か気になることでもあったか?」
「え? い、いや、その……ううん! なんでもないの。なんでも……」
俺の問いにも、しどろもどろの答えを返すばかりだ。それどころか、言葉の最後を聞き取れないほど尻すぼみに途切れさせてしまう。なんだろう? 明らかに様子がおかしい。
うつむいた顔をわずかに紅潮させ、もじもじと身体を動かし、時折何かを言いかけて口を開いては、ためらうように再び口を閉ざす。なんとなく、声がかけられるような雰囲気でもない。俺は黙ったまま、しばらく彼女の様子を見守った。
待った時間は、それほどでもなかっただろう。しかし、彼女は十年来の決意でも口にするかのように顔を上げ、毅然とした眼差しで俺を見た。
「す、好き……」
「え!?」
思いのほか、声が大きくなってしまった。今、彼女は何と言ったのだろうか?
「あ! ううん! そ、その……『ナオ』って人……機械兵なのか、四柱神なのかわからないけど……ルシアはその人のこと、好きだったのかなって……」
そこまで言って言葉を詰まらせ、彼女は再びうつむいた。
「………………」
沈黙が場を支配する。
……やばい。答えが返せない。だがそれは、返すべき言葉が見つからないからじゃない。 ともすれば緩んでしまいそうになる頬を、必死で引き締めなければならないからだ。浮かれた勘違いで暴走してしまいそうな妄想を、頭の中から打ち消さなければならないからだ。
でも、こればかりは完全な勘違いと言うわけではないだろう。そう思いたい。何故といって、今の彼女の言葉は、今の彼女の表情は、紛れもなく……
「……な、何よ。何がおかしいのよ。そんな、笑わなくたっていいじゃない!」
いきなり張り上げられた声に、俺は我に返った。まずい。どうやら完全には表情を隠しきれなかったようだ。
「……今のは、なし。聞かなかったことにして。……わたしも、もうこんなこと訊かないから」
すねたように自分の肘を押さえ、横を向くシリル。
「待ってくれって! 違うんだ。おかしかったから笑ったわけじゃない」
「じゃあ、なんなのよ」
「……その、こんなことを言うのも恥ずかしいんだけどさ」
「恥ずかしい?」
彼女は、さっきまでの怒りの表情から一転、不思議そうな顔で首を傾げる。そんな顔で見られると、なおさら言い出しにくくなるんだが……。
「なんというか、もし、勘違いだったらと思うとな……」
「勘違いって……?」
それでも、彼女が真剣に問いかけてくれた言葉に対し、誤解を招く表情を見せてしまったのは俺が悪い。だから、自分が恥をかくことになろうと、これだけは言わなければならないだろう。
「そ、その、シリルが『ナオ』のことを訊いてきたのは、……もしかしたら、『やきもち』って奴なのかなと……。そう思ったら、つい嬉しくなっちまってさ」
「な!?」
シリルは目を丸くして絶句する。うわ、これは恥ずかしい。穴があったら入りたい。なんだこの勘違い野郎は──そんな目で見られている気がしてくる。いや、彼女のことだから、そうじゃない。そんな誤解を抱かせて悪かったと、同情的な目で見てくれるのかもしれない。……それはそれでいたたまれないし、耐え難いことには変わりないが。
「ご、ごめん! お前が俺の過去のことを真剣に考えてくれていたのに、俺ときたら、なんというか、その……わけのわからないことを考えてた。本当にごめん!」
俺は全力で頭を下げる。そうすることで、どうにかこの気まずい空気を解消したかった。
「…………」
シリルは何も答えない。頭を下げた俺には、彼女の表情は見えないが、だからこそ余計に怖い。顔が上げられない。できることなら、このまま回れ右をして、ここからいなくなってしまいたかった。
「……ないわよ」
ぼそりと、小さくつぶやかれる声がする。えっと……今、「ないわよ」って言ったか?
それってつまり、『うわー、それはないわあ。まさか、そんな発想がこの世に存在するなんて思わなかった。ない! ない! それだけは絶対ないから』の、『ないわよ』なのか?
俺は勢いよく顔を上げ、彼女を見た。
「い、いくらなんでも、それはないだろ……。そりゃ、俺だって馬鹿な勘違いをしたものだと思うけど、何もそこまで酷いこと言わなくてもいいんじゃないか?」
精一杯の非難を込めて、俺は言う。
「ちょ、ちょっと待って? 何を言ってるの? だから、言ってるじゃない!」
だが、彼女はそう言って、不思議そうな顔をする。……ただし、その頬は、何故か赤く染まっていた。
「言ってるって言ったって、『ないわよ』はないだろ?」
「だから、違うの!」
「……え?」
もはや耳まで真っ赤にした状態の彼女は、目に涙を滲ませながら、壮絶な怒気と共にこちらを睨みつけてくる。
「勘違いじゃないって、言ったのよ!」
-二人、ここにいる奇跡-
穴があったら入りたい。
今もなお、わたしがここに留まっているのは奇跡に近い。恥ずかしさが全身を熱となって駆け巡り、わたしの感覚という感覚を麻痺させていなかったら、迷わず全力でここから駆け出していたはずだ。
やきもち──彼の口から飛び出したその言葉を、わたしは今の今まで、まったく意識していなかった。辛い過去を生き抜いてきた彼のことを想い、垣間見えた彼の世界のことが気になって、だからわたしは、彼の力になりたいのだと思っていた。
彼の過去のことをあらためて、どうしても訊き出したいと考えた。それは何も不自然なことじゃないし、純粋に仲間を想う気持ちの表れでしかないのだと、考えていた。
だから、だからこそ、他ならぬ彼の口から「やきもちなんじゃないか」という言葉を聞かされて、わたしは顔から火が出るくらいに恥ずかしくなった。そうした観点から自分の行動を振り返れば、その意味するところは、まったく別のものになってしまう。
彼の昔の想い人を気にかけ、彼の過去を洗いざらい訊き出そうとしたその行動。それが、『嫉妬』でなくて何なのだろう? それのどこが、『純粋な気持ち』の表れなのだろう?
……思いっきり不純な動機じゃない!
わたしはなんて勘違いをしていたのだろう? 自分で自分が信じられない。わたしの馬鹿! ああ、もう、どこかに逃げ場はないのかしら?
パニックになりながらも、頭を下げてくる彼をそのままにしておくわけにもいかず、わたしは勇気を振り絞って彼の誤解を解こうとした。なのに彼は、さらなる誤解をしてくる始末で……。
「え?」
勘違いじゃない──繰り返し言わされた自分の言葉に顔の熱さを自覚しながら、わたしは呆けたような彼の顔に、突き刺すような視線をぶつけた。
「いま、なんて?」
「『いま、なんて?』じゃないわよ! 二度ならず、三度までもこんなことを言わせる気!? ちょ、ちょっとくらい図星を指したからって、いい気にならないでよね!」
ああ、自分でも何を言っているのかわからない。なにかとんでもなく恥ずかしいことを言っているような気もするけれど、そんな感覚さえ、麻痺してきてしまっているようだ。
「あ、い、いや、ごめん……ははは」
恥ずかしさのあまり、ひたすら声を張り上げ続けるわたしを、ルシアは楽しそうに見つめてくる。彼が何を考えているのか、なんとなくわかってしまうだけに、ますます恥ずかしくなったわたしは、そこでようやく口を閉ざした。
「うう……」
「悪かったよ。ごめん。俺が悪かった。うん。俺、変なこと言ったよな。悪い。だから、そろそろ機嫌を直してくれよ」
まるで小さな子供でもなだめるかのような口調が気に入らないけれど、彼がわたしを気遣ってくれていることはわかる。
「はあ……。どうしてこんなことになったんだろ」
肩で息をつきながら、わたしはそんな呟きを口にする。
「まあ、それはともかく、さっきの答えを返さないとな」
「え?」
「俺が『ナオ』を好きだったのかって話だろ?」
「あ、えと……もう、いいわよ。忘れて」
「やだ」
「やだって……」
なんでここで、そんな子供みたいな返事が返ってくるのだろう?
「正直言うと、俺は彼女に好意を抱いていたよ」
「そ、そうなんだ……」
胸が痛い。彼にとっては過去の話だと分かっていても、なぜか今の言葉は胸に刺さった。
「俺は彼女が好きだったし、彼女の姿が溶けるように消えた時には、途方もない何かを失ったような気持ちになった。それが【ヒャクド】……いや、『アレクシオラ』に仕組まれた感情だとしても、その想いは嘘じゃないし、その時の俺があるから、今の俺があるのだと思う」
わたしは、彼の言葉を黙って聞き続ける。彼はいつだって、自分の過去を否定しない。
「そんな過去があるからこそ、今がある。……シリル。こうしてお前と同じ世界で、笑ったり、怒ったり、勘違いしたり、仲違いしたり、仲直りしたり……そんな風に過ごすことができる」
わたしは、彼の言葉を黙って聞き続ける。彼はいつだって、今を前向きに生きている。
「俺が今、ここに生きているのは、俺がその時、絶望しながらでも諦めず、希望を見失いながらでも、足掻いてきたからだ。シリルだって、辛くても苦しくても、諦めずに生きてきて、俺をこの世界に召喚してくれた。だからこそ、俺たちの今があるし、これからも、そうやって明日を紡いでいけるんだ」
わたしは、彼の言葉を黙って聞き続ける。彼はいつだって、わたしに未来を見せてくれる。
「俺たちが今、こうして二人でここにいることって、いくつもの偶然が重なった奇跡なんじゃないかと思う。でも、何もしなければ、諦めていたら、起こらなかったはずの奇跡だ。……だから、俺にはフェイルの奴が言うことも、今なら少しはわかる気がするよ」
「え?」
わたしはここで、初めて彼に訊き返す。フェイルのことを肯定的に語る彼なんて、初めて見る。
「『今、この刹那にすべてをかける』って奴さ。過去も必要だし、未来を見てなきゃダメなんだろうけど、それでもやっぱり、今が一番大事なんだよ。だから俺は、今こうやって、お前と一緒にいられる奇跡が何よりも嬉しいし、この刹那を永遠に積み重ねていきたいと思うんだ」
「ルシア……」
声が震えて言葉にならない。言いたいことは山ほどあるのに、口に出して言えた言葉は、彼の名前──ただそれだけ。
「でも、そのためには、どうしてもやらなきゃいけないことがある」
彼は唐突に、力強い声で言う。それは、背中を押されるような、けれど同時に手を引かれるような、そんな言葉だった。だからわたしは、声の震えをどうにか抑え、頷きを返してみせる。
「うん。誰もがみんな、笑って過ごせる日のために……この世界を救う。みんなにとっては当たり前で、でもとびっきりの奇跡。そのためにも、頑張りましょう」
「……いいな。それ」
「え?」
「『当たり前の奇跡』って……なんか、いい言葉だなって思う」
感心したように笑うルシア。そしてそのまま、船縁の柵を背にして立つわたしの隣へ、ゆっくりと歩み寄ってくる。ちらりとその横顔を盗み見れば、彼は夕焼けに染まる空の眩しさに、わずかに目を細めていた。
そして、わたしの視線に気づいたのか、彼は身体ごとこちらに向き直る。彼と目が合ったその瞬間、わたしの胸は強く痛む。
ずっと前からわかっていたことだった。いつからかははっきりしないけれど、わたしは彼が好きなんだ。
幸せそうな男女を見て、それをわたしと彼に重ねてしまいたくなるほどに。
彼に好きな女性がいたと知り、それを問いただしてしまいたくなるほどに。
「わたしも……あなたと二人、ここにいる『奇跡』を永遠のものにしたいと思う」
そんな言葉が、自然と口からこぼれ出る。恥ずかしさは、既になかった。だって、これこそが、本当に純粋なわたしの気持ちなのだから。
「ああ、そうだな。俺たちなら、きっとできるさ」
優しく微笑みかけてくれる彼。そんな顔を見るだけで、わたしの心は温かいもので満たされる。……どうしよう。どうしようもなく幸せだ。この気持ちを彼に伝えたい。この気持ちを何か形で表したい。
そんな衝動が心の中から溢れてくるようで、思わず息を詰まらせる。
「ね、ねえ……もうひとつ、お願いがあるの」
「ん? なんだ? できればあまり痛いとか苦しいとかじゃないお願いだといいんだが」
「も、もう……またそんなこと言って」
「ごめんごめん。で、なんだ?」
「うん。目をつぶってくれる?」
「目を? ……こうか?」
彼は何の疑いも持たないまま、わたしの言うとおりに目を閉じてくれる。あまりに素直に言うことを聞いてくれて、わたしの方が戸惑ってしまったぐらいだ。
「な、なんだか、こうしていると初めて会った時を思い出すよな」
戸惑いのあまり、わたしがなかなか次の行動に移れないでいると、彼はそんな言葉を口にした。
「初めて会った時のこと?」
「あ、ああ。あの時はほら、逆だったけどな」
その言葉に、わたしは思い出す。あの時、「自分を殺してもいい」と言ったわたしに向かって、彼は目を瞑るように言ったのだった。
……そうね。それもいいわね。
「あ、あの、シリル? まだか? なんだか、段々怖くなってきたんだが……」
ルシアが不安そうな声で言いながら、身じろぎしている。そんな彼の様子がおかしくて、わたしはつい、含み笑いを漏らしてしまった。
「な、なんだ、今の笑い方?」
「ううん。なんでもないわ。待たせてごめんね。……ちょっと気が変わったから、少しだけ痛いかもしれないわよ?」
「え? それって……」
驚く彼にそれ以上の言葉は言わせない。
わたしと彼では体格も力も全然違うけれど、無防備に目を瞑ったままの彼が相手なら、わたしにだって『それ』はできる。
音も無く彼に近づき、その身体に軽く手を回すようにして、足を引っ掛け、重心を崩すようにして……わたしは彼を『押し倒した』。
「うわわ! って、いてて……」
「まだ、目を開けちゃ駄目よ」
「うえ?」
転んだ痛みに顔をしかめ、目を開けようとする彼の瞼を、わたしは手で押さえつけるように閉じさせる。
そしてそのまま、彼の口元に顔を寄せ、唇を近づける。息がかかるほどの至近距離。心臓が高鳴る。そしてそのまま思い切って……
ガタン、と音がした。
弾かれたように顔を上げるわたし。その視界に映ったモノは……ある意味では最悪の二人組だった。
ノエルとレイミ。変態と変態の二人組。
今の物音は、レイミの足元に転がる額縁のような物が落ちた時のものだろう。よく見れば、額の中には綺麗な押し花のようなものが見える。
「……こ、この前は悪いことをしちゃったかなって思ったから、シリルの好きな花を使った手作りの品物を二人でプレゼントしようと思ってたんだ」
「……はい。いくらなんでもあれはやり過ぎだったと、わたしたち二人、反省していたんです。一生懸命、作ったんですよ? 船内で栽培している数少ない花の1つですから、失敗は許されませんし……」
何故か二人の眼には涙が滲んでいるように見える。この時には既に、わたしは彼の身体から離れ、どうにか居住まいを正してはいたけれど、どうにも言い訳のしようがない。決定的な弱みを握られてしまった。この後、わたしはどうなってしまうのだろう?
けれど、頭によぎるそんな想像をよそに、事態は予想もしない方向に向かっていく。
「ん? なんだ? 今の声、ノエルとレイミさんか?」
ようやくルシアが身を起こし、頭を振って周囲を見回した。
「くうう! ずるいぞ、ルシア! 君だけ、君だけ! もう駄目だ! 許せるものか! 僕らがあの日、何度死を覚悟したと思ってるんだ! だと言うのに、君ときたら!」
「そうですそうです! 許せません! わたしだって新しい世界どころか、地獄の世界を垣間見てしまったというのに、どうしてルシアさんだけ天国なんですか!」
ずかずかとルシアに向かって間合いを詰めていく二人。わたしは言葉もなく、見守るしかない。
「い、いや、ちょっと待て! 俺には一体、何が何やら……」
救いを求めてわたしを見るルシア。
〈……ごめんなさい。そんな目で見ないで。わたしには、何もしてあげられないの〉
念話も使わず、目だけでそう訴えかけると、彼は絶望的な顔になった。
「君には僕たちからのお仕置きが必要だね」
「うふふふ! 新しい世界へようこそー!」
「な、なんでだあああ!」
ルシアは断末魔(?)の悲鳴を上げた。
こんな結果になって、少し残念な気もするけれど、ほっとする気持ちもあった。