幕 間 その29 とある青竜の憤怒
-とある青竜の憤怒-
その日は、竜王様から大事な話があるとのことだった。
ヴァリスの兄者の後任として、『竜の谷』の外敵排除の任を拝命して以来、久しくなかったことだ。朝の日課である谷の周辺上空を旋回しながら、我はあれこれと話の内容を想像する。
数日前、ヴァリスの兄者がファラ殿を連れて凱旋された際、我は何か不手際でもしでかしてしまったのだろうか? いや、それはない。我は『竜族』として、可能な限り丁寧に対応したつもりだ。
ではいったい、何の話だろうか?
そんなことを考えているうちに、我はふと気づく。地上を歩き、この谷に向かって近づいてくるものがいる。それも、ただの動物などではない。強い力を持った存在だ。
〈三人……か。いや、一人は奇妙な気配だな〉
我は“超感覚”で感じ取ったものを確認するように独り言をつぶやきながら、気配のある方へと降下していく。
──見えた。やはり、人間のようだ。道にでも迷ったのだろうか? 普段なら強風でも叩きつけ、驚かせて追い払うところだが、人間の中にも姉上様たちのようなものもいる。ここはひとつ、最初は親切に声でもかけてやろう。
〈人間よ。ここより先は『竜の谷』。道を間違えたというのなら、見逃してやる。直ちに引き返すがよい〉
翼で風を従属させ、適当な高さに浮遊しながら警告の言葉を口にする。これで帰らぬ者などこれまで皆無ではあったが、帰らぬとあらば力づくになる。言外にそんな忠告を含ませての言葉だったが、相手の反応は意外なものだった。
「おお! いきなりなんて、ついてんじゃん」
人間にしては大柄な男が、好戦的な表情で笑う。
「おかしいですね? 情報では、ここを護るのは黄金の竜だということでしたが……」
純白の衣装に身を包む、金髪の女が疑問の言葉を口にする。
〈何を言っている? 人間どもよ。我が牙、我が爪の餌食になりたくなくば、早々に立ち去れ〉
声にいくばくかの【魔力】をこめて威圧する。だが、その三人は微動だにしない。
「お? 早速やるかい?」
嬉しそうに腕を回し始める大男。
「……ヴァルナガン。準備が先です。……団長閣下。情報と違うようですが、構いませんか?」
女の方が、背後に控える最後の一人に声をかける。最後の一人──団長閣下と呼ばれた人物は、我の眼から見ても恐ろしく不気味だった。
全身を金で装飾された純白の甲冑に包み、顔を覆い隠す兜を付けているため、その性別さえ判別できない。だが、我が不気味だと感じたのは、外見ではなく中身の方だ。見えなくてもわかることがある。この人物、生きた人間の気配がしないのだ。
「黄金であろうと、青であろうと竜は竜。同じである」
抑揚のない声。その声に、女は軽く頷きを返す。
「始めよう。──エデン・アルゴス」
その人物が耳慣れない言葉をつぶやいた、その時だった。我の“超感覚”が周囲の異常を察知した。いや、正確には、一定距離以上離れた場所の情報を察知できなくなったと言うべきだろう。
〈なんだ? 何が起きた?〉
「さすがは【神機】。レプリカでもこの威力ですか」
「無駄口はいらない。汝らの目的を果たせ」
「はい」
女の平坦な口調より、さらに無機質な言葉を紡ぐ鎧の人物。恐らくは奴が何かをしたのだろうが、間違いなくこれは敵対行動だ。ならば容赦はいらない。世界の覇者たる存在に刃を向けた愚かさを、後悔させてやる。
「はっはー! さすがに俺も『竜族』相手じゃ出し惜しみはできねえな。全力で行くぜ!」
全身に巻きつけていた鎖を解き、笑い声をあげる男。不遜な態度だ。我は奴らに向けて、『凍結衝撃波』のブレスを放つ。凍結と破壊を兼ねたそのブレスは、青竜たる我の誇りともいうべき【竜族魔法】だ。
白銀に輝くブレスに飲み込まれ、消えていく人間ども。が、しかし──
「大した威力ですね。念のため『二重』にして正解でした」
その女の言葉どおり、我のブレスは光り輝く障壁二枚の内、一枚を砕いたところで防がれていた。
〈馬鹿な……〉
驚愕する我の前で、障壁の向こうに立つ男は、その姿を変貌させていく。四肢が赤、青、緑、茶色の四色に染まり、それがやがて身体の中央で交わり、最後には全身を黒く染め上げていく。焦げ茶色だった頭髪も黒く染まり、赤い瞳だけが爛々と輝いている。
「さあ、殺し合おうぜ!」
地を蹴り、宙に浮かぶ我めがけて飛びかかってくる男。彼我の肉体の大きさを考えれば、爪なり翼なりで、弾き飛ばしてしまえばよい。所詮は無謀な突撃だ。だが、我はその姿にただならぬものを感じ、慎重に距離を置くべく高度を上げようとした。
〈ぐ!〉
周囲の空間は我が飛び回るには、思った以上に制約が多かった。思わず身体を硬直させ、結果として男の拳の一撃を受けてしまう。
「おらあ!」
〈ぐううう!〉
男は器用にも、己の身体が落下するまでの間、連続で拳打を叩き込んでくる。一撃一撃は我の鱗を通すほどのものではないが、重ねて叩き込まれる攻撃は、身体の芯に響くかのようだ。
〈グルアガアアアア!〉
我はとっさに“竜の咆哮”を放った。とにかく体勢を立て直し、この空間内での行動可能範囲を見極める必要がある。だが、そんな我の意図を嘲笑うかのように新たな攻撃が迫る。
それは、光の奔流だった。目もくらむような輝きが、我の視界を覆い尽くす。
「……さすがは『竜族』。《舞い降りる天使の剣》を受けながら、大した傷も負いませんか」
感心したような女の声。我はとっさに【竜族魔法】で障壁を生み出し、先ほどの奔流を防いでいた。だが、そのこと自体が耐え難い屈辱だ。
己の肉体のみでも世界最強の生物たりえる『竜族』にとって、己の鱗を凌駕するかもしれない攻撃に怯え、魔法による防御を行うこと自体、惰弱の証明のようなものなのだ。
それだけではない。傷こそ負わなかったとはいえ、敵の攻撃の勢いに圧され、隔離された空間の境目に背を打ちつけた我は、無様にも地に落ちてしまっていた。
目の前を真っ赤な怒りが染め上げる。矮小なる人間どもが、大空の覇者たる『竜族』の我を地に落とした。許しがたい暴挙だ。償いがたい冒涜だ。我はその怒りを力に変えるべく、強力な【竜族魔法】を発動する。
《竜魂一擲》!
青銀色の閃光が周囲に放たれる。もはや選択の必要もない。周囲の物全てを薙ぎ払うべく撒き散らされる破壊の閃光。これを受けて生き残れる人間など皆無。
だが、しかし──
「はっはー! やるじゃねえか! 今のはちょっくら、こたえたぜ?」
信じられない声が響く。さては先ほどの光の障壁に逃げ込んだのかと思ったが、そうではない。そちらには女と鎧の人物の二人しかいない。だが、だとするならば、今の声は一体どこから?
「図体がでかいと不便だとなあ? てめえ自身の身体の傍が一番光が弱かったんだぜ?」
腹部に鈍い衝撃。数十発の拳打を一度に叩き込まれて、我の身体は宙に浮きあがる。
〈馬鹿な!〉
痛みをこらえつつ、我はどうにか空を舞う。“超感覚”で把握した限り、範囲の認識さえ間違えなければ、限定的とはいえ飛行も可能だ。
〈おのれ、おのれ、おのれええ!〉
周囲に意識を向けて放たれた閃光は、確かに己の身体のすぐ近くでは威力も落ちるだろう。だが、我自身ですら気づかなかった弱点を一瞬で見抜くなど、並大抵のことではない。なにより、『威力が低かった』程度のことで、人間ごときが生き残れるような力ではなかったはずだ。
〈殺す! 殺してやる!〉
我は叫ぶ。その叫びでもって、己に迫る光の魔法を捻じ曲げ、軌道を逸らす。そしてそのまま、我はこちらを見上げる男に向かって急降下を仕掛けた。
《凍気竜装》!
全身に強力な『闘気』ならぬ『凍気』を纏わせ、奴をかみ砕くべく、己の牙をむき出しにする。だが、驚くべきことに、男は我の牙を正面から受け止めた。
「ぐははは! 効くなあ!」
哄笑しながら我の突進を防ごうとする奴は、その足を地に埋まらんばかりにめり込ませている。凍結するはずの奴の腕は、なぜかまったく変化がない。だが、『竜族』の急降下は『ワイバーン』のそれとは桁が違う。単なる衝撃だけでも、全身を粉々に吹き飛ばすだけの威力があるはずなのだ。
「正面から受け止めるとは馬鹿ですね。己の回復力を過信しすぎると、ろくなことがありませんよ」
「うるせえ! 面白ければいいんだよ」
そのやりとりを聞いて、我は理解した。
男の身体は、確かに衝撃に耐えきれず、破壊されていたはずだ。だが、それでも男の身体が原形をとどめているのは、より単純な理由だった。──そう、再生しているのだ。
皮膚が破れ、肉が裂け、骨が砕けて、ばらばらに弾け飛ぶ。
骨が繋がり、肉が合わさり、皮膚が癒着し、全てを留める。
それらの現象が瞬時に──否、『同時』に生じている。馬鹿げている。こんなものが、人間の力であろうはずがない。そして、もっとわからないのは、奴の身体が凍りつかない理由だった。
〈何故だ、何故、凍らない?〉
「ああ? つまんねえこと気にする奴だなあ。もっともっと楽しもうぜえ!」
ついに我が突進を食い止めきった男は、我の牙を掴んだまま、我の鼻先に頭突きを喰らわせてくる。
「ぐが! かってええ! 俺より石頭かよ、てめえ」
鼻先に喰らった衝撃に目がくらみ、我はとっさに身を引いた。直後、そこを例の光の奔流が駆け抜けていく。だが、完全にはかわしきれていない。胸元にざっくりと切り傷が走り、わずかに我の『血』がにじみ出る。
〈ぐぬああああ! 殺す! よくも誇り高き『竜族』であるこの我を! この青竜ラーズを侮辱してくれたな! 殺してやる!〉
「おい、ルシエラ! 邪魔すんな!」
「クライアントが待っているのです。これはあなたの道楽ではありません」
……舐められている。我はこの言葉を聞いた瞬間、狂わんばかりに咆哮を上げた。だがその後も、がむしゃらに暴れ、力を振るいながら、我は徐々に追い込まれていく。
狭い空間で手足を縛られた感覚を味わいながら、接近する獣のような男の攻撃に翻弄され、時折迫る光の奔流に傷を負わされ、目もくらむような屈辱を味わい続ける。
──否、実際に我の眼はくらんでいた。いや、眩暈がしたと言うべきか。身体の力が抜け、動きが鈍り、男の打撃がさらに叩き込まれる。全身に蓄積したダメージはもとより、それが回復しないことに、違和感を覚えていた。
〈ま、まさか、この空間……周囲の【マナ】まで遮断していると言うのか?〉
気づいた時には遅かった。『竜族』の種族特性である“竜族魔法”は、己の身体に取り込んだ【マナ】を爆発的に増幅させ、無限ともいえる【魔力】に変換するものだ。だが、逆に言えば取り込む【マナ】がなければ、【魔力】もまた、有限とならざるを得ない。
「ご名答。と言っても手遅れです。あなたは力を使いすぎましたね。もっとも、わたくしの方はと言えば、この空間で【魔法】を使うのに、その力を『使わせていただいた』のですが」
いつの間にか、女が掲げる右腕には奇妙な鎖が巻きついている。
今や地に伏し、身動き一つとれない我を囲む、三人の人間ども。
「さて、団長閣下」
「よくやった。後はわたしの役目だ」
鎧の人物は、我の身体、その鱗にできた傷口を狙いに定め、何かを突き刺す。それは槍のようでもあったが、槍ほど細いものでもなかった。
〈な、何の真似だ〉
痛みをこらえ、問いかけの言葉を発するが、相手の答えを待つまでもなかった。
〈ぐああああああ!〉
傷口に刺さったものは、先の尖った筒だ。そしてそこから、我の血が吸い取られている。凝縮された生命力の源ともいうべき【魔力】が宿る“竜の血”。血液を大量に抜かれ、意識がもうろうとする。
「これでいい。リオネル様の命を果たすことができた。……我はもう行く。その竜は始末しておけ」
感情を感じさせない声。奴らの目的は『竜の谷』ではなく、我の血だったと言うのか?
「はい。お任せください。……それではお気をつけて。団長閣下」
女の言葉に見送られるように、鎧の人物は姿を消した。と、同時に周囲の空間が元の姿を取り戻していく。
「ちっ! できれば、もっとまともな場所で戦いたかったぜ」
我を見下ろす男の顔には、どことなく残念そうな翳りが見える。すでに身体は鎖が巻かれ、元の姿に戻っているようだ。だが、我にとっては、その目が、その言葉が、何よりも屈辱だった。
だが、もはや我の命も長くはないだろう。目がかすみ、全身の感覚が無くなってきているのがわかる。
「さて、聖堂騎士団のお偉い団長様もいなくなったようですし……ヴァルナガン」
「おうよ」
とどめを刺される。我はそう思った。だが、その男は何を考えたか、我に対して回復の効果があるらしい【魔法】を使用してきた。
〈な、何の真似だ……〉
「あなたが死ねば、仲間の『竜族』が怒り狂って近隣の国を滅ぼしてしまいかねませんからね」
〈なんだと?〉
「あの団長にはどうでもよくても、わたくしたちは『人間』です。一応は気を遣うのですよ。……そうそう、あなたも『竜族』の端くれなら、このことで他のお仲間に泣きついたりしないでくださいね?」
平坦な語り口で放たれた言葉。それはまさに、我にとっての止めの一言だった。
〈……! ぐ、ううう……我は、必ず貴様らを殺す。我のみの力でだ〉
「それはよかった。では、再戦を約束しましょう。時と場所は……そうですね……」
女は我に再戦の舞台となる場所と時期を告げると、あっさりとこちらに背を向けて歩き出す。
「がははは! じゃあ、またな! 次はもうちっと楽しもうぜ!」
男は笑いながら去っていく。
……我の心に、かつてない怒りが宿る。感情が爆発する。心が沸騰する。はらわたが煮えくり返る。
〈必ずだ。必ず我は、奴らを殺す! そのためになら、我はどんな禁忌をもいとわない! 『竜族』としてのこの身が、地の底まで堕してしまおうとも構うものか!〉
誓いを胸に、我は『竜の谷』を後にする。もう二度と、ここに戻ることはない。だが、それでもなお、我は傷つけられた誇りを取り戻すため、憤怒を胸に飛び立つのだった。




