第160話 勝者の気分/尊敬の眼差し
-勝者の気分-
魔導船『アリア・ノルン』は、一路、北西に位置する地の聖地『エルベルド』へと航行を続けている。ヴァリスの魔力供給があるとはいえ、不測の事態に備える意味もあって、船の貯蔵魔力は節約するべきとの考えから、巡航速度はあまり速いと言えるものではない。
恐らく目的の場所まで、あと三、四日はかかるだろうとのことだった。僕はその間、ルシアやヴァリスと船内下層階のトレーニングルームで汗を流したり、レイフィアや他の皆にからかわれつつもエイミアさんと船内デート(?)を試してみたりと、平穏な時を過ごしていた。
「【地の聖地】ってのは、どんな場所なんだろうな」
その日も訓練を終えた後、雑談の中でルシアが僕にそんなことを聞いてくる。僕らがいるのはトレーニングルームの脇に設けられた休憩スペースだ。椅子や机、それから先ほどレイミさんが持ってきてくれた冷たい飲み物なんかも置かれている。
「さあ……僕も行ったことはないからね。そもそも【聖地】のある国自体、僕らにはあまりなじみのないところだし……」
「ふうん。辺境だからか?」
ルシアは果実ジュースを口に含みながら、適当な相槌を打ってきた。
「いや、北西部……って言っても、今の感覚じゃ『南部の中の北西部』って意味になっちゃうのかな──とにかくその地方には、昔から【フロンティア】がほとんどないんだよ」
そのせいか、北西部には冒険者ギルドも少ない。各地の町にギルドの支部が存在するのは、要するにその必要があって、街の住人から求められるからだ。必然、【フロンティア】がなければ、モンスターの脅威も少なく、皆無ではないがギルドの必要性も低かった。
「……うーん。なあ、ファラ。それってつまり、北西部には『神』がいなかったってことになるのか?」
ルシアは、近くの椅子に腰を掛け、膝に乗せた『リュダイン』とじゃれているファラに声をかけた。相変わらず彼女は、『幻獣』をペットのように可愛がり続けているが、いまや『リュダイン』も諦め気味な表情(?)で、されるがままになっていた。
〈ん? ああ、なんだ?〉
どうやら聞いていなかったらしい。金色の子猫を抱えたまま、きょとんとした顔でこちらを見るファラ。
「……ああ、いきなり声をかけた俺が悪いんだもんな」
ルシアはやれやれと息をつくと、事情を説明しながらもう一度、同じ言葉を繰り返す。
〈そう言えば……その辺の地域には、変わった『神』が住んでいたと聞いたことがあったな〉
ファラは自分の記憶をたどるように、上を見ながら答えてくる。容易に実体化できるようになってからの彼女は、仕草までもがますます人間っぽくなってきているようだ。
「変わった『神』? それってお前のことだろ?」
さも当然のように返すルシア。それに対し、ファラもさすがに憮然とした顔になった。
〈……反論できないのが悔しいが、その『神』の変わり者具合と言ったら、わらわの比ではなかったらしいぞ〉
「ファラよりも? そりゃ、驚天動地の変わり者だったんだろうな」
〈うむ。……って、ちょっと待てい! 今、お主、とんでもなく失礼なことを言わなかったか?〉
ファラは目を剥いてルシアを睨む。
「いやいや、なんでもないぞ? それより、続きを聞かせてくれよ」
しらばっくれるルシア。ファラはそんな彼に、なおも厳しい視線を向けていたが、これ以上追及しても仕方がないと思ったのか、そのまま言葉を続けてくれた。
〈まあ、わらわはもっと南の方を旅していたことが多かったからな。詳しいことは知らないが、いつだったか……旅から戻った時にアーシェから聞いたことがある。かの『神』は、他の神々から危険視されて、その存在を地に落とされたのだと〉
「危険視って……何をやらかしたんだ?」
〈さあな。アーシェは『お姉様には関係のないことだから』などと言って、わらわには詳しいことを教えてくれなかった。わらわが覚えているのは……そう、その『神』は四大種族のいずれにも属さないはぐれものであり、その種族の名が『クヴェト』だったということくらいかな〉
クヴェト? どこかで聞いたことがあるような気はするけど……思い出せない。やむなく僕は、もうひとつ、彼女の言葉の中で気になっている部分を質問した。
「それじゃあ、『存在を地に落とす』っていうのは、どういう意味なんだい?」
その問いに、ファラは表情を曇らせる。僕とルシア、二人の視線を向けられて、彼女はそのまま、渋々といった顔で口を開く。
〈……簡単に言えば、自我を持ったまま、永遠に手足を縛られるようなものだな。己の魂の居場所たる【想像世界】そのものを封じられるのだ。おぞましい限りだよ。いったい何をすれば、そんな酷い罰を受けねばならんのか。わらわの方が知りたいくらいだ〉
「手足を縛られる、か。確かにそれはきついね」
上手い比喩ではないのかもしれないけれど、ファラの顔色を見れば、それがどれほどのものかは推し量れそうだった。
〈そんな表現では生温い。ノエルにも同じことを話したが、わらわたち『神』は、『世界の外側』に小部屋を創り、そこからこの世界に顔を出している。【魔鍵】に意識を残して眠る時でさえ、本体となる自我の大部分は小部屋の中……いや、小部屋そのものだ。だが、その『神』は、己の『いるべき場所』そのものを奪われたのだ。『世界の外側』に身を置くことのできぬ『神』は、世界を客観的に見ることができない。……つまり、【事象魔法】を正しく使うことができない〉
ファラは、もうこれ以上話したくないとばかりに身震いし、僕らから視線を逸らした。確かに、聞いていて面白い話でもない。神様たちにもいろいろあったのだろうけど、そう考えると、人間も神様も大した違いはないのかもしれない。
「それはさておき、ルシア。僕は君に言っておかなくちゃいけないことがあったんだ」
彼女の話が終わったのを受けて、僕は思い出したように言った。
「ん? なんだ?」
「僕とエイミアさんのことだよ」
そう言うと、何故かルシアは露骨に嫌そうな顔をした。
「おいおい、勘弁してくれよ。これ以上惚気話を聞かされたんじゃ敵わないんだけどな」
「ち、違うって。そうじゃなくて……大体、僕がいつ惚気話なんか……」
僕が言いかけたところで、ルシアが藪睨みの顔になる。
「『その時のエイミアさんの顔っていったらもう、可愛いなんてもんじゃなかったんだ』とか、『これがその時買ったペアリングなんだぜ。いいだろう?』とか、他にも……」
「うわああ! わかったよ! 僕が悪かったからやめてくれ!」
そうだ。僕は一時期、エイミアさんとの関係を堂々と口にできるようになってから、有頂天に浮かれまくって色々と暴走してしまったのだ。その時は何とも思わなかったけれど、今になって自分の言葉を臨場感たっぷりに再現されるのは、なんというか、顔から火が出そうなくらい恥ずかしかった。……というか、何をやってたんだ、過去の僕は!
「と、とにかく、そうじゃなくってさ。その……ルシアには色々と世話になったかなってさ」
「え? 俺、何もしてないぜ?」
不思議そうな顔をするルシア。
「エイミアさんにもいろいろ聞いたよ。君がしてくれたことをね。僕も何だかんだと言って、あの時の君の言葉はすごく後押しになったし、有難かった。全部、君のおかげだよ」
「おいおい、褒めても何にも出ないぞ?」
照れ隠しのように言うルシアはなんだか可笑しくて、僕はこみ上げてくる笑いを押さえるのが一苦労だった。でも、もちろん、ここで笑うのは失礼だし、僕は彼に『お礼』がしたいのだ。
「それでね。ここからが本題なんだけど……」
「なんだ?」
「ここはひとつ、僕とエイミアさんで君にお礼をしなくちゃいけないと思っているんだ。ついこの間、そんな話になった」
僕が胸を張ってそう言うと、ルシアの顔がものの見事に引きつった。
「い、いや、ちょっと待て! なんか、その流れは嫌な予感がするぞ?」
「なんでだよ」
「お前はともかく、エイミアまで加わっているとなると、ろくでもないことに違いないだろうが!」
「聞き捨てならないことを言うねえ。そりゃあ確かに僕のエイミアさんは、直情的で悪ノリが大好きで、秘密を守るのが大の苦手な上に、ちょっぴりお茶目なドジを連発することのある可愛い女性だけど! そんな言い方は無いんじゃないかい?」
「今の言葉の一体どこに、他の言い方ができる要素があるんだよ! ……そもそも、お前の方がよっぽど酷いこと言ってるぞ。しかも、惚気ながら言うとか、どんな高等技法だよ」
呆れたように息をつくルシア。だが、話は終わっていないのだ。僕はそのまま、核心部分に話を進める。
「だからとにかく、僕とエイミアさんは今後、君とシリルの恋を全面的にバックアップすることに決めたんだよ」
「勝手に決めるな! ……なあ、頼むからさ。お願いだから、そっとしておいてくれないか? 何をどう考えても、悲惨な結末しか見えてこないんだが……」
何やら意味の分からないことをつぶやいているけれど、僕にはよく聞こえなかった。きっと彼も嬉しさのあまり、我を忘れてしまったのだろう。
「お、おい、聞いてないな? くそう、自分たちが上手く行ったからって、他人もくっつけてやろうとか考える浮かれた恋人連中ってのは、本当にたちが悪いぜ……」
「そのうち、作戦会議でも開こうじゃないか。今の僕なら、自分の経験を生かした的確なアドバイスができるはずだよ? 初めてで不安な点は多いかもしれないけれど、まあ、大船に乗ったつもりで任せてほしいな」
「……うう、ちょっと前まで『エイミアさんに何をお願いしたらいいのかわからない』とか泣きついてきやがったくせに、勝ち誇ったような口を……」
僕は勝者の気分で立ち上がると、トレーニングルームを後にしようとした。
が、その時──
〈みんな、くつろいでいるところ悪いけど、ミーティングルームまで集まってくれないかな〉
船内放送により、ノエルさんの声が響く。何故だかその声は、わずかに緊張しているようだった。
-尊敬の眼差し-
わたしたちを呼び集めたノエルは、食堂兼ミーティングルームの壁に映像を投影したまま待っていたらしい。そこに映し出されているのは、いわゆる世界図だ。世界を上空から撮影したものを元に見やすく図に落としたものだそうだが、相変わらず『魔族』の知識にが驚かされる。
「──結界が消えた?」
ノエルから告げられた内容に、シリルが不思議そうに問い返す。
「結界って……『ゼルグの地平』と南部を隔てるアレのことよね?」
「うん。そうだよ」
「そうだよって……大変じゃない!」
シリルは血相を変えて叫ぶ。結界に隔てられた北部には『魔神』を含む高レベルモンスターが無数にひしめいている。それを南部に来させないよう食い止めているのが、『魔族』による結界だ。シリルの言うとおり、それが消えたとなればただ事ではない。
「すぐに被害が出るようなことは考えにくいよ。あの結界はだいぶ南側に余裕を持って張られているし、北部をうろつくモンスターがいきなり雪崩込んでくるとは思えないからね」
「だが、偶然こちらに迷い出てくるってことはあるだろう?」
ノエルの落ち着いた言葉に、わたしは賛同できない。わずかでも被害は被害だ。人々の命が危険にさらされていることは違いない。
「あるかもね。でも、それこそ冒険者ギルドって奴の出番だろうし、……それだけなら、他の【フロンティア】の周辺だって同じことは起きうるさ」
「……それだけなら?」
彼女の言葉に含みを感じたわたしは、それをそのまま問いかけの言葉に変える。
「おっと……ふふふ。エイミアもそういうところは随分鋭いんだね。最初にエリオットに告白めいたことを言われたときだって、それくらい頭が働けばよかったのに」
「ちゃ、茶化すな!」
だいたい、どうしてノエルがそんなそんなことを知っているんだ。わたしは彼女の脇に控えるレイミに、鋭い視線を向けた。だが彼女は意味が分かっていないのか、にこやかに笑い返してくる。
「まあ、冗談はこれくらいにしよう。皆も『ゼルグの地平』と通常の【フロンティア】の最大の違いは何かを考えてみれば、わかるんじゃないか?」
「違い?」
ノエルに促され、考え込むわたしたちの中で最初に顔を上げたのは、やはりシリルだった。
「『魔神』……でしょうね。南部では、それこそ『魔神オルガスト』を含めても、長い歴史の中でもほんの数体しか、存在が確認されていないんだから」
「その通り。万が一にでも、『魔神』が結界を南下してくるようなことがあれば、一大事だ。『魔神』そのものより、周囲に群がる大量のモンスターの方が被害を拡大させるだろうね」
確かにそのことは、わたしも身に沁みて実感している。かつてホーリーグレンド聖王国を蹂躙した『魔神オルガスト』も、その最も恐るべきは“絶縁障壁”ではなく、【種族特性】“邪を統べるもの”だったのだ。
「でも、結界が急に消えるなんてどういうこと? まさか、『セントラル』が何か企んでいるのかしら?」
「いや、それはないよ。僕がこのことを知ったのは、彼らが使う魔力通信波を傍受──まあ、いわゆる『盗み聞き』をしてのことだしね。彼らは大慌てで原因究明にあたっているみたいだけど……恐らく結界発生装置そのものを破壊されたんじゃないかな」
「……『セントラル』ではない誰かが、結界を破壊したってこと?」
「多分ね」
単なるトラブルではなく、人為的に意図的に仕組まれてのことだというわけか。だが、だとすれば、いったい何の目的でこんな危険な真似をするというのか?
「もしかして、セフィリアが……」
シャルが不安そうに言う。
「きっと違うよ。だって彼女、シャルちゃんのことを待ってるって、言ってたじゃない」
「そうね。少なくとも彼女の力なら、こんな回りくどい方法は必要ないでしょうし」
「う、うん……」
アリシアとシリル、二人の言葉にようやく安心したような表情を見せるシャル。
「だとすれば、考えられる可能性は『パラダイム』ぐらいだな。ジャシンの復活もそうだが、奴らなら世界を破滅の危険にさらす真似ぐらい、平気でやりかねない」
「まあ、そんなところが妥当だね。いずれにしても結界については、僕らに手出しができる話でもない。今後も『セントラル』の通信波の傍受は続けるし、大きな動きがあればすぐに皆に知らせることにするよ」
わたしの推測に対し、ノエルは同意するように頷いた。ある意味、敵対関係にある『魔族』に頼らなければならないことは歯痒いが、今のところは彼らの造った結界こそがこの世界に平和をもたらしているとも言えるのだ。
「でも、通信波を盗み聞きするなんてこと、できるんですね」
シャルが意外そうな顔で言う。確かに、全世界を股にかけて行われるギルドや『セントラル』の通信を盗み聞きできるというのは、実は結構、凄いことなんじゃないだろうか。
「え? ああ、ルシアに教わったんだよ。彼の世界で言う『通信波』というのは、この世界のそれとは別物みたいだけど、『受信ができるなら傍受もできるはずだ』って言われてね。考えてみれば、今まで思いつかなかったのが不思議なくらいだよ」
「ルシアが……?」
唖然とした顔でルシアに目を向けるシャル。
「おい、そこ。『意外過ぎて言葉が出ない』みたいな顔をするな。こう見えても俺は前の世界じゃ、他の人間とは比較にならないくらい、色々なことに精通してるんだぜ? ……まあ、『受け売り』だったことには違いないけどな」
「うん……ルシアって、すごかったんだね!」
「え?」
目を輝かせ、ルシアに向かって素直な称賛の言葉を贈るシャルに、その場にいた皆が目を剥く。いやいや、今のはきっと空耳に違いない。
「ど、どうしたんだ? シャル?」
「だって、すごいもん。わたし、ノエルさんってものすごく頭が良くて、なんでもできちゃう凄い人だと思ってた……」
「いやあ、それほどでもあるけどねえ!」
ノエルの声は、もの凄く弾んでいた。というか、うるさいぐらいだ。シャルに褒められたことがどれだけ嬉しかったのか知らないが、満面の笑みを浮かべ、今にも踊り出しそうだった。もともとシリル一筋のはずのノエルにまで、ここまで気に入られてしまうシャルの『恐ろしさ』を、改めて実感する光景だ。
「そんなノエルさんに、何かを教えることができるなんてすごい」
「そ、そうか? ま、まあ、それほどでもないけどな」
などと言いながらも、ルシアの顔だってそれはもう、頬が緩みまくっている。いつもはけなされてばかりなせいか、舞い上がらんばかりに喜んでいるようだ。
「あ、おほん。それじゃ、話を戻すけど……問題なのはこれが『パラダイム』の仕業だと仮定した場合だ。結界の修復なら『セントラル』に任せておけばいいけれど、奴らのその先の目的が『ジャシン』がらみのことなら、僕らも無関係ではいられないからね」
「そう言えば、前にラディスの野郎が火の聖地『フォルベルド』で襲ってきた時、なんか言ってたような気がするな?」
ルシアが何かを思い出したように言う。だが、その先が思い出せないようで、首をひねりながら唸っている。
「どうしたの?」
「…………」
シリルの声にも難しい顔をしたきり、黙ったままだ。奴のさりげない一言のことを、この場の皆も流石に覚えてはいないらしい。それを思えばルシアが少しでもそのことに引っ掛かりを覚えていたのは、それはそれで鋭いと言えるのかもしれない。
だが、いつまでたっても思い出せそうもないようなので、やむなくわたしが後を続けた。
「奴はこう言っていたな。『自分たちの目的は、【ヴァイス】の回収だ』と」
「うえ? あ! そうそう! それだよ、それ!」
ルシアが悔しそうに言いながら、自分の掌に拳を打ちつける。まあ、気持ちはわからないでもない。
「それにしても、【ヴァイス】……『ジャシン』のカケラか。そんなものを集めて、どうしようって言うんだろうな?」
「『パラダイム』の目的は、ジャシンそのものではなく、彼らが持つ【ヴァイス】。そして今回の件も、その目的に関係しているのかもしれない……現状でわかるのはそれぐらいね」
シリルが話を総括するように言う。だが、今の時点ではそれ以上のことはわかりそうもない。皆が静まり返ったところで、ぼそりとつぶやく声がする。
「……それにしてもエイミアさんって、記憶力いいんですね」
シャルから感心したような目を向けられた。
……うん。すごく心地いい。ノエルやルシアが喜んでいた気持ちがよく分かる。
「ま、まあな。昔から、その手の記憶力はある方なんだ」
声に得意げな響きが出ないように、胸を張るわたし。
「やっぱり、聖騎士団長として誰かと交渉するときなんかには、うまく相手をやり込めるのに、そういう技能も必要だったんですか?」
「う、うん? も、もちろんだ。いやあ、まあ、重宝したものだよ。この記憶力! あははは!」
まずい。調子に乗ってしまったぞ。
「『相手に言質を取らせず、相手の言葉を忘れない』──交渉の基本ですもんね」
……相変わらず、彼女は本で得た知識が豊富だ。やっぱり、わたしより頭がいいんじゃないだろうか?
「う、うん。そうなんだ。基本だぞ?」
輝く瞳でわたしを見上げるシャルに、ますます逃げ場を失うわたし。
「……よく言いますよね。どっちかって言うとエイミアさん、昔は僕との口喧嘩の時なんかに、その『基本』とやらをフル活用してばかりだったじゃないですか」
「こ、こら! エリオット! なんてことを言うんだ。せっかく、シャルがわたしに尊敬の眼差しをだな……」
「やっぱり、はったりだったんですか? 無理をしているのがバレバレでしたよ?」
「くうううう! いつから君はそんなに生意気になったんだ!」
だが、悔しさのあまり声を荒げるわたしの耳に、軽やかな笑い声が聞こえてくる。
「あはははは!」
しまった! シャルに笑われてしまった。くう、エリオットめ。後で覚えていろよ。
「う、何もそんな目で見なくても……」
わたしの恨みがましい視線を受けて、たじろぐエリオット。だが、シャルはようやく笑いを収めると、わたしに向かって優しく笑いかけてくる。
「大丈夫です。わたし、今みたいな特別なことがなくたって、エイミアさんのことは尊敬していますから」
「シャ、シャル……」
涙が出そうなセリフだった。いや、なんだか年上の女性から慰められている感じがしないでもなかったが、この際、それは気にしないでおこう。
「それは気にした方がいいと思うよ……」
アリシアの声も聞こえない。聞こえないことにしよう。
「今の話の流れからすると、俺の場合は特別なことでもない限り、尊敬してくれてないみたいだな?」
ぼそりとつぶやくルシアに向かって、シャルは一言。
「あれ? わたし、さっきも尊敬してるとまでは、一言も言ってないよ?」
「ひでえ!」
がっくりと肩を落とすルシア。それを見て、くすくすと笑うシャル。
まあ、年頃の少女の照れ隠しにも気付けないようでは、彼もまだまだと言ったところだな。