第157話 切り拓く未来/斬り開かれる世界
-切り拓く未来-
〈ルシア! 上だ!〉
「くお! 危な!」
器用にもバックステップで遠ざかりながら、フェイルは立て続けに【爪痕】を周囲の空間に生み出していた。何の脈絡もなく空間に発生する裂け目は、まともに戦っていたのでは回避することなど不可能だ。
俺は【爪痕】を斬り散らすことだけを意識しつつ、自分の進行方向に向かって闇雲に『魔剣』を振りまわす。一つの場所に留まることなく移動を続け、俺が振るう剣の軌道ではカバーしきれない場所に発生する【爪痕】については、ファラの警告を頼りに回避する。
「ククク! どうした? お前の力はそんなものか?」
フェイルは愉快気に笑いながら、不意に立ち止まる。
〈ルシア! 奴の左右に十字型の亀裂ができるぞ!〉
ファラには、奴の『聖剣』が生み出す【爪痕】の発生を予知することができるらしい。
俺はその声を受け、一気に間合いを詰めようとするが、進行方向を斬り払いながらでは速度が出ない。
奴の身体の両脇に、十字型の【爪痕】が生み出される。直後、ばっくりと開く赤い傷口。ここまで戦い続けた結果、奴の『聖剣』の神性“斬界幻爪”について、わかったことは三つある。
ひとつ、生み出された裂け目には、触れるだけで対象を斬り裂く力がある。
ふたつ、裂け目に近づき過ぎると、身体ごと引き寄せられてしまう。
みっつ、十字型の裂け目には、離れた場所からでも引き寄せられる強い力がある。
だが、フェイルの周囲に発生したその力も、奴自身には効かないらしい。結果として、左右二つの『十字傷』は、その中央にいるフェイルに向けて俺の身体を恐ろしい勢いで引き摺りよせる。
「ぐああ!」
ほとんど飛ばされる勢いで加速する中、俺は立て続けに正面に出現した【爪痕】を斬り散らす。だが同時に、剣の届かない足元に生み出された【爪痕】が俺の足を浅く斬り裂いていた。さらには、傷の痛みに身体を大きく右側へと傾けた先に、【爪痕】よりも紅い『聖剣』の刃が迫る。
間一髪、手にした『魔剣』でそれを弾く。その勢いで身体をねじり、独楽のように回転させながら、奴の左側にある『十字傷』を斬り散らした。さらに着地と同時、振り向いたフェイルの後方に残る『十字傷』が俺を引き寄せようとする勢いを利用し、奴の心臓目がけて突きを繰り出す。
だが、寸前で俺の身体は勢いを失う。見れば、フェイルの背後にあった『十字傷』が消えている。たまらず体勢を崩した俺に、フェイルは真正面から『聖剣』を振り下ろしてくる。俺はどうにかそれを迎え撃つべく、『魔剣』を掲げようとした。
だが、そのとき──俺の中で何かが激しく警鐘を打ち鳴らす。
迫りくる危険に、全身の皮膚が粟立つような感覚。
俺は猛烈な悪寒に身を震わせながら、ほとんど倒れ込むような動きで、『聖剣』の軌道から身体を逃がす。
一瞬前まで俺がいた場所へと振り下ろされた一撃は、冗談みたいな音と共に、大地を斬り裂き、深い地割れを生み出していた。
「馬鹿力め……!」
俺が冷や汗とともに毒づくと、ファラが首を振る気配がする。
〈これは……アーシェの【事象魔法】だ。剣の軌道上にある存在を空間ごと斬り開く力。彼女の真の神性“斬界幻想”〉
「くそ! つくづく反則技ばっかり使いやがって!」
ほとんど無作為に【爪痕】を操作しながらこちらの動きを制限してくるのに加え、下手に近づけば問答無用の剣閃が待っているというわけだ。
さっきの一撃も正面から剣で受け止めていれば、刀身自体は防げても、その軌道上にある俺の身体は斬り裂かれていたかもしれない。
だが、先ほどから気になるのは、普段なら無駄口を叩いてくることの多いフェイルが、途中から一切口を利かなくなっている点だろう。先ほどの俺の悪態にさえ、奴は反応を示さない。
「……思ったよりお前にも、余裕がないみたいだな」
俺はあえて、かまをかけてみた。これまでの経験から言って、奴にこうした駆け引きが通じないことは百も承知だ。だが、たとえそれが悪あがきだと言われようと、やれるだけのことはする。それが俺のやり方だ。
「……まあ、他の連中とこれだけ距離が開けば十分か」
フェイルは小さくつぶやく。そして、気づいた時には、俺たちの周囲を常に取り巻いていた無数の【爪痕】は、ひとつ残らず消えていた。
「……お前の言うとおり、あれだけの【爪痕】を同時に制御するのは、さすがに骨の折れる話でな。邪魔が入らない距離になるまで、貴様への攻撃は控えていただけだ」
「はあ? さっきから、ばりばり攻撃しまくってただろうが!」
足の傷こそ『放魔の生骸装甲』の治癒効果で塞がってはいるが、何度死にかけたかわからないのだ。フェイルは赤い目を細め、漆黒の全身鎧をがしゃりと鳴らしながら肩をすくめる。
「俺が攻撃の意志を見せたのは、さっきの一撃が最初だ。他のは、移動のついでに戯れたに過ぎん。……言っただろう? 最初は少し遊んでやると」
「……は! 今までは本気じゃありませんでしたってか? 今から負けた時の言い訳でもするつもりかよ」
俺が吐き捨てるように言うと、フェイルは小さく含み笑いを漏らす。
「お前こそ、さっさと本気を出したらどうだ? あの時の技を見せてみろ。このままでは、百回繰り返しても貴様の剣は俺に届かない」
あからさまな挑発。だが、俺はあえて『魔剣』を振りかぶる。
〈待て、ルシア! 斬断の【事象魔法】では、あやつを直接斬ることはできん!〉
心の中にファラの声が響く。相手の『生きようとする意思』を無視して、直接その死を望む事象は引き起こせない。それは、万能であるはずの【事象魔法】の唯一の欠点だった。だが、以前と同じく、奴の装備や肉体を致命傷にならないレベルで斬ることならできるはずだ。
「斬る!」
離れた間合いで剣を振りかぶる俺を見つめ、微動だにしないフェイル。かわそうとしたところでかわせる攻撃ではないが、こちらの斬撃を妨害するつもりすらないらしい。
そして、振り下ろした剣閃は、俺の思い描いた通りに、奴の鎧と身体を斬り裂く。黒い鎧が断ち割られ、その内側の皮膚が斬り裂かれ、真っ赤な鮮血がほとばしる。
……いや、血は出ていない。それは俺の錯覚だった。実際には血ではなく、赤くゆらめく霧のようなものが吹き出していた。
「貴様の使う【魔鍵】の力は、対象を存在ごと斬り裂く恐るべきものだ。だが、【事象魔法】ゆえの限界もあるようだな」
「何だよ、その霧みたいなのは……」
「少しばかり『邪霊』の濃度を調節しただけだ。対策は考えてきたというわけさ」
奴の傷口に、赤い霧が戻っていく。あれが『邪霊』?
それに『濃度』とは、どういう意味だろうか?
フェイルは包帯の隙間から覗く赤い目を楽しげに歪めると、今度は自分の番だとばかりに間合いを詰め、再び頭上から剣を振り下ろしてきた。とっさに真横へ跳躍すれば、俺の立っていた地面にざっくりと深い裂け目が生み出される。
〈ファラ。考えてみれば、あいつの攻撃だって【事象魔法】だろう? なら、あたっても死なずに済むんだよな?〉
反射的にかわしはしたが、無理に避ける必要はないのかもしれない。俺はそう考え、心の中でファラに尋ねる。
〈残念ながら、奴の力は『世界を斬り開く』ものだ。対象は、あくまで空間そのもの。たまたまその軌道上にお主がいれば、大地と同じく『結果として斬れてしまう』だろうな〉
〈なんてこった。あいつの剣ばっかり、随分と使い勝手がいいんだな〉
つい、俺の口からは愚痴めいたものが飛び出してしまう。するとファラは、戦闘中だと言うのに実体化しながら俺の頭を小突いてきた。
「いて!」
〈お主は、自分の相棒が信じられんのか?〉
「あ、いや、その……」
〈……ああん?〉
唸るような低い声。やばい。どうやら彼女の逆鱗に触れてしまったらしい。
「いや、違うんだ。その、なんというか……」
俺はしどろもどろに弁解の言葉を口にする。一方、フェイルはと言えば、突然現れたファラの姿を面白そうに見つめている。
〈いいか、良く聞け。わらわはアーシェの姉だ。姉が妹に劣るはずが無かろうが〉
「そんなものか?」
俺はどうにか体勢を整えると、油断なくフェイルを見据えて剣を構える。
〈『斬り開く刹那の聖剣』の神性が文字どおり世界を斬り開く力だとするならば、わらわの『切り拓く絆の魔剣』の神性は、『未来を切り拓く力』だ。……斬るべき対象を間違えるな〉
「どうした? 来ないのか? ならばまた、こちらから行くぞ」
ゆらりとフェイルの身体が揺れ、その姿が霞んでいく。
「ちっ! ここに来て“減衰”の隠れ蓑かよ!」
〈ルシア!〉
「ああ、わかってる。お前の言いたいことは、よくわかった」
そうだ。俺は間違っていた。マギスレギアでフェイルと戦った時も、考えてみれば俺は、あいつを斬ろうとしたわけじゃない。斬ったものは別のものだ。
「……所詮、お前の『価値』もそんなものか」
俺の背後からの声。振り下ろされる『聖剣』の紅い刃。
俺は両手に構えた『魔剣』を振り向きざまに真横へと振り抜く。当然、奴が振り下ろす斬撃を防御することは考えていない。だがそれでも、これは相打ち覚悟の攻撃などではなかった。俺が『斬って捨てた』ものは、別のものだ。
「なに!?」
剣を振り下ろした姿勢のまま、驚愕に固まるフェイル。両者ともに、無傷。
俺はそのまま、真横に振り抜いた剣閃を切り返すようにして奴の喉元を狙う。
「ぐ!」
フェイルは忌々しげな声と共に、後方へ大きく飛びさがった。彼我の距離が開いたことで、俺は軽く息をつく。失敗したら自分の命が無いだけに、冷や冷やものだった。
これこそが正真正銘、『事象の斬断』──“斬神幻想”
『フェイルが聖剣を振り下ろす』という事象そのものを斬って捨てる。正確には事象の結果そのものを否定し、上書きし、未来を、そして運命を切り拓く力だ。自分で言うのもなんだが、これこそまさに反則技という奴だろう。
「……つくづく頼りになる相棒だよ、お前は」
〈さっきは使い勝手が悪いとか思っておったくせに、調子のいい奴め〉
憎まれ口を叩いてはいるが、ファラの口調は誇らしげで、嬉しげなものだった。
「……前にもこんなことがあったな」
フェイルは顔を片手で覆うようにしながら、つぶやきを漏らす。どうやら先ほどの剣閃は、奴の顔の辺りをかすめていたらしい。
「くくく……ははは! あんな土壇場で、死の間際で、それでもしぶとく生き残って見せたか。いいだろう。俺はお前を認めよう。今ここで、この刹那の時に、俺がすべてを燃やし尽くす相手は、お前だ。お前にはそれだけの『価値』がある」
顔に当てられていた手が、何かを掴むように握りしめられる。奴の顔に巻きつけられていた白い包帯。それを剥ぎ取る動作だ。音も無く剥ぎ取られた包帯の下から、奴の素顔が現れる。
「なんだよ。いつも隠してやがるから、てっきり『マッドオーク』並みに不細工な顔でもしてんのかと思ったぜ。意外とまともな顔なんだな」
「……これを見て、そう言われるとは思わなかったよ」
意外そうな、というより呆れたような声で言うフェイル。だが実際のところ、奴の顔には醜い傷があるわけでもなければ、目玉が飛び出しているわけでもない。むしろ、かなりの美形だと言ってもいいだろう。
異質な部分があるとすれば、奴の抜けるように白い肌。その内側をうごめく赤い光が透けて見えることぐらいだ。顔の皮膚が動いているわけではないのだろうが、そう見えてもおかしくないほどに、何かが奴の皮膚の下を動いている。
「俺の血液には、『邪霊』が宿っている。『パラダイム』が行った興味本位の実験の一環に過ぎないがな」
「ふうん。それがお前の馬鹿げた行動の理由だって言いたいのか?」
俺は同情の気持ちなど、欠片も込めずに言い放つ。
「どうでもいい。さあ、ここからは全力の殺し合いだ。余力など欠片も残すな。言ったはずだ。過去に縋りつくな。未来に何かを求めるな。今この時が、俺たちのすべてなのだからな!」
奴の言葉と同時、凄まじい数の紅い【爪痕】が俺たちを包み込む。真紅の牢獄が逃げ場を奪い、否が応でもこの場所こそが、俺と奴との決着の場なのだと認識させられる。
だが俺は、奴の言葉を否定する。
「……悪いな。俺はお前とは違うよ。俺は過去を踏みしめてきたからこそ、ここにいるのだし、俺は未来に腕を伸ばすためにこそ、ここにいる。だから俺は、今ここで、お前を斬って捨ててやる」
「…………」
もはや言うことはないと言わんばかりに、フェイルは『聖剣』を振り上げた。
──最後まで分かり合えない俺たちの、最後の戦い。そう思っていたのは、俺もあいつも同じだっただろう。しかし運命は、この始まりの【聖地】で、俺たち二人に思いもしない未来をもたらすことになるのだった。
-斬り開かれる世界-
《命貫く死天使の刃》
どうしてだかこの【魔法】だけは、術式を深く研究するまでもなく、構築手順を大して練習するまでもなく、まるで呼吸でもするかのように使用することができた。問題なのは無数の【魔法陣】を連結して相互作用的に発動させる分、魔力消費が莫大だという点だけだ。
だが、それに見合う威力はある。まるで世界に存在する『命』というものを呪うかのような力。……違う。呪いじゃない。『冒涜』と言うべきだろう。命というものをないがしろにして、嘲笑い、価値のない物として唾棄してしまう力。
ありとあらゆる命を殺す。惨劇の天使の魔法。
これから発動する魔法は、その発展形にあたるもの。
手の中に収束する膨大な【魔力】。ここが【聖地】であるせいか、魔力制御はそれほど難しくない。あえて展開させた『銀の翼』の機能により、周囲に豊富に満ちた【マナ】を吸収しつつ、わたしはかつてない規模でその【魔法】を完成させる。
生み出された闇の刃は、その幅がまともな剣の数倍はあろうかという巨大な物だった。わたしが標的として見据える『黒竜』にも、この【魔法】の威力がわかったのだろうか。立て続けに黒い炎を吐き散らし、激しく飛び回ってこちらの【魔法】を回避しようと試みる。でも、無駄な足掻きだ。
〈我は死天使、絶望をもたらすもの。すべての命あるものに、終わることなき断絶を〉
〈エウラ・シェリエル・ゼルグ・リンデス。ラフォウル・リーレ・クロイア・クロス〉
《永遠なる断絶の剣》!
長大な闇の剣は、まるで見えない巨人に振るわれているかのように『黒竜』へと追いすがり、その背中に斬撃を叩きつける。
それを見つめるわたしの身体からは、莫大な【魔力】が失われていく。ここが【聖地】でなければ、そしてわたしが『紫銀天使の聖衣』を身に着けていなければ、間違いなく【魔力】の枯渇により気絶を余儀なくされただろう。
『黒竜』は声もなく真っ二つに斬り裂かれ、花咲き乱れる大地へと墜落していく。わたしは油断することなく『ファルーク』に指示を出し、その後を追うように降下する。
「シリルちゃん!」
「アリシア、大丈夫?」
「うん。それに『黒竜』の方も何とかなりそうだよ」
言われて視線を向けた先には、砂のように崩れていく『黒竜』の姿と、その傍にしゃがみ込むシャルがいた。見れば、手には金糸の束のようなものを持っている。さらにその隣には、真紅の髪の少女が一人。
「セフィリア?」
わたしは驚いて声をかける。するとシャルがその声に反応してこちらを振り向いた。
「……ううん。この子は『ノラ』。フィリスが説得してくれたんだ」
「説得?」
「うん。セフィリアのために、この子も力を貸してくれるって」
「そう……」
よくわからないけれど、セフィリアの中にいるジャシンの少女は、わたしたちに敵対するつもりがないと言うことだろうか。だとすれば、残る敵はフェイルだけ。
「ルシアは?」
「向こうだ! 行くぞ!」
ヴァリスの言葉に頷きを返し、わたしたちはルシアが戦っているであろう場所へと急ぐ。
遠目からでもすぐに分かった。一見するとそれは、紅く輝く立方体だ。けれど近づいてみれば、無数の紅い【爪痕】の格子で構成された檻のようなものだとわかる。
「なんだよ。こういうのは骨が折れるんじゃなかったのか?」
ルシアが周囲を見渡しながら言う。
「それほど時間をかけるつもりはない。……それにちょうどギャラリーも到着したようだ」
「ん? ああ……シリル! 危ないから近づくなよ? こいつは俺が片付ける!」
ルシアはフェイルの言葉でわたしたちの接近に気づいたらしく、そんな言葉を投げかけてきた。
「ルシア……」
近づくだけですべてを斬り裂き、飲み込んでしまう紅い牢獄。四柱神が残した『神』の力を前に、わたしたちはただ、二人の戦いを見守るしかない。
フェイルは無言のまま紅い『聖剣』を掲げ、ルシアに向かって駆け出していく。袈裟懸けに振り下ろされる剣閃は、ルシアが真横から叩きつけた『魔剣』によって軌道を垂直に変化させる。そして、その切っ先が地面に触れた瞬間、大地に巨大な裂け目が生まれる。
「こりゃ近づきすぎるのも危険だね……」
レイフィアが珍しく唖然とした声で言う。あんなものと切り結ぶなんて、いくらなんでも危険すぎる。繰り返される剣閃の応酬を目にするだけで、心臓が止まりそうだった。
ルシアは巧みにフェイルの斬撃の軌道を逸らしつつ、自分の身体をその延長線上に置かないように戦っている。けれど、そんな綱渡りのような真似が長続きするはずもない。ルシアの軸足がぶれ、身体の動きが制限されたタイミングを狙い、フェイルの『聖剣』が真横に薙ぎ払われる。
「……斬る!」
ルシアは回避を諦めたように足を止め、手にした剣を振り下ろす。
「ルシア!」
皆が異口同音に叫ぶ。彼は脇腹に迫る剣を無視し、フェイルの身体を袈裟懸けに斬りつけていた。
相討ちであり、痛み分けとも言うべき攻防。
けれど、通常なら両名共に確実に致命傷を負っているはずの状況だ。
しかし、フェイルの『聖剣』は横薙ぎに振り切ったまま、ルシアの『魔剣』は振り下ろした状態のまま──両者ともに傷ひとつない。
二人は大きく後方へ跳び、距離を開ける。
「やはり、このままでは埒が明かないな」
ぼそりとつぶやくように言うフェイル。
「なんだよ。お得意の姿を消した不意打ちでも使う気か?」
ルシアは、油断なくそんな彼を睨みつけている。
「今のお前なら、俺が姿を消そうとする事象さえ、斬って捨てるだろうな」
「ちっ……ばれたか」
「貴様の挑発は、単純すぎて芸がないんだよ」
「ほっとけ!」
二人の会話は、まるで息の合った友人同士のものにも聞こえる。
状況に気を取られて気付かなかったけれど、よく見ればフェイルの顔には、いつもの包帯がない。剥き出しとなった白い肌の下には、うっすらと光る赤いものが動いているように見えた。
「じゃあ、どうするつもりだ?」
「……こうする」
赤い残光を曳きながら、頭上高く掲げられる真紅の聖剣。わたしの“眼”には、その切っ先に凄まじい力が集束していくのがわかった。
「ルシア! 気をつけて!」
「ああ。わかってる」
わたしの声にルシアは振り向くことなく頷きを返してくれた。
「な、なんだ? これは?」
「赤い光が……」
続いて起きた現象は、わたし以外の皆の目にも明らかだった。ルシアとフェイル、二人を囲む紅い牢獄。その格子を構成していた紅い【爪痕】の光が、フェイルが持つ『聖剣』の切っ先へと収束し始めている。
「これが最後の一撃だ。上塗りなど許さない。俺のすべてを込めた、俺の意志そのものともいうべき一撃。無価値でつまらないこの世界に、俺が残す、最後にして最大の【爪痕】だ」
「は! 駄々をこねるガキみたいだな。世界が気に入らないなら、壊そうとするんじゃなく、変えてみようと何故思わない? 俺は! てめえのそういうところが! 嫌いなんだ!」
叫ぶルシアの隣には、今や完全に実体化し、黒髪をなびかせたファラがいる。
〈荒れ狂う情念の塊。アーシェ……お前は何を考えている? カルラ神族の長などになった挙句、【異世界】に姿を消すなど……まったくお前らしくない。だから、確かめてやる。お前の意志を、その想いを……〉
ルシアの手にした剣──『切り拓く絆の魔剣』に蒼い光が集まり始める。
蒼と紅。水と油。犬猿の仲。そして、不倶戴天の敵同士。
離れた間合いのまま、フェイルが掲げた剣を振り下ろせば、迎え撃つようにルシアが剣を振り上げる。
刹那の衝動と永遠の理想。ぶつかり合う力は、世界そのものを軋ませる。
「うあああ!」
「きゃああ!」
吹き荒れる暴風は、離れた場所に立つわたしたちにも叩きつけてくる。目も開けていられない状況の中、何かが砕けたような音がした。
「な、なんなのこれ?」
強風が収まり、ようやく目を開けたわたしが見たものは、あまりにも異様な光景だった。二人のちょうど中央にあたる空間が、まるで切り取られたかのように周囲の景色と異なっている。
そこに映し出されているのは──白い、あまりにも白い、純白の世界。
「う、嘘だろ……」
ルシアが震える声でつぶやく。しかし、驚いている暇はなかった。斬り開かれた世界は、その歪みを正すように収縮していく。先ほどまでとは逆方向に、強風が吹き荒れる。
「まずい! 姿勢を低くしろ! 引きずり込まれるぞ!」
ヴァリスの叫びを受けて、わたしたちは足を踏ん張って耐える。しかし、先ほどまで死力を尽くして戦っていた二人は、そうはいかなかった。ずるずるとその身体が、中央にできた巨大な裂け目へ引き摺られていく。
「ルシア!」
わたしはとっさ彼に向かって足を踏み出す。ふわりと身体が浮かびかける。
「シリルちゃん!」
アリシアがわたしの腕を掴む。彼女の身体の重みが加わったおかげで、どうにか飛ばされずに済んだ
「待て、二人だけで行こうとするな!」
見ればヴァリスもシャルもエイミアもエリオットも、レイフィアまでもが手を繋ぎ、ついて来てくれていた。吹き荒れる乱流の中、わたしはルシアに向かい、必死に手を伸ばす。
「シリル……」
ルシアがわたしの手を掴む。わたしはその手を引き寄せるように近づき、しっかりとその身体にしがみつく。
「シャル! 《超重》を!」
わたしの声と同時、シャルが発動した融合属性魔法は、わたしたちをしっかりと大地に繋ぎとめる。
「助かったぜ、シリル。……だが、フェイルの奴は?」
あれだけ嫌っていた彼のことを心配するかのような言葉。いかにもお人好しの彼らしい。わたしは笑いをこらえながらも、フェイルがいるだろう方向に視線を転じる。
そこには、呆然と立ち尽くす漆黒の鎧の男と、彼にしがみつく真紅の髪の少女がいた。
「フェイル。大丈夫? 今、ワタシが助けてあげる……」
彼女──ノラは、心配そうにフェイルを見上げている。ノラの力によるものか、彼らの周囲には吹き荒れる力の暴風は影響を及ぼしていないようだ。
「……ククク。そうか、これが答えか」
フェイルには、ノラの言葉が聞こえていない。ただ茫然と、己が握った剣を見つめている。──刀身が半ばから折れた、紅い『聖剣』を。
「いいだろう。認めてやる。貴様の勝ちだ。ルシア・トライハイト。俺はここで終わりだが、貴様は進むがいい。貴様の求める未来とやらを勝ち取ってみせろ」
「終わりって……フェイル? 何を言ってるの?」
フェイルにしがみつくノラは、不思議そうに彼を見上げる。すると彼は、同じく不思議そうな顔で彼女を見下ろした。
「お前は何をしている?」
「何って……フェイルを助けてあげるんだよ」
「……必要ない」
「え?」
「お前はもう用済みだ。俺には必要ない。邪魔だ、離れろ」
冷たく、突き放すような言葉。けれど、今の彼は顔に包帯を巻いていない。だからだろうか? これまで考えも読めず、感情も感じられなかった彼の顔には、悲しみのような表情が見てとれた。
「うそ……どうして? ワタシはフェイルのことが好きなの。だから、あなたを助けたいの」
けれど、赤子のような彼女には、それがわからない。拒絶の言葉をそのままに、受け取ってしまう。
「お前は、セフィリアを救いたいのではなかったのか? ならば、お前に必要なのは、俺ではない。くだらん感傷に浸っている暇があるなら、動け。それができないなら、死ね」
すがりつく少女の肩をぐいと掴んで引きはがす。わたしはその光景を、ルシアにしがみついたまま、ぼんやりと見つめていた。ノラという少女の顔に、悲しみと絶望の表情が浮かぶ。
「……ルシア。俺は『満足』だ。それだけは礼を言わせてもらおう」
収束していく白い世界に引きずり込まれながら、フェイルは笑った。
「ふざけるな! 勝手に死のうとしてんじゃねえよ! 何が満足だ! 俺の腹の虫は、こんなもんじゃ収まらないんだよ! 逃げるな、フェイル!」
わたしの腕を振り解きそうな勢いで、ルシアは叫ぶ。そんな彼に、フェイルは再び笑みを浮かべる。
「……逃げるな、か。思えば俺は、ずっと『逃げて』きたんだろうな。あらゆるものに背を向けて、なにもかもをどうでもいいと斬り捨てて。だからきっと、俺の中にあった衝動は、それとは真逆のものだったのだ。最後の一撃。あの時だけは、俺は逃げなかった。だからもう、それでいい。それで俺は、満足だ」
ふわりと、彼の身体が浮かび上がる。言いたいことは言い終えたとばかりに、自ら大地を蹴ったのだ。裂け目から垣間見える純白の世界。氷に閉ざされた大地に吹き荒れる氷雪の嵐。そのただ中へと、フェイルの身体が吸い込まれていく。
「フェイル!」
ルシアが叫ぶ。しがみつくわたしには、彼の身体が震えているのが分かった。
──と、その時。
白銀の世界に落ちていくフェイル──その身体を抱きとめようとするかのような、何者かの影が映る。黒髪の女性。慈愛に満ちた表情を浮かべる彼女の身体は、わずかに透き通って見えた。
「……な、ど、どうしてだ?」
「ルシア?」
ルシアの身体の震えが一段と強くなり、驚いたわたしは彼の顔を見上げた。
「ナ……ナオ。どうしてお前が……」
閉じていく世界の裂け目。彼のつぶやきは、その間隙に吸い込まれるように消えていく。