第156話 暴走する衝動/最悪の敵
-暴走する衝動-
「グルルル! グアガガガガ!」
自分の喉から獣じみた唸り声が漏れているのがわかった。どこから出ているのか、自分でも信じられないような声だ。手足の感覚が鈍く、目の前の視界がぼやけている。
心の中に湧きあがる衝動は、僕を破壊に駆り立てる。振り上げた腕を大地に叩きつければ、土砂と粉塵が巻き上がる。陥没した地面にめり込むその手には、巨大な鉤爪が生えていた。
僕は【因子加速】なんて使った覚えはない。そもそも、そのために必要な『轟き響く葬送の魔槍』さえ、僕の手を離れているのだ。
その事実に気づいた瞬間、僕の頭の中は真っ白になった。
代わりに、目の前が真っ赤に染まる。
「グラガアアア!」
「正気に戻れ! エリオット!」
高速で宙を滑るように移動した僕の身体は、途中で何者かに受け止められていた。その人物は僕の両手首をがっしりと掴み、力強い叫び声で僕の魂を揺さぶってくる。
「ヴァリス! まだ、完治はできてないんだ! 無茶をするな!」
聞き覚えのある女性の声。誰だっただろうか? とても、とても大切な人だったような……
「だが、我以外に今のエリオットを抑え込める者はおるまい。それよりエイミアは『黒竜』を頼む。空を飛びまわる奴の相手は、魔導師だけでは厳しいだろう。それが適材適所というものだ。違うか?」
「……わかった。任せたぞ」
そう言い残し、女性は僕らから離れていく。だが、今は目の前の強敵が先だ。僕に拮抗する力の持ち主。こんな相手と戦えるなんて、こんな相手をコロせるなんて、わくわくする。
「くそ! “竜の咆哮”程度では正気に返らないか」
「グガアア!」
僕は両手を掴まれたまま、蹴り足を振り上げる。直撃すれば、大岩だって砕けるだろうその蹴りを、その人物は飛びさがって回避した。でも、それを見逃す僕ではない。大口を開け、口からブレスを吐き出した。
「なに!? なんだこれは……!」
とっさに顔を両腕で庇う彼。だが、無駄だった。何せ僕のブレスは炎じゃない。毒のブレスだ。
「ぐ、身体が痺れる……」
僕は身体を旋回させて、剣のような鱗が生えた自らの尾を彼めがけて叩きつける。しかし、手ごたえが無い。別の何かに防ぎ止められたような感覚に、僕は大きく飛び上がった。
「ヴァリス! エリオットくんの因子……今は『ヴリトラ』のものだよ! 七色のブレスを吐くモンスターなの!」
彼の背後には、いつの間にか水色の髪の女性がいた。
「『ヴリトラ』? だがそれは、単体認定Aランクのはずだ。Aランクの【因子所持者】などあり得まい」
「……それが『ルギュオ・ヴァレスト』の研究なのかも」
「本来は不可能なはずのAランクの因子を発現させる研究? 元々の『ワイバーン』の因子で抑えられていたものが現出したということか?……おのれ、厄介な」
二人が悠長な会話を交わしている間にも、僕は毒の息を吐きかけ、爪を振りかざし続けた。でも、見えない壁に阻まれて、なかなか相手に攻撃が届かない。
「何かいい方法はないのか? このままではエリオットが本当にモンスターと化してしまう」
「……わからない。で、でも、方法があるとしたら……彼の中の因子に干渉するしか……」
「干渉か。奴に正気があれば、あの魔槍の力でどうにかなるのだろうがな」
「うん……。それでいくしかないよ」
「それしかない? 何を言っている。当の本人が正気を失っているのだぞ?」
「大丈夫だよ。『槍』は、あたしが使う。あたしの中のレミルの【オリジン】を無理矢理あの槍に“同調”させれば、少しは使えると思う……」
「馬鹿な……危険すぎる」
「うん。だから、ヴァリスがあたしを護ってね?」
「……まったく、お前には敵わないな」
いらいらする。殺したいのに殺せない。殺そうと思う相手は、平然と僕の目の前で会話を続けている。
と、その時だった。男の方が動いた。素早い動きで僕とは異なる方向へ駆け出していく。だが、遅い。今の僕の動きに比べれば、遅すぎる。
「ガルルル!」
宙を滑空して瞬時に彼の背後に迫り、鉤爪を振り下ろす。だが、斜め下から跳ね上げられるような強い衝撃を受け、僕の身体は吹っ飛んだ。今のは、後ろ回し蹴りだろうか?
だが、大したダメージは無い。すぐさま体勢を空中で立て直し、ブレスを吐く。今度は氷のブレスだ。しかし、氷の嵐が降り注ぐその先に、彼の姿はなかった。
「いくら速くとも、動きが単調では話にならんな」
声と共に、右の足首を掴まれる。そしてそのまま、振り回されるように引っ張られ、地面に身体を叩きつけられた。痛みと衝撃に顔をしかめつつ、僕はとっさに左足で相手の手を蹴りつけようとするが、あっさりかわされる。足首から敵の手が離れたことを確認した僕は、すぐに体勢を起こそうとした。しかし、そこに鋼鉄のような膝蹴りが迫り、かろうじて両腕でガードする。
「グガッ!」
みしみしと骨の軋む音がする。『ヴリトラ』の強靭かつしなやかな鱗の上からでも、すさまじい衝撃を感じた。僕はたまらず闇雲に炎のブレスを吐き散らす。だが、その行動も結局は、自らの視界を奪う結果にしかならなかった。
くそ! どうしてだ? どうして上手く行かない? 僕は目の前の相手を殺したいだけなのに。
「アリシア! 槍を!」
男の方が女性に向かって何か細長いものを投げている。僕は本能に従って、女性めがけて空を蹴った。風を切って宙を舞い、そのままの勢いで鉤爪を振り下ろそうとしたところで、身体の動きががくんと止まる。何かに激突したわけではない。見えない壁に阻まれると言うより、見えない腕で防ぎ止められているような感覚。
「アリシア! 大丈夫か?」
男の方も慌ててこちらに駆け寄ってくる。彼はこともなげに見えない障壁の領域に侵入し、彼女の隣に辿り着く。僕の頭は混乱していた。わけがわからない。
「……ヴァリス。これからあたし、この槍と“同調”しないといけないんだけど」
「ああ。なんだ?」
「そうすると“抱擁障壁”を解除しないといけないの」
「なんだと?」
「だから、その間、あたしを護ってね? 信じてるから」
「だ、だが……ブレスまでもは防ぎ切れん……いや、ならば吐かせなければよいだけか」
「じゃあ、始めるね」
唐突に僕の身体をくい止めていた力の束縛が消えたのを感じた。僕はこれ幸いにと牙をむき出しにしようとしたのだが、下顎に強い衝撃を受けてのけぞってしまう。
「エリオット! 貴様の相手はこの我だ!」
僕は空中で後方宙返りを行いつつ、顎を押さえて頭を振った。だが、休んでいる暇はなかった。彼は猛烈な波状攻撃をしかけてきたのだ。僕にこれ以上の攻撃をさせないとばかりに、激しい連打の嵐を繰り出してくる。
僕はそれを必死にさばきつつ、過去の記憶を思い起こす。そう言えば、この相手とは、こうやって戦ったことがあったような気がする。
僕は敵の攻撃を避けるように上空へと飛行する。すると相手は、飛べもしないのに跳び上がって追撃を仕掛けてくる。馬鹿な奴だ。僕は空中で姿勢を変え、相手の背後に回り込む。そしてそのまま、その身体を羽交い絞めにする。
「おのれ……まだ身体が……」
じたばたと、もがき暴れる彼の身体をなんなく拘束する僕。どうやら彼の身体は本調子ではないらしい。だが、そんなことは構うものか。
このまま一気に上空まで飛び上がり、それから地面に叩きつけてやろうか? 何故か僕は、そんなことを思いつく。けれど、一瞬後に別の記憶が頭をよぎり、僕は飛び上がることなく、連続して彼にブレスを吐きかけた。だが、密着しすぎていて、暴れる相手にはかえって命中させづらい。
「ぐああああ!」
しかし、それでも熱気や冷気、電撃や毒素は、確実に相手の身体を弱らせていく。苦悶の声を上げる相手に、僕は勝利を確信した。
「ああ……かかったな!」
だが、僕の気が緩んだ次の瞬間だった。僕の全身に激痛が走る。鱗が斬り裂かれ、肉をが断たれる嫌な感触に、僕は思わず身体を離す。まるで彼の全身から鋭い刃でも生えたかのような現象だ。
「アリシア! 準備はどうだ!」
「うん! もう大丈夫!」
男は空中で僕の腕を掴みとり、そのまま押さえつけるような体勢で僕を地面に叩きつけた。強い衝撃に息がつまり、とっさにブレスを吐くこともままならない。
「エリオットくん! 正気に戻って!」
固い感触が、腕の部分に感じ取れた。彼女の手にした槍だろうか? だが、攻撃にしては随分と……などと考えていられたのはその時までだった。
「グ、グアアアガアガガガガ!」
苦しい。辛い。死んでしまいそうだ。それまで心地よい酩酊感に支配されていた僕の心は、急に現実へと引き戻されたかのように悲鳴を上げる。
身体の中を暴れまわる因子の感覚。かつて僕は、あの時、あの村で、それを感じたことがあったはずだ。……山間の小さな村『ローグ村』。その風景が頭に浮かぶ。平和な村には優しくて気の良い村人たち。僕が生まれてから、六年間を過ごした村。と、同時に僕はあることを思い出す。
「エリオット。お前はわたしたちの村の宝だ。その額の鱗。それが何よりの証拠だよ」
「それは、この村の守り神様のしるしなのだから」
「この村が平和で食べ物にも不自由しないでいられるのは、全部『蛇神』さまのおかげなんだぞ」
「その昔、この村に飢饉が訪れたときだって、『蛇神』さまはしもべとして一人の少女を遣わされたんだ」
「だからエリオット。もしかしたらお前も、『セフィリア』様と同じく、神の遣いなのかもしれないな」
六歳の僕は、その言葉を半分も聞いていなかった。でも、今思い出した。そうだったのだ。僕があの村で唯一の亜人種として生まれながら、迫害を受けなかった理由。それが『蛇神』さまだったのだ。
そして、神の使いとしてその名を伝説に残していた少女こそ……セフィリアだった。なんてことだろうか。それなら確かに、僕は彼女のおかげで生きていられたと言えるのかもしれない。
「エリオットくん! 大丈夫?」
「エリオット! しっかりしろ!」
二人の声。……情けないな。知ってしまえばくだらない──事の真相を知るためだけに、あの子に挑んで、結局僕は、二人に迷惑をかけてしまっただけじゃないか。
戦いに私情を持ち込むと、ろくなことがない。まだまだ僕は未熟だということだろう。でも、落ち込んでいる場合じゃない。まだ戦いは続いているのだ。それなら、僕は僕のやれることをしよう。
僕はゆっくりと身体を起こした。
-最悪の敵-
空を駆ける『黒竜』に向け、わたしは立て続けに矢を放つ。それまで空でホバリングしたまま炎を吐き、風を巻き起こしていたはずの奴は、わたしが参戦したと同時に空を激しく旋回し始めていた。
できれば“黎明蒼弓”を使いたいところだが、ああも高速で飛翔する敵が相手では、確実に命中させられる保証はない。下手に外せば自分たちに被害が及びかねない以上、頭上を飛び回る敵には使いづらい技だった。
「く……厄介な真似を。こちらの攻撃方法を読んでいるとでも言うのか?」
『黒竜』には、まともな知能があるようには見えない。だが、わたしが参戦した途端にこれでは、いくらなんでもタイミングが良すぎる。
「らちが明かないな……」
やはり単発で放つ矢の威力では、奴の鱗を貫くことはできないらしい。わたしはそう判断すると、すぐさま攻撃手段を光属性魔法に切り替えようとした。が、その瞬間──
〈グルウウウウウウ!〉
「ぐ……!」
“竜の咆哮”。精神に直接響く叫び声は、わたしの【魔法陣】の完成を大きく遅らせる。直後、奴の放った黒炎が目の前に迫り、わたしはやむを得ず【魔法】の使用を中断しながら横に飛ぶ。
「く、集中力が……」
シリルは先ほどから規模の大きい【魔法】を準備しようとしているようだが、敵の“咆哮”に妨害されているためか、なかなか上手く行かないようだ。
「ああ! もう、なんなのよ、こいつ! さっきからこっちの嫌がる攻撃ばかりしやがって! 風が邪魔! 炎が使いづらい! あたしに陣を描く暇を寄越せ!」
レイフィアがやけくそ気味の声を上げているのが聞こえる。わたしはその声を聞いて、何かが引っ掛かった。できればアリシアの分析に頼りたいところだが、彼女は今、ヴァリスと二人でエリオットを助けようとしてくれている。
エリオット……彼の村を襲った事件の話は、彼と出会って間もない頃に聞かされていた。だからわたしは、彼が今までどれだけ自身に宿る因子を憎み、呪ってきたのかを知っている。
時折、彼のいる方から叫び声らしきものが聞こえてきている。心配や不安は高まるばかりだが、わたしは彼を信頼できる仲間に任せたのだ。今は目の前の敵に集中するべきだろう。
「……確かアリシアは、あの『黒竜』はわたしたちの心を侵食して、最も強い敵の姿をとっていると言ったな?」
「ええ、そうね」
【魔法陣】を構築しながらも、シリルは言葉少なに返事をしてくれた。
「……ならば奴は、その性質にのっとって、こちらが最も嫌う戦法をとってくることも十分に考えられるな」
人の心に入り込み、恐れるもの、嫌うもの、苦手とするものを具現化して、人の心を損なおうとする性質──まさに“侵食”の名に相応しい能力だ。
実に厄介な敵だった。いくらなんでも厄介すぎる。どころか、『最悪』だ。
「じゃあさ! こいつ、この前の【人造魔神】みたいに幻覚なんじゃないの?」
こちらの会話を聞きつけたのか、レイフィアが火属性の加速魔法で敵の攻撃を回避しながら聞いてくる。
「どうかしらね。でも、その時は『幻覚を真実に変える』能力のある敵がもう一体いたんでしょう?」
「そうだったっけ? っと、よし! アレンジできないのが物足りないけど、くらえ!」
〈汝が罪を焼き、汝が咎を断つ。其は燃え盛る紅蓮の大剣〉
《断罪の煉獄炎》
レイフィアは器用にも、会話と同時に次の【魔法】を構築していたらしい。竜杖の先に赤い大きな【魔法陣】と白い小さな【魔法陣】が浮き上がり、そこから紅蓮の炎でできた大剣が生み出される。
セフィリアも今はこちらに気を向ける余裕がないのか、今度の【魔法】は消されずに済んだようだ。
「いい加減、さっさと落ちろ!」
気合いと共に剣を振り上げるレイフィア。生み出された炎の長大な間合いにより、その斬撃は難なく『黒竜』に命中し、その身体は爆音とともに炎に包まれる。だが、断末魔の叫びはおろか、苦痛の声すら上がらない。
「うそでしょ!? 今のでほとんど無傷なわけ?」
だが、今の攻撃は全く無意味だったわけではなかった。奴の身体は吹き飛び、体勢を立て直すのに時間がかかった。それは結果として、わたしの【魔法】が完成する時間を稼ぐことに繋がった。
わたしは詠唱と共に、金色に輝く【魔法陣】を完成させる。
〈偽らざる世界を示せ。我が頭上より降り注ぐは、すべてを白日に照らす光〉
《天蓋の鎮魂歌》
効果を持続させる【魔法】を無効化する光属性上級魔法。これで奴が幻覚かどうかはわかるはずだ。降り注ぐ白い光は黒い竜を飲み込み、その姿を覆い隠していく。
「どうだ?」
『黒竜』の姿がわずかに歪む。だが、それだけだ。すぐに元の姿に戻ってしまった。つまりこれは、幻覚ではないということか。
「いえ、そうじゃないわ。一瞬とはいえ、姿が歪んだ。……ということはつまり」
シリルは何かに気づいたようだ。だが、このとき、わたしは背筋に悪寒を覚えた。奴はこちらが最も嫌う攻撃をしてくる。ならば今度は、どんな攻撃を仕掛けてくるだろうか?
──決まっている。攻略の糸口を得たと思っている人間を殺しにくる。
「危ない! シリル!」
わたしは、反射的にシリルに向かって身体を投げ出した。
「え? きゃあ!」
考えに集中していたシリルは、反応が遅れた。わたしはそんな彼女の身体を抱きかかえるようにして、倒れ込む。凄まじい熱気が背後をかすめる。だが、どうにか回避できたようだ。
……しかし、わたしは自分の身体の下にうつぶせで倒れるシリルを助け起こそうとして、違和感に気づく。
「エイミア! その足……!」
レイフィアの声だ。一体何が? おかしい。足が動かない。わたしは仰向けに転がるように身体の向きを変え、上半身だけを起こす。目に映ったのは、原形をとどめないほどに焼き尽くされた──わたしの脚。
「……!」
全身から血の気が引く。気絶しなかったのが不思議なほどだ。特に膝から下の状態は、かなり酷い。痛みすら感じないほどにボロボロの脚を見て、さすがのわたしも吐き気を覚えた。
駄目だ。こんなところに次の攻撃が来てしまえば、かわすことなどできない。そして、わたしがそう思ったということはすなわち……。
収束した黒炎をわたしに見せつけるかのように、空中で咢を開く『黒竜』。
──この瞬間、わたしは死を覚悟した。
「うおおおお!」
視界の端から中央へ、何かが横切る。翼を生やしたその人影は、手にした槍を全身の力を込めて『黒竜』の側頭部に叩きつけていた。その一撃で、『黒竜』の頭部が爆ぜる。実際には頭が消し飛んだわけではないが、そう形容したくなるほどの勢いで横に弾かれ、身体ごと地面に叩きつけられる『黒竜』。
一方、それを為した人影は、そのままの勢いでわたしに向かって飛んできた。
「エイミアさん!」
「エリオット! 無事だったのか!」
良かった。正気に戻ってくれたようだ。わたしは大きく安堵の息を吐く。
「すみません。心配をおかけして。……そ、それより、その足の治療を!」
わたしの脚の酷い状態を見て、エリオットは顔をしかめる。そうだった。エリオットが助かった嬉しさのあまり忘れていたが、この脚は一刻も早く治癒を開始しなければ、二度と治せなくなってしまうほどの深手なのだ。
わたしは急いで自分の脚に【生命魔法】をかけて回復を始める。
「だが、簡単には治らないな。その間、身動きできないとは……」
わたしの心に焦りが募る。この状況では確実に、敵は次もわたしを狙うだろう。
「……大丈夫です。身動きなら、僕に任せてください」
「え?」
身動きを任す? 彼は何を言っているのだろう? と思っていたら、突然彼がわたしの身体に手を回し始めた。
「あ! こら! 何をする!」
「魔法に集中してください」
「う……だ、だが……」
背中と太ももの裏側に手を差し入れたエリオットは、そのままわたしの身体を抱え上げる。……いや、ちょっと待て。この体勢はまさか……噂に聞く……。
「いえーい! 見ちゃったぜ! すごい! これがあの伝説の『お姫様抱っこ』なんだね!」
「レ、レイフィア!」
顔の熱さを感じながら叫ぶ。
「ほらほら、王子様に任せて回復、回復! 次弾が来るよ!」
レイフィアの言葉どおり、地面から身を起こした『黒竜』は再び黒い炎をわたしたちに向かって吐き出してくる。
「そんなものが当たるか!」
エリオットは力強い腕でわたしを抱き上げたまま、縦横無尽に宙を飛び、迫る黒炎を難なく回避し続ける。よく見ればその顔は、頬の周りまでが鱗に覆われている。いつもの『ワイバーン』の因子を解放した時の姿に似ているが、少し異なる。
それまで青銀色だった鱗の色は、純白の輝きを帯びたものに変化しているし、背中に生えた翼も、以前より肉厚のものに変わっているようだ。だが、なによりも大きな違いは、先ほどから感じる『力強さ』だった。
押さえつけられていたモノが解放された時のような爆発力。暴れ馬にでも乗っているような感覚ではあるが、優秀な乗り手によって完全に制御されているような安心感もあった。
やがて『黒竜』はわたしたちを仕留めることは難しいと判断したのか、標的を再びシリルへと変えようとする。
「くそ! こちらの余裕を読まれたのか?」
このままエリオットが敵を引きつけられれば良かったのだが、この敵には『都合の良い』展開は望めない。どこまでも嫌らしい能力だった。
「……でも、それを逆手に取ることだってできるのよ」
シリルは静かな声で言う。空に浮かび、凛として立つ少女の姿。風になびく銀の髪が陽光を受けて輝き、薄紫のドレスの背中からは銀の翼が生えている。
『黒竜』が炎を吐き散らす。シリルは微動だにせず、それを見つめる。
〈キュアア!〉
彼女の足元で『ファルーク』が声を上げると、彼女に迫る黒炎がたちまちのうちに吹き散らされる。
「敵の心を侵食し、それに基づいて行動する──でも考えてみれば、それって立派な弱点よね? 自分が想定するレベルの『最悪』に対処できる手段があれば絶対に負けないし、逆に『予想外』の攻撃だけは、絶対にしてこないんだから」
理屈で言えばそのとおりだ。戦場における真の意味での『最悪』とは、とっさに対処できないような『予想外』の攻撃をされることなのだから。
「そして、エイミアの【魔法】で分かったことが一つ。あの竜は本物だけど、あの姿は幻覚よ。わたしたちが持つ『竜族』を恐れる気持ちを形に変えた【事象魔法】。だとすれば、あれを倒す方法はひとつだけ。……わたしがみんなに、教えてあげる。わたしには、『竜族』でさえ殺せる【魔法】があるってことをね」
『黒竜』が吐き散らす炎は、シリルが乗った『ファルーク』がことごとく回避する。基本的に複雑な思考を持たない『幻獣』には、敵の攻撃も単調で予測しやすいものになっているのかもしれない。
そして、シリルが掲げた手の先には、禍々しささえ覚えるような漆黒の魔法陣。幾重にも連なり、大きさも不揃いな無数の【魔法陣】には見覚えがあった。
──あれは多分、《命貫く死天使の刃》