第146話 あの子への呼びかけ/神愛絶叫
-あの子への呼びかけ-
あたしたちは当初の手はずどおり、最初にヴァリスによる【竜族魔法】の砲撃を『ジャシン』に浴びせるつもりだった。けれど、あたしたちがそのために適当な狙撃ポイントを見つけて、準備を整えようとした、その時のこと。
〈ウオオオ!〉
世界を震わす嘆きの咆哮。呪いの声。恨みの声。憎しみの声。存在するだけで世界を歪ませる、『あの子』の慟哭。そのあまりの切ない声に、あたしの胸は締めつけられる。
「く、うう……」
でも、それはあたしだけじゃなかった。その声を聞いたパーティの全員が、苦しそうに胸を押さえ、呻き声を上げている。視線を向ければ、噴火口の中に立つ巨人はすでに、真っ赤な全身をさらけ出していた。
ひび割れた岩のような肌。その隙間から覗く赤い輝きは、毒々しいまでに周囲を紅く染め上げている。
〈ウオオオ!〉
再び響く声。
「な、なんだ、これは?」
強い精神力を持つはずのヴァリスでさえ、ぶるぶると身体を震わせている。
あたしはさっき、あの巨人の姿を視界にとらえた。だから、『あの子』の能力を確認することもできていた。けれど、それはあまりにつらく、切なく、そして何より悲しい力だった。
「みんな……聞いて。『あの子』の能力──【ヴァイス】は“神愛絶叫”。誰にも愛されない孤独と悲しみを叫びに変える。ただ、それだけのものだよ」
あたしの言葉に、みんなが驚いたようにこちらを見る。
「叫ぶだけ? だが、この胸の苦しさは一体……」
エイミアが顔を青ざめさせながら言う。
「それが『ジャシン』なの……。ただいるだけで、ただ嘆くだけで、他の存在に害をなす。『あの子』はただ、悲しくて泣いているだけなのに、周囲の『物』をその悲しみに巻き込んでしまう。……ほら、見て」
あたしは『あの子』を指し示す。紅い巨人の周囲の空間には、すでに【生体魔装兵器】の姿はない。ただ、ぐにゃぐにゃと歪む不定形の何かが、うごめいている。それはやがて、角と翼を生やした奇怪な化け物の姿をとる。
悲しみそのものが具現化したかのような存在。異形と呼ぶべき災厄。
〈なんということだ……〉
呻くように声を発したのはファラちゃんだった。
「ファラ、あれが何か、わかるのか?」
ルシアくんの問いかけにもファラちゃんは上の空だ。けれど、呆然とつぶやく言葉は、その問いに対する答えになっていた。
〈『邪神』だ。いや、よく似ているが違うのだろうな。世界を呪い、嘆くことそのものを【事象魔法】によって具現化されたもの……〉
彼女の声は怖いと言うより、悲しいと言った感じだった。
〈あんな禍々しいものが、自分の悲しみから生まれてしまう。存在するだけで己の精神が否定されていく。なんと、なんと哀れな……〉
声を震わせるファラちゃん。でも、だからこそあたしは、レミルは、『あの子』を救いたいと思う。
「……ヴァリス」
「ああ、わかっている。恐らくあれは、敵意や害意で倒せる存在ではあるまい。この目で見て、やっとわかった。後はお前だけが頼りだ」
あたしの呼びかけに、ヴァリスはゆっくりと頷いてくれた。
「だが、あの周囲の『邪神もどき』どもは別だろう。あれは我が相手をしよう」
そう言うと、彼はあたしの手を取った。
もう、恥ずかしいとか言っている場合じゃない。
「アリシア・マーズ。我が魂の片翼よ。汝は我が魂の全てなり。我が存在は汝のために、ここに在る。今ここに、永久の誓いを」
「ヴァリス・ゴールドフレイヴ。あなたはあたしの心の片翼。あなたの心はあたしのすべて。今ここに、永遠の誓いを」
「我は汝を……」
「あたしはあなたを……」
「愛している!」
「あ、……愛して、います」
最後の台詞だけは、どうしても恥ずかしい。やっぱり噛んでしまいそうだった。
|《転空飛翔》(エンゲージ・ウイング)
膨れ上がる爆発的な力のせいだろうか。まだ随分と距離があるにもかかわらず、『邪神もどき』たちは、あたしたちを認識したらしい。
頭にねじれた角を付け、漆黒の翼を羽ばたかせながら、恐ろしい勢いで飛来してくる。
〈貫き穿つ、螺旋の旋風〉
シャルちゃんが増幅した風の【精霊魔法】を解き放つ。目には見えないけれど、鋭い螺旋状に形成された風の錐は、数体の『邪神もどき』たちを撃ち落としたみたいだった。
『邪神もどき』たちの方も、あたしたちに向けた手のひらから、黒い球体を次々と放ってくる。
|“抱擁障壁”(バリアブル・バリア〉!
あたしがとっさに展開した障壁が黒い球体を防ぎ止める。
「う、あ!」
けれど、もの凄い圧力だ。ヴァリスが|《転空飛翔》(エンゲージ・ウイング)を使った直後でなければ、防ぎ切れなかったかもしれない。ただの物理的な攻撃には強いあたしの障壁も、【事象魔法】の作用による攻撃には絶対ではない。
「アリシア! あの攻撃は俺が防ぐ!」
ファラちゃんに何かを言われたらしいルシアくんが、そう言って障壁の外に飛び出す。
「……斬る!」
一言叫ぶと、飛来する無数の黒球をひとまとまりに斬って捨てるルシアくん。
「アリシア! ここはわたしたちに任せて先に行きなさい! あの『ジャシン』は、多分あなたとレミルじゃなければ、止められない! シャル、ヴァリス! アリシアをお願い!」
「承知した!」
「う、うん!」
シリルちゃんも、『あの子』の本質を“魔王の百眼”で理解したのかもしれない。力押しではなく、あたしとレミルに可能性をかけてくれた。
「わ、わかった! 待っててね! 必ず『あの子』を止めてみせるから!」
《竜爪乱舞》!
ヴァリスの【魔法】が行く手を遮る『邪神もどき』たちをまとめて細切れに斬り裂いていく。
《超重》!
シャルちゃんは虹色の剣を振りかざし、融合属性【精霊魔法】を発動させる。赤と茶色が混じり合う光が剣先から放たれると、それに触れた敵が次々と地に叩きつけられていく。
「きりがないです! 隠蔽を使いましょう!」
シャルちゃんは、急いで『聖天光鎖の額冠』の結界を発生させる。と同時に背後で轟音が響き渡り、振り返れば光の雨が降り注ぐのが見えた。
周囲の『邪神もどき』たちは、あたしたちの気配が無くなったことに加え、そうした激しい戦闘が始まったことを察知してか、あたしたちを無視してシリルちゃんたちに向かっていく。
「今のうちだ! 二人とも、我に掴まれ!」
「え? あ、うん!」
「つ、つかまるんですか? は、はい、わかりました!」
ヴァリスの右腕と左腕に、あたしとシャルちゃんがそれぞれしがみつく。するとヴァリスは、大きく息を吸い込んだ。
《竜翼飛行》
ふわりと体が宙に浮く。
「きゃ、きゃあ!」
「う、浮いた!?」
「二人とも落ち着け。『竜族』は空を飛ぶとき、鳥と同じように羽ばたいているわけではない。呼吸によって体内に取り込んだ空気を媒介に、周囲の風を強制的に支配下に置いて制御しているのだ。軽くでも掴まってさえいれば、落ちる心配はいらない」
「そ、そっか……」
ヴァリスの解説に少し安心するあたし。そう言えば、『竜族』の空の飛び方なんて今まで知らなかったな。
「こうしてアリシアと『つがい』になるまでは、飛びたくとも飛べなかったからな。その意味では……あの誓いの言葉ではないが、今のアリシアは、我の翼だ」
ヴァリスはあたしの心を読んだらしく、そんな言葉を口にした。うーん、嬉しいけど恥ずかしいな……って、あれ? いま、ヴァリスが誓いの言葉について言及した時、彼の心の中に信じられないものが……。
嘘でしょう? あれって、|《転空飛翔》(エンゲージ・ウイング)に必要な言葉じゃなかったの? そ、それじゃあ、あたしは今まで……。
「ど、どうしたんですか、アリシアさん?」
シャルちゃんが身体を震わせているあたしを見て、心配そうに声をかけてくれる。
「ううん、大丈夫。……ねえ、ヴァリス?」
「む……な、なんだ?」
「『なんだ』じゃないでしょう?」
あたしたちは今、お互いの心を知ることができる状態にある。なら、今のあたしの思いも、伝わっていないはずはない。
「い、いや、なんというか、その……」
「今は時間がないけど……後でじっくり話し合おうね? ヴァリス」
「わ、わかった……」
恐怖に顔を引きつらせたヴァリスは、ゆっくりと『あの子』に向かって動き出す。ふわふわと宙を漂い、慎重に距離を詰め、あたしとレミルが『あの子』に呼びかけられる距離を測る。
「あ、あの、どうしたんですか? 二人とも……」
「ううん、大丈夫だよ、シャルちゃん。あとでちょっと、ヴァリスにお話があるだけだからね?」
「そ、そうですか……」
あ、シャルちゃんが怯えてる。つい、声に力を籠めちゃったのがいけなかったかな?
「と、とにかく、どれくらい近づけばよいか指示してくれ」
「うん。あと少し……」
火山の山肌はごつい岩ばかりで、わずかな雑草や低木があるほかは、何もない景色が足元を流れていく。山頂に近づくにつれて、『あの子』の巨大さがわかるようになってきた。周囲には依然として『邪神もどき』が生まれつつあり、あちこちを飛び回っている。
シャルちゃんの『額冠』がなければ、またはシリルちゃんたちが敵を引きつけてくれなければ、こうも簡単には近づけなかっただろう。
あたしはみんなのためにも、絶対に『あの子』を止めて見せる。
「うん。これくらいで大丈夫。近づきすぎると危険だから」
「わかった」
あたしたちは火山の山腹、七合目ほどの場所に着地する。
「シャル。引き続き結界を頼む。我は周囲を警戒する」
「はい」
二人がそうしてあたしの周囲を固めてくれている間に、あたしはレミルを足元に出現させる。
「レミル、準備はいい?」
〈う、うん……〉
黒髪を長く伸ばし彼女は、酷く青褪めた顔をしている。身体も少し震えているみたいだ。でも、これから彼女が向き合うものは、これまで千年に渡って目を逸らし続けてきた自分たちの罪そのもの。並大抵の覚悟でできることではない。
「大丈夫だよ、レミル。あたしもついてる。二人で頑張ろう?」
〈う、うん!〉
ようやく笑顔を見せてくれたレミルと手を繋ぎ、あたしは自分の“真実の審判者”の能力を“増幅”させながら発動させる。
本来なら、『ジャシン』の意識に直に接触すれば、あたしの心は壊れてしまうだろう。でも、今はレミルもいるし、ヴァリスとの『つながり』もある。だから、きっと大丈夫。
あたしは自分の恐怖心を押し殺すようにしながら、『あの子』の意識に接触した。
「もう泣かないで。あたしたちと、お話ししましょう?」
-神愛絶叫-
〈ウオオオ!〉
『ジャシン』は叫ぶ。撒き散らされる悲しみという名の汚泥は、世界を汚染し、異形を生み出す。次々と現れる『邪神もどき』を前に、我は全身の【魔力】を練り上げる。
「『ファルネート』? それがあなたの名前なの?」
“同調”を続けるアリシアの声。
「ねえ、ファルネート。わたしたちの話を聞いて! わたしたちは、あなたと向き合って、ちゃんと話がしたいの!」
真摯な思いを込めて、アリシアが声を張り上げる。だが、その言葉が届いているのかいないのか、ファルネートはもう何度目になるかわからない叫びを放つ。
赤茶けた岩のような肌の巨人。だが、目も鼻も確認できない。ごつごつと角ばった顔には、ぎざぎざの真っ赤な口が絶叫の形で開かれているのみだ。
〈ウオオオオオオオ!〉
これまでに増して、強力な叫び。びりびりと振動する空気とは別に、凄まじいプレッシャーが襲ってくる。我らの周囲にアリシアの“抱擁障壁”が無ければ、耐えられたかどうかは怪しいほど強烈な衝撃だった。
我らより離れた場所にいるとはいえ、ルシアたちは果たして無事なのだろうか? だが、そんなことを考えている暇もない。
「シャル! 上空から敵が来る!」
我はシャルに警告を発する。見上げれば、悪魔のような外見をした無数の『邪神もどき』たちが、われらの頭上を覆い尽くさんばかりに迫っていた。
「範囲が広いな。だが、《竜魂一擲》は魔力消費が大きすぎるか……」
我には、いまだに自身の使える【竜族魔法】が把握しきれていない。アリシアが《転空飛翔》の使用に乗り気でないせいで練習できなかったのが理由だが、まあ、それは考えてみれば我の自業自得だった。
この後の話し合い……とやらが怖い気もするが、今はそうも言っていられない。どうやらファルネートとアリシアの“同調”が始まったせいか、『邪神もどき』たちはこちらの存在に気付いているようだ。奴らの掌に無数の黒い球体が出現するのが見える。
「やむを得ないか!」
「いえ、わたしに任せてください! ……フィリス!」
シャルは一声叫ぶと、虹色に輝く『差し招く未来の霊剣』を掲げた。
〈炎熱の海より臨む、全てを包む母の腕……築き上げるは水晶の牢獄〉
《爆縮晶牢》!
三属性融合。赤と青、茶色の混じった光の粒子は、空に浮かんだ数十体の『邪神もどき』を包み込む。それはそのまま、それぞれの敵に個別にまとわりつき、透明な球体へと姿を変えた。
そして次の瞬間、美しい宝玉に醜悪な化け物を閉じ込めたがごとき無数の球は、奴らが脱出する暇さえ与えず、一瞬で収縮し、爆散して消滅する。──否、あれは『爆縮』とでも言うべきだろうか?
「……ねえ聞いて。あたしはあなたを助けたい。その孤独から、その苦しみから、助けてあげたい。今さら自分勝手だって思うかもしれないけれど、それでもこれが、あたしの本心なの!」
アリシアの呼びかけは続く。だが、彼女の傍に寄り添った小さな少女──レミルは、身体を震わせたまま黙ってうつむいているようだ。
「あたしはね、これまでずっと世界を拒絶して生きてきた。望まぬ力を持って生まれ、周囲から疎まれて、恐れられて……いっそのこと生まれてこなければよかったって思ったこともあった」
他者の心を丸裸にする力。それは確かに、人々から見て恐るべきものだろう。
「あたしは、ただ、そこにいるだけで迷惑な存在だった。でも、そんなの酷いよね? 望んでそんな風に生まれたわけじゃないのに、誰かを傷つけたかったわけじゃないのに。だから、少しだけど、あたしにも……あなたの心が……『痛み』が、わかるの」
〈ウオオオオン!〉
アリシアの声に反応するかのように、ファルネートは絶叫する。アリシアの能力は“同調”だ。同調とは理解ということ。だが、それは相手に理解させるということでもある。彼女の抱えてきた孤独や苦痛を、ファルネートは感じたのかもしれない。
赤い岩肌がぶくぶくと泡を立て、その身体が崩れていく。まさか、もう『説得』に成功したというのだろうか?
などという考えは、やはり甘かった。ファルネートは、どろどろと溶融した岩石のようになりながら、我らがいる方へ向けてなだれ落ちてきたのだ。
「自分ごと流れ落ちてくるだと!?」
思いもしなかった攻撃。しかし、我の身体は即座に動いた。アリシアの前に飛び出し、全身の【魔力】を最大効率で練り上げる。ここで食い止めなければ、後方のルシアたちも危険だ。アリシアの“抱擁障壁”も、彼女がファルネートを受け入れようとしている以上、奴自身の身体までは防げまい。
「うおおお!」
我は己の胸を竜爪で深く斬り裂く。あふれ出る鮮血が辺りに飛び散り、激痛と脱力感が我を襲う。だが、あんな規模の攻撃を前にしては、他に手段がない。
《竜血支配》!
『竜族』の【種族特性】の中で、もっとも凶悪にして奥の手ともいえるもの。それがこの“竜の血”だった。かつての我では、発動させることも叶わなかったもの。
世界を内包する『竜族』の体内に流れる血は、超高濃度の【魔力】を含んでいる。高濃度の【魔力】とはすなわち、支配力そのものだ。実際、魔力通信伝播塔『セリアルの塔』に周囲の人間を精神汚染から守るための装置が不可欠だったのも、それが理由だろう。
大地に散った鮮血は、大地を支配する。我の意思に従い、凄まじい勢いで隆起し、ファルネートの行く手を阻む堤防と化し、付着した『竜の血』はファルネート自身をも束縛する。
「う、ぐ……」
大量の血液を失い、目がかすむ。だが、ここで気絶するわけにはいかない。アリシアへの《転空飛翔》の効果が切れてしまう。
「ヴァリスさん!」
シャルから回復用の【生命魔法】がかけられ、どうにか意識を安定させる。
だが、状況は好転したとはいえない。確かにファルネートの動きは止まったが、距離が近づいたせいで、奴の放つ“神愛絶叫”はますますその圧力を高めている。
「う、うう……」
耐えきれなくなったように、地に膝を付くシャル。
「く、くそ……」
己の心の内から、様々な念が湧き起ってくる。世界に対する憎しみ。生きとし生けるものに対する嫉妬心。そして何より、孤独と不安に伴う、どうしようもない悲しみが我から力を奪っていく。
〈黙れ……黙れ……僕は憎む。僕は呪う。僕たちは、ただの孤児では終わらない!〉
これは、ファルネートの声か?
「孤児じゃないよ! この世界に生まれてきて、誰かと、あたしと、こうして言葉を交わせるのなら、あなたは決して一人じゃない! ……少なくとも、あたしはあなたを受け入れたい。あなたと友達になりたいよ」
〈うるさい。お前たちになにがわかる……。僕は生まれたその日に、言われたんだ。オマエナンカシラナイ。オマエナンカイラナイ……くくく、でも僕は仕方がないと思ったよ?〉
心に響くその声は、恐らくこの場にいる全員に届いているのだろう。まだ年若い少年の声だ。だが、そこには、憎しみと悲しみを千年かけて醸成させた、底知れない混沌がある。
〈だって、ほら。……僕の力はこんなにも穢れている。生きてるだけで害悪だ。生きてるだけで邪悪なんだ。だったら、僕は世界に対して『邪悪』に生きるよ。それこそ、僕らを『ジャシン』と呼ぶ神々の望みなんだろ?〉
「でも、世界はあなたを包んでくれたでしょう? 受け容れてくれたでしょう? 『精霊』たちが『邪霊』となってまで、あなたに寄り添ってくれてたじゃない!」
〈くくく、あはははは!〉
目の前の堤防がぶくりと形を変える。アリシアの言葉を嘲笑いつつ、ファルネートはあっさりと『竜血の支配』を乗り越えてくる。これが『ジャシン』の力なのか? あまりにも格が──否、存在の質が違いすぎる。
〈……それこそが僕らの邪悪の証明。愛してくれるものさえ、傷つけずにはいられない! 呪われた力じゃないか〉
岩肌に裸の上半身を突きだしたのは、一人の少年だった。紅い瞳に紅い髪。あどけない少年の顔。どことなく、かつてのアベルを思い起こさせる容貌だ。
〈人間が僕を受け入れる? 笑わせるな。僕を生み出した『神』のカケラでしかないくせに。むかつくよ。胸糞が悪くなる! 反吐が出る! くだらない同情を僕に寄せるなああ!〉
そう言って、ファルネートは岩肌から完全に抜け出し、黙ったまま立ち尽くすアリシアへと手を伸ばす。
「く! アリシア!」
ますます強まる憎しみの波動は、我の身体から自由を奪う。大量の血を失ったせいもあるだろう。
だが、ファルネートの掌に深紅の球体が生み出されようとした、その時だった。
〈やめて〉
アリシアの前に両手を広げて立つ、白衣の少女。黒い髪を足首の辺りまで伸ばした彼女は、その髪をふわふわとなびかせるようにして、ファルネートを見据えている。
〈え? あ、あなたは……〉
何かを恐れるように後退するファルネート。
〈もう、何かを傷つけるのはやめて〉
彼女、レミルは目に涙を溜めた顔でファルネートに語りかける。
〈『神』……あんた、『神』なのか? ……くくく、ふふふ、あはははははは!〉
今までで一番凄まじい絶叫だった。呼吸もできないような暴力的な力の奔流。
〈傷つけないで? あははは! どの口が言ってるんだよ! 僕らをこんなふうに生んだのは、あんたたちだろうが! 生きてるだけで他の何かを傷つける。そんな風に僕らを生んでおいて、拒絶して否定して、挙句の果てに『傷つけるな』だと? どこまで身勝手なんだよ、あんたたちは!〉
気付けば周囲には、もはや数えきれないほどの『邪神もどき』が溢れかえっている。幸いにも彼らは動きを見せないが、状況は絶望的だった。そんななか、レミルは言葉を続ける。
〈……やめてほしいのは、あなたが『自分の意志で』誰かを傷つけ、拒絶することよ。それは何より、あなた自身を傷つけるから〉
〈はっ! 何を知ったような口を! 僕の苦しみがあんたにわかるか!〉
〈……ごめんなさい。あなたを、そんな風に生んじゃってごめんなさい。わたしたちのせいで、苦しませて……本当にごめんなさい〉
〈い、いまさらそんな風に謝ったところで……!!〉
頭を下げ、謝罪の言葉を繰り返すレミルに、今度こそ本当にうろたえた様子を見せるファルネート。
〈わたしたちは怖かったの。自分の過ちを認めたくなかった。あなたたちにしてしまった酷いことを、認めたくなかったの。……ごめんね? 辛かったよね? 悲しかったよね? そんなふうにしちゃったあたしたちこそが、あなたたちを受け入れてあげなくちゃいけなかったのに……〉
〈うう……黙れ、黙れ〉
頭を押さえ、よろよろと後ろに下がるファルネート。
〈許してほしいなんて言わない。でも、あなたが許してくれなくても、わたしはあなたを愛します。だって、それが『親』だもんね?……だから、言わせてください〉
レミルは──幼子のような少女は、愛しいわが子にするように、小さなその手を広げて伸ばす。
〈うあ、あ……〉
うめき、戸惑い、呆けたような少年に向かって、彼女は微笑む。
〈生まれてきてくれて、ありがとう〉
〈うあああああ!〉
彼が叫んだその瞬間、我らを苛む圧迫感が消失する。
アリシアとレミル、二人から放たれた優しい光がファルネートを包み込む。
まさにそれは、母の愛。
千年間、彼が喉から手が出るほど求め続けた、ただひとつのもの。
〈あ、あ、僕は……生きてていいの? こんな僕でも、認めてくれる?〉
〈うん。もちろんよ。わたしは……あなたのお母さんなんだからね〉
「うふふ。随分と小っちゃいお母さんだけどね」
アリシアが茶化すように言うと、レミルは頬を膨らませて彼女を見上げる。
〈お、お母さん……〉
紅い瞳から流れる涙。年相応に幼い少年は、肩を震わせて泣き始める。だが、その声には先ほどまでのような『心をえぐる』力はない。いつの間にか、周囲からは『邪神もどき』の姿が消えていた。
泣きながら、よろよろとレミルに向かって歩み寄るファルネート。
「……良かったな」
「はい、よかったです……。本当に……」
我とシャルも、ようやく身体から力を抜く。アリシアもレミルも、本当によく頑張ってくれた。手の付けられない存在だったファルネートをこうして『説得』できたのも、彼女たちの覚悟と想いの力ゆえだろう。
千年の時を超えて、結ばれた絆。
少年は母の手に抱かれるべく、よろよろと歩み続ける。
──────が、そのとき。
「……ずるいんだ」
愛も絆も暖かな体温も、一瞬ですべてを喪失してしまう少女の声。
少年の首に巻きつく、しなやかな輝き。
目に鮮やかなその色は、金と紅。