第140話 13回目の理由/異変の兆し
-13回目の理由-
これは間違いなく真剣勝負だった。それは明らかだ。お互いの武器に小細工はなく、正面から正々堂々と切り結び、卑怯な手段など無いままに決着がついた。
でも、なんだろう? この納得のいかなさは……。もちろん、仲間であるノエルが勝ったことは喜ばしいことだ。でも、倒れた姿勢からゆっくりと立ち上がる彼女を見ていると、壮大な詐欺にでもあっているかのような気分になる。
「さて、おじさま。僕の勝ちだね。約束は守ってもらおうか?」
「……」
エイミアさんの【生命魔法】で腹の傷を癒されたルーゲントは、再び縄に繋がれた状態で憮然とした表情を見せた。
「何か文句ある?」
「ぐ……。剣を投げるなど……」
「剣を投げてはいけないルールなんて、なかったよね?」
「ぐ……」
まあ、それはそうだろう。昔ながらの騎士同士の決闘じゃあるまいし、武器の取り回しの仕方にまで作法があるわけじゃないのだから。それに、そもそもあの『ディ・クレイドの白刃』は、刃が魔力の光である以上、本体部分は柄しかない。あれなら投げつけるのにも具合が良い。ありうると言えば、ありうる戦い方かもしれない。
だが、明らかにルーゲントの敗因は別にあった。
「だ、だが、さっきのは……!」
「なんだい? 油断したとでも言い訳するつもりかい? 誇り高き七賢者の末裔が」
「そ、そうではなく……」
「じゃあ、なに?」
彼女は明らかにわかっていて言っている。あのとき、彼女が倒れた時に発した声。可愛らしい女性の声に、ルーゲントが動きを止めた。その理由。
自分への恋心を武器に使うとか、酷過ぎる。
僕は流石にルーゲントに同情してやりたくなった。
「あれってやっぱり、そうなんだ?」
隣からは、僕を役に立たない解説係だと言ってくれたレイフィアが問いかけてくる。僕は意図的にそれを無視した。
「なに? まだ根に持ってんの? 器が小さい男だねえ。そんなんだから、エイミアの姉さんに男として見てもらえないんじゃないの?」
「……今度、僕と決闘しないかい?」
僕がそう言うと、レイフィアは「怖い怖い」と肩をすくめた。彼女を前にしては、『轟き響く葬送の魔槍』の精神制御にも限界があるかもしれない。
「さて、それじゃあ、質問の時間だよ。というか、最初のは確認かな。……君に『巨人兵』を与えたのは、メゼキス・ゲルニカ──元老院副議長だね?」
「……そうだ。貴様を取り逃がし、怪我まで負わされた失態を取り戻す方法として、あの御方が秘匿兵器たる『巨人兵』を特別に下賜してくださったのだ」
もはや観念したのか、これ以上決闘の件で自分が逡巡した理由を追及されたくなかったのか、意外なほど素直に彼は語り出した。
「おかしなものだね。君だって七賢者の末裔の一人じゃないか。なのに同じ七賢者たるゲルニカ一族に頭が上がらないっていうのはさ」
「……貴様は何も知らんのだ」
「うん。だから、そこが知りたいな」
「ぐ……。あの御方は数百年前から現在まで生き続ける、本物の七賢者だ。我らのようにその血を引くと『主張』するだけの存在ではない」
ルーゲントがそう言うと、ノエルは驚きに目を丸くした。
「……へえ、驚いた。メゼキスの件はともかく、『誇り高き七賢者』なんて言っちゃってる君が、まさか、『末裔』の意味について、ちゃんとした認識を持っているだなんてね」
「血は繋がらなくとも、家柄の格式は本物だ。それより……メゼキスの件はともかく、だと? まさか、貴様、知っていたのか?」
「確証はなかったけど、つい最近、彼が残した書物の話を聞かされてね。ついでに長命な『妖精族』の女王についての話も聞けたし、それらから類推すれば謎は解けたよ。この森の結界を無視できたのも、『創世霊樹』の製作者である七賢者自身が裏にいると考えれば、納得のいく話だしね」
『妖精族』のソアラさんは、『世界樹』と命を繋いで生きていると言っていたけど、メゼキスとやらも同じ方法で生き残っているということか。そこまでは僕にも予測がついたけれど、ノエルの仮説はさらに一歩進んでいた。
「僕が思うに、表舞台に出ていた歴代のメゼキス・ゲルニカ。彼等こそ本物のメゼキスに命を繋がれた人々だったんじゃないかな?」
「じゃあ、今のメゼキスも?」
「だろうね」
「でも、どうなのかしら? ソアラさんの話だと、片方が死ねば、もう片方も死ぬ。あの技術は、そういうものだったはずでしょう?」
「だから、彼女は実験台だったんだろうさ。そうした実験の結果、恐らく一方的な関係性で命を繋ぐシステムを完成させたんだろう」
シリルとノエルの会話を聞きながら、僕は背筋に寒気を覚えた。さらにノエルは、思いついたように言葉を続けた。
「……そう言えば、歴代のメゼキスは比較的短命の者が多かったかもしれないね」
ますます、嫌な話だ。たとえ、表向きの支配者になれる権利が与えられるのだとしても、自分の命まで他人にしゃぶりつくされる傀儡になるなんて、おぞましい限りだ。
「それじゃ、あともうひとつふたつ、おじさまに教えてもらわないとね。僕たちがここにいることが、どうしてわかったのかな?」
ノエルが可愛らしく小首をかしげて尋ねると、ルーゲントは嫌そうに顔を歪めた。
「……貴様らの目的なら、はっきりしている。『シェリエル第三研究所』から脱したお前たちが『楔』を入手したのならな」
「……君は知っていたんだね? 『世界の理』計画の真相をさ」
「無論だ。俺はセレスタ家の次期当主だ。貴様のようにシリル・マギウス・ティアルーンとかかわりの深い人間は別として、七賢者で計画の詳細を知らぬ者はいない。これには『魔族』の命運がかかっているのだからな」
その言葉に、ノエルの様子が一変した。それまで微笑すら浮かべていた彼女の顔から、一切の表情が消えていた。だが、自分の言葉に夢中になっているためか、ルーゲントはそれに気付いていなかった。
「だから、ノエル。今からでも遅くはない。我ら『魔族』の繁栄のため、この計画を成功に導くのだ。お前ほどの者がなぜ、『最高傑作』とはいえ、たかが道具にそこまで執着する必要がある」
こいつは馬鹿だ。僕は呆れた。信じられない。自分が口にしはじめた言葉に酔って、勢いに任せて言ったことだとしても、これはまさに失言中の失言だろう。
「……まだ、質問の途中だったね。続けようか?」
声の調子が明らかにおかしいノエルに、ルーゲント以外の全員が、ぎょっとして彼女を見た。相変わらず、彼女には表情らしきものが見えない。でも、僕にはわかってしまった。彼女は、訊き出したいことを全部訊き出した挙句、彼を殺すだろう。
「君たちが最初の『楔』設置地点となる、この【回帰の聖地】で僕たちを狙ったのはわかる。元老院は『クロイアの楔』を数百年も研究していたんだ。時を止める手順くらい、知っていても不思議はない」
「……」
「わからないのは『どうしてこんなに短時間で』という点だ。僕らはあの城を脱出した後、多少は速度を落としたとはいえ、ほぼまっすぐここを目指してきた。『妖精の森』やここでの時間のロスも大したものじゃない。なのに、こんなに早く君らは来た。君になんて、わざわざ大怪我まで負わせたっていうのにね」
「……」
「だんまりかい?」
「ぐ……、ここは世界を維持する『創世霊樹』の設置場所だ。その重要性を思えば、【ゲートポイント】があるのは当たり前だろう」
問い詰められて、ルーゲントは苦々しく白状する。
「【ゲートポイント】だって? でもあれは、元老院議長が管理しているはずだろう? まさか……」
「……今回の作戦は、リオネル議長も了承の上だ」
「事実上の犬猿の仲だった議長と副議長が手を組んだの?」
ノエルは無表情の上に、わずかな驚きの色をにじませて問いかける。
「言ったはずだ。これは『魔族』全体の繁栄に関わる問題なのだ。議長派も反議長派も関係ない。ノエル、今ならお前も『最高傑作』を無事に確保してきた功労者となれるよう、俺が取り計らってやってもいい。だから、思い直せ」
「………………」
致命傷の上に致命傷を負って、どうするつもりなのだろうか? 僕はもはや呆れて物も言えない。
「あーあ、やっちゃったねえ。この人。楽には死ねないよ」
のんびりとした口調でレイフィアが言えば、
「シャルちゃん。向こうに行きましょう? ほら、テオくんも……」
アリシアさんもこれから起こるだろうことを察知してか、二人にこの場を離れるように促している。
「ノ、ノエル……」
シリルが心配そうに声をかけても、もはや彼女は返事もしない。シリルは、なおも声をかけようとしていたようだけれど、肩を後ろから押さえられ、そちらを振り向く。
「レイミ?」
「うふふふ。こうなったら止まりませんよ、彼女は」
「あなたでも、止められないの?」
「……勘違いしないでくださいね? わたしはこれから、彼女と一緒にスルんです」
レイミの言葉に、シリルは諦めたように息を吐いた。
「な、なんだ? いったいどうしたと言うのだ?」
ここでようやく、ノエルの様子がおかしいことに気付いたらしい。ルーゲントは狼狽したような声をあげた。
「……ルーゲントおじさま。教えてもらってばかりじゃ悪いから、僕からも教えてあげるよ」
「なに?」
「僕がおじさまを蛇蝎のごとく忌み嫌っている理由だよ」
「…………」
彼女に恋心を抱いている彼としては、知りたい話なのだろう。彼は黙って耳を傾けることにしたようだ。
「僕はね、ある意味、『博愛』主義者なんだ。だから、おじさまが『魔族』のくせに脳まで筋肉でできていようが、身の丈に見合わない高いプライドが鼻につこうが、その割には長いものには巻かれたがる卑屈さを持ち合わせていようが、そんなことでおじさまを嫌いになったりはしないんだよ」
随分と酷い言い方だった。それだけ言えば『お前のことが大嫌いです』と言っているようなものだと思うけど、まあ、実際にそうなのだろう。今のとは別の理由で。
「でもねえ、おじさま。僕がシリルと暮らしていることを知った時に、おじさまが言った台詞は今でもよく覚えているんだ。……『たかが道具の手入れに、誉れ高き魔貴族の子が従事させられているなんて、可哀そうでならない』だったかな?」
ルーゲントの背後に、いつの間にかレイミが立っていた。
「うふふ。彼女は、あなたがシリルさんを『道具』と言った回数をカウントしているそうですよ?」
「い、いったいなにが……」
「理由だよ。それが理由だ。それ以外にはない。君がどんなに僕に好意を寄せようと、この理由がある限り、僕はそれを踏みにじる」
「な!」
「回数だけど、さっきのを含めて13回だ。なるべくおじさまには会わないようにしていたからね。少なくてよかった。……その分、手間がかからなくて済むからね」
ノエルの顔はこちらからは見えないが、ルーゲントの恐怖に引きつる顔なら見える。つまりは、彼女の表情はそういうモノなのだろう。
「おじさまはこれから」
「あなたはこれから」
ノエルとレイミ、二人の声が唱和する。
「──13回、死ぬ」
-異変の兆し-
わたしたちはノエルとレイミをその場に残し、再びレイフォン殿の家へと戻った。『尋問を終えた後』に行われる拷問など、恐怖を禁じ得ないところではある。しかし、とても止められる雰囲気ではなかった。
「二人とも本当にごめんなさい。わたしたちがここに来たせいで、森の皆を巻き込んでしまったわ」
シリルは席に着くなり、神妙な顔をして謝罪の言葉を口にする。
「いや、気にしないでくれ。テオのことも含めて、改めてお礼を言わせてほしいのはこちらの方だ」
「そうですわ。むしろ、再び森を救ってくださった皆様には、何度感謝申し上げても足りないくらいです」
「そう言ってくれるのはありがたいけど……」
シリルは口をつぐむ。なおも何か言いたげな彼女に、微笑みかけたのはルフィール殿だった。
「とにかく、お茶をお持ちします。まずは一息つきましょう」
そう言って彼女が台所へと向かうのを確認したところで、レイフォン殿が自分の隣の席を睨みつける。
「う……」
そこには先ほど人質となっていたテオ少年がいる。なぜか身を縮こまらせている少年にレイフォンは厳しい表情を向けていた。
「テオ。どういうつもりだ? どうしてこんなところまで、一人で来た?」
「だ、だって……」
テオ少年は今にも泣き出しそうな顔で言葉を詰まらせる。
「なんだ?」
レイフォン殿は容赦ない。
「精霊の森を救ったシリルさんたちとレイフォン様がどんなお話をするのか、知りたかったんです。その、いつもレイフォン様は、皆さんのことを誇らしげに話していらっしゃったから……」
その言葉に、絶句するレイフォン殿。秀麗なその顔が長い耳まで含め、みるみる赤く染まっていく。
「そ、そんなことで……! き、君はわかってるのか? もう少しで命を落とすところだったんだぞ!」
「まあまあ、レイフォンくん。そのくらいにしてあげてよ」
アリシアがにやにやと笑いながら、言葉を挟む。どうやら先ほどの話を流してあげるつもりはないようだった。意地悪だな、彼女も。
「ねえ、テオくん? レイフォンくんって他には、あたしたちについて、どんなことをお話ししてたのかな?」
「え? えっと……」
「テ、テオ!」
わめくようにテオの言葉をさえぎるレイフォン殿。
「なんだよ、レイフォン。まさか、言えないようなことなのか?」
「え、いや、そんなことは……」
「じゃあ、いいじゃないか。なあ、テオ君」
ルシアまで悪乗りしている。
「……もう、それくらいにしてあげたら?」
「はーい」
「りょーかい」
シリルの呆れたような声に、二人はわざとらしい返事をする。
「うう、く、どうしてこんなことに……」
レイフォン殿は少し悔しそうだ。
「さ、お茶をお持ちしましたわ。お隣さんに教えていただいた、心を落ち着ける効果のある特製ハーブティーですのよ……って、レイフォン様? どうかしましたか?」
「ううん、なんでもない。でもさっそく、そのお茶が飲みたい気分だな……」
茶器を持って戻ってきたルフィール殿に、弱々しく返事をするレイフォン殿。ちらりとテオ少年を見れば、上気した顔でそんな二人を見つめている。憧れいっぱいといったところだろうか。
「外のアレ、あとどんくらいかかるんだろうね?」
言わなくてもいいことを口にするレイフィア。だが、確かに誰かが『終わった』かどうかを確認しに行くタイミングは必要かもしれない。
「心配しなくとも、我の“超感覚”なら、この場からでも生命反応ぐらいは確認できる」
ヴァリスが言うも、レイフィアは肩をすくめる。
「『死骸』でも、きっと駄目だと思うけどねえ」
シャルとテオ少年を見ながらの言葉だ。『後始末』まで終えたかどうかの確認が必要とは、つくづく恐ろしい話だった。
「そ、それより、みんなはこの後どうするつもりなんだ?」
やや唐突の感はあったが、レイフォン殿が会話を変えるように切り出してくれる。
「最後に行くのが【創世の聖地】だから、残りの【四大聖地】を順番に回ることになるでしょうね」
「そうか。……もし、みんなが世界を回るなら、気に留めておいてもらいたいことがあるんだ。つい最近のことなんだけど、すごく気になることがあってね」
レイフォン殿は、そこでなぜか言いにくそうに言葉を途切れさせる。
「レイフォン様? よろしいのですか?」
「ああ、彼らには知っておいてもらいたい。たぶん、僕たちの手に余る事態だと思うから」
ルフィール殿と二人、何かを確認し合うように頷きを交わすと、再びこちらに向き直るレイフォン殿。
「実は……ここ数日、この『創世霊樹』に流れてくる『精霊』や【マナ】の気配がおかしいんだ」
「おかしい?」
「ああ。『精霊』たちが酷く悲しんでいる……。そんな感じがするんだ。それに、【マナ】自体もおかしい。僕らの目には、【瘴気】と化す一歩手前の状態で、この森に流れてきているように見える」
「つまり、世界に何らかの異変が起きているということ?」
「うん。そうとしか考えられない」
「わたくしたちも原因を探ろうとはしているのですが、どうにも……」
わからない、ということか。まさかとは思うが、【狂夢】とやらが世界に及ぼす影響が大きくなりつつあるのだろうか?
「……それって、いつからかわかる?」
だが、シリルは別の可能性も考えているようだ。
「そうですね……多分、ここ一週間以内のことだとは思いますが……」
本当にごく最近の話のようだ。だが、それをわざわざわたしたちに話すということは、つまり、彼らの感じる異変が急激で、唐突なものなのだということに他ならない。
「……やっぱり、【狂夢】のせいというわけじゃなさそうね」
「なら、何が原因なんだろうな?」
ルシアが問うも、シリルは首を振る。
「……わからないわ。でも、そうね。アリシア。あなたなら、何かわかるんじゃないかしら?」
「え? あたし?」
いきなり話を振られて戸惑うように自分を指差すアリシア。
「ええ、レイフォンたちが漠然と感じているものも、あなたならもっとはっきりわかるかもしれないでしょう?」
「よくわからないけど、お茶が終わったら『創世霊樹』のところに行ってみるかい? 直接あの木の幹に触れれば、何か感じるものもあるはずだよ」
『妖精族』は、時折そうやって世界の【マナ】の状態を確認することがあるらしい。わたしたちはひとつ頷くと、さっそく『創世霊樹』の元まで向かうことにした。
レイフォン殿の家から外に出ると、ちょうどノエルたち二人が戻ってくるところだった。
「ああ、終わったんだ?」
レイフィアの問いかけに頷くノエル。
「とりあえず、ルーゲントと捕縛した衛士団員全員の処理は済んだよ。死体も残していないから安心してね」
にっこりと笑うノエルに、わたしは思わず背筋を寒くしてしまう。
「……衛士団全員って、まさか全員殺したのか?」
「まあね。僕たちの情報を持って生きて帰られるわけにはいかなかったし」
ルシアの問いかけにも、こともなげに答えるノエル。ますます彼女が怖くなりそうな場面だが、ルシアは表情を沈ませると、意外な行動に出た。
「ごめん。お前に汚れ役ばかりさせて……」
そう言って、頭を下げたのだ。そんな彼に、ノエルは驚いて目をみはっている。
──汚れ役? わたしは、彼の言葉の意味を考える。
まさか、彼女はルーゲントに拷問をするなどと言ってあえて皆を遠ざけ、後味の悪い捕虜の始末を引き受けたというのだろうか?
「……まったくもう、君はどうしてそういうところばっかり鋭いかな?」
呆れたようなノエルの声。だが、彼女の顔には、はにかむように柔らかい、そんな笑みがあった。彼女がシリル以外にそんな表情を向けるのは、珍しいことではないだろうか。
「うふふ、さすがはルシアさんです。あともうひと押しで、彼女もルシアさんの魅力に陥落してしまいそうですよ?」
「うえ? いや、その……」
いつの間にかレイミが含み笑いを漏らしつつ、ルシアにこっそり耳打ちをしている。だが、耳打ちにしては周囲に聞こえる声なのがわざとらしい。
「こらこら、勝手に変なことを吹き込まないでくれるかな? それより、どうしたんだい? もう出発でいいのかな?」
誤魔化すようなノエルの言葉に、わたしたちは彼女に事情を説明してやる。
「そうか、それは気になるね。確かめようか」
──その後、わたしたちは『創世霊樹』の根元に集まっていた。
「どう? アリシア」
「……」
アリシアは目を閉じたまま、『創世霊樹』に手を当てている。木とも呼べない巨大な茶色の塔。その上部は雲の彼方へと伸びている。これが文字どおり世界の生命線となる【魔導装置】だというのだから、スケールの大きい話だ。
「……そっか。やっぱり、そうなんだね」
目を開けてこちらに振り返ったアリシアの顔は、心なしか青ざめているようだった。
「何かわかったのか?」
ヴァリスが心配そうに問いかける。
「うん。『ジャシン』が……あの子たちが、目覚めてる」
「ジャシン? 『パラダイム』の連中がお前をさらって、復活させようとした奴らか?」
「うん。でも……どうして? あのとき、あたしがまともに“同調”できた相手は、ほとんどいなかったはずなのに……」
誰にともなく問いかけるアリシアに、返せる答えを持つ者はいない。ジャシンとやらが何者なのか、そのはっきりした答えを知る者さえいないのだから。
が、しかし──
「思い出しました。……いえ、違う。……ワタシは『憶えて』います。ワタシが『精霊』として生まれる『前』のこと……あの子たちは、『神』の行いによってこの世に生まれ堕ちたモノ。存在するだけで世界に害をなす彼らは、その境遇を嘆き、悲しみ、苦しんで、絶望して世界を呪っタ。世界の悲しみは、そこから始まった……」
シャル、いや、フィリスだろうか? 彼女は悲しげな声でつぶやく。
〈……それが『ジャシン』か。それが『神』が恐れていた本当の相手なのか? 彼らが世界の改変によって、生み出してしまったものなのか。存在するだけで世界に害をなすだと? なんだそれは? そんなもの……恐ろしいどころの話ではない〉
ファラは、いつの間にか実体化した状態で、声を震わせている。
〈哀れに過ぎる! どんな呪いだと言うのだ!〉
声を張り上げるファラ。わたしたちは、呆気にとられて彼女を見る。
〈お前たちにはわかるまい。『想うだけで世界に存在する存在』たる、わらわたちのようなものにとって、己の存在そのものが世界の害悪であるという事実が、どれだけ恐ろしいものなのか……〉
「ファ、ファラ?」
ルシアが戸惑ったように声をかけるが、ファラは怒りと悲しみをないまぜにしたような顔で首を振る。
〈くくく! なるほどな。耐えられないわけだ。逃げ出すわけだ。無責任? そんな次元の話ではない! なんという罪深さだ! 『間違っていない』だと? よくそんなことが言えたものだ!〉
猛るように叫ぶファラに、そっと近づく影が一つ。
「ファラちゃん。気持ちはわかるけど、そのくらいにしてあげて? ……レミルだって、わかってる。死ぬほど苦しんで、後悔しているの」
その声にファラは、はっとしてアリシアの手首に着けられた【魔鍵】を見る。
〈……すまなかった。取り乱してしまったな。わらわとしたことが情けない〉
「いや、いいって。それより世界に異変を起こすような存在を放置しておくわけにはいかないんだろう? どうする?」
ルシアの言葉に、わたしたちは沈黙する。
今のわたしたちには、【聖地】を巡って世界を救うという大仕事がある。ジャシンの対処とその仕事、どちらを優先すべきか? ジャシンの脅威のほどがわからないため、判断が難しい問題だろう。
しかし、わたしたちはそのことで頭を悩ませる必要はなさそうだった。
「……一部の『ジャシン』は、『神』と相打ちとなって封印されましタ。ですが彼らの多くは、存在さえ『神』に認められないまま『神』を滅ぼし、世界に包まれて眠りについていマス。……人々が【聖地】と呼ぶ『ジャシンの揺籃』で」
フィリスが厳かな声で、そう言ったからだ。