幕 間 その24 とある孤児の後悔
-とある孤児の後悔-
我は呼びかけの声に目を覚ました。
我の存在を否定したアリオス・マーセル。あれに我が存在を【水の骸】へと塗り替えられてから、およそ千年の時が経っている。その間に我は【ヴァイス】を『あの子』に刻み込み、人間たちが『魔神オルガスト』と呼ぶ存在を生み出した。
我が血肉を分けた存在が世界を蹂躙する様は、我にとって心地よいものだったが、それも長くは続かない。『神』の眷属ども──人間によって『魔神オルガスト』は倒されてしまったからだ。
その後、我はアベルという名の少年と出会う。あの少年は【オリジン】と【ヴァイス】、二つの力に翻弄され、板挟みに苦しんでいた。憎き『神』の眷属であるとはいえ、大切なものを守るために己の命を捨てた彼の行為は崇高だと思った。だから我は、彼を眷属としたのだった。そしてそのことにより、我は長年の呪いともいうべき、【水の骸】からの解放を果たした。
だが、完全な自由には、まだ足りない。目覚めの時は、まだ満ちない。
そう思っていたところへ、聞こえたのがあの呼びかけの声だ。生まれた瞬間からすべてを否定された我に、“同調”しようという愚かなる意識。だが、全てを包むような柔らかいその感触に、世界を破壊する喜びとは異なる、不思議な心地よさを感じたのも確かだった。
──だから、我は目覚めたのだが……
「嬉しいな……やっとだよ。やっと会えた。セフィリアの仲間になってくれる人に。『孤児』として、一緒にいてくれそうな人に」
地底湖にあった湖の水は、今やその大半が凝縮し、実体化した我の肉体と同化していた。地下洞窟の岩に腰かけ、青く透き通った己の身体を確認しながら、我は相手の紅き瞳に目を合わせる。
「何者かな? 君は」
我の声に、相手は楽しげな声で笑う。
「うんうん! お話ししよう? セフィリアはね、寂しかったの。この世界にはセフィリアと同じ人はいない。シャルはお友達になってくれたけど……。シャルみたいにセフィリアも、同じ『孤児』の仲間が欲しかったの」
こちらの声を聞いているのかいないのか、相手は『無邪気』に笑いながら、ひたすらに言葉を続ける。
「だから、セフィリアに近い存在の人に会えて、すっごく嬉しいの。……ねえ、仲良くしましょう?」
相手は、どうやら何かを勘違いしているようだ。確かに、我らは自らを生み出した『神』からも否定された『孤児』だ。ゆえに我らは世界を憎む。ゆえに我らは同胞を求める。だが、……だが、『コレ』はなんだ? こんなものが我らの同胞だと言うのか?
「ふざけるな」
「え?」
「同じだと? お前のような汚らわしい存在と我を一緒にするな」
「え? で、でも……」
相手の『無邪気』な紅い瞳が悲しげに揺らぐ。ソレを見て、我の胸奥で何かがざわつく。だが我は、それを無視した。
「お前が我が同胞だと言うのなら、その姿はなんだ? 憎んでも憎み切れない『神』──その眷属である人間などに宿るとは……。お前は、確かにかつては我らが同胞だったのかもしれない。だが、そのざまはなんだ? 己の矜持すら捨てて『神』に媚びを売ったのか?」
世界に対し、『邪悪』であること。
それこそが我らの存在理由であるというのに。
「う、あ、ああ……」
紅い髪が混じる金色の頭を左右に振りながら、二歩、三歩と後ずさる相手。見るに堪えない存在だ。哀れにさえ思えてくる。今ここで、我がその存在を終わらせてやるべきだろうか。
我の周囲に展開される無色の障壁“絶縁障壁”。アベルに刻み込んだものとは比較にならぬ、本物の、圧倒的な拒絶の障壁。否定の絶壁。
「失せろ。消えろ。目障りだ」
最後通告だった。だが、相手は首を振る。
「なんで?」
「なに?」
「どうして、そういうこと言うの? ただ、『セフィリア』と仲良くしてほしいだけなのに……。世界を拒絶するあなただったら、きっと同じでいてくれると思ったのに……」
相手の服が風にはためく。その髪が、ふわふわと持ち上がる。
イキモノのように動く紅い髪に触れるたび、周囲の岩石が音もなく消えていく。
我には仮にも同族であるがゆえか、相手が使う力が見える。
世界律を歪める力【ヴィシャスブランド】。
その性質から名づけるならば、相手のそれは“関係喪失”と呼ぶべきだろう。それは、関係性を、喪失す力だ。
関係性──それは『距離』であったり、『所有権』であったり、『人間関係』であったり、様々だ。まさに世界を憎む我らが同胞に、相応しい力だと言えるのかもしれない。
……だが、所詮コレは『紛い物』なのだ。
「【オリジン】を抱えた人間に宿りし、脆弱極まる半端者め。それこそが、お前の『邪悪』が──お前の【ヴァイス】が、紛い物である証拠ではないか」
思えばこの言葉は、我が自分を納得させるためにつぶやいた言葉だったのだろう。心に抱いた『恐怖』という名の感情を無視するため、我は見なければならない事実から目を逸らしていたのかもしれない。
だから、それは無意識だったのだろう。無意識のうちに、我は恐れたのだ。汚らわしいなどと言いながら、その存在を遠ざけたくて拒絶した。それが何よりの失敗だということが、我には理解できていなかった。
「……もう、やめて。それ以上、酷いこと言わないで」
紅い瞳から流れ落ちる涙。だが、我はますます恐怖を募らせる。
なんだコレは? こんなもの、こんなもの、この世にあって良いはずがない。
「なんだ、お前は。お前のような存在が、許されていいはずがない!」
存在そのものを否定する言葉。それがどれだけ残酷なものなのか、我自身、身に沁みて理解しているはずだったのに……。後悔しても後悔しきれない、最大にして最悪の失敗。それが、この言葉だったのかもしれない。
「いやああああ!」
周囲から、あらゆるものが『喪失』する。
気付いた時には、地底湖だった場所に存在した、あまねくすべてが消えていた。岩壁も地面も水も何もかもがだ。
漆黒の闇の中、我の腰かける岩とその周囲の地面だけが存在している。それはすなわち、“絶縁障壁”内の物だけが残ったということだ。
「……フフ、あは」
『少女』は笑う。『少女』は笑う。
そもそも世界からの『絶縁』を意味する我が力──“絶縁障壁”は、自分と世界との間に異物を割り込ませることによる『世界からの隔絶』だ。『少女』の力は、そんな我の力と似て非なるものだった。
『世界との関係性の喪失』──理屈からすれば、対象と世界との関係を喪失すことができれば、問答無用で対象を消し去ることができるのかもしれない。……だが、それは所詮、理想論だ。世界律を歪めた程度で、そこまでのことがなしうるものだろうか?
わからない。
──このときの我は、そこで思考を停止させた。その先の判断を放棄した。知ってしまえば、気付いてしまえば、『どうしようもない』のだと諦めるしかなくなることを、無意識に恐れていたのかもしれない。
しかし、我は『少女』が酷く『間違った』ものであることだけは理解していたのだろう。気づけば、こんな言葉を口にしていた。
「お、お前は間違っている。お前は生きていてはならない。存在してはならない。今ここで、死ね。欠片も残さず消滅してしまえ!」
『少女』の力が何であれ、我の能力“絶縁障壁”を超えて干渉してくることはできなかったのだ。周囲の現象こそ理解の域を越えてはいるが、この能力で対抗できない相手ではない。
この時の我はまだ、そんな甘いことを考えていた。たかだか世界律を歪ませる程度の力で、世界律そのものの枠から外れた力に対抗できるはずなど、なかったと言うのに。
我は手を伸ばす。生み出されるは、世界に異物を差し込む剣──『絶縁の剣』。
割って入り、その繋がりをさえぎる剣。それは、我が抱く世界への呪い。まっすぐに伸びる不可視の剣は、『少女』の胸にぐさりと刺さる。
「絶縁の剣。我はお前を拒絶する。失せろ」
「……ウフフ。……うふふ」
「なに?」
『少女』は笑う。『少女』は笑う。
どうして気付かなかったのか?
我の目の前には……『二人』の『少女』がいることに。
「もう独りはいや……。村の皆も、もういない。子供たちまで死んじゃった。わたしは『人』であって、『人』じゃなかった。だから、人を見るのがさびしいの。だから、あなたに会えて嬉しいと思いたかったのに……」
我の力を凝縮し、我の呪いを一つの形と成して生み出した『絶縁の剣』は、しかし、あっさりと砕かれる。……それはすなわち、我の能力が砕かれたことを意味する。我の存在が、否定されたことを意味する。……『神』でさえ、他者の存在を根本から否定することはできない、のに。
だが、だとするならばコレはなんだ?
ここでようやく我は己の過ちに気付く。だが、この『同胞』に敵対したことが……ではない。それとは別の、『セフィリア』と呼ばれる『少女』をここまで追い詰めてしまったことこそが過ちだ。
最初に語りかけてきた相手とは、同一にして異なるモノ。
最初に語りかけてきた相手が、生まれ持つ『邪悪』を喪失した存在だとすれば、今の言葉は、生まれた瞬間から一切の『邪悪』を持たない存在から発せられたものだ。
無邪気であるがゆえに道理が通じず、道理が通じないがゆえに手が付けられない。
それはまさに──“天意無法”。
彼女のみが有する力。──否、『有しない』という力。
何もない彼女に、この世界で『できない』ことなどない。
「あなたを見てると、セフィリアは苦しいの。だから……ワタシが喪失さなきゃ、喪失さなきゃ……手に入らないのなら、いっそのこと、喪失なっちゃえばいい。そうすれば、苦しまなくてすむもの」
気づけば、目の前の少女の声が、二重に響いていた。『彼女たち』の髪は、我の障壁を囲んでいた。金と紅、二色の髪が長く伸ばされ、ぐるりと周囲を取り巻いている。
「……あなたを喪失したら、少しは『すっと』するかなあ?」
我の障壁が消滅する。それは、我の存在が、そのすべてが否定され、無視された瞬間だった。アリオスに我が存在を『上塗りされた』時の比ではない衝撃が我を襲う。
「ぐ、う、あああああ!」
いやだ。我はココにいる! 我は確かにココにいる! 消えてたまるか! 我を否定した世界を許すものか。そんな魂の叫びを無視するかのように、我の青い身体を包む真紅の閃光。金色の烈光。
「だ、誰か! 我の声を聞け! 我はココにいる! 同胞たちよ。我らはただの孤児では終わらぬ! この無念、どうか、誰か、我に代わって果たしてくれ!」
己の存在が喪失なっていく感覚を味わいながら、我は叫ぶ。世界のどこかに眠るであろう、我らが同胞に向けて。この声が届くことを願って。
……気づけば、すでに『少女』──否、セフィリアの姿はなかった。かろうじて自我を保つ我は、本当の意味で【水の骸】と化してしまったのかもしれない。
霞む意識の断片でそんなことを思った、そのときだった。男の声がする。
「……腐っても流石は『ジャシン』だ。セフィリアのアレを受けて、なお辛うじて自我を保つとはな」
声は聞こえど、姿は見えない。だが、妙に耳障りな声だ。
「……“天意無法”。何故ニンゲンに、あんな力が……」
人として生まれながら、人から逸脱した彼女。その在り方は恐ろしく純粋で、恐ろしく孤独なものだ。生みの親から否定された我ら以上に救いがない。世界から否定されるより早く、彼女自身の存在が世界との関わりを否定しているのだから。
彼女は──『世界の孤児』だった。
……だからこそ、あの『同胞』はあの『少女』に宿ったのか。我らが同胞としての在り方を捨ててまで、あの『少女』と共にあろうとしたのか。
「……さあな。あれは俺がローグ村の廃墟で拾ったモノだ。辺境の村だからこそかな? 世界を知らない無垢なる少女。仮に運命とやらに意思があるなら、気紛れに奇跡を宿らせる対象としては、ああいう少女が好みなのかもしれないがな」
不真面目に、いい加減に、投げやりな言葉を口にする男。
楽しいことを前にして、気もそぞろと言わんばかりの口調だった。
「『絶縁の剣』だったか? あれのおかげで随分と助かった。礼を言おう。……そろそろ眠るがいい。お前の呼びかけに応じた『ジャシン』が、世界を引っ掻きまわしてくれるなら、それに越したことはない。せいぜい高みの見物でもさせてもらうとするさ」
その言葉を最後に、その声は聞こえなくなった。
……我は後悔する。同胞たちを呼び起こしたことを後悔する。同胞たちはこの世界で再び覚醒するかもしれないが、その先に待つものは希望などではあり得ない。
あの男とセフィリアがいる限り、世界にはただ混乱と喪失だけがあり続けるだろう……。