第117話 寄り添い歩く道/今日のわたしの欲しいもの
-寄り添い歩く道-
【瘴気】に満ちた周囲の空間は、重く淀んでいて、何となく息苦しい。もちろん気のせいなんかじゃなく、実際に呼吸は苦しくなっているのだろう。だが、耐えられないほどではない。どうにか『放魔の生骸装甲』が効力を発揮してくれているおかげだろうか?
〈なわけがあるか、たわけめ〉
突然後ろから響く声。
〈なんだよ、ファラ〉
〈さっきからわらわが体内の【瘴気】の中和に協力してやらなかったら、お主はとっくに倒れているぞ〉
〈え? まじで?〉
俺が思わず振り返って問いかけると、ファラはやれやれと言った顔で首を振る。
〈中和に集中する必要がありそうだ。しばらくお主の中に戻っているぞ〉
〈……そか、世話をかけるな〉
俺がそう言うと、ファラは気にするなと言わんばかりに手を振り、そのまま姿を消した。通路の奥に向かって俺が足早に歩を進めていくと、すぐにシリルの後姿が見えてきた。
「おーい! シリル!」
「きゃ!」
俺の声に、シリルはびっくりしたように飛び上がる。腰まで流れる銀髪とその下の薄紫のスカートの生地が連動するように舞い上がり、ふわりとはためく。
「ル、ルシア! 何やってるのよ! どうして付いて来たの?!」
「そりゃ、心配だからな」
「う……」
俺が素っ気なくそう言うと、シリルは一瞬だけ言葉を詰まらせて動きを止め、軽く息をついてから再び口を開く。
「あのねえ……ここには【瘴気】が充満してるのよ? 危険じゃない!」
「ああ、装備の効果もあるし、ファラが中和に協力してくれてるからな。心配ないよ」
「もう、あなたって人は……」
呆れたように息をつくシリル。
「……いいわ。行きましょ?」
「ああ」
しかし、シリルは何故か、隣を歩きながら俺の顔を見上げてくる。
「ん? どうした?」
「……無理してるでしょう?」
「へ?」
「少し辛そうに見えるもの」
「うーん、無理してるって程じゃないよ。少し息苦しいだけだ」
俺の返答にシリルは少し考え込むように下を向いた後、突然、顔を上げて切り出した。
「わ、わたしの『聖衣』には周囲の【瘴気】を浄化する機能があるわ」
「ん? ああ、それは知ってるけど……」
なんだ? なんで今更そんなことを?
シリルは彼女にしては珍しく、しどろもどろに言葉を続ける。
「だ、だから、もうちょっと近づきなさいよ。そうすれば、貴方も楽になるはずよ?」
「……なるほど。でも、いいのか?」
「だ、駄目だったらこんなこと言わないでしょ!」
「あ、ああ、そうだな。ごめん」
俺は恐る恐る彼女との距離を詰める。確かに、彼女の『聖衣』に近づくと心なしか身体が楽になったような気がしてくる。それはともかく、身体が触れ合うか触れあわないかの距離を微妙に意識してしまう自分が情けない。
「そんなんじゃ駄目よ。こ、これくらいしないと……」
シリルは早口にそう言うと、俺の腕を掴んだ。……いや、自分の胸に抱え込むようにして抱きついてきたのだ。
「う、お……」
や、柔らかい。これだけ密着すれば流石に、やっぱり彼女も女性らしい体つきをしているのだとわかる。いやでも、わかってしまう。こんなもの、意識するなという方が無理だろう。
「ありがとうな。シリル」
「? これくらいで礼なんていいわよ」
……危なかった。思わず別の意味で礼を言ってしまったが、さすがに彼女はそんな風には受け取らなかったらしい。助かった。
抱きつかれた右腕に、柔らかさとともに感じるもの。それはもちろん、彼女の体温だ。温かく血の通った彼女のぬくもり。自分の心臓の鼓動が、恐ろしく速くなっているのがわかる。
だが、もうひとつ。感じるものがあった。それは──『震え』だ。彼女の身体がほんのわずかだけれど、震えているのが伝わってくる。
「……礼を言わなくちゃいけないのは、わたしの方だわ」
「シリル?」
「ありがとう。追いかけてきてくれて。ほんとは……心細かったんだ」
俺の腕に、新たな感触があった。シリルが頭を預けてきたのだ。彼女は、自分の頬を俺の腕に押し付けるようにして、ぎゅっとしがみついてくる。まるで不安な気持ちを押し殺そうとするかのように。
「言っただろ? 俺にかかれば、どんなものだって一刀両断だ。俺がいる限り、怖いことなんて何もないさ」
「……うん」
それからしばらく、俺たちは無言のまま歩き続ける。身を寄せ合って暗い道を歩いていると、まるでこの世界に自分と彼女の二人だけしか存在しないかのような錯覚に陥る。
かつて、守るべきものを守ることができなかったはずの俺を、この世界で唯一、頼ってくれる存在がある。それが俺には、たまらなく嬉しかった。
「……なあ、ところで【魔力】の補給はいいのか?」
だんだんと照れくさくなってきた俺は、つい思い出したようにそんな話を振ってしまう。
「え?」
「言ってたじゃないか。帰りの【魔力】が必要なんだろ?」
俺がそう言うと、腕にしがみついたままのシリルの身体が、びくりと震えるのが分かった。さっきまでとは別の意味での震えだ。
「い、言ったけど……」
「それともやっぱ、皆の元に戻ってからでいいのか?」
「うう! や、やるわよ、やればいいんでしょ?」
シリルは顔を真っ赤にしながらやけくそ気味に言い放つ。だが、ようやく天使の羽根が見られるのだろうかと浮足立つ俺に、彼女はこんなことを言ってきた。
「……考えてみれば、この体勢ならルシアからは良く見えないんだし、写真を撮られる心配もないものね」
しまったああああ! 俺は心の中で絶叫した。そうだった。シリルの背中に出現するアレを鑑賞するには、真横でぴったりと寄り添う今の態勢では不可能なのだ。かといって離れるわけにもいかない、というか離れたくもないし……。
「あ、後で写真を撮るってのも、駄目か?」
我ながら、情けなくもおどおどとした声だ。
「……もう、ノエルと変な約束なんかするからよ」
「いや、まあな……」
「わ、わたしの小さい頃の写真なら、後で見せてあげる。それでいいでしょ?」
「おお! 本当か?」
「きゃ!」
思わず声が大きくなってしまった。シリルを驚かせてしまったみたいだ
「なんで、わたしの子供の時の写真なんか、そんなに見たがるかな……?」
呆れたように疑問の言葉を口にするシリル。
「そりゃ、お前……」
「いい! 言わなくていいから!」
最後まで言わせてはもらえなかった。見下ろしてみれば、彼女の耳がほんのり赤くなっているのが見える。『精輝石』の明かりがあるとは言え、そんなわずかな色の変化まで確認できたことを、俺はふと不思議に思う。
「ん? おお!」
どうにか首をひねって斜め後ろに目を向けた俺の視界には、いっぱいに広がる銀の翼の輝きがあった。
「うう……、どさくさに紛れて出そうと思ったのに……」
「なあ、シリル。なにもそんなに恥ずかしがることないんじゃないか?」
「は、恥ずかしいに決まってるでしょ! て、天使の羽根だなんて、何考えてるのよ……ランディの奴。これ、わたしが直そうとしても直せないくらい機能そのものに融合してるし……」
でかした、ランディ! 俺は心の中で『魔導都市』のカリスマ店長に賞賛の言葉を贈る。
「でもなあ、シリル。そりゃ、いかついおっさんに羽が生えてたらドン引きだけどさ、シリルだったら本物の天使にしか見えないぜ?」
「ば、ばか! 何を変なこと言ってるのよ、もう……」
シリルは怒って顔をこちらから背けてしまう。しまった。拗ねてしまったか。ここは話題を変えた方がいいかもしれない。
「と、ところでさ……」
「……なに?」
そっぽを向いたまま、不機嫌な返事をしてくるシリル。恐ろしく声が低い。だが、ここで怯んじゃ駄目だ。俺は言葉を続ける。
「天使とか悪魔って何なんだろうな? 考えてみれば、俺の持つイメージとこの世界の人間の持つイメージが共通してるってのは不思議じゃないか?」
「え? そ、そうね。……『四柱神』が貴方たちの世界を創るにあたって、こちらの世界を模倣したのなら、あり得ない話じゃないと思う。……ファラも言っていたでしょう? 『神』は高次精神体なんだって。それは、あなたたちの精神性にも影響を与えてるのかもしれないわ」
「だとすると、『四柱神』の連中にとっての、天使や悪魔のイメージがあるってことか? 天使ってのは神様の使いって意味だろう? で、悪魔ってのはそれに敵対するものってことなんだろうし……」
俺の疑問に深く思案する顔で黙り込むシリル。彼女はこういう答えの出なさそうな議論をふっかけると、それまでのことをそっちのけで考えにふける癖がある。今頃はもう、さっきまで自分が拗ねていたことなんて忘れているだろう。
「『古代魔族』の間では、『天使』というのは『神』の力──つまり【魔法】を自由自在に使いこなせる存在のことを言う場合が多いわね。言い換えれば、『究極の魔法使い』ということになるかしら?」
「じゃあ、悪魔は?」
「……逆ね。【魔法】の力がまるで通じない存在。ファラの話から考えれば、『邪神』なんかはまさに悪魔の象徴なのかもしれないわ」
究極の魔法使いと魔法が効かない存在。天使と悪魔。その組み合わせには、いろいろと連想させられるものがある。
「『竜の谷』であなたの【魔鍵】が突き刺さっていた『邪神』の遺骸も、角付きでいかにも『悪魔』って感じだったし、それが『神』のイメージなんでしょうね」
そんな会話を続けているうちに、ようやく俺たちは一つの扉の前に辿り着く。
「着いたわね。……この奥には罠はないわ。入りましょう?」
「ああ」
それでも念のため、扉は俺が斬り裂いて開ける。そして、斬り倒された扉の向こう側には、目を疑う光景があった。
「うおお……なんだこりゃ。随分とコンソールだの、モニタだのパネルだのが目に付くな。もしかして、ここも観測施設なのか? にしては、その……」
そうは言ってみたものの、広い室内には椅子や机は愚か、ベッドや食器棚まである。生活感丸出しの室内の壁に機械的な装置が取り付けられたような、違和感のある部屋だった。
だが、そんな俺の驚きとは別の反応を示したのは、シリルだった。
「こ、ここは……」
彼女は俺の腕を離すと、銀の翼を出したまま、ふらふらと歩き出す。
「お、おい、大丈夫か?」
そんな俺の声も聞こえていないかのようだ。
彼女はコンソールの一つに辿り着くと、それに軽く手を触れた。すると、次の瞬間。
「うわっ!」
起動音と共に、周囲のモニタに一斉に光が灯る。各モニタ画面には何やら文字のようなものが表示されており、シリルがコンソールに指を走らせるたびごとに、表示が次々と切り替わっていく。
いったい、何が始まるのだろうか?
-今日のわたしの欲しいもの-
ここは『彼女』の箱庭だ。
研究施設の名を借りた、彼女の私的なおもちゃ箱。
通信画面に表示される文字列に、わたしは思わず圧倒されてしまう。まさしく彼女は天才だった。それは間違いない。でも、それ以上に彼女は欲張りでわがままな、どうしようもない『子供』だった。
「シ、シリル? まさか、また……」
「大丈夫よ、今はね。……でも、これからわたしが正気でいられるように、わたしの手を握ってて……」
わたしは右手を操作盤に置きながら、左手を後ろに向かって差し伸べる。
「……」
そっと優しく包まれる左手の感触に、わたしの心が満たされる。
──うん、大丈夫。これ以上、『彼女』の意識に流されることはない。
アリシアでもないのに、どうしてわたしがこの施設に残された『彼女』の意識にこんなにも“同調”してしまうのかはわからなかったけど、それはこの際考えても仕方がない。
「ここに表示されているのは、この施設を造った人の日記みたいなものよ。本来は研究記録なのだろうけれど、真面目に書く気もなかったみたいね」
「なんて、書いてあるんだ?」
ルシアに催促されて、わたしは日記を読み上げる。
──今日の私の欲しいもの。
飽きずに読める本が欲しい。そんなことを口にしたら、私に本がやってきた。
「これからは僕がお話をお聞かせします」
……とりあえず、今日は満足。
──今日の私の欲しいもの。
よく眠れる枕が欲しい。そんなことを口にしたら、私の枕が文句を言った。
「僕ではご不満なのですか?」
……やっぱりいいや、面倒だ。
──今日の私の欲しいもの。
気持ち良くなる道具が欲しい。そんなことを口にしたら、私の道具が赤くなった。
「ぼ、僕で良ければ頑張ります!」
……正直、意味が分からない。
──今日の私の欲しいもの。
色々弄れる玩具が欲しい。そんなことを口にしたら、私の玩具が身を差し出した。
「僕で良ければ、使ってください」
……しばらくは、退屈しないで済みそうだった。
──今日の……
「……って、ちょっとなんだよ、それ?」
淡々と読み上げるわたしの声に、戸惑うようなルシアの言葉。
「言ったでしょう? 日記だって」
「いや、それはそうだけど、意味が分からない上に、これが延々と続くのか?」
「……『彼女』の人間性を理解するには、このあたりから読んだ方がいいかと思って」
「人間性? まあ、ある意味じゃ詩人というかなんというか、不思議な言い回しが多かったとは思うけどな」
詩人? 彼は何を言っているのだろう?
「え? だってほら、道具のことを擬人化したり、言葉をしゃべらせたりしてるみたいだったじゃないか」
ああ、なるほど。それは大きな勘違いをしたものね。
「擬人化じゃないわ。ここに出てくる『僕』と言うのは、人のことよ」
「なに?」
「だから、物を人に擬したのではなくて、人を物に擬した……いえ、物と同じだと言っているのよ、彼女は」
「……」
わたしの言葉に絶句するルシア。どうやらわかってくれたみたいね。そろそろ、核心部分を読み上げることにしましょうか。わたしは操作盤を使い、『日記』の記載方法が若干変わり始めた場所へと表示を変える。同じ書き方をすることすら、途中で彼女は飽きてしまったみたいだ。
──今日の私はつまらない。
アレが「僕も貴女みたいになりたい」なんて言うものだから、私はアレを「私」にしてやった。姿も形も性別も、自分とまるで異なるものにされたなら、どんな顔をするだろう? 私はそれが楽しみだったのに……
「あ、ありがとうございます! すごく嬉しいです!」
つまらないつまらないつまらない。仕方がないから私はアレを元に戻す。それでもアレは、喜ぶことをやめなかった。……アレは本当に変わっている。
──今日の私の欲しいもの。
アレがこんなことを言い出した。
「僕は尊敬する貴女とずっとこうしていられたら、他に何もいりません」
ずっと? そんなの無理。人も動物も植物も、いつかは死ぬ。アレには色々と改造を施したけれど、『永遠に』とはいかないだろう。
……無理? 私が? 私に、無理なことなんかない。
欲しいものは掴みとる。不可能ならば可能に変える。
存在しないものならば、新たに創りだせばいい。
──今日の私の欲しいもの。
私は、『永遠』が欲しい。……試してみたい、だけだけど。
そのために、玩具を創ろう。そうしよう。
時間に楔を打ち込んで、世界を繕い装おう……。
わたしは、そこで読むのをやめる。
「なんだ、これ? 本当なのか?」
「……ええ、本当よ。『クロイアの楔』。それは文字どおり、永遠を生み出すための【魔導装置】」
わたしはそこで、ようやくルシアの方へと振り返る。
「え、永遠を生み出すって、そんなものどうやって?」
「書いてあったとおりよ。時間を止める──もっとも『擬似的に』という意味だろうけど」
だとしても、気が狂っている。ルシアはそう言いたげな顔をした。もちろん、わたしだってそう思う。時間という形のないものに干渉する? あり得ないし、馬鹿馬鹿しい。そんな発想をすること自体、子供じみている。
「彼女は天才だったみたいね。ほとんど完全に、それを実現する道具を創り出した。とんでもないわ」
「まじかよ。でも、時間なんて止まってないよな?」
「ここの記録によれば、時間を止めるには莫大な【魔力】が必要みたいね。しかも、そこまでもしたとしても、『時間停止』の効果は一時的なものでしかない。つまり、彼女は『永遠』を生み出すこと自体には失敗したと言うべきなのかもしれないわ」
もっとも日記の続きを読む限り、彼女はこの道具を造った時点で満足して、当初の目的自体を忘れてしまった節さえあるけれど。
「それで、『クロイアの楔』はここにあるのか?」
「……ええ、あるわ。でも、どうなのかしらね?」
「え?」
わたしは意味深な言葉をルシアに向けてつぶやくと、改めて彼女の日記が表示された通信画面を見つめる。
「この日記には、『楔』の隠し場所については、一切言及されていないの」
「じゃあ、結局わからないってことか?」
「……いえ、わたしにはわかる。『彼女』なら、自分の『玩具』をどこにしまうのか? 考えるまでもないのよ。もっとも、合理性を追求する他の『魔族』の連中には、思いもつかない場所でしょうけど」
言いながら、わたしは部屋の中央へと歩き出す。そこには、ベッドがある。天蓋付のダブルサイズの大きなベッド。もう何百年も放置されているだろうに、まるで傷んだ様子もない。
「シ、シリル? どうした、眠いのか?」
「そんなわけないでしょ」
ルシアの冗談に素っ気なく返事を返しつつ、わたしは身を屈める。これこそ、冗談みたいな話だった。
「ベッドの下?」
ルシアの声を聞きながら、わたしはベッドの下に手を伸ばす。そして、そこから一本の金色の鍵のようなものを取り出した。まさしくそのままの、どこかの扉を開けるような形のものだ。
「隠し場所がベッドの下って……」
「言ったでしょう? 玩具だって。時を止める【超魔導装置】でさえ、彼女にとっては、その程度のものなんでしょうね」
「にしては、随分トラップが酷かったじゃないか」
「……それは単に自分の寝室に、他人が入るのが嫌だったからじゃない?」
「……なるほどな」
わたしの寝室に勝手に入ったことのあるルシアは、ばつの悪そうな顔をした。それから、話題を変えるようにこんなことを言い出した。
「な、なあ……そう言えば結局、時を止めるとかいう【魔導装置】を『魔族』が捜してた理由がわからないんだが……」
そう、ノエルはこれを手に入れることで『世界の理』計画の真相に迫れるかもしれないと言っていた。けれど、期待していたほどじゃない。ただ、これはわたしにとって希望の持てる話でもある。
「この場合は単純に考えていいのだと思うわ。つまり、時を止めるのよ」
「止めてどうするんだ?」
「時間を稼ぐの。【狂夢】の再構築にはね、二つの大魔法が必要なのよ。《収束する世界律》という【狂夢】を収束させる魔法と《顕現する世界律》という再構築の魔法の二つがね。でも、そのためには一つだけ、大きな問題があった」
わたしはそこで言葉を切る。それこそが、わたしを悩ませていた大きな問題でもあった。どんなに完璧に魔力制御を行っても、どうしようもない大問題。世界を破滅と混乱に巻き込みかねない厳然たる事実。
「前者の魔法を使った時点で、わたしの【魔力】は完全に枯渇する。回復までには丸一日はかかるわ。たとえこの『紫銀天使の聖衣』を使ってもね。でも、【狂夢】が収束した世界では、一部を除いて【魔法】が使えなくなる。今の世界で突然、【魔法】が消えて──それも長時間そのままになんてなったりしたら、何が起こると思う?」
「……とんでもない犠牲が出るな」
さすがにルシアも、この世界のことがよく分かるようになってきている。戦闘中などの非常事態に【魔法】が使えなくなる危険というのもあるけれど、もっと日常的な問題がある。昇降機などを初めとして、あらゆる面で世界には【魔法】の力があふれているのだ。それが急に力を失えば、間違いなく大混乱だ。
そもそも【魔法】の作用が急激に失われると言うこと自体、世界にどんな影響を与えるのか、予測がつかない部分もある。もちろん、それは『魔導都市』だって例外じゃない。
「そうか。だからこその時間稼ぎか」
ルシアはようやく納得したように頷いた。
「ええ。術者を中心とした一帯を『楔』に変えて、『時間』──この場合は【自然法則】と言えばいいかしらね──を止める。簡単に言えば、それが『クロイアの楔』の機能よ。世界が止まれば混乱も起きないでしょうし、その間に【魔力】の回復も図れるってわけ」
もちろん、これはわたしの推測にすぎないし、ノエルの元に持ち帰って詳しい分析をするべきだろう。
元老院はなぜ、この『楔』の存在をわたしに知らせようとしなかったのか? 二つの術の間の『時間稼ぎ』に使えるのであれば、術師であるわたしにそれを知らせないのはおかしいのではないか? そんな疑問もある。
「ええ、それじゃあ行きましょう。みんなが待ってるわ」
「ああ、そうだな。目的の物も手に入ったし、さっさと脱出しよう」
わたしたちは、再び寄り添って『彼女』の寝室を後にする。『瘴気発生装置』は止めたけれど、残った【瘴気】を浄化できたわけではない。……ううん、それは言い訳ね。わたしはただ、こうして彼と寄り添っていたいだけ。
『あれ』を読んで、わたしは彼がここまでついて来てくれて、本当に良かったと思った。
──私の寝室に来たあなたへ。
そんな言葉から始まるメッセージ。
〈これを見ているそこのあなた。あなたはいったい、ここに来るまで何人の『道具』を犠牲にして、見捨てて、使い捨ててきた? でも残念でした。ここには大したものはない。わたしの玩具が置いてあるだけ。馬鹿みたい。……でも、あなたがもし、誰一人犠牲にせずに来たのなら……きっとあなたは私と同じ。私と同じで独りきり〉
そして、その後には、こう付け加えられていた。
〈そんなことあるはずもないけれど、私と同じあなたがここに、他の誰かと立っているなら……面白い面白い面白い面白い。私はあなたに会ってみたい……〉
本当に欲しいものは、自分一人じゃ手に入れられない。
──そのことが彼女には、わかっていたのだろうか?
胸に感じる彼のぬくもり──ただそれだけが、今日のわたしの欲しいもの。