第102話 ウソとホントと/恋愛感情
-ウソとホントと-
──女性陣が借りている宿の一室にて。
「うう、わたしもう、生きていけない……」
「そんなこと言わないの。大丈夫、ちゃんと可愛かったから」
あたしは半べそをかいているシリルちゃんの背中を、よしよしと撫でてやっていた。天使の翼を生やしたかのようなシリルちゃんの姿は、確かに可愛かったけど、流石にあれは『やりすぎ』だよね。シリルちゃんが恥ずかしがる気持ちはよくわかる。
あの後、あたしはルシアくんから『写真』撮影用の【魔導装置】を取り上げると、シリルちゃんにやり方を聞きながら、どうにか操作して天使姿のシリルちゃんの絵だけは消しておいた。取り上げられる際、なにやらルシアくんが血の涙を流していたけれど、だって流石に可哀そうなんだもの。
「あ、ありがと、アリシア。ようやく少し落ち着いたわ。……でもこんなのってないわよ。騙し討ちもいいところよ。後でランディに抗議してやらなくちゃ……」
「あはは、ほどほどにね」
まだ少し涙目のシリルちゃんをなだめながらも、あたしは話題転換をする必要を感じていた。このままだといつまでも引き摺っちゃいそうだしね。
「ねえ、シリルちゃん。ちょっと相談があるんだけど……」
「え? なにかしら?」
──相談ごとを持ちかける。
こうすると人の良いシリルちゃんは、自分のことなんてそっちのけで話を聞いてくれるようになる。騙すみたいで悪いけど、最近、すごく気になることがあるのは本当だった。この際、シリルちゃんに聞いてみるのもいいかもしれない。
「えっとね。ヴァリスのことなんだけど……」
「ヴァリスの?」
「うん……。その、ね。この前、ヴァリスが本を真剣に読んでいたの」
「え? そんなのいつものことでしょう? 彼、意外と勉強熱心だもの。……ルシアと違って」
そこでルシアくんを引き合いに出すかなあ。まあ、親愛の表れみたいなものなのかな?
「そうだけど、そうじゃなくて! その、読んでた本がね? ……恋愛小説、みたいなの……」
「ええ! れ、恋愛小説って、あ、あの、ヴァリスが?」
シリルちゃんが目を丸くして驚いている。あたしだって最初に見たときは自分の目がおかしくなったかと思ったくらいだし、無理もないけれど。
「そ、そう……。それは大事件ね。でも、確かシャルがその手の本を持っていたし、暇つぶしか何かで借りたんじゃないの?」
「でも、シャルちゃんがそんな本を人に貸すかな? それに、ヴァリスが『暇つぶし』?」
「ありえないわね……」
シャルちゃんはその手の本を読んでいることを人に知られたくないみたいだったし、ヴァリスなんて暇さえあれば鍛錬するか勉強するかのどちらかなんだから。
「……だとすれば、やっぱり『勉強』なんじゃないかしらね」
「恋愛小説で勉強?」
「うーん、人間の心理を知りたいとか? でも、『恋愛』なのよね……」
まさか、ヴァリスが『恋愛』に興味を持ち始めてるってことなのかな?……本当に?
「……チャンスじゃない!」
「きゃ!」
あれこれ考え始めたあたしの手を掴みながら、シリルちゃんが叫ぶ。そして、握られた手からシリルちゃんの思考が怒涛のように流れ込んでくる。それはおおむね、あたしが考えていることに近くて、それでいて、あたしが考えていることとは……決定的に違っていた。
「ど、どうしたの?」
あたしの表情が暗くなったことに気付いたのか、シリルちゃんが心配そうに尋ねてくる。
「シリルちゃんが考えているようには、いかないよ……」
「え?」
「あたしとヴァリスがそんなふうに、なれるわけないんだよ」
あたしが力無く話す言葉に、シリルちゃんは不思議そうな顔をする。
「大丈夫よ。だってヴァリスが恋愛に関心を持つなんてことがあるとしたら、アリシアが関係している可能性は十分にあるわよ。それにもし、種族の違いを気にしているんだったら、それだって……」
「違うの! そういうことじゃないの!」
あたしは手から流れ込んでくるシリルちゃんの想いが辛くて、乱暴にその手を振り払う。
「ア、アリシア?」
「あ……、ご、ごめんなさい!」
慌てて謝るあたしに、シリルちゃんは特に気にした様子もなく首を振る。
「別にいいわよ。でも、いったいどうしたの?」
どうしたらいいんだろう? あたしが抱えているものを、どうやったらシリルちゃんにもわかってもらえるだろう? いい考えが思いつかないままに、あたしはしどろもどろに言葉を続ける。
「駄目なのは、あたしの方だよ。あたしには、ヴァリスは眩しすぎるの。見ているだけで、十分なの。……ううん、違う。彼に、近づきすぎるのが怖いの……」
「どうして?」
シリルちゃんの声は、あくまで優しい。あたしの悩みを気遣うかのようなそんな声に、あたしはなおさら続きを話すことにためらいを感じてしまう。
「あたしが、嘘をついているから。……ねえ、シリルちゃん。あたしって、どんな女の子に見える?」
「え? ええと……そうね。元気で明るくて可愛いものが大好きで、けれど人見知りで怖がりでおっちょこちょいで傷つきやすい、でも誰よりも優しい女の子……かな?」
立て板に水の勢いで語るシリルちゃん。自分の特徴をそこまで他人に並べ立てられると、流石に恥ずかしいよ……。
──でも
「でも、それって全部、嘘なんだ。本当のあたしはね、腹黒くって意地汚くって、自分が傷つかないためにズルをして、他人を騙して、そのくせ八方美人に良い顔をして見せる。そんな嫌な奴なんだよ?」
一息にまくしたてた後、あたしは一拍の間をおいて続ける。
「──あたしはずっと、そうやって生きてきた。シリルちゃんに見せているこの顔だって、本当のあたしじゃないんだよ? そんなあたしには、ヴァリスみたいな人とそんな関係になる資格なんてないよ……」
ヴァリスに惹かれる自分の気持ちに歯止めをかけられずにいたあたしは、出会ってからこれまでの間に、随分と彼に近づいてしまった。けれど、だからこそ、もう限界なんだ。これ以上近づいたら、『見る』だけじゃなく、『見られて』しまう。
汚いあたしを、醜いあたしを、彼に、見られてしまうのが怖い……。
うつむいていたあたしは、ふと、目の前の空間から『強い感情』の気配を感じた。ごくまれに、強力すぎる感情はその人を視界に入れなくても感じ取れてしまうことがあるけれど、まさに今がそれだった。あたしは、驚いて顔を上げた。
──シリルちゃんが、怒っている。無表情に近い顔をしているけれど、何故かあたしには、それが憤怒の表情に見えていた。
「──なに、それ?」
「え?」
こ、怖い……。いつもあれが自分に向けられたなら、きっと怖いんだろうなと想像していたシリルちゃんの怒りの矛先が、いまこのとき、間違いなくあたしに向けられている。
「なんなの、それ?」
「な、なんなのって言われても……」
あたしは歯の根が震えてまともに返事もできない。
いったい何が、シリルちゃんをここまで怒らせてしまったんだろう?
「全部嘘って、どういう意味? 今のあなたが本当のあなたじゃないって、そんなことを言われて、わたしはどうしたらいいの? 今まで一緒に過ごしてきた日々が嘘だったなんて言われて、楽しかった思い出が本物じゃないだなんて言われて、わたしはどうしたらいいの?」
「ち、違うの……。そんな意味じゃ!」
「いいえ、そういう意味よ。だから──わたしは許さない。今のあなたの発言を、絶対に、そのままになんてしておかないわ」
「シ、シリルちゃん……」
そして彼女は、あたしの肩を両手でがっしりと掴み、目も逸らさせないとばかりにこちらの顔を覗き込んでくる。
「腹黒い? 意地汚い? だからどうしたの? 腹の黒さなら、わたしだって負けていないわ!」
……え? そこなの? そこが問題なの?
あたしはあまりの展開に、呆気にとられて言葉も出ない。
「今、ここにいるあなたは本物よ。あなた自身がどんなにそれを否定しようと、わたしがをそれを認めない。──ヴァリスだって、そう言うでしょうね」
「え?」
「誤解をしているようだから、いいことを教えてあげる。──はっきり言って、あなたがあなた自身のことをどう考えているかなんて、どうでもいいの。わたしがあなたを親友だと思う理由は、あなたとわたしが過ごした日々の中にある。たとえ、あなた自身にであろうと、わたしはそれを、偽物だなんて言わせない」
「ご、ごめんなさい……」
「……それに、近づきすぎるのが怖いですって?」
「だ、だって! それで本当に嫌われちゃったら!」
彼を、見つめることさえ許されなくなるかもしれない。
そんなこと、あたしには耐えられない。
「だから見ているだけでいいの? 本当に?──それで問題が解決なら、わたしからはこれ以上、何も言うことはないわ。……でも、あなたはわたしの親友だから、少しでも悩んでいるのなら、力になりたいのよ」
さっきまでの怒りが嘘のように、穏やかな顔で話すシリルちゃん。
「……ねえ、どうしたらシリルちゃんみたいに強くなれるのかな?」
シリルちゃんみたいに強くなれたら、きっと『怖い』だなんて言って動けなくなることもないのに。
「わたしは強くなんてないわ。……でも、そうね。アリシアには、話しちゃおうかな?」
ためらいがちに、そんな言葉を口にするシリルちゃん。続く言葉は、シリルちゃんにしては歯切れの悪いものだった。
「──わ、わたしはね、……ル、ルシアに……甘えることにしたの」
「……いま、なんて?」
信じられない台詞を聞いた。シリルちゃんが、甘える?
「も、もう、繰り返させないでよ! べ、別に彼にべったり寄り掛かってしまうつもりはないのよ? これまでだって何でも自分ひとりでやってきたんだしね。──でも、本当に辛くなったときは、彼に頼る。自分が倒れそうになったとしても、支えてくれる手があることを、信じるの。……それだけで、わたしは迷いなく進むことができるから」
「シ、シリルちゃん……」
「ちょ、ちょっと、そんな目で見ないでよね……。わたしだって相当恥ずかしいことを言っているのは自覚しているんだから。わたしは覚悟を決めただけ。嫌われたって、愛想をつかされたって、後悔しないってね」
シリルちゃんは真っ赤な顔をして、そう言った。言葉どおり、すごく恥ずかしいだろうに、シリルちゃんはそれでもなお、あたしのためにそんな思いを我慢してまで話してくれたんだ。
「あなたにも、そうしろなんて言わないわ。あなたとわたしは違うもの。自分なりの、答えを見つけなくちゃ、きっと前には進めない」
「うん……」
あたしが頷くと、シリルちゃんはふわりと表情を和らげてくれた。
「だいたい、あなたは自分のことを客観的に考え過ぎなのよ。もう少し、肩の力を抜いたっていいんじゃない? 自分のことを許せるのは、自分だけなのよ?」
「う、うん……」
確かに、シリルちゃんの言うとおりだ。でも、どうしたらいいんだろう?
「……ねえ、いい加減な思いつきを言ってもいいかしら?」
「なに?」
「今までの自分をウソだと思うなら、それをこれからのホントの自分にしてしまえばいいんじゃない? 嘘だって、つき続ければ本当になるかもしれないわよ?」
「……あはは、言ってることが滅茶苦茶だよ、シリルちゃん。ルシアくんみたい」
「ちょ、ちょっとそれ、どういう意味よ!?」
やっぱり、シリルちゃんに相談してみて、よかった。
あたしはシリルちゃんと笑いあいながら、自分の心が軽くなっていくのを感じていた。
-恋愛感情-
アリシアがシリルを部屋に送り届けている間、我は手持無沙汰になってしまった。何故かはわからないが、シリルはかなり取り乱していたようだ。あの分だとなかなかアリシアも戻ってこないかもしれない。
いずれにしても彼女と出かけることになっていたらしいからには、待つしかない。約束をした覚えはなかったはずだが、彼女自身がそう言う以上、我が忘れていただけだろう。
誰もいなくなった屋上で一人、ただ待っているのも退屈である。少し鍛錬でもするとしよう。
「……」
全身の【魔力】の流れを制御し、生命エネルギーともいうべき【気功】へと変換する“竜気功”。練り上げられた力を全身に巡らせながら、我は手の先に『爪』をイメージする。
我は人間の肉体に『竜族』の魂をもった存在だ。肉体そのものは変えられなくとも、イメージによってかつての姿を模した力を生み出すことならできる。それは最近になって気付いたことだが、手っ取り早く実現できたのがこの斬撃型“竜気功”『竜の爪』だった。
「ふっ!」
指を鉤状に折り曲げ、『竜の爪』を振りかざす。腕の長さを超えたリーチを生み出すこの技法は、我の戦い方に幅を持たせるものになるだろう。続いて蹴り足にも同じように爪をイメージした気功を纏わせ、上段蹴り、中段蹴り、下段蹴りと三連続で繰り出していく。足での『竜の爪』はイメージが難しかったが、今回はうまくできたようだ。
それから我は、腰だめに右手を引き、そこに左手を添えながら“竜気功”を右の掌に集中する。エリオットの『轟音衝撃波』のような構えだが、イメージするのは『ドラゴンブレス』だ。まだ成功した試しはないが、今日は随分調子が良い。試してみるか。
──と、そこへ。
「どうした、アリシア?」
我は視線を感じて、屋上の入口に目を向ける。
「あれ? 隠れてたつもりなんだけど、ばれちゃった?」
アリシアはこちらに向けて片手をひらひらと振りながら近づいてくる。
「視線が強いと“孤高の隠者”も効果が半減するのではないか?」
「し、視線が強いって……、そんなに熱烈に見つめてたわけじゃないよう……」
頬を赤くしてぶつぶつと呟くアリシア。……相変わらず、だな。
「すごく真剣だったから、邪魔しないように思ったんだけどなあ」
「ふん。暇つぶしでやっていただけだ。気にするな」
「ヴァリスが暇つぶし? ……ふーん、ありがと」
「妙なことで礼を言うな?」
「だって、気を遣ってくれたんでしょ?」
気を遣う? 今のがそうなのだろうか? 我とて、この手のやり取りにも少しずつ慣れてきたはずだ。が、自分と相手の感覚にずれている部分があることに、もどかしさを感じるのも事実だ。
『竜族』である我には、他の人間と比べて彼女と共有できるものも少ないのだろうか?
シャルから『恋愛感情』に関する本を借りてはみたものの、読んでいるだけでは中々理解が及ばないことも多い。あれらの本に出てくる『それ』は、我と共通する部分もあれば、全く異なる部分もある。奥が深いと言うべきなのか?
「どうしたの? 考え込んじゃって?」
「いや……最近、少々難題を抱えていてな」
「難題? なに? あたしでよければ力になるよ?」
まずい。ルシアには直接本人に話す前に本を読んで理解しろと言われている。今はまだ時期尚早かもしれない。何故かはわからないが、自分の心に焦りが生じるのを感じた。
「ああ、いや、その……」
「ん?」
不思議そうな顔をして我を見つめるアリシアに、我はますます思考がまとまらなくなってくる。こういうときは、どう対処すればいいのだろうか? シャルに借りた本は物語形式であるせいか、個別事例についての詳しい知識は得られない。
シャルにも聞いてはみたが、どうにもここのところ、我はシャルに避けられているようだ。まさか再びかつてのように、怖がられてしまっているのだろうか? だとすれば、いったいなぜ?──と、そこまで考えて、我は思いつく。そうか。これはちょうどいい話題かもしれない。
「シャルのことなのだが……」
「え? シャルちゃんのこと?」
アリシアの目が驚いたように丸くなる。
「うむ。最近、シャルに避けられているように感じるのだ。訊きたいことがあって話しかけようとしても、露骨に顔をひきつらせて離れていく。どうにか会話になっても落ち着かない様子で早々に話を切り上げていく。彼女もだいぶ我に慣れたのだと思っていたが、思い違いだったのだろうか?」
我がそう言うと、アリシアは驚愕の表情で口元に両手を当て、ぷるぷると震えはじめた。
な、なんだ? どうしたというのだ?
「ま、まさか、ヴァリス……」
「なんだ?」
「シャ、シャルちゃんのことが気になるの?」
「む? まあ、気になると言えば気になるな」
「そ、それでそんなに悩んでるんだ……」
悩みの理由はそれではないが、それを口にするわけにもいかない。
「で、でも、ヴァリス。シャルちゃんはまだ、小さいんだよ? 十二歳って言ったら微妙な年頃かもしれないけれど、いくらなんでもまだ若いよ!」
「何を言っている? 確かに幼いということはそれだけ恐れも感じやすいと言うことかもしれないが、これまでの戦いぶりなどを見ても、シャルを並みの子供と比べるわけにもいかないだろう?」
我の言葉にアリシアの顔がみるみるうちに蒼白になっていく。
「だ、だめ! そんなの駄目よ! 絶対にダメ!」
目に涙まで溜めて叫びだすアリシア。
「ど、どうした? 何があった?」
「うう……、さっきまでシリルちゃんと話してたことは何だったんだろう……。で、でも、それがヴァリスの気持ちなら、あ、あたしは……」
彼女の目から零れ落ちる涙……いや、ちょっと待ってほしい。わけがわからない。どうしてこの流れでアリシアが泣き出す? 我はどこで対応を間違えたのだ?
「ア、アリシア。とにかく気を落ち着けてくれ。どうした? どこか体の具合でも悪いのか? ……い、いや、そんなわけがないか……。と、とにかく泣きやんでくれ。我が悪かったのなら謝る」
何が言いたいのかわからない言葉を、我は自然と口にしていた。ポケットから取り出したハンカチで彼女の涙を拭ってやりながら、とにかくなだめるように声をかけ続ける。
「や! 優しくしないでよ! あたしのことなんか、どうでもいいでしょう!? そんな暇があったら、シャルちゃんのところにでも行けばいいじゃない!」
彼女は激しく抵抗するように、我の手を振り払った。
そんな彼女の態度に、だんだんと苛立ちが募ってくる。
「いい加減にしろ!」
我はアリシアの両肩を両手でがっしりと掴み、意識的に強い口調で怒鳴る。
「うう、だって……」
彼女の水色の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。だが、ここで手を緩めるつもりはない。彼女の言いたいことはさっぱりわからないが、そのままにしておけない発言がある。
「いいか? よく聞け。何があったか知らないが、我がお前を『どうでもいい』などと思うわけがないだろう? 断言するが、そんなことは未来永劫、絶対にない」
「で、でも、ヴァリスはシャルちゃんのことが好きなんだよね?」
もちろん、そうだ。……と言おうとして、我はそれを思いとどまる。少し前までの我であれば、『悪感情を持っていない』ことを指して『好きだ』と見なし、彼女にそう答えてしまったところだ。しかし、ここでシャルから借りていた本の中身を思い出す。そういえば、こんな場面があったような気がする。
……まさかアリシアは、我がシャルに『恋愛感情』を抱いているとでも誤解しているのではないか? どうしてそんな奇怪な誤解が生まれたのかはともかく、とりあえずはその誤解を解く必要があるだろう。
「それは誤解だ、アリシア。我はシャルが、かつてのように我を怖がりはじめたのではないかと気になっていただけだ」
「ふえ?」
涙を拭いて鼻をすすりながら、アリシアが間の抜けた声を出す。
「え、えっと、でも、シャルちゃんに訊きたいことがあって話しかけてるとかって……」
「シャルには本を借りていたからな。その件で話をしようとすると、露骨に避けられるのだ」
我がそう言うと、アリシアは何かに気付いたような顔をした。
「そっか! 確かに、それならつじつまはあう……のかな? シャルちゃんも恥ずかしいんだろうし……」
恥ずかしい? 何を言っているのだろうか?
「ご、ごめんなさい! そ、その、あたしったら、勘違いしちゃって、その、ほんとにごめんなさい!」
「いや、構わないが……」
どうにか落ち着いてくれたようだが、彼女がああも取り乱した原因が分からない。話の流れからすれば、我がシャルに『恋愛感情』を抱いていると誤解したことが原因、と言えるのかもしれないが……。
……そこでふと、ルシアの言葉を思い出す。
『アリシアのこと、他の奴には渡したくないとか、考えたことあるか?』
『独占欲って奴だな……アリシアが他の男と仲良くなっていると腹が立つとか、さ』
シャルから借りた本にも、そうした感情については記載が多かった。今のアリシアの態度は、そういうことなのだろうか? 他の人間に向けられた感情に対する独占欲?
──そこに思い至った瞬間、我の思考は停止した。物を考えるどころではない。
自己の制御を至上命題に置く『竜族』としてはあるまじきことに、怒涛のごとく押し寄せる感情の波に、ただただ、立ち尽くすことしかできない。
「ヴァ、ヴァリス? 大丈夫? どうしたの?」
泣き濡れた瞳のままで、我を見上げてくるアリシアが視界に映る。
そこでようやく、我は茫然自失の状態から立ち直る。
「いや、なんでもない。……それより、出かけるのだろう?」
「え? あ、そうだね。えっと、どこへ行こうか?」
「それは約束してあったのではないのか? いや、忘れていたことは申し訳ないが」
「あ! ああ、うん! じゃ、とにかく行こう!」
アリシアは何故かあわてたように二度三度と頷きを繰り返すと、くるりと振り向いて歩き出す。そして彼女は、そのままこちらを振り返りもせずに言葉を続けてくる。
「あ、あのね? さっき、あたしを『どうでもいい』と思うことなんて絶対にないって言ってくれて、嬉しかったよ。……すっごく、嬉しかった」
不意打ちのような言葉に、胸に軽い痛みが走る。
──気づけば、我は彼女の手をつかんでいた。
「え?」
「ひとつだけ、言っておくことがある。……我には人間の『恋愛感情』なるものが、まだ理解しきれていない。だが、いつか我がそんな感情を抱く日が来るとしたら、……その相手は一人しかいないだろう」
その言葉は、我の口から自然と出た。つかんだ彼女の手が、小刻みに震えている。
「……そんな日が、いつか来るといいね?」
彼女は、小さな声でそう言ってくれたのだった。