第93話 終わり続ける世界/大聖堂の問答
-終わり続ける世界-
俺は、俺がかつていた世界のことを、思い出したくない。
嫌なことを思い出すからだ。
辛いことを思い出すからだ。
苦しかったことを思い出すからだ。
悲しかったことを思い出すからだ。
……楽しかったことを思い出すからだ。
……嬉しかったことを思い出すからだ。
──そして、それらすべてを失ったことを、思い出すからだ。
俺の世界。それは氷に閉ざされた極寒の大地だ。
その世界の人間は、鉛色の天蓋に覆われたドーム状の施設『国』の中でしか生存することができない。かつては青い空に緑の大地、豊富な食料に潤沢なエネルギー資源に満ちた、楽園のような世界だったらしい。
それが失われたのはいつのことだったのか、何がきっかけだったのか?
それは誰にもわからない。ただ、わかることがあるとすれば、氷に閉ざされ、終わり続けるその世界には、名も顔もわからぬ、けれど絶対的な支配者がいたということだけだ。
人間たちは、その絶対者から与えられる『エネルギー源』に頼らなければ、『国』を維持することができない。生き残ることができない。ただ、凍りつくことを待つことしかできない。
俺たち『人間』は、絶対者の決めたシステムに支配されて生きていた。生活のリズムも、食料の生産も、他国への『掠奪』も他国からの『防衛』も、すべてが定められた方法に従って行われた。そうすることが自分たちのためなのだと、信じることしかできなかった。
だから、そいつ──【ヒャクド】が人間の『国』同士をチェスの駒のように動かしながら、互いに争わせ、限りある資源を奪い合わせて楽しんでいることに、他の皆が気付くことができたとしても、逆らうことなどできなかっただろう。
……だから、その事実を俺だけが知っていたことに、さしたる意味はない。
いつものように掠奪を終え、意気揚々と帰還した俺たちが見たもの。鉛色のドームの中、純白に凍る街や人。その光景は、『世界の終わり』そのものだった。そして、自らが凍りつくこともいとわず、防護服さえ着ないままに、輸送用スノークローラーから飛び出していく仲間たち。
俺は、彼らの後を追うことができなかった。彼らの意図が、リーダーである俺に食料を残し、生かそうとするものだったから? ……違う。俺はただ、死にたくなかっただけだ。
車内に残された燃料、食料を使い、俺はがむしゃらに車両を走らせ続けた……。
そうして【ヒャクド】に拾われて、初めて知った世界の真実は、俺を打ちのめした。気が狂わなかったことは奇跡だ。銃弾の飛び交う戦場を共に過ごした仲間たちの死が、ゲームの駒を盤上から取り除く程度の気軽さで扱われていたというのだから……。
二つ目の『国』で、俺はそのことを声高に叫んだ。だが、そもそも敵国の人間としてその『国』を飢えさせたことのある俺の言うことなど、誰も信じなかった。ただ、絶対者の命令があるからこそ、俺はその『国』で生きていられたに過ぎない。
針のむしろだった。だから、俺はその『国』を脱出した。【ヒャクド】によって定められた掠奪戦争の時期以外に、【掠奪者】として認定された者以外がドームの外に出れば、『機械兵』によって抹殺される。それでもいい。死んでもいいと俺は思っていたはずだった。
死ぬことなんて……できなかったけれど。
死ぬことすらも……許されなかったけれど。
いくつもの『国』を渡り歩かされ、【ヒャクド】に呪詛の言葉を吐きかける日々の中、俺の記憶にいつも残っていたものは、掠奪戦争開始の合図だ。それは、『国』の中央部に設置された古めかしい石像からの合成音声によってなされていた。
無数の国があるというのに、俺が知る限りでは、その石像は大きく分けて四種類しかなかったと思う。
──そう、『石像』だ。それをあの礼拝所で見た時に、俺は、自分の『名前』を思い出したんだ。いや、正確に言えば、俺の名前が持つ『意味』を、思い出したと言うべきだろう。
「……『ルシアの国のトライハイト』──ルシア・トライハイトという言葉に意味があるとすれば、そう解釈するべきだろうな。だから俺個人の名は、『トライハイト』ってわけだ。もっとも、今さらそう呼ばれても違和感しかないだろうから、『ルシア』でいいぜ」
ホテルに到着して一夜を明かした翌日のこと。
最上階の特別室にある会食用テーブル。俺は皆を見回しながら、話を続ける。俺の世界の話となると、どうしても明るい話にはなりえないから、みんなには随分と神妙な顔をさせてしまっている。
「『トライハイト』が本当の名前? ……それだけ? 姓はないの? だって、『ルシア』というのは国の名前なんでしょう?」
「正確には、俺が生まれた国にあった石像が『ルシアの像』と呼ばれていたってことだ。『国』の名前なんて認識したことはないよ。その意味で言えば、あの世界にいったいいくつの『ルシアの国』があったのかはわからない。でも、盤上の駒の所属なんて、四種類もあればゲームには十分だろう?」
俺はシリルの問いに対し、自嘲気味に笑って答えた。
まったくなんてことだろう?
この世界にきて、俺は全てをやり直せると思っていた。
最初は未練もあったけれど、くそったれなあの世界に比べれば、新しいこの世界はまるで楽園そのものだとさえ思えた。
すべてをリセットして、過去の呪縛を断ち切って、新しい世界で、新しい仲間たちと、新しい人生をやり直す。そう……思っていた。
でも、リセットなんてあり得なかった。断ち切ろうとしたものは、今なお、つながり続けていた。終わっていたものをやり直すことなんて、……できないのだろうか?
「シリル、教えてくれ。あの石像はなんなんだ? リオネルの奴が俺にあの像を見せるために呼んだのはわかる。でも、なんでだ? なんであんなものが、あそこにある?」
「……あれは『四柱神』の一柱、ルシア・マーセルの女神像よ」
「四柱神?」
「ええ、前にノエルが言っていたでしょう? かつてこの世界から姿を消した四神族の長がいたって話。『ハイアーク・ゼスト』、『ルシア・マーセル』、『ヴォルハルト・サージェス』、そして『アレクシオラ・カルラ』。『魔族』がいまだに最高神として信奉するこれらの神の総称──それが『四柱神』よ」
四種の像に四柱の『神』……なら、そういうことなのだろうか?
〈つまり、連中が『世界に絶望した』とか無責任なことをぬかしていなくなった後、創りあげた【異世界】がルシアの世界、ということだな〉
俺の隣に腰かけるファラが、そんな推論を口にする。
だが、信じられない。……否、信じたくない。
「【異世界】を創る? 信じられんな。いくら『神』だからといって、そんなことができるものなのか?」
そう疑問を口にしたのはヴァリスだ。人間と違い、『竜族』である彼は、『神』って奴を万能の存在だとは考えていないのだろう。そしてシリルも、それに同調するように頷く。
「……そうだわ。『神』にそんなことができるなら、そもそも世界を分断させる必要なんてなかったはずでしょう?」
〈むろん、ただの『神』にはできんよ。だが、ハイアーク・ゼスト──あれは世界の法則そのものを生み出すことすら可能な『神』だ。加えてルシア・マーセルと言えば、最も芸術的で、最も生命に近い最高クラスの『幻獣』──『幻想生物』を生み出すことのできる『造物主』として知られていた。そこに他の……二柱が加われば、擬似的な世界くらいは創れてもおかしくはない〉
ファラの言葉は、俺が何者であるかを如実に示していた。
「……はは、俺はつまり、人間じゃなかったってわけか?」
「ルシア……」
「違うよ、ルシアくん。わたしの“真実の審判者”で見ても、ルシアくんは人間だよ?」
アリシアはそう言うけれど、思えば最初に鑑定してもらった時だって、『人間(?)』となっていたはずだ。つまりそれは……。
〈この、たわけが!!〉
耳にキンキンと響く怒号が響き渡る。いくらシリルがこの部屋の盗聴装置とやらを根こそぎ発見して取り外した後だと言っても、外にいるレイミさんに聞こえかねない声だ。
だが、ファラは黒髪を揺らしながら首を振り、俺をきつく睨みつけてくる。
〈いいか? 前にも言ったが、『神』の創った『幻想生物』は限りなく命に近く、代を重ねれば紛れもない命そのものになる存在だ。ましてやお主は【転生】したのだろうが! それをぐじぐじと情けない顔をしおってからに!〉
「い、いやそれはそうだけどさ。自分自身がそれまで信じていたものと別のモノだってわかっただけでも、きついものなんだけどな……」
あまりのファラの剣幕に気圧されながらも、俺は一応の反論を試みる。まあ、こいつがかつてのシリルの姿をしている時点で、言い合いをしたところでなんとなく勝てないような気はするが。
〈呆れた男だな。よく考えてみろ。お主の周りにいる連中を〉
「え?」
〈一人は『魔族』混じり、一人は『精霊』混じり、一人は『ワイバーン』混じり。そのうえさらに『竜族』のくせに人間の、それも優男の姿をしちゃってる奴までいるのだぞ?〉
「……」
周囲が静まり返る。空気が凍りついている。
……ファラの奴、一番言っちゃいけないことを、一番最悪な形で言いやがって!
どうする? どうやってこの修羅場を乗り切ればいいんだ?
と、びくびくしていると──
「あ、ホントだ! よく考えたらあたしとエイミアさん以外、純粋な人間なんて一人もいないんだね。あたしたちって」
「うん。どうやら肩身の狭い思いをしなくてはいけないのは、わたしたちの方みたいだな」
アリシアとエイミアの二人が顔を見合わせて頷きあう。
「まったく、たかだか自分が生粋の人間じゃないことぐらいで落ち込んでいたら、僕なんてどうするんだ? ただの『亜人種族』ですらないんだぞ?」
エリオットが珍しく茶化すように笑う。
「……わたしもフィリスも、ルシアがどんな存在だろうと、この世界に生まれてきてくれて、良かったって思ってるよ。生まれてきてくれて、ありがとうって……思ってる」
柔らかく笑いかけてくるシャルの言葉は、いつか俺がフィリスに「誕生日とは何か?」を聞かれた際に答えた時のものだ。彼女はそれを、覚えていてくれたのだろう。……不覚にも、目頭が熱くなってきた。
「しっかりしなさいよね。今からそんなんじゃ、リオネル神官長につけ込まれるわよ?」
一方、シリルの言葉は辛辣だ。……耳に聞こえるものとしては。
他方、俺の頭の中には、彼女の別の言葉が響く。『絆の指輪』の念話機能だ。
〈あなたはわたしの『剣』でしょう? それ以外の何者でもないわ。……頼りにしてるんだからね。なのに、あなたがそんな状態じゃ……あ、あ……〉
〈シリル?〉
〈あ、安心して……甘えられないじゃない……〉
〈へ? 甘えられない?〉
俺は耳を疑った。甘える? シリルが? ……えっと、俺に?
〈う、あ!……ち、違うの! そ、そうじゃなくて! 念話だからその、歯止めがきかなかったて言うか、その……、ああ、もう! わ、忘れて! とにかく今のは忘れて!〉
シリルの顔は真っ赤に染まっている。そんな彼女を見て、俺は胸のつかえがとれたような気がした。俺が何者だろうとそんなことは関係ない。この世界には、俺を必要としてくれている存在がいる。それだけわかれば、迷うことなど何もない。
〈……そうだな。うん。シリルに安心して甘えてもらうためにも、俺はしっかりしないといけないな〉
〈も、もう! 忘れてって言ったのに……〉
シリルは赤い顔でうつむいたまま、テーブルの上に置いた手の指を弄んでいる。俺はそんな様子を微笑ましく見つめた後、何気なくヴァリスの方へと視線を向けてみた。
「『竜族』のくせに……。優男の姿をしちゃってる……」
……ごめん、ヴァリス。他に言葉がなかった。俺の視線に気づいた彼がこちらを見る。半分、恨みがましげな視線をファラにも向けているようだが、竜王様の友人だというファラに対しては何も言えないらしく、代わりに俺に向かってこう言った。
「なんだ? ルシア。同情ならいらんぞ。我は、この程度の罵倒で、いちいち傷ついたりはせん……」
思いっきり傷ついているように見えたが、まあ、これはヴァリスなりの冗談のつもりなのだろう。そう思うことにした。……思ってあげる、ことにしたのだった。
-大聖堂の問答-
わたしたちはそれから、リオネル神官長との約束の刻限に大聖堂へと向かった。
【古代文字】によって数百年前に整備された当時の姿を保つ石畳の上を歩きながら、わたしはルシアの横顔を盗み見る。そこにはホテルの一室で話をしてくれた時の悲痛な色はすでになく、代わりに何かの覚悟を決めたような硬い表情がある。
絶対者に、ただひたすら弄ばれるだけの人生なんて、どんなにか辛かったことだろう?
彼の話を聞いて、わたしは、かつての自分を恥じたい気持ちに駆られていた。
道具として生まれ、自分自身の存在を認めてもらえない──たかだか、『その程度のこと』を嘆いていた、かつての自分を。
彼は、道具ですらなかった。まだ、わたしのように道具であったならば良かっただろう。少なくとも道具には、『目的』があるのだから。でも、彼にはそれさえ与えられなかった。
──珍しいから、もう少し泳がせてみよう。
──こうすれば、いったいどんな行動に出るのだろう?
──もっと面白いことが起きないだろうか?
そんな子供じみた狂気の遊びに、彼は自らの人生を翻弄されてきたのだ。
そこには、自由などない。自分が自由に選択したと思うその行動ですら、絶対者を楽しませるためのものでしかないのだから。
けれどもし、その遊びそのものに何らかの目的があったというのなら、彼も少しは救われるのかもしれない。
「リオネルなら、【ヒャクド】の正体も、目的も、知っているんだろうか?」
歩きながら呟かれるルシアの言葉は、そんな彼の心の内を示すかのようなものだった。
彼の世界にいたという【ヒャクド】という存在。
それは『四柱神』のうちの誰かなのだろうか?
考えるうちに、わたしたちは大聖堂の正面に辿り着いていた。
高くそびえる尖塔の背後に見える雲一つない青空は、擬似的に青く輝く偽りの空。
世界ではない世界──『魔導都市アストラル』
ここは、ある意味ではその中枢ともいえる場所だ。
ゆっくりと足を踏み入れる。するとすぐに顔をヴェールで隠したローブ姿の神官たちが影のように現れ、うやうやしく案内を始めた。今回通されたのは第二礼拝所ではなく、『神託の間』と呼ばれる大聖堂本棟の1階大広間にあたる場所だった。
礼拝所とは比べ物にならない大きさの『神託の間』は、赤い絨毯が敷かれているほかは、正面の祭壇を挟んで左右対称に巨大な神像が四つ並んでいるだけの部屋だ。
「元老院衛士団の人たちより、普通の神官の人たちの方が神官長に忠実みたいだね。それどころか、怖いくらいに心酔している感じがする……」
アリシアが大広間から退出していく神官たちの後姿を見送りながら、小さい声で言う。
「ある意味、『狂信者』ほど怖いものはないからな。つまり、リオネルと敵対関係になった場合は、より一層神官たちを警戒する必要があるだろうな。この場には見当たらないが、『聖堂騎士団』という連中もいるわけだし」
「そうですね……。僕の村を襲った連中も、そういう奴らでした。油断は禁物です」
エイミアとエリオットが同じく小声で会話を交わす中、よく見れば黄金の燭台に飾られた中央祭壇に向かい、ひざまずく一人の人影がある。祭壇上部のステンドグラスには、銀の翼を背中に生やした、美しい天使の姿が描かれている。
「よく来たな」
リオネル神官長は、振り向きもせず、両手を合わせて頭を垂れている。その姿はまさに『敬虔な神の信徒が祈りをささげる図』そのものだ。
わたしたちは彼の背後にゆっくりと近づいていく。彼は微動だにせず、祈り続けている。
「あんたは『神』なんて、信じてないんじゃなかったのか?」
ルシアが固い声で呼びかける。すると、リオネルはゆっくりと立ち上がり、こちらを振り返る。
「汝は『神』を信じるか? どんな『神』なら信じられる?」
「質問に質問で返すのかよ」
「取引の内容は、わたしが質問に答えるものではない」
男女の声が二重に響く。相変わらず、心なんて無いかのような無機質な声だ。
「……わかったよ。じゃあ、さっさとしてくれ」
淡々と進む会話には、何故か口を差し挟むことをためらわせるような、奇妙な緊張感があった。そして、リオネルは繰り返す。
「汝は『神』を信じるか? どんな『神』なら信じられる?」
「……少なくとも祈るような『神』はいない。そうじゃない『神』でいいなら、少なくとも俺が信じる『神』はただ一人。──俺の相棒だけだ」
〈ゴホン。まあ、当然だな〉
ファラは少しだけ──いや、かなり嬉しそうに表情を緩めている。
「ルシア・マーセルの名を冠しながら、汝はルシアを信じないというのか?」
「あいにく、見たこともない『神』なんて信じられないね」
「……見たことがない、か」
つぶやくリオネル。それからゆっくりと間をおいて──
「汝は『異世界人』か?」
「な!」
真っ先にされるだろうと予期していた質問だったけれど、聞き方に脈絡がなさすぎる。動揺を隠しきれないわたしたちを見たリオネルは、答えようとするルシアを手で制する。
「もう、わかった。やはり【異世界】は創世されていたのか……」
そこで初めて、二重に響くリオネルの声に感情の色が滲む。しかし、それはごくわずかなもの。名づけることすらできないような、小さくかすかな心の揺らぎ。
「──ならば、まとめて聞こう。『四柱神』はどんな世界を生み出した? 汝は、ルシアの被造物か? ……だとすれば、汝の『製造目的』は何だ?」
「リオネル!!」
リオネルの最後の質問が聞こえた瞬間、わたしは叫ぶ。目の前が真っ赤に染まるほどの怒りが、わたしを支配する。
彼の人生を冒涜するような言葉は許さない!
今にも目の前に【魔法陣】が構築されそうな、濃密な【魔力】が集中し始める。
──そんなわたしの肩に、ぽんと軽く手が置かれる。少しだけ震えたようなその手の主は、もちろんルシアだった。
「シリル、ありがとう。大丈夫だ」
その穏やかな声に、わたしの身体から力が抜けていく。わたしは、ルシアの顔を見る。
「そんな、お前が泣きそう顔をするなよ」
「だ、だって……」
ルシアは苦笑しながら、わたしの頭の後ろを優しく撫でてくる。それだけで、わたしは何も言えなくなってしまった。
「さて、と。んじゃ、質問には答えてやるよ。──俺がいた世界には【魔法】がない。代わりにこの世界でいう【自然法則】を研究し、【魔法】に頼ることなく、その法則を利用して様々なことを実現する技術があった」
そこで彼は一息ついて、さらに続ける。
「俺の世界には『神』はいない。ただ、『ルシアの像』と言えばいいのか?──それと同じものが、『国』の中心にあっただけだ。少なくとも俺は、実物を見たことがない」
「【魔法】がなく、『神』がいない、か。……なるほど、不確定要素を可能な限り排除することで、秩序を保とうとしたのか」
何かに納得したように、一人つぶやくリオネル。
「秩序を保つ? なら、俺は本当に、何なんだろうな?」
ルシアは軽く肩をすくめる。
「被造物かどうかは知らないが、少なくとも俺には、目的なんか与えられていなかった。あえていうなら、限られた資源の奪い合いというゲームをかき混ぜる、イレギュラーな駒に過ぎない。……どうだ? これで満足か?」
「……駒と言うのなら、それを動かしていたのは誰だ?」
「それを答えるには、質問が必要だ。──あんたは【ヒャクド】という名前、あるいは、言葉に聞き覚えはないか? そいつが、俺の世界の絶対者ともいうべき存在だ」
「【ヒャクド】? ……いや、聞いたこともない。だが、その世界の絶対者となりうるものなど、『四柱神』以外にはありえまい」
「まあ、話からすればそうなんだろうな。……でも、わからないんだよ」
「何がだ?」
「【ヒャクド】がもし、創世の神だというのなら、狂っているとしか言いようがない。それとも、あんな終わり続けているような世界が、『神』とやらの理想なのか?」
ルシアの言葉を受けて、リオネルの顔を覆うヴェールがわずかに揺れた。
「終わり続けている、だと?」
リオネルの男女二重音声が、戸惑ったように強く揺らぐ。
「かつての緑の大地は極寒の氷に覆われ、人々は限られた資源を奪い合う。そんな世界、そう呼ぶしかないだろ?」
ルシアがそう言った途端、リオネルの身体が小刻みに震えはじめた。
「【異世界】は、そんな有り様なのか?」
何かをこらえるようなその動きは、次第に大きくなっていき、そして──
「ははっ! ククク! アーッハッハッハ!!」
突然、『男の声』で笑いだすリオネルに、わたしたちは呆気にとられて固まった。
「こうまで予想通りとはな──所詮は『神』の求める完全な世界など、そんなものか。これで、心置きなく『彼女』に還ってきてもらうことができる。今度こそ、『永遠』をわが手に……ああ、その日がなんと待ち遠しいことか」
リオネルは、支離滅裂で意味不明な言葉を口にする。
「おい、勝手に納得しないでくれよ。いったい何だっていうんだ?」
「話はここで終わりだ。約束は守ろう。汝らには、この都市すべての施設の使用許可を与える。装備でも『幻獣』の調整でも、好きなことをするがいい」
そう言われてしまえば、これ以上追及することはできない。取引はすでに、成立してしまったのだ。
「わたしは気分がいい。ついでに教えてやる。元老院には、汝ら護衛を排除し、愚かにもシリル・マギウス・ティアルーンをこの都市に軟禁することを望む輩がいる。表立っての妨害はわたしが阻止するが、それだけに裏ではより強硬な手段に訴える者がいないとも限らない」
「それは話が違うんじゃないかしら?」
わたしは自分の声が冷たく響くのを自覚した。『命令したが従わなかった』で約束を反故にするなんて、汚いにもほどがある。
「違わない。裏で行動する以上、彼らに動かせる戦力は限定されているからだ。汝らがその程度の相手にやられるようなら、そもそも護衛自体を『エージェント』に替えた方がましというものだろう」
つまり、最低限の火の粉は自分の力で払って見せろ。──そういうことなのだろう。