幕 間 その15 とある城兵の失敗
-とある城兵の失敗-
人生には、決定的な瞬間というものがある。
その時、その瞬間にどんな選択をしたかによって、それまでのすべてが変わる。──そんな瞬間が、確かにあるんだ。俺はそれを、身をもって知ってしまった。
魔法王国マギスディバインにおいて王城マギスレギアの城兵と言えば、【魔法】の才能を持たない平民からすれば、立身出世の登竜門ともいうべき職種だ。俺は小さい頃からいつかは騎士になることを夢見て体を鍛え、自分の腕っぷしだけでこの仕事を得ることができるまでになった。
初登城の日、城下街で小さな商店を営む俺の両親は、喜びながらも心配げに俺を城に送り出してくれたものだった。確かに、戦う職業である以上は危険もある。それでも俺はこの仕事を誇れるものだと思っていたし、自分の夢に近づくための近道なんだと思っていた。
でも、それは間違いだったのかもしれない……。
「くそ! いったい何があったって言うんだ?」
俺は腰に下げた剣と腕に下げた盾を意識しながら、別棟にある兵士の詰所から本丸へと続く廊下を駆ける。城内で、とんでもないことが起きたらしい。
いわく、謁見の間の床が崩落したとのこと。……崩落? なんだそれ? 信じがたい話だが、現に城内は大騒ぎになっており、俺たちにも現場に急行するよう命令が出ている。
謁見の間の人払い令が出されていたためか、崩落が起きてからの情報伝達には時間がかかったらしい。瓦礫の下に埋まった人がいるとすれば、ことは一刻を争う。
謁見の間の真下には大食堂がある。時間的には食事中の人間はいなかったはずだが、逆に言えば城内の掃除を手掛ける使用人たちなら、いた可能性があるということだ。
「エミリー、大丈夫だろうか?」
俺はこの城に勤めるようになってから知り合った、栗色の髪と同色の愛らしい瞳をしたメイドの少女を思い浮かべる。下級貴族の出身である彼女とは、平民上がりの俺は釣り合いが取れないかもしれないが、俺がいつか騎士に昇格すれば話は違う。
「くそ! とにかく早く行かないと!」
彼女が心配だ。本丸へとたどり着いた俺は、焦る気持ちを抑えきれず、もつれそうになる足をさらに速めた。──ふと、そこで気付く。
「……? なんで、みんな……」
崩落現場へ向かうには、ここからなら中庭を通るのが一番早い。だというのに、誰一人としてそちらへ向かう者がいない。廊下の壁面にある中庭へ続く扉は、締め切られたままだ。
「ん? な、なんだ?」
扉に手をかけようとした瞬間、びくりと胸の奥で何かが跳ねた。今思えば、それは『警告』であり、他の皆が無意識のうちにこの中庭を避けていた理由でもあったはずだ。
けれど俺は、この時、この瞬間、その『警告』を無視してしまう。大丈夫、腕には自信があるんだ。この先に彼女がいないとしても、一刻も早く現場に着き、手柄を上げることができれば、その分だけ彼女に近づくことができるんだ。
そんな浅ましい考えのもと、俺はソレを開けてしまう──破滅への『扉』を。
やけに荒らされた様子の中庭を不審に思いながらも、俺はその中央を一気に駆け抜け、反対側の扉へ向かおうとした。……けれど。
「だ、誰だ?」
中庭に設置された屋根付きベンチのひとつ、そこに横たわる人影に目を奪われ、俺の足はピタリと止まる。
それは、美しい少女だった。すやすやと気持ちよさそうに眠る彼女の髪は、輝くような黄金の色。その神々しいまでの金色に混じる幾筋かの紅い髪と、真っ赤な縁取りがされた純白のワンピース。
それを見たとき、俺の心に最初に沸き起こった感情は、『恐怖』であり『恐慌』だった。
この時でも、遅くはなかったのかもしれない。俺は自らの恐怖に従い、全力でこの場を離れればよかったのだ。
……いや、やっぱり手遅れだったのだろう。俺は恐怖すると同時に、この世のものではあり得ないその美しさに、すっかり心を奪われていたのだから。
「ん、んん? ふわぁ……ん」
少女はわずかに身じろぎし、それから、弾かれたようにがばっと身を起こす。
「うわ!」
我知らず少女の顔をのぞき込むような姿勢を取っていた俺は、慌てて少女から距離を取る。
「あれ? フェイルがいない……」
不思議そうにきょろきょろと周囲を見渡す少女は、やがて気がついたように俺を見た。
……その、血のように紅い瞳で。
「あなた、だあれ?」
「え? あ、えっと……」
この時、俺の頭からは、城内で起きた緊急事態のことなど、すっかり消え失せていた。
城の中庭にいるということは、少女はどこかの貴族の令嬢か何かだろうか?
身分の高い美しい姫君と言葉を交わす……そんな状況に、俺は緊張で上擦った声のまま少女に答える。
「わたしは、マギスレギア王城守備隊第二小隊のドーソン・カーラルと申します」
「ドーソン? ふうん……」
少女はベンチに腰かけた姿勢のまま、俺を見上げて笑みを浮かべる。思わず骨抜きにされてしまいそうな、無邪気でありながら蠱惑的な笑みだ。
「お身体の具合でも悪いのですか? 医者をお呼びしますか? あるいはお連れの方がいらっしゃるようであれば……」
なんとか会話を続けようと俺は言葉を探したが、少女はそれを片手で制する。
「お話しするなら、座ってね?」
そう言って、自分の隣を指差す少女。まさか、俺に同じベンチに座れというのだろうか?
少女がどこかの大貴族の令嬢であったとしたら、そんな恐れ多いことはできない。とも思ったが、彼女は動こうとしない俺を見て、少し不機嫌そうな顔をした。
「あ、はい! 座らせていただきます!」
機嫌を損ねる方が危険だと判断した俺は、慌てて彼女の隣に腰かける。触れるか触れないか、その微妙な距離に戸惑う俺に、彼女は天使のような笑みを向けてくる。
「セフィリアは、寂しいの。フェイルもいないし……。だから、お話ししてくれる?」
「は、はい!」
彼女の言葉に即答する俺。こんなに美しい少女が自分と話をしたがっている。それだけで天にも昇るような気持ちになっていた。フェイル、というのは彼女の護衛か何かだろうか?
見た目の年齢に比して幼い話し方をする少女だが、大貴族の令嬢なんてこんなものだろう。滅多にないチャンスだ。彼女、セフィリアとお近づきになれれば、もっと出世の機会が得られるかもしれない。エミリーのことが少し頭をよぎりはしたが、「それとこれとは話が別だ」などと都合のいいことを考えていた。
「ドーソンのこと、いろいろ知りたいな」
それから、俺は彼女に問われるままに話を始める。話したのは主に、俺自身のことだ。彼女は実に楽しそうに話を聞いてくれた。くすくすと笑う彼女に心を奪われ、彼女をもっと喜ばせたいと、俺は様々な話をした。それが何を意味するかも知らずに……。
「うんうん。楽しい! ……ねえ、ドーソン。お願いがあるの」
「な、なんでしょうか。わたしにできることなら、なんでもしますよ」
そう言うと彼女は紅い瞳をきらきらと輝かせ、俺の目を覗き込んでくる。
「セフィリアと、お友達になって?」
「え?」
俺は耳を疑った。俺が、彼女のような人と友達に? あり得ないような急展開だ。ひょっとして、彼女は俺に好意を持ってくれたのだろうか?
「だめ?」
「い、いえ! 俺でよければ喜んで!」
有頂天になって大声を張り上げる俺。けれど、その瞬間、何故か俺の心には得体の知れない不安が生まれていた。──足元の地面が崩れていくような、不安定な感覚。俺は、何かとんでもなく間違ったことをしでかしているのではないだろうか? ──というよりも、目の前の少女、彼女の存在自体が、何かひどく間違ったものではないだろうか? そんな思いにとらわれた。
それは恐らく、ここまでとことん鈍くなってしまっていた俺の心の内から発された、最後の警告だったのかもしれない。──と、その時。
「ドーソン! おまえ、何をしている!」
声とともに俺たちの前に現れたのは、俺と同じ一人の城兵。だが、身分は同じじゃない。下級貴族出身のケインという男だ。いつもそのことを鼻にかけて平民出の俺を馬鹿にしており、何かと言うとエミリーにもちょっかいをかけてくる嫌な奴でもある。
「なんだ? この非常時に女と逢引きなど! これだから平民は……」
ぶつぶつと言いながら近づいてくるケインは、セフィリアの姿をはっきりと視界にとらえられる距離まで来ると、何かに気付いたように立ち止まる。
「ドーソン、あの人、だあれ?」
「え? ああ、ケイン小隊長です」
「そっか。ドーソンが言ってた嫌な奴だね?」
そうそう。──って、当の本人の前で何て事を! 調子に乗ってそんな話までしたことに後悔しつつも、ケインの顔を恐る恐る窺う。だが、彼は固まったまま動かない。彼女の美しさに見惚れているのだろうか?
「ド、ドーソン……。そ、ソレ、なんだ?」
「え?」
「お、お前の声がしたから来てみれば……。ひ、ひい!」
ケインはセフィリアの視線を受けて、すくみあがるように悲鳴をあげた。彼女に、おびえている? 無邪気で可愛らしい、天使のような彼女に?
「嫌な奴だけど、でも、腕を競うライバルなんだよね?」
確かに、そうも言った。嫌な奴だけれどライバルだ。身分を鼻にかけているとは言っても、訓練の時などは他の貴族と違い、俺がわざと負けることを許さない。そんな潔いところもある男だ。
「お、おい! ドーソン。逃げろ! 駄目だ! なんでお前、こんな……」
その時、セフィリアの金糸に混じる紅い髪が一房、しゅるりと音を立てる。それだけが独立した生き物のように動いたかと思うと、ケインの右腕に絡みついていく。
「へ? あ、ああ! う、腕がああ!」
左手で自分の右肩を抑えるようにしながら、恐怖の悲鳴をあげるケイン。俺には、何が起きているのかさっぱりだった。
「腕、うで、うで? なんで? 痛くない、痛くないのに!」
ケインは支離滅裂にわめき続けたかと思うと、唐突にバランスを崩し、倒れ込む。
「うわあ! こ、今度は足いいい! 足が! 俺の足がない!?」
じたばたと暴れるケイン。
──足がない? 何を言っている? 彼の足はちゃんとついている。ただ、あれだけ本人が暴れるなか、片足と片腕だけがピクリとも動かないというのは不気味だったけれど。
「セ、セフィリア様!? いったい何を?」
俺はようやく事態の異常さを飲み込み、彼女に声をかける。すると、彼女はゆっくりと立ち上がり、ベンチに座る俺の前に立つ。
「駄目だよ、ドーソン。ドーソンはセフィリアのお友達なんだから。セフィリア以外に大切なものなんて、……いらないよね?」
「え?」
彼女の『無邪気』な声に、背筋が凍る。……意味が、わからない。
「だから、──コレは喪失してあげるね」
紅い瞳がにいっと笑う。彼女の背後では、蛇のように動く紅い髪が、横たわるケインにさわさわと触れている。そのたびに、びくびくとその身体が痙攣を起こしているのが見えた。……もう彼は、声一つ発さない。
「これも、──これも喪失してあげるね」
いつの間にか彼女の手には、城兵としての身分証代わりになる楯と、それから俺の誇りとなるべき剣があった。俺は気が抜けたように、彼女の手の中で消えていくそれらを、ぼんやりと見つめる。
「ぜーんぶ!──喪失してあげるね?」
「う、うわあああああああああああああ!」
俺は、彼女に飛び掛かろうとする。けれど、その手が触れる寸前で、彼女は唐突に姿を消した。あまりのことに理解が追いついていないが、それでも彼女の言葉から、わかるものはある。
「エ、エミリー!!」
俺は自分の大切なもの、それを護るために城内を駆ける。
「無事で……どうか無事でいてくれ!」
俺の願いは届かない。かつて、平民の俺とも気さくに話をしてくれた彼女。
想いを伝えあった時、頬を赤らめながらも、俺に微笑みかけてくれた彼女。
そんな彼女を、俺は喪失してしまう。
「はあ! はあ!」
使用人部屋の一つに辿り着き、その扉を乱暴に開く。ここが、彼女のいる部屋なのだ。
「きゃ、きゃあ!」
驚き、戸惑う女性の声。良かった、エミリーだ。彼女は無事だったんだ。
俺はそう思い、深く安堵した。……けれど、そうじゃなかった。彼女は、無事ではなかった。そう、まったく『無事』なんかではなかったのだ。
「エミリー!! 無事でよかった!」
「え? だ、誰?」
後ずさり、怯えた声を出すエミリー。
「え? な、何言ってんだよ、エミリー!」
「い、いきなり部屋に入ってきて……こ、来ないでください! 人を呼びます!」
なんだ? 何を言っている? エミリーは俺のことを知らない人間でも見るかのような目で見ている。愛を誓い合ったはずの俺を、なぜそんな目で見る?
「何事ですか!」
部屋の奥から現れたエミリーの先輩格にあたるメイドまで、俺を知らない目で睨む。
彼女は俺とエミリーの仲を応援してくれた、気のいい女性だったはずだ。なのになぜ、彼女は俺からエミリーを庇うかのような体勢を取っているのだろう?
これは、何かの間違いだ。きっと二人とも、勘違いをしているに違いない。
「お、俺は……」
そこまで言って、俺は言葉を失う。これではまるで、二人から俺に関する記憶が喪失されてしまったかのようだ。……まさか、これが?
ケインをあんな目に合わせたセフィリアは、今度はこんな手段で俺からエミリーを奪った──というのだろうか?
城兵の身分証すら喪失くした俺は、皆の記憶から消えてしまえばただの不審者だ。呆然自失に陥りつつも、俺はその場から身をひるがえし、再び走る。セフィリアを見つけなければ! 彼女に奪われたものを取り返さなければ、俺の人生はおしまいだ!!
……けれど気づけば、俺は城外にいた。不審人物の状態でいつまでも城の中にいるわけにはいかないのだから当然だ。姿を消したセフィリアも見つからない。俺は失意に打ちのめされたまま、城下町を歩き出す。
「家に帰ろう……」
城兵としての生活の場を奪われた以上、行くあてといったら実家しかない。俺が実家の商店を継ぎたいと言ったら、親父もおふくろも、喜んでくれるだろうか?
このときの俺はまだ、そんな甘いことを考えていた。
だが、彼女はこう言ったのだ。──『全部』と。
実家の店の入り口に立つ、少女の姿。それを目にした途端、俺はその場に膝をつく。
あまりの絶望に、立っている力さえ失ってしまった。
「ドーソンって大切なものがたくさんあって、セフィリア、疲れちゃった」
相変わらずの幼い口調で言いながら歩いてくる少女に、俺は憎悪の視線を向ける。
「きっさまあああああ! 返せ! 俺の夢を! 俺の希望を! 俺の人生を返せえええええ!」
身体から抜けかけた力を再び入れると、俺はセフィリアに掴みかかる。
彼女は、今度は消えなかった。俺に襟首を掴まれたまま、にっこりと笑う。
「返す? セフィリアは何も取ってないよ?」
「よくも、ぬけぬけと!」
何が起きたかはわからないが、こいつのせいなのは間違いないのだ。俺は怒りをぶちまけるように声を荒げる。けれど、続く彼女の言葉は、俺からそんな気力を根こそぎ喪失してしまうものだった。
「取ったんじゃなくて、喪失したの。……返すなんて、できないよ?」
邪気のない──けれど、それでいてこの上なく『邪悪な』笑みだった。俺はそれを目の当たりにして、今度こそ本当に全身から力が抜けていくのを感じた。人はこれを、『絶望』と呼ぶのだろうか?
「やっぱり、フェイルのところに帰ろうかな。じゃあドーソン。遊んでくれてありがとね」
そう言い残し、セフィリアの姿はまたも一瞬で消え失せる。
──街の外壁に立つ尖塔の上から身を投げながら、俺が最後に考えたのは「あの時、あの扉さえ開けていなかったなら」ということだけだった……。