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八話 別離の涙と口付けと

 あれから数週間の時が経った。

 明日の朝、エリーゼは王都へ向かう。花嫁修行のため、寄宿制の学び舎へ行くのだ。手続きは済ませてある。

 明日から四年間、ラザロとエリーゼ、夫婦は離れ離れになる。それはエリーゼが選んだ道で、ラザロが受け入れた道であった。けれど、最後の夜、エリーゼは寝所でくすんくすんと鼻を鳴らし、ラザロの胸にしがみついていた。

 

「……寂しいかい」

 ラザロは問いかける。エリーゼは涙声でそれに答えた。

「寂しくないわけ、ないです……でも、わたしはもっと素敵な女性になりたい。自分で……選んだ道です」

「偉いね、エリーゼ。貴女はとても立派だ」

「……今泣いているのに?」

「私だって泣きそうさ」

「もう、ラザロ様ったら……。全然、そんなようには見えないのに」

「我慢できるようになってしまったんだよ。結婚してから三年間、貴女と一緒にいた。貴女がこの屋敷からいなくなるのは、寂しいよ」

 ラザロはエリーゼを導くようにその膝の上に座らせる。そして、こう言った。

「エリーゼ、楽しい話をしよう」

「楽しい話……ですか?」

 

  エリーゼはラザロの膝の上で、こくんと首を傾げた。涙で潤んだままの瞳に、ほんの少しの光が戻る。

 

「そう。たとえば……庭の薔薇。どの色が一番好きか、覚えているかい?」

「ふふ……もちろんです。わたし、あの薄紫の薔薇がいちばん好き。そう……『エル』が好き。ラザロ様が私の瞳に似ていると言ってくださったあの品種が好き。朝露が光ると、花びらが透けて見えるんです」

「そうだったね。エリーゼが『妖精の羽みたい』って言ってたのを、思い出したよ」

「……ラザロ様は?」

「私は……白かな。真っ白な薔薇は、貴女を思い出させる。可憐で、けれど芯のある花だ」

「……そんなの、ずるいです。涙が止まらなくなるじゃないですか……」

「ごめんよ、エリーゼ。でも、本当のことなんだ」

 ラザロは微笑み、エリーゼの頬にそっと手を添える。大きな掌が彼女の涙を優しくぬぐい、愛おしげにその髪を撫でた。

「それじゃあ……おやつの話でもしようか。覚えてるかい? 一度、厨房に忍び込んで、焼きたての林檎のパイをふたりでつまみ食いしたことがあったね」

「……あれ、ラザロ様の方から誘ってきたんですよ?」

「はは、そうだったかな。貴女がしょんぼりしてたから、ついね。……でも、あれは美味しかったな。まだ熱々で、ふたりして火傷しそうになって」

「でも……わたし、楽しかった。あの時のこと、ずっと覚えてる」

「私もだよ、エリーゼ。……貴女と過ごした三年は、どれもこれも宝物だ」

 胸に顔を埋めたエリーゼの肩が、少しだけ震えた。ラザロはその小さな背をそっと抱きしめる。

「……ねえ、ラザロ様。わたし、あなたと過ごした日々を忘れたりなんて、絶対にしません。だから……だから、どうか、ラザロ様も……」

「……忘れるものか。貴女のいない四年の方が、ずっと夢みたいに感じてしまうだろうな」

「そんなの、やっぱりずるいです……」


 震える声に、ラザロはそっと彼女の額に唇を落とした。

「……エリーゼ、貴女は、私の自慢の妻だ。どれだけ離れても、その気持ちは変わらないよ」

「……ラザロ様……」

 腕の中で、エリーゼはゆっくりと瞼を閉じた。最後の夜だと知っているからこそ、眠るのが惜しくて、胸がちくちく痛む。でも、ラザロの腕の中は温かくて、安心に満ちていた。


 そのまま、ふたりはしばし無言のまま寄り添っていた。夜は更け、窓の外では月が静かに薔薇の庭を照らしている。

 いつもより長く、ぎゅっと、強く抱きしめ合っていた。別れを惜しむ子どもと、それを支える大人の姿ではない。ただ、愛し合うふたりの、夫婦の静かな抱擁だった。


「……おやすみ、エリーゼ。明日が来るのが、もう少しだけ遅ければいいのにね」

「……おやすみなさい、ラザロ様。……わたし、頑張ってきます」


 最後の夜が、静かに明けていく。


 

 早朝、エリーゼは顔を洗い、自らの手で着替えていた。ラザロと結婚する前と、した直後とでは考えられなかったことだ。ラザロが使用人の手を借りず自分で朝の準備をしているものだから、せめてもの真似である。仲良しの若い女中が、心配そうにエリーゼを見つめていた。

「……奥さまがしばらくいなくなるの、私……寂しいです」

 女中がぽつりと呟く。エリーゼは胸元のリボンを結び、女中に微笑みかけた。

「……四年間」

「はい」

「私にとってはとても長く感じるけれど、あなたにとっては……どう? 四年って、大人にとっては短いもの?」

「……人生の年月を重ねると、月日が経つのが早く感じるって言いますね。私も……もしかしたら、四年は待てる時間かもしれません」

「ラザロ様もそうかしら」

「ふふっ、旦那さまにとってはもっと短く感じるかもしれません。……みんな、奥さまのお帰りをお待ちしておりますよ」

「……ありがとう」

 学び舎は、休暇になればいつでも家に帰ることができる。だがエリーゼはそれをしないつもりだった。ラザロとのやり取りは、手紙だけにするのだ。


(だって、帰ってしまったらきっと離れがたくなってしまうわ)


 エリーゼはラザロの灰色がかった青い瞳を思い出しながら、自身の子どもらしい考えにため息をついた。まだまだ、自分は子どもなのだ。……だから、大人になった自分を見せて、大好きな夫を驚かせたい。そう、思ってもいた。

「……できた。どうかしら? 変なところは無い?」

「まあ! すばらしいです、奥さま。変なところなんて、どこにも!」

「えへへ……」

  鏡の前に立つと、そこには見慣れない自分がいた。

 ほんの少しだけ背が伸び、頬も幼さを残しながらもすっきりとしてきた。けれど何より、装いがそう思わせたのかもしれない。


 今日のために仕立てた、エリーゼにとっての初めての“勝負服”。それは、王都の高名な仕立て屋に注文したシンプルな青のドレスだった。

 濃すぎず、淡すぎず、空と海の間を流れる静かな青――ラザロの目の色とはまた違う、けれど彼の領地を吹き渡る風の色に似ていた。布はしっとりとした光沢を持ち、肩口から袖にかけては柔らかなチュールが重ねられている。あどけなさを包み込むように、優しく、軽やかに。

 ウエストはやや高めに絞られ、細かなギャザーがスカートにふんわりと広がりを与えていた。裾には繊細な銀糸で蔦模様の刺繍がほどこされており、動くたびにほんのりと光を返す。無駄な装飾はない。ただ、品がある。年相応の清らかさと、未来を見据える意志を両方まとったような服だった。

 そして、胸元にはひときわ目を引くブローチがつけられていた。

 小さなリボンの中央に留められたのは、淡くやさしい輝きを放つ、薄紫色の石。ラザロが贈ってくれたものだ。


(……わたしの目の色に似てるって、言ってくれた)


 ふと、前の晩の薔薇の話が頭をよぎる。

 『エル』という名の薄紫の薔薇。朝露に濡れ、透き通る花びら。妖精の羽のようだと言ったあの日の自分を思い出す。小さな自分。無垢なだけだった、自分。

「……今のわたしは、少しだけ違うのよ。きっと、ね」

 つぶやきながら、エリーゼは胸元の石にそっと触れた。柔らかく冷たい感触が、心の奥にすっと染み込んでいくようだった。

 これから始まる日々は、決して楽なものではないだろう。

 けれど───この服を着た自分が、まるで未来をまっすぐ見ている気がして、エリーゼはそっと唇を結び、背筋を伸ばした。


 扉の向こうには別れが待っている。

 そして、その先には成長の時がある。


(ラザロ様、見ていてください。わたし、ちゃんと、あなたの妻にふさわしい女になります)


 小さな青いドレスの少女が、歩き始めようとしていた。それは、最初の“さようなら”を越えて、“いつかまた”を願う朝だった。


  空が淡く色づきはじめた頃、屋敷の前庭には、王都へ向かう馬車が静かに待っていた。荷物はすでに積み込まれており、御者が気を利かせて遠くに控えている。花嫁修行の四年間───それは子どもにとって、人生のほとんどとも言える長さだった。

 玄関の階段を降り、砂利の道を踏みしめて歩くエリーゼの足取りは、まだ細くて幼さを残していた。けれど、青のドレスが風をはらむたびに、その背に小さな決意の羽が揺れているように見える。

 ラザロは彼女の前に立ち、しばし無言でその姿を見つめていた。

 やがて、静かに口を開く。

「……似合っているね。まるで、貴女のために生まれた色だ」

「ありがとうございます、ラザロ様。このドレスは、わたしのはじまりの服です」


 エリーゼは両手でスカートの端をつまみ、深くお辞儀をした。その所作には、まだぎこちなさが残る。それが愛しくて、けれど痛ましいほどで、ラザロはゆっくりと彼女に歩み寄った。


 そして、彼女の両肩に手を置く。

 見上げる紫の瞳が揺れている。けれど、涙はこぼれていなかった。


「やっぱり、寂しいかい?」

「……ええ。でも、頑張るって、決めましたから」

「立派だね。誇りに思うよ、私の愛しい妻」

 その言葉に、エリーゼは一瞬、唇をきゅっと引き結んだ。そして、そっとラザロの胸に顔を埋めた。

「ラザロ様……ぎゅって、してくれませんか。……最後に」

 応えるように、ラザロはエリーゼの小さな背を両腕で包み込んだ。彼女の額を自分の胸に押し当てるようにしながら、目を閉じる。

「……ありがとう。私のもとに来てくれて。貴女と出会えて、本当によかった」

「わたしも……わたしも、ラザロ様に出会えてよかったです。ずっと、そう思っています」

 

 数秒の抱擁は、永遠のようにも、瞬きのようにも感じられた。

 そして、エリーゼはそっと身体を離し、真っ直ぐにラザロを見上げた。

 

 彼女は背伸びをして、ラザロの頬にちいさな口づけを落とした。その仕草は、どこかぎこちなく、それでも真心にあふれていた。

 ラザロもまた、エリーゼの頬にそっと唇を寄せる。掌で彼女の頬を包むようにして、あたたかな温度をそのまま残した。


「いってらっしゃい、エリーゼ。……自分の道を、信じて進むんだよ」

「……はい。行ってきます、ラザロ様。……あなたが、大好きです」


 その声は、震えていたけれど、まっすぐだった。

 エリーゼは一歩、また一歩と馬車へ向かう。振り返らずに歩いていくその背を、ラザロは何も言わずに見送った。


 馬車の扉が閉じる音がして、車輪が回り出す。

 朝靄のなか、青いドレスの少女を乗せた馬車が、ゆっくりと屋敷を離れていった。


 ラザロはその場に立ち尽くしながら、なおもしばらく、見えなくなった馬車の向こうを見つめ続けていた。

 それは、彼女が無事に旅立ったことへの安堵と……どうしようもない寂しさの、沈黙だった。

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